北大路魯山人のこ


 

この初夏の一日、うらわ美術館で『魯山人の宇宙』(二〇一三年四月二十七日~六月二十三日)展にいつてきた。笠間日動美術館収蔵の陶磁器を始めとした約九十点に併せ、魯山人語録、著名人との交流を示す写真資料を紹介し、その活動・功績を振り返ってゐる。篆刻、絵画、古美術鑑定、料理、陶芸、漆芸と多方面で活躍した北大路魯山人(一八八三~一九五九)は、今以て多くの人々を魅了してゐる。「美を愛し食を愛して偉才をふるつた昭和の巨人・魯山人」にむきあふ。武州暮らしの静穏な老骨の日々には思はぬ心の波立ちとなつた。

魯山人は一九二五(大正十四)年夏から秋にかけて、北鎌倉の七千坪の地に豪勢な居宅とゝともに窯を築いてゐる。山裾の岩石を切り拓いた場所で、星岡窯といはれる。スキャンダリックな孤高傲岸の異名をもつ芸術家は、ここに本格的な作陶活動を開始した。中国の古染付、呉須赤絵、 桃山時代の志野、織部など伝来の名品をしのぐ独自のものがつくれられていつた。

魯山人亡き後、晩年の付き合ひのあつた北裏喜一郎(野村証券副社長)が、人を介して魯山人の旧居の引継ぎを依頼される。由緒ある地は往時のまま保存しておくやう努めた。同時に其中窯として河村喜太郎が窯を起こした。現在、この旧居跡は野村不動産が管理して非公開。残っていた家屋は放火により焼失した。

一介の風狂が魯山人を語る資格などもとよりどこにもない。だが顧みるに、鎌倉の魯山人跡を訪れたのは一九八六(昭和六一)年初夏のことだつた。野村證券秘書室のスタッフが同道してくれた。私はあちこちをぶらぶら歩き廻つた。緑の山間に建つ桃山期の書院造りの慶雲閣の縁に腰を下ろし、風の流れに陶然としてゐた。

 贅を尽くした邸内には東西の古陶磁を集めた参考館もあり、皇族から各界の名士など多数の人が訪れた。古美術談議に空前の美酒美肴がふるまはれたのである。一世の巨人の面影が彷彿とし、万感の思ひがよぎつた。

今日の魯山人ブームの火付役はいはづとしれた白崎秀雄氏(一九二〇~一九九三)である。『北大路魯山人』(初版は文藝春秋・全一巻)は稀代の藝術家に迫る畢生の名著だが、出版ジャーナリズムの世界ではつとに「気難しい人で滅多なことでは人を寄せつけぬ」といふ専らの評判だつた。

 その白崎さんに、私はよくお声をかけていたゞいた。高輪の数奇屋造りのお宅にはたびたび伺つていたし、高円寺のお宅の茶室では薄茶点前の一服を頂戴した。青山や六本木の骨董店に呼び出されることもあつた。

「魯山人については、京都に行つて調べなければならないことがまだまだある」

とも言つていられた。
 白崎さんと新橋のお座敷で遊び、老妓の爪弾きに「乱れそめにし浦里は・・・」と端唄のひと節をうたつたのはいつのことだつたか。銀座久兵衛で烏賊に鮪をつまみ、次には新橋田村町に席を変へ、麤川の炭焼きサーロインステーキ一五〇グラムを平らげる。そして美食にうつゝをぬかした後は、川奈ホテルに宿をとり大島一番の海に向つた打ちおろしのミドルコースでドライバーの快音を放す、何とも慌たゞしくバブリーな浮き世烏の明け暮れであつた。

名だたる料亭における宴のひととき、やおら女将が魯山人のひとかゝへもある大皿を持つてきた。

「うむ。これはいゝものだよ。大切にね」
 大島紬を粋に着こなした白崎さんはその大皿はすでに何度も見てゐるやうで、静かに頷きながら言つた。

 目近かに見る大皿は眩しい輝きを放つてゐた。私は恐る恐る両手にかかへた。づしりと重たい。豪快な釉薬に鮮やかな絵付けがほどこされた逸品だつた。

 

『埼玉文芸家集団会報』2013年11月号

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