城下町・人形のまち 


 
  岩槻は武蔵野の自然に恵まれ、古い伝統と文化を持つ人形のまちである。その近世の歴史は室町末期の一四五七(長禄元年)年の岩付城の築城とともに始まる。一面の沼地に降り立つ白鳥を見て、“白鶴城”と命名されたとも語りつがれている。戦国時代は太田道灌やその曾孫などが名将として名を轟かせた。だが一五九〇(天正十八)年、豊臣秀吉の小田原征伐にともない、火攻めで岩槻城はあえなく落城。江戸時代は日光御成街道の宿場町として栄える。

こうした中で日光東照宮の造営にあたった工匠たちがこの地に住みつき、桐の箪笥などとともに人形づくりを始める。「岩槻人形」は伝統工芸品として、生産量・生産額ともに日本一となっている。雛祭りや端午の節句など、人形は今も脈々と日本人の生活に息づき、毎年、岩槻城址公園では流し雛や人形供養祭の行事など華やかに行われている。

一九五四(昭和二十九)年、一町六村が合併し岩槻町、同七月市制施行で岩槻市となり、一九七八(昭和五十三)年、岩槻市は新たな市制の指針として郷土意識や市民の心のよりどころに市の花や木を始め「市民憲章」、「市民の歌」、「市民音頭」を制定した。

公募され選ばれた「岩槻市民の歌」は郷土の誇りをたからかにうたう。「槻の木のびる 青空に/歴史を語る時の鐘/基(ルビ=もとい)は古く いにしえの/心をここに 受け継いで/明日を築く 城下町/ああ岩槻市 われらの郷土」。作曲は船村徹、歌は青木光一、広く愛唱されている。

作詞した高橋寿雄(一九三二〜)は川沿いの桜並木の美しい緑豊かな住宅街・大栄グリーンタウン(四百十世帯))に住み、自治会活動を始め地域の文化活動やスポーツ振興に大きく寄与している。

岩槻の名家に生まれ育った関根正雄(一九一九〜)は、東京美術学校(現東京芸術大学日本画科)を卒業。日展に出品、特選を受賞。日本画独特のやわらかな表現による美人画が有名な伊東深水(一八九八〜一九七二)に師事。だが、師の逝去を機に日展委嘱を辞し、中央画壇のいっさいの派に属さずに独立。埼玉文化賞、教育功労賞、文部大臣文化功労賞、紺綬褒章、叙勲など受章。また、その文化活動や多彩な人々との交流で埼玉文化団体連合会会長などの要職につき活躍している。

  画業のほかに画文集・エッセイ集も多く、『雲よ・風よ旅に生く わがヨーロッパ』、『わが心の武蔵野』、『わが心の武蔵野』、『ピラテウスの月』、『われ瓢々』など、「モーツァルトを愛し、ヨーロッパを好む異色の日本画家」の文筆も冴え、人々の心をうつ。

「森や林に懸る月、はるかなる平野の彼方から昇る太陽、荒川の水面に輝く落日、比類のない美しさとしあわせを感じる」(『わが武蔵野』)と、まさにふるさとの画家・関根正雄ならではの魂魄である。そして、これこそ大地に根をおろしてきた祖先の熱い息吹なのだろう。自分をはぐくんできた武蔵野の四季のすべてが、色鮮やかにもしなやかな手触りとなっていることがよく分る。武蔵野の地の温もり、武蔵野の大地に抱かれたゆるぎない郷土愛がまぶしくきらめく。

 さて郷土の歴史と文化を誇る岩槻だが、浦和・大宮に比べ際立った文人墨客の往来は見当たらない。田中年比古著『新岩槻史譚』(一九五五年刊・非売品」)にも俳句グループの動向を僅かに伝えているにすぎない。春の淡い雪洞の灯りの通りや桜の花で賑わう城址を背景にした小説、またそこには若い人形作家をモデルにした恋物語の一つくらいあってもいいだろう。城下の土蔵の白壁が映え、老舗の鰻屋や和菓子屋の暖簾が揺れ、時の鐘がひびき、天神小路の雪洞がほのめく夕べ、元荒川べりの旗亭の美酒に酔いしれながら語り明かすといった文学的話題は影をひそめてまことに乏しい。

さわさりながら地元ゆかりの文人といえば、桜天上界に触れて居りーー俳句では小川原嘘師(一九二六〜二〇〇六)が東京生まれ。戦後復員してから、埼玉県埼玉郡河合村役場に勤務(河合村は一九五四年、町村合併により岩槻となる)。「ホトトギス」で活躍した渡辺水巴(一八八二〜一九四六)に師事。水巴逝去後は、「ホトトギス」同人の岡安迷子(一九〇二〜一九八三)の門をたたき写生俳句の手ほどきを受ける。迷子には毎月五〇句の選を受けるなど刻苦勉励の日が続いた。

新居を区内本町二丁目に構え“美求庵”と名づけ庭には泰山木を植えるなど、日々の暮らしを慈しむ。岩槻は環境に恵まれ水がよく、住みやすく、「霊峰富士と筑波が見える美しい平坦地で、人の心もおだやかで優し」かった。市職員として市史編纂に当るなど公務に励み、中央公民館の俳句講座も受け持つ。自ら「俳句馬鹿」を称し、まさに俳句一筋の人生に撤したという。「捨て身の豪気な人柄」、「直進的な行動」「厳しさの半面人一倍温かい人間味」の人柄だともっぱらの評判だった。俳誌「曲水」「泰山木」を主宰。句集に『夜明』、『日輪』がある。 

「大空の藍ふりそそぐ二月堂」は、戦後俳壇の代表たる飯田龍太(一九二〇〜二〇〇七)に推奨されるなど、写生ひとすじに全身全霊でうたう嘘帥の作風は、常に一気の気息にみちみちている。

羽生生まれの原山喜亥(一九三六〜)は、埼玉ゆかりの文人たちの研究・調査に精魂を傾けている。その資料文献の蒐集、著作目録の制作など書誌的な研究についてはもはや余人を許さない。『資料 武蔵野の文学者たちーー著作目録抄』、『埼玉の近代文学』、『埼玉の作家たち』、また編著に『青みさす雪のあけぼのーー大西民子の歌と人生』など著書多数。

古書籍の世界に“経験とカン”を生かした地味で堅実な取り組み、常に独往邁進の気概にみちている。「武蔵野の大地で生まれ、あるいは居住してきた文学者たち」への限りない愛着にみちているからだろう。この道ひと筋に長年にわたって蒐集したなかには異装本・特装本など貴重な文献も多く、「原山コレクション」は大きな関心を集めている。

エンタメ系では推理作家の中町信(一九三五〜二〇〇九)が小溝に住んでいた。出版社勤務を経て江戸川乱歩賞最終選考に残った「模倣の殺意」でデビュー。意外なストリーの展開とミステリーの遊び心に通じ、全国観光地をモデルとしたことから、“ツアー作家”ともいわれた。今もその大がかりなトリックが読者をうならせている。

今、何をいかに書くか。電子情報社会とまことしやかな文学終焉説を前にしながら葛藤する作家、太田代志朗(一九四〇〜)は、岩槻城址近くの本丸に居住して三十年になる。

 若く京都にあって、『隠された十字架』など壮大な梅原日本学をうちたてる哲学者・梅原猛(一九二五〜)や、長編『悲の器』で華々しく文壇デビューした高橋和巳(一九三一〜一九七一)の薫陶を受けて上京。修作時代を経て長編『このひとときは風にみち』など重厚なロマンを発表。醜悪なエゴイズムとともに実存と不条理の人間模様を描く。情念の時代に褐色の憤怒でもって絶望・解体を己に課した高橋和巳の境涯にも迫ろうとしている。

家の近くの城址公園散策の折に想を煉った掌編「武州残月記」は岩槻城・落城にまつわる史実をもとにした妖艶悲壮の世界を描く。また、室町後期の関東争乱で武州岩槻などを舞台にする長編「公方繚乱」は、日本ペンクラブ電子文藝館にて配信中だ。

あわせて古典美学への風韻も色濃く、歌人・福島泰樹(一九四三〜)主宰の季刊『月光』編集同人に加わり、第一歌集『清かなる夜叉』(弥生書房)では冷ややかにも沸騰する抒情と幻想、みなぎる言霊の焔(ルビ=ほむら)を痛切に浄化させる。このほか新作能にも精力的に取り組み、「自天王」「実朝」「銀河鉄道の夜」「人麻呂」がある。

文学碑としては、浄国寺に歌人・大西民子の「一本の木となりてあれゆさぶるを過ぎにしものを風と呼ぶべし」の歌碑がある。

城址公園の人形塚に隣接して岩槻人形共同組合の委嘱による詩人・槙皓志(一九〇〇〜二〇〇二)の「その頬にぼんぼり映しその髪に/桜かざして城あとに相逢うひとの/いまも雛に似る人形のまち」の詩碑がある。

また、本丸公民館前には岩槻市俳句連盟の句碑があり、ここには七十六名の句が刻まれている。

武蔵野の自然に恵まれた町も、二〇〇五(平成十七)年五月、さいたま市に編入され岩槻区となった。今や“さいたま市の奥座敷”としての脚光を浴び、さいたま希望のまちプラン(さいたま総合振興計画)は、岩槻を歴史・文化・自然を誇る副都心の一つとして位置づけている。歴史情報センターなるべき岩槻城に関する歴史博物館創設プランは望むべくもないようだが、地下鉄七号線の岩槻延長計画、東武東上線岩槻駅周辺の再開発計画はすすめられ、人形会館(仮称)は予算二十四億円を計上して二〇一二年六月完成予定である。


『埼玉文芸風土記』(さきたま出版会)2011年3月31日発行

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