渋澤龍彦の声

 

1994年4月
渋澤龍彦展
(西武・池袋店)




 
このほど、東京・池袋の西部百貨店で開催中の渋澤龍彦展をみた。
 まさに、驚異のドラコニア・ワンダーランドである。”ドラコニア”とは、渋澤龍彦が自身で名づけた「幻想の王国」のことである。
 没後7年、この稀代の万有博士、幻想派の初公開の創作ノート、生原稿、書簡類をはじめ、初版本、ドクロ、鉱石などの収集品が所狭しと展示され興味深かった。

 書斎は北鎌倉の家に生前のまま、残されているという。蔵書に囲まれた机の上の原稿用紙。刀の鍔の文鎮。地球儀。また、ハプスブルグ家の皇帝たちがプラハ城内に設けていた世界中から珍奇な集めた”妖異博物館”に想を得て収集された文字どおりのドラコニア・コレクション。そこには、異様な愛らしい形をした貝殻、石、鏡、時計、アストロラープ、貞操帯など、幻想王国のおびただしいオブジェがあった。
 また、幻想画廊にはシモーネ・マルティーニ、ピエロ・ディ・コージモ、ルーカス・クラナッハ、パルミジャニーノ・アルチンポルド、ワット−、ギュスターブ・モロー、ルドン、マックス・エルンスト、デルヴォーなど、独特の審美眼によって精選された世界が妖しく展開されていた。

 これまで、渋澤龍彦集成、作品集が次々に刊行され、その文庫コレクション10代の若者たちにも好評。決定版の全集も現在順調に刊行され、根強いファン層の圧倒的支持を受けている。また、装丁、デザインに凝った初版本は、古書界でも破格の値段で引張りだことなっている。
 渋澤龍彦は80年、90年代の高度消費社会を背景に、その<幻想と異端>が商品化され、ブームをよんでいいった。それは一つのファッションとなり、風俗化され、やがて若者たちのアクセサリーそのもとなっていったのである。

 かつて、私にとって、<エロティシズム>は、存在であり、実存思想そのもであった。60年代初期、安保紛争の余燼くすぶるアナーキーな状況の中で、渋澤龍彦を介して展開されるマルキ・ド・サドの孕んだ汚辱の世界は、危機と絶望のパースペクティブそのものであった。当時、いつもわだかまっていたのだろう苦行的な酷愛の青春にあっては、それこそ開放された快楽の園へのわななきの証しだった。
 エロティシズムと革命の論理は相関的なもので、サドは暗黒のテロリストとして君臨し、悪と美のパトスこそ、存在の「解体を促進させる否定の内的なモメントそのもであったのだ。

 一時期、私は京都寺町の古書店でみつけた彰考書院版の『サド選集』や、渋澤龍彦著『神聖受胎』(現代思潮社)を懐中に、古都の街を終日徘徊していた。レモンより、サドであった。
 映画「鎖陰」が祇園会館でスキャンダリックに上映され、友人たちの劇団がワイルドの『サロメ』を公演していく一方、『赤い風船』(犯罪者同盟)が猥褻罪で摘発され、埴谷雄高らの『百夜評論』が発行されていた頃のことだ。その線上で、渋澤龍彦は無類のアジテーターであり、ブンガクとテツガクを一蹴する美の使途でもあった。
 陵辱と虚妄の歴史から、民主主義とやらの政治的デカダンスよりも、<完全に欲望の開放されたユートピア>たるパラドキシカルな世界を夢みようとする美的ニヒリストたる一群に、また私も、手負いのまま組みしていたのだった。

 そこでは、極北の地点に立つべきブンガクは、すでに何ものの介入も許さぬ自立の境位を燦然と誇るべきものだと考えられたのだといえよう。
むろん、そこでのブンガクはもはや戦略的な暴力の範疇に入っていたのだろうが、それは若い誇りと混沌のしからしむるものであったのは論を待つまでもあるまい。
 そして、大学院にのこるべきか思案している4回生の夏に日頃の悪行がたたり、湿性肋膜炎で急遽入院したベッドの中で、私は『サド裁判』を読むことになる。
 その「第1回公判における意見陳述」で、渋澤龍彦は次のようにいとも爽やかにのたまう。
「検察官的な意識では理解できないかもしれませんが、エロティシズムは、哲学や思想の問題と不可分一体なのです」

 いつだったか。
 北鎌倉の渋澤邸に何かのコメントを求めるべく電話を入れたことがある。傍若無人のマスコミや代理店の常套手段である。電話口に出た当人はいきなりことで、しばらく趣旨を聞きながら、戸惑っていられるのがよく分かった。
「それはできません」
 渋澤さんの細高く、くぐもった声だった。
「そうですか。失礼しました」
 申しわけなく、受話器を私は置いた。
 高橋たか子さんに会う機会があって何気なくそのことを申し上げたら、後日、何かの折りに鎌倉で話題に上がったらしい。
お二人には何かと行き来があっのだろう。
「そういうことなら、ちゃんと名乗ってくれれば、いくらでも協力したのに、といことだったわよ」
 とたか子さんは伝えてくれた。
 もし、名乗っていて、どういう出会いになっていたのだろうかとおもうと、いささか慄然とした気持ちにもなる。

 憧れつづけてきた人だった。
 茫々と歳月が過ぎていった。
 病状が悪化していることは風の便りに聞いていたが、風俗化し、そこに晒されている渋澤龍彦に会いたくはなかった。その後の多くのファンを持つ幻想文学の立役者であろうとも、わが”内なる渋澤龍彦”は、常に暗黒の危機感帯びた孤高の人でなければならない。それが、不肖60年世代の出会いにおける一つの礼儀であり、信念でもある。
 ーー夢想と驚異のドラコニア・ワンダーランドを出た都会の夕暮れの喧騒の中で、私は、あのどこか弱々しくくぐもった声を何十年振りかで身近に懐かしくおもいおこしていた。


 『文』1994年6月号

    

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