馬を洗はば
――塚本邦雄氏のこと


 
初夏から梅雨にかけ、なぜか鬱屈した日々を過ごしていた。一日、はしり梅雨があった。   

六月九日、塚本邦雄氏逝去の報に接した。

一つの時代が、確かに終わったのだろう。回(めぐ)らせば、わが十代の疾風怒濤の青臭い時代。いったんは韻文定型の虜になりながら、奴隷の韻律、短歌的抒情なるゆえに潔く拒絶し、後年ふたたびその世界に救われるようにのめりこんでいった時、すでに「塚本邦雄」は私の中で動かしがたい血肉となっていた、といわねばならない。

その世界はモダニズムにして眩い感幻の楽章が奏でられ、息詰るような美への執着に満ちていた。「戦後短歌の生んだ最大のパラドックス」であり、そこには鮮烈なヴィジョンをかかげる悪胤の詩魂が煌いていた。すなわち、伝統的な詩型に依拠しつつも、在来の定型韻律を無惨なまでに挟撃する異端の美学の叫びであった。

塚本短歌は五・七音の切断と炸裂、重層的な詩句のイメージの受苦と転生、直喩と暗喩の呪文的構造、そしてその狂気の言語の一つ一つが、現実世界の破壊転覆を工作してゆく。かくして、暗黒を貪りつくした危機歌学が、切り裂くように迫ってくるのである。たとえば、ピアノは液化し、愛人は疾走し、赤い旗ひるがえる野に花は咲く。血紅の魚卵きらめき、皇帝ペンギンは絶叫し、あかねさす召集令状、鹿皮の手袋軋み、おお母国は亡びよう。また薔薇と胎児が夜の塀に転がり、行方不明の砂絵の麒麟、雨の近江に果て、韻文は芍薬の香であり、断末魔の孔雀啼き、永遠にさらばと朱の硯洗い、壮年はるけく、胸中の敵なる祖国、菊慈童は枕跨ぐ、と。

それは生と死の予感に満ちた、甘美にして苦痛なる虚構の冴えであった。反写実の多彩な修辞が火花のように炸裂し、幻視による無限のエロスの饗宴であった。いや三十二音短詩型文学こそ、絶望的な宿業を負う自らの熱狂であり、流血であったか。

加えて、新古今をはじめとする中世美学の考察は、まさに慄然たる詩歌そのものの輝きであった。殊に『定家百首――良夜爛漫』は、王朝末期の断崖にたたずむ妖艶有情の歌人に肉迫して凡百の評釈などを蹴散らし、さらに歌論集、小説、映画、音楽とそのジャンルは多岐に渡っている。

思えば、塚本さんは、拙著・第一歌集『清かなる夜叉』(弥生書房)の帯文を、また季刊『月光』第九号の特集「清かなる夜叉の世界」には二〇枚に及ぶ原稿を寄せていただいた。

「一巻を読みたどりつつ、私はかつて太田代志朗が閲したであろう読書の中の、平安鎌倉期詞華を胸中に繰り広げる。その一行一行が甦り、瞼が熱くなるのを禁じえない」
  と、それは身に余る過分の文章だった。


――私はむしろ遠くから、この稀なる歌人を凝視してゐた。そして私の目に見えてくる、今一人の太田代志朗の反面、あるひは私だけが識りうる志のあり処に、たどたどしい追書に似た文章を綴つた。
 言はでもの解説であつたかもしれないが、今日も明日も、歌人太田代志朗は、私に最も遠く、それゆゑに、一番近い同志の一人であろう。これも亦韻文に殉ずる者の非業と言はう。(季刊「月光」九号、一九九三年九月)

いわゆる歌壇ジャーナリズムとやらに無縁な私が、塚本さんの拝顔の栄に浴したのは三回。最初は深夜の東京プリンスホテルの英国風メインバーのウインザーでの取材打ち合わせ。二回目は上野精養軒における持田鋼一郎歌集『冬のショパン』出版記念パーティ。そして最後は、ホテル高輪で行われた紫綬褒章授賞を喜ぶ会であった。その極めつけのダンディな出で立ちこそ、戦後短歌の栄光と悲惨の激流を爽やかに潜り抜けてきた者ならではの風姿そものだった。

いただいた扇には、麗妙な筆勢で書かれた名歌一首、
「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人恋はば人のあやむるこころ」。

その京都・美也古扇を書斎に飾り、今、秋の夕闇の中に哀音を吐いている。


 総合文芸誌『まほろば』67号 2006年4月30日発行)

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