わが風月夢幻


 
  京時雨が冷たく、人の吐息が重くも、若くはずむ血が無窮に巡った。一九六〇年、二十歳、安保闘争、広小路キャンパス、それが美しいなんて誰にもいわせない。

 実存主義研究会ではドストエフスキー、カフカ、キェルケゴールをレポート。そのゼミでは哲学研究にかこつけた叛逆的ポーズで、白夜の悪の華もて「サドの反世界」を展開。
 
 矢継ぎ早に提出するレポートは恋と革命、カミュの太陽、不条理、アンチ・ロマンの冴えで、煉獄の聖なる火に焼かれていた。
「やっと文学論らしい形になってきたね」とのお墨つきを得て、「立命館大学新聞」で学芸記事を連載する。

 学内雑誌「広小路文学」ボックスでの激論を経て、末川賞(選者=梅原猛、高橋和巳)では、佳作入選となる。なにゆえの佳作なのか。その選考に「選者のいう素朴なリアリズム小説とは何か」とかみつき、「学生小説の栄光と悲惨」と同新聞で異議を申し立てる。

 それに対し「絶望のポーズを捨てよーー太田君に応える」(同新聞1963年10月30日号)とこたえてくださった。まさに、反帝左翼マルクスの平和民主学園に、清新な芸術プロパガンダの烈風であった。

 書き下し一幕悲劇「小褐色」を祇園会館で劇団現代劇場が公演、喝采を浴びる。
「うむ。藤原定家を一緒に戯曲化しよう」と申され、さしずめ真山青夏を読めという。

 憂愁と狂乱の日々。高橋和巳、小松左京らとの生駒・宝山寺前の宿における合宿研究会も感動的だった。激論後、酒と花札に興じる連中を黙って見ていられた。決然と論断に踊り出る美と宗教の知の構造が炸裂していた。

 私学アカデミズムを横目に文酒唱和。言霊音霊の妙なる時空に陶酔し一年留年、書見笑酌の京都放浪。主任教授はその行状を案じ、読売テレビ、松竹芸能、裏千家淡交社に引率紹介するも、就職の口頭及び筆記試験は悉く落ちる。

 この一介の学徒への過分の配慮に落涙しつつ、縁あって一九六八年上京。モーレツからビューティフルの時代を吟骨きたえて東都を疾駆。執筆・取材依頼始め文化フォーラム打合せ。吉兆や金田中、ホテルオークラで食事、井伏鱒二氏へご挨拶など同道。またスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」、能「ムツゴロー」「世阿弥」公演に息をのむ。

 対談「高橋和巳の文学とその世界」は1991年3月、祇園”つる居”で行われた。緊張の4時間だった。
 国際日本文化研究センターに訪ねると、
「今は火宅の時代でないか。家の内が火で燃え上がっているのに、誰も気がつかない」
 と危機感をみなぎらせていられた。

 また、日本ペンクラブの京都フォーラム前夜、畏友安森敏隆と若王寺のお宅を急襲。光と魂の清夜の饗宴だったか。
 
 二〇一〇年、武州小城下に茶室をもうけ、時に松風の風韻を楽しむ。かねてお願いしていた一書は「風月夢幻」で、小庵を有難くも「夢幻庵」と名づけていただく。その「夢幻」には世阿弥の能の幽遠のパトスが彩る。

「人類哲学序説」の講義は京都造形大学の外苑キャンパス(東京芸術学舎)で受講。実に広小路以来五十年余、一心不乱にメモをとった。
 加えて、年末恒例の恩師を囲む会も楽しいひとときであった。

 その余りある学恩に謝し、頂戴した数通のハガキおよび新作能『河勝』の台本(第六稿)を筐底からとりだし往事茫々。梅原日本学の遠大な知の山脈の後塵を拝し絶唱亦絶唱。

 二〇一九年一月、夜明けの東山連峰に声明する「山川草木悉皆成仏」の蒼然たるリフレイン。孤魂翔り哀音吐くも、梅花燦然と花ひらき、虚空無天をゆけり。ーー梅原猛先生、ありがとうございました。合掌。


  『立命館哲学同窓会会報』25号 (2019年8月25日発行)

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