高橋和巳の憂憤
ーー33回忌に


 ●
 高橋和巳の死を知ったのは、軽井沢のホテルだった。
 不安をぬぐいきれぬまま、連休を利用して出かけたつましい家族旅行の旅先。
 急遽、鎌倉・二階堂のお宅の通夜に駆けつけ、泣きくずれた。
「悪かったわね。あなたに本当のこと言わなくて・・・・」
 高橋たか子さんは毅然としていられた。
 肩を叩かれ、私は絶句した。

 
入院先の病院には、同人雑誌仲間の井波律子や古川修と見舞いに行ったのだが、その病状がすでに絶望的であることなど、もとより何も知らされていなかった。
 
 花々に埋まれ、高橋さんは永遠の眠りについていた。
 野辺送りの日、その顔は白く静かに映え、棺に打つ釘音が五月の鎌倉の風にむなしくひびく。やがて斎場で、白骨の一片をつまみながら、私は高橋和巳の死をしだいに確認していた。

 ●
 三十九歳という若さで生き急いだ高橋和巳とは、いったいわれわれにとって何だったのだろう。
 一九六二年、第一回文藝賞『悲の器』で華々しくデビューした高橋和巳は、その翌年、立命館大学文学部講師を辞職。上京して念願の作家生活に入り、『憂鬱なる党派』『散華』『邪宗門』『我が心は石にあらず』『堕落――あるいは内なる曠野』『日本の悪霊』『黄昏の橋』などを精力的に発表する。

 絶望、破滅、堕落、暗黒の下降意識に沿ったモチーフの根源を、高橋和巳はひたすら殉教者のように負った。登場する主人公たちは、いずれも栄光ある国家、社会、組織から宿命的に弾劾される。いや、自らの選良忌避の告認である。ゆえに追放され、地獄の苦悩と叫喚に引き裂かれる。
 われわれはいつも滂沱の涙を流しながら、その小説を読んだ。
 なぜだったか。

 思うに、終世、高橋和巳はやみがたい憂憤に駆られたまま、そこに言動のすべてを収斂させていく。孤立の憂愁と褐色の憤怒。
 その日本的ラディカリズムというべきものが、内なる感覚のくすぶりを挑発し、静かに熱狂させていた。

 一九六七年、恩師の吉川幸次郎博士の強い招聘で京都大学文学部助教授に就任。
「小説も、一種の念力で書くものでね。その念力さえ涌いてくれば、もうこっちのものさ」
 花形作家はよくそう言った。

 学生として大学の研究室を訪ね、大阪・吹田のマンションに遊びに行き、気がつけば同人雑誌『対話』復刊に、私は加わっていた。高橋さんが鎌倉から京都に舞い戻っての月例の読書会は、熱気が入っていった。   そして、生駒・宝山寺前の旅亭での夜を徹した文学論は白熱した。花札に熱中して、三日間、丹前にくるまり、夜も昼も無心に札を引いたこともある。

 やがて、若者のアイドルとなった高橋さんは、全共闘運動とともに尖鋭苛烈な時代の最先端に突き出される。だが、病に倒れ、入院。京大紛争の中で、その内的葛藤を綴った最後の著作が『わが解体』となった。

 ●
 通過儀礼でもあるまいに、大学自治なるものの幻想と虚偽に立ち向かう青年たちに、高橋和巳は新たな政治的実践者としての全存在を賭ける。それは文学の自己指弾、自己処罰としての営為でもあったのだろうが、大学闘争の過程で、義に近い人間関係を重んじ、道義性を深くうつたえ、人間それ自体の変革を説く高橋和巳は、常に蒼白に身を奮わせて迫る。会議、集会、団交、デモ。路上に火炎瓶が炸裂し、学生たちは血を流し、バリケードが築かれる。
 だが、全存在を賭けないお祭り好きの学生たちは興ざめし、孤立と高揚の裂け目がさらに深まる。

 にもかかわらず、高橋和巳は無上に優しかった。泣きたくなるほど、切ない魅力を持っていた。祇園のお座敷に上がり、
「お前に、このお姐さんの美しさが分かるか」
 と酒をぐいぐい飲みながら言った。いや、美しさが分かるかということよりも、この時、高橋さんは私をダシにいったい何を企んでいていたのか。

 また、先斗町の飲み屋では、
「キラリ光った流れ星、燃えるこの身は北の果て、姓は高橋、名は和巳・・・・・」
 と唐獅子牡丹もどきに、音程はずれの『網走番外地』を歌ってくれもした。
 だが、まもなく、夜明けの仮寓で嗚咽し、不規則な生活もたたって脇腹の激痛に苦しむ。大学の教授会にボイコットされて孤立無援の中で鎌倉に帰り、病床で喘ぐその姿を見るのは無上につらかった。

 末期ガンを知らされた梅原猛先生は、病院に見舞いに訪れた時、
「こういうことで腹を切ったんですが、これで、もう自分の業は終わったと思うんですね」
 と高橋和巳は手術した腹部の無残な傷跡を見せながら言った、という。
 聞かされ、凄いことだと私は思った。
 高橋さんは、おそらくその死を覚悟しながらも、本来のあるべき自己の純粋な内面の文学を書くことを悲愴に決意していた。

 ●
 その後のモーレツからビューティフルな高度消費社会、イデオロギー対立の冷戦構造の終焉、また、バブル後の今日の不透明な社会状況の中で、あの憂憤の高橋和巳が、もし元気に生きていたとしたら、どう対応し、変容し、どのような作家的成熟を果たしていたのだろう。

 むろん、あの六〇年代から七〇年代に向けて疾走した極限と葛藤の高橋文学が、ふたたび熱狂的に迎えられるということは、おそらくもうあるまい。だが、それにしても、作家の個性や言動は、もっとつややかに語り伝えられてしかるべきであろう。

 幸いにも、良友に巡り会い、百愁安慰す。
 友愛の詩型を慄然と説く福島泰樹は、高橋和巳に献じる魂の告白として、第十八歌集『黒時雨の歌』を上板。また、藤井省三はひと夏の軽井沢の山荘で、『堕落』における中国皇帝の意味を備えた黄色の傘の存在と文芸評論のあり方について論じ、日本ペンクラブ獄中作家委員会のあった帰りの酒席などで夫馬基彦は「愛読しましたね。あの情念に魅かれましたからね」と言い、そして、小嵐九八郎とは大宮・氷川神社際の雨の夜の料亭で、蜂起には至らずと酌み交わしたことなど、決して忘れることはできない。
 孤独な薄明のリングで、いまなお、高橋和巳は熱っぽく語られつづけている。

 五月、切なく、苦しい。
 われら憂鬱党、同士数人、その夢と志を秘めて、いまだ健在。高橋和巳三十三回忌。一壺をかかげ、初夏、高らかに献杯。
 
『図書新聞』2002年5月25日号

▲INDEX▲