憂愁禁じえず
わが永代橋
 

鬱々とした日がつづいていた。

何をするのも億劫だった。何か大きなものが失われていた。内部の時間の流れに身体や魂が抜け殻のようにボロボロに崩れ、それでもあらぬほうを見つめて薄闇のなかにゆきあたりばったりうずくまっている。幽然と蝕まれ、唸るような咽声をあげている。内臓の痛みに堪えているというのでもないが、すでに私の意識の断崖には言葉がむなしく飛散していくばかしなのである。それでも、とひと声上げ自分自身を立て直そうと目を上げる。昼下がり、サングラスにスニーカーをはきペットボトルを持ち首にタオルを巻く。テニスコートの歓声が聞こえるスポーツ公園から元荒川沿いに歩いて行った。

鳥が囀りに広々とした水景が左手にひろがる。岸部は葦や雑草でおおわれ所々に小舟がつがれ、急ごしらえの小さな釣りの板場を水がうっている。ぐずついた天気がつづき立秋を迎え大型の台風の影響で局地的な豪雨があり、また猛暑の何日かが過ぎ、今年は秋雨がくるのも早いかもしれない。雑木林の右手の道を突っ切り、畦道を過ぎて水道供給用パイプのある赤い橋を渡り左岸に出る。ゆったりした流れとともにさらに堤をすすむ。ほのかな草いきれ、川の光のしぶき。周りの風景を心ゆくまで眺めようするが、人影はなく単調な静けさだけが深まってゆくばかりだ。もともと荒川の本流であった元荒川は、熊谷付近から行田市、鴻巣市、菖蒲町、桶川市、白岡町、蓮田市、さいたま市(旧岩槻市)を経て越谷市中島で一級河川の中川と合流している。

淀んだ流れが川の微妙な束の間の光の諧調をつくりだす。変わりやすい透明な時の刻みが一歩一歩の老いの証明であろうけれど、一日生きれば一日の恩寵であると思うのもまた性急なことだと何ともやりきれなくなる。

自分がいったいどこにいるのかわからなくなるような歩みだが、わが∧永代橋∨へ、永劫なる夢の根源へ向かって叫びを照らし、風とともに心には逸楽と憂愁が沸き起こっている。

 

見渡す隅田川は再びひろびろとしたばかりに淋しくなつた。遥か川上の空のはづれに夏の名残を示す雲の峰が立つてゐて細い稲妻が絶間なく閃いては消える。(略)中満月が木立を離れるに従ひ河岸の夜露をあびた瓦屋根や、水に湿る濕れた棒杭、満潮に流れ寄る石垣下の藻草のちぎれ、船の横腹、竹竿などが、逸早く月の光を受けて蒼く輝き出した。                          (永井荷風『すみだ川』)

 

隅田川は夢幻の美境の永遠の小波をたたえていた。

小売店の暖簾や旗などがひるがえる小路から、荷船の帆のあいだに鷗が飛び交う隅田川に出る荷風散人の目には、いつも川向こうの堤の上に一つ二つの灯りが物悲しくうつる。新大橋と千住の大橋は木造りの姿をとどめていたが、隅田川に架かる永代橋と両国橋はすでに鉄のつり橋に変わっていた。その永代橋から見る川岸にはセメント工場があり、帝都の発展とともに工業化の槌音が高く聞こえていた。掘割へ、橋へ、そして狭い通りや入りくんだ迷路を通りぬける。すなわち散人は夜な夜なの夢のようにさまよい歩くのだが、いってみればそれこそ反現実の巷の夢路であったといっていいのだろう。

何とも厄介な日々に不安だけが募っていた。蹌踉としどうしたらいいのかわからなかった。私は身体をほぐそうと色彩と陽気につられてでかけてきたのだが、絶えず得体のしれないものに突き動かされているようだった。それでいて、元荒川は田園の明るい陽にかがやいていた。休日には川辺をそぞろ歩く人、サイク-リングや散歩する人で賑う。家族や友人や同好メンバーでお弁当を開いたり野鳥を観察したり、空気が澄んでいれば富士山が見える。川沿いの竹林や雑木の一画を過ぎ第六天神の石段を上がった。武蔵第六天神社は創立天明二年(一七八二)、祭神に面足命と惶根命が祀られている。また神社には狗と赤天狗が名で境内の大樹に宿る大天狗、小天狗が参詣者の神徳を授けた故事によるとされている。元荒川の水が堰止められ水嵩が上がると境内が浮き上がったようになり、石段は二段を残すだけになる。春には桜が咲き乱れ、神社の参道には小さな門前町が形成され川魚料理の店が立ち並んでいる。

その天神社に詣で、さらに桜の古木のある川岸をゆくと右手に大きな末田須賀堰が現れる。約四百年前に最初の堰が作られたが、何度も工事が繰り返され平成六年三月に現在の堰が完成。水門の開閉、水量調節はすべてコンピューターで操作され元荒川流域の三千ヘクタールの農地(岩槻市、春日部市、越谷市)に、灌漑用水を供給する。洪水吐ゲート一門、調整ゲート二門、土砂吐ゲート一門の四つの水門があり、水辺には絶滅危惧種のキタミソウが自生している。

 

予は心中大に狼狽したれど如何ともすること能はざれば知らぬ顔にてその汽船に乗り、桟橋の様子を見送りつつやがて永代橋に来りぬ。

(永井荷風『断腸亭日乗』昭和三年八月二十四日)

 

仮寝の幻のように溶け去り消えゆくものでない。郷愁の隅田川の光景はすでに江戸の面影を失っていた。青ざめた血汐の脈は萎え、川と運河の群れなす堀からめぐらされる小路に歩みを運び、まぎれては足を止め、そうかといえばまた汽船に乗り、あたかも幸運と運命の気まぐれに向かうようにして永代橋にいたる・・。

いや、この末田須賀堰の管理橋として並行してかかるのが永代橋である。水の轟音に思わず身をかまえ橋の手摺りから見下ろすと、白い飛沫が激しく上がっている。車の往来が絶えない橋の脇の通りにはそば処や酒屋の看板をさげた家が商いを止めその後の買い手もなく閉じられているが、左手に少しゆくと山草・盆栽の山吹園があり洒落た構えの串あげ店がある。

左岸の橋詰にある永代橋(旧橋)架橋記念碑によれば、「両岸交通ニ至便ナク車馬ノ往復益々繁ク日々社交ハ更ナリ産業ニ耕作ニ地方ノ利便益々大ナラム誠ニ堪ヘザルナリ庶幾クハ永代ノ橋其ノ名ニ負ヒテ永々代々ニ栄アルベク地方村民渡行ノ人士亦長ヘニ此ノ由来ヲ記念スベシ」(大正十五年(一九二六)十月建立)とあり、当時の大工事の様子、人々の苦労や歓びが記されている。その後の改修を経て現在の永代橋は平成四年九月竣工、全長六十九メートル、幅十二・五メートル、県道新方須賀・与野線で第六天神社参道ともなっている。

のどかな田園風景のひろがりにほっとした気持ちになった。

水流に二羽の鷺がじっと餌を狙い、鵜のような鳥が盛んに水中に潜っては浮かんでいる。堰の魚道ではアユやフナが遡上するという。車の洪水の脇を散歩がてらの人が時々通ってゆく。橋は単なる交通往来をはかり川の堰に備えているのでこれといった情緒はなく、「地方村民渡行」の感動のよすがもないが、ゆったりした時間が川の流れに沿ってたゆたう。永代橋東際の小公園の藤棚の下に設けられた椅子にどっかり座ると水面がきらめく光と風の匂いをはこんでくる。

 

月出て夜のさま夏らしくなりぬ。昨日携来(ルビ=たずさえきた)る風呂敷包を棄てむと初更のお歌を伴ひ、電車にて永代橋に往く。空再びくもりて月もかくりたれば橋上には納涼の人もなく通行の人も少なし。水面を窺見(ルビ=うかがいみ)るに引汐とおぼしく芥塵の流れ行くこと頗(ルビ=すこぶる)早し。通行の跡も断ち河面一帯に寂然たるさま物投捨るは最も好し。欄干の上にて風呂敷包を解き、紐にて束ねたる草藁を投棄つるに水ほとばしりピシャンといふが如き響したる。

(同右掲書 昭和三年八月二十五日)

 

川面の灯りが揺れていた。

苦悶のほどを打ち明けたいが、月夜の決行だった。人にみられたくない未完成の原稿は、昨年の冬、庭の枯葉とともに焼き棄てようとするがなかなかすぐには燃えなかった。しかも臭くて近所の人にうろんな目で見られる。居をかまえる麻布市兵衛町の偏奇館(現在のアークヒルズ近く)から市電に乗り継ぎ隅田川にきて、ここでゆきつけの中洲病院に治療に寄る道筋、永代橋からこれまで書いてきた原稿を思い切って投げ棄てるというのもなみなみのものではない。水面の動きに「心中狼狽」するのだが、東京湾の河口にて草稿の束はうまく処分できるだろう。だが、荷風五十歳にして身請けした若いお歌を同道させたのはまったく酔狂なことであった。

――人形の町の雪洞ゆらめきて花簪を持ちてゆくかな。

いや待て、雛飾る夢見小路を辿り隣町の夕席に私は急ごう。時たま都心に出る。ちょっとした所要を終え東京駅の八重洲口から中央通りを新川に出て永代橋を渡り、門前仲町から木場を過ぎると洲崎(戦後の洲崎パラダイス)である。むろん通りは車のクラクションやビルの建設工事の喧噪で少しも落ちつく気がしない。都会ではすれ違う人もそれぞれ気ぜわしく目を合わせることもない。

 

上京して三年ほど雑司ヶ谷や目白台に住んだだけで私はまともな東京暮らしなどしたことがなく、思えば銀座、赤坂、丸の内、神田が中心の身すぎ世すぎに明け暮れた。元赤坂のオフィスのビルの五階の窓から広大な東宮御所の森が眺望できた。戦後すぐポンポン蒸気が上流の北千住から下流のお台場まで往来していたらしいのだが、よくビル街を抜け出し隅田川方面に時間潰しにまぎれこんでいった。向島七福神巡りも楽しいひとときだった。百花園から土手沿いに出て長命寺の桜もちの味も忘れられない。櫻茶ヤのお座敷に芸達者なお姐さんがたをはべらし酩酊したのはいつのことだっただろう。茹で加減も絶妙のそばや蛤・穴子・浅蜊の煮物握りや八丁味噌の牛もつ煮込みも印象深い。頃日、人気の東京スカイツリーを眺めながら浅草から吾妻橋を渡り隅田川左岸を駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清州橋、大橋、永代橋へと歩いてきた。隅田川テラスにウォーキングやジョギングする人とすれちがったが、永代橋から隅田川河口を望むと大川端リバーシティ21が摩天楼のように建っている。隅田川ウォーターフロントには往時の下町風情を知る由もなくハイテク総ガラス張り高層ビルが林立している。

生活感あふれる下町の古い町は次々に取り壊されて急ピッチに次々にタワーが建てられ一変してゆく風景、人々が慌ただしく行交う不眠の都市(ルビ=まち)で過ごした日のことも今ではすっかり遠景にかすむ。バブルやポストモダンとやらの状況のなかで身を切り刻む多忙だった記憶の深みにたじろぎ、また少し醒めては”喪失した風景”の前に腑抜けみたいになり、私はいまだ夢幻泡影の収まらぬ何かに駆り立てられているのである。ましてや、体力や気力がおとろえジム通いも止めて運動不足の身をもてあましているなかで、「穏やかに生きよ。悠揚として心や感覚を豊かに遊ばせよ」などと老いじたくの世迷言など聞かされてはますます落ち込むばかりでないか。なればと“荒廃の美”に拘泥する往年の都市徘徊の与太の嘆きを繰り返し、挙句には空にかかった満月に誘われたかのようにまた当てもなく脇道に逸れてゆく。小風になびく暖簾を求めて私は彷徨する。

 

朝中州に行く。天気よければ新大橋より舟にて永代橋に至り鉄砲洲(ルビ=てつぽうす)の新道路を歩みて明石町の岸に出づ。                  

(同右掲書 昭和六年四月二十日)

 

近巷の桜花爛漫、明石町の岸辺は春の陽気にみちていた。

静かな隅田川は幻覚の巷(ルビ=トポス)であった。散人の若いころから老年にいたるまで柔らかく愛撫するような情感の源流となっている。小さな運河、堀割、吊り橋、小家の裏窓、燈影の揺れる小料理屋など新大橋から永代橋へはわずかの舟旅。居を構えた草花も愛しい偏奇館(現在のアークヒルズ近く)より墨東に遊ぶ連夜、女との遍歴により世を欺く狷介孤高であろうとなかろうと、もとよりそんなことは余計なお世話だ。近代日本における「江戸」をめぐる言説ははかりしれなく、レトリックとしての女は夢幻の彼方に乱舞している。深川や洲崎を中心にした遊びはともかく、永代橋のたもとにきて「蒼然たる夕靄の立初める川面に、真白な鷗の飛び交ふ景色を眺め」る風情は何とも応えられなく千両役者のように決まっている。そして「淫蕩懶惰の日の醜行をありのまま記録」する心映えはつらつら隠れ家での静かな暮らしなどまったく望むべくもない。「余命ほど幾何(ルビ=いくばく)ならずといふ心地」とはそれもご愛嬌、大川端の名月煌々とし妓家を過訪し墨堤を歩むこと件の如し。

若者たちがオートバイの爆音を立てて去っていった。気がつくと、静寂が濃く沈みこむ通りに入っていた。多少の筆や墨をいじくり骨董の売り買いで身をたてている初老の男は疾走し、威勢のいいおでん屋の親父の愛人は若いロックシンガーと心中事件を起こし、背中に絢爛の観音菩薩の刺青(ルビ=いれずみ)をした女からもらった古い手紙は北国の雨の宿屋で焼き捨てたとかの話に浮き流れる不思議な気配がたちのぼる。気分をなぐさめる小路を私は曲がる。まだ宵に早い時間にゆく居酒屋は一人だから常連の多いカウンターの立ち呑み席でいい。

それにしても江戸幻想を相対化してほとばしり、生であり性でもある散人は常に矍鑠。古下駄の鼻緒が切れはせぬかと気遣い、ひとり暮らしゆえに横町で葱醤油など買い飄々と家に戻る己を振り返り「何ともなく寂しい」とのたまう。その性愛描写(ルビ=エロティシズム)が風俗壊乱であり国家検閲の憂き目にあうのなら徹底した無用者でいよう。清元や歌沢を習い三味線もひく風流遊芸に身をこなして江戸芸術に傾斜する戦略的な戯作者気質、艶話と偏屈にしたたかな風姿は心憎いほど粋ですがすがしくもある。

 

暮方(ルビ=くれかた)銀座にて夕餉をなし中洲病院にお歌の

病を問ふ。暗夜中洲より永代橋に至る川筋のさま物さびしく一種の情趣あり。    (同右掲書 昭和六年七月十四日)

 

いつもの朝寝に鬱然としたその日、思わば思え。笑わば笑え。

発売禁止処分の『ふらんす物語』は栄光と汚辱のイリュミナシオンに輝くだろう。世の道楽とか数寄者もどきの戯言などもしったことじゃない。老いたりとはいえ若き日に憧れたパリの歓楽街やモンマルトルのブランシュ広場であるべく墨東は、いってみれば多彩極まる女たちのドラマに彩られた虚構の町であった。虚構ゆえにこそ、俗塵と隔絶する淨らかな巡礼の日がつづけられていったのではなかったのか。まことにうつつにも狂惑のエロスの形相を追いながら、さらに加えてここに記しておくならば、大正大震災で「帝都荒廃の光景哀れといふも愚かなり」と慨嘆し、東京空襲で偏奇館を追い出される散人の戦後は晩年を迎えて、なお雨の日も風の日もいとわぬ散人の浅草通いがつづく。「正午浅草」が呪文にように行われる。そして、「独(ルビ=ひとり)弁当箱の飯くひて一睡す。目覚むれば夕陽窓に映ず」とは、超俗的なライフスタイルをつらぬく七十歳の籠居の何と冴え冴えとして天晴(ルビ=あっぱれ)な呟きであるかと目をみはる。

もう雨もあがったようだ。夜の冷気が忍び寄ってくる。

かえりみれば、当初はまったくかりそめであったこの小城下に侘び住まいを決めて私の静かな日々が始まった。もうずいぶん長く暮らしている。土地の風の匂いや暁、花、空間、星がそうさせたのか知れない。都心から三十五キロ。東北高速道インターに近い国道16号線沿いは飲食店の激戦区となって昼夜分かたず往来する車で騒々しいが、一歩入れば武蔵の自然が息づき季節の祭りや市に静穏な日が重ねられている。住宅街には侘介椿に枝折戸のある古風な家や手入れの行き届いたガーデニングの家がいつも明るい窓を明けている。歩いて万歩計のメーターが一万歩を記録することは滅多にないが、眠たい午後や気晴らしにひとり歩きをし、改めて自分の町を身近に知って胸がときめく。百五十軒以上の人形工房が並ぶ通りには時の鐘がひびき、老舗の鰻屋や和菓子店や洋食屋が賑わい、茅葺きの寺や白壁の土蔵の横の道を過ぎて神社の脇の家の前にくると稽古中の謡いが聞こえてくる。公園に飛来するカワセミやアオバズクを日がな根気よく待ち望遠レンズで構えるカメラマンたちとも顔馴染になった。今どきのお手軽な観光用“ふるさと散策路”でもないが、ここには広小路、諏訪小路、渋江小路、江戸小路、天神小路など由諸深い小路や通りが入りこむ。日が落ちればいささか郊外特有の一抹の寂寞感が漂い別次元の町の趣をみせる。遠来の客のもてなしには気にいった地酒を振る舞うが、そうだった。「口切や小城下ならぬ只ならぬ」と嘯き、来月の老舗料亭の京育ちの女将を囲む定例句会には久方に結城の紬の着流しで馳せ参じよう。

それにつけても腰折れは終日茫々、小庭の草花に水をやり近くのスーパー温泉に行ってひと風呂浴びたり、愛用のXXIOのドライバーが決まらず自信喪失のゴルフもようやく厭きた。そんなこんなで気ままにやっていれば、もう後は書斎に入ってメールをチェックしたりして無聊に過ごしている。若い友人の訳したランボー全集はまだ読んでいないし、デジタルコンテンツによる今どきのケータイや電子辞書による文学ごっこ(ルビ=、、、、、)に関わり知らず傍観しているのも、いってみれば朝夕の犬の散歩のほかに別に取り柄がなく、物事や事象に大した感動することがなくなってしまったからなのだろう。

そうかといって細々と引き籠っているわけでなく、ちょっとした不注意で左足膝を痛めて正座ができず招ばれた茶会にも欠礼つづきでぼんやりし、ふとマーラの名曲、リュッケルトの詩「亡き子をしのぶ歌」のディートリッヒ・フィッッシャー=ディースカウの哀愁に満ちた録音盤CDをさがすのだが、それがどこへまぎれてしまったのかどうしてもみつからない。ずいぶん前から物忘れがひどくなった。「なぜそんなに暗い眼差しだったのか、今にしてよくわかる・・」と名唱の一句一句、一行一行がうたわれるが、乱雑した部屋をあちこちひっかきまわしても名盤の行方は沓としてわからない。ええい、ままよ、と寝場所をうつして仰臥したままいると眠気が戻った。

夜の幕が下り、さあ、目を開けてお睡り。憂愁にみちた漆黒の闇が時間の経過とともに重たくまとわりつき、奇妙なことに朧な城下町の夢の絵巻がひろがってゆく。そこからさらによく見れば、幽明なあわい光の向こうに天正十五年五月の乱による平城(ルビ=しろ)が戦火にくるまれ、放された弓矢に二千の老兵たちがのけぞっているではないか。青あらしの元荒川が真紅の血で滲んでいる。そうかとかといえば共振する地の叫びともなって蒼茫のフラッシュバックに虚像と実像が入り乱れ、次にはまた何の脈絡もなく、正絹造りの衣裳に豪華な鳳凰刺繍を施した雛人形が供揃いで裏小路をぞろぞろ歩いているのである・・。

これでいいのかね。笑わせやがる。いったい何を妄想し錯乱しているというのだね。ひんやりした孤独とともに私はかすむ目をこらしてむなしく前方を眺める。おれはどこを歩いているのか。おれの町はいったいどこにあるのか・・。確かに大きなものが崩れ、喪失してしまったらしい。静寂のうちに世界がさらされ、忘却と悲哀のうちに転がり落ちてゆくようだ。不貞腐れ明日のお忍び散歩はまだどこへゆくかも当てはないが、こうしたひっそりした自分の暮らしに向き合っていると、何とも急に侘しく身をつまされしきりに嗚咽している。そして、ふうっと小さく息をつけば流魂のはての小城下に軍馬がいななき、茫漠のわが∧永代橋∨は幻影の断崖(ルビ=きりぎし)に紅蓮となって燃えあがっているのだ。

 

 

先に刊行された『埼玉文芸風土記』(編集=埼玉文芸家集団・刊行委員会、発行=さきたま出版会)は県内四十九カ所に分けそれぞれが担当執筆した好評の一書である。幸いにも私は武蔵野の歴史と自然にめぐまれた「岩槻、 城下町・人形のまち」のことを纏め上げることができた。しかるに、飲んだくれの菲才にて洞察叡智もとよりなく、この町が円地文子著『人形姉妹』の重要な舞台になっていることを知らないまま脱稿したのは、何としても不覚であった。敬愛する円地文学をと喝仰しながら、論証ぬきの舞文曲筆との指摘を受けて弁明する余地なき迷妄であり、醜態である。――よって、ここに新たな稿とするが、なにとぞ具眼の士のご寛恕を乞うしだいである。

 

「城下町・人形のまち」(増補・改訂)

岩槻は武蔵野の自然に恵まれ、古い伝統と文化を持つ人形のまちである。その近世の歴史は室町末期の一四五七(長禄元年)年の岩付城の築城とともに始まる。一面の沼地に降り立つ白鳥を見て、“白鶴城”と命名されたとも語りつがれている。戦国時代は太田道灌やその曾孫などが名将として名をとどろかせた。だが一五九〇年(天正十八)、豊臣秀吉の小田原征伐にともない、容赦のない火攻めで岩槻城はあえなく落城。江戸時代は日光御成街道の宿場町として賑わい、儒者・児玉南柯(一七四六~一八三〇)による藩校・遷喬館が栄えるなど文化環境に恵まれ、天明期を代表する文人・狂歌師である太田蜀山人(一七四九~一八二三)が立ち寄ったりしている。俳諧・和歌・漢詩の会・書籍の購読・書画の鑑賞会・盆栽の会など盛んであった。

こうした中で日光東照宮の造営にあたった名人気質の工匠たちが人形づくりを始め、近年は全国有数の節句・ひな人形の産地として知られる。現在、岩槻城址公園では流し雛や人形供養祭の行事などが華やかに行われている。

この人形のまち・岩槻を背景にしているのが円地文子著『人形姉妹』である。円地文子(一九〇五~一九八六)は東京・浅草生まれ、豊かな古典の素養のもとに『源氏物語』の現代語訳全十巻を完成するなど文化勲章受章。代表作『女坂』『妖』『虹と修羅』『菊慈童』など葛藤する女の業を痛切に描いている。

『人形姉妹』は、祖父が京都から持ち返った「優美な気品ある内裏雛に対する愛執の深さ」の妖艶の世界を描く。春市家の姉律子は名工の祖父から人形師としての太鼓判を押され、人形づくりについては女学校を出るまえにすでに玄人肌の腕前をもっていた。だが、律子は妹郷子の年下の恋人曽宮を奪い一緒に暮らすことになる。美貌の木目込み人形師の愛と苦悩の日々、染色工房へ通う曾宮の実家は京都で代々京雛をつくる家であった。二人のあいだに隙間風が吹いていくにしたがい、曽根と妹郷子の関係に嫉妬の炎が燻り、渦巻く闇に身を切るように苦しむ。そのはてについには桜の花が絢爛と舞い散る第六天神社の川辺りで、舟の上にいる妹の背を突き飛ばし水の中へ落としてしまう。それが「暗い地獄へ自分達姉妹」を追いやる一人の男をめぐる女の愛憎のはての結論だった。そして、京雛にまつわる数奇な運命の糸にたぐりよせられるように祖父の眠る岩槻の幽林寺の墓地の前で律子は自ら死をえらんでいくことになる。

雅なたたずまいのなかにぬぐいがたい運命の破局がつづられる長編ロマンであるが、ここには「岩槻の町の低い静かな家並みの道」など、当地の風土が色鮮やかに描かれている。

「何となく雑な感じのする関東の丘陵地帯の野趣」は却って新鮮である。「町の西北から東南にかけて穏やかな流れを繞(ルビ=めぐ)らしている元荒川の堤に沿うと、岩槻城址の丘陵地帯や、第六天神の祠(ルビ=ほこら)の境内に遊んだことが度々あった」。「冬は水涸れして河原があらわに広くなり、春から夏にかけては水かさが増して舟の往来が自由な水郷に変わる元荒川の流れに囲われた岩槻の城址の丘陵地や広々とつらなった水田」に陽が差し込む。「岸の田舟」が揺れ、茅葺きの屋根の農家」 がひっそりと建っている。哀歓おりなす小城下の風物の一つ一つが読むものの胸に清々しく迫って物語が展開する。

『人形姉妹』は、大正末年生まれの主人公律子のもとに戦前から昭和三十年頃(一九五五~)までの長いストーリーである。祖父の眠る「町外れの幽林寺」のモデルはどこの寺であるかはむろん検証すべくもないが、本書には岩槻の名跡がくまなく描かれ、作者が現地取材を綿密に行っていることがよくわかる。

一九五四年(昭和二十九)、一町六村が合併し岩槻町、同七月市制施行で岩槻市となり一九七八年(昭和五十三)、岩槻市は新たな市制の指針として郷土意識や市民の心のよりどころに市の花や木を始め「市民の歌」、「市民音頭」を制定した。一般公募で選ばれた「岩槻市民の歌」は郷土の誇りをたからかにうたう。「槻の木のびる 青空に/歴史を語る時の鐘/基(ルビ=もとい)は古く いにしえの/心をここに 受け継いで/明日を築く 城下町/ああ岩槻市 われらの郷土」。作曲は船村徹、歌は青木光一、広く愛唱されている。作詞した高橋寿雄(一九三二~)は川沿いの桜並木の美しい緑豊かな住宅街・大栄グリーンタウン(四百十世帯))に住み、自治会活動を始め地域の文化活動やスポーツ振興に大きく寄与している。

岩槻の名家に生まれ育った関根正雄(一九一九~)は、東京美術学校(現東京芸術大学日本画科)を卒業。日展に出品、特選を受賞。美人画が有名な伊東深水(一八九八~一九七二)に師事。だが、師の逝去を機に日展委嘱を辞し、中央画壇のいっさいの派に属さずに独立。埼玉文化賞、教育功労賞、文部大臣文化功労賞、紺綬褒章、叙勲など受章。また、その文化活動や多彩な人々との交流で埼玉文化団体連合会顧問など要職につき活躍している。

画文集・エッセイ集も多く、「モーツァルトを愛し、ヨーロッパを好む異色の日本画家」の文筆も冴え、人々の心をうつ。「森や林に懸る月、はるかなる平野の彼方から昇る太陽、荒川の水面に輝く落日、比類のない美しさとしあわせを感じる」(『わが武蔵野』)と、まさにふるさとの画家・関根正雄ならではの魂魄であり、大地に根をおろしてきた祖先の血を継ぐ熱い息吹なのだろう。

地元ゆかりの文人では、桜天上界に触れて居りーー俳句では小川原嘘師(一九二六~二〇〇六)が東京生まれ。戦後復員してから、埼玉県埼玉郡河合村役場に勤務(河合村は一九五四年、町村合併により岩槻となる)。「ホトトギス」で活躍した渡辺水巴(一八八二~一九四六)に師事。水巴逝去後は、「ホトトギス」同人の岡安迷子(一九〇二~一九八三)の門をたたき写生俳句の手ほどきを受ける。迷子には毎月五〇句の選を受けるなど刻苦勉励の日が続いた。新居を区内本町二丁目に構え“美求庵”と名づけ庭には泰山木を植えるなど、日々の暮らしを慈しむ。岩槻は環境に恵まれ水がよく、住みやすく、「霊峰富士と筑波が見える美しい平坦地で、人の心もおだやかで優し」かった。市職員として公務に当りに市史編纂など担当、中央公民館の俳句講座も受け持つ。自ら「俳句馬鹿」を称し、俳句一筋の人生に撤した。「曲水」「泰山木」主宰。句集に『夜明』、『日輪』がある。「大空の藍ふりそそぐ二月堂」は、戦後俳壇の代表たる飯田龍太(一九二〇~二〇〇七)に推奨されるなど、写生ひとすじの一気の気息にみちている。

羽生生まれで東岩槻在住の原山喜亥(一九三六~)は、埼玉ゆかりの文人たちの研究・調査に精魂を傾けている。その資料文献の蒐集、著作目録の制作など書誌的な研究についてはもはや余人を許さない。『資料 武蔵野の文学者たちーー著作目録抄』、『埼玉の近代文学』、『埼玉の作家たち』、また編著に『青みさす雪のあけぼのーー大西民子の歌と人生』など著書多数。

古書籍の世界に“経験とカン”を生かした地味で堅実な取り組み、常に独往邁進の気概にみちている。「武蔵野の大地で生まれ、あるいは居住してきた文学者たち」への限りない愛着にみちているからだろう。この道ひと筋に長年にわたって蒐集したなかには異装本・特装本など貴重な文献も多く、「原山コレクション」は大きな関心を集めている。

エンタメ系では推理作家の中町信(一九三五~二〇〇九)が小溝に住んでいた。出版社勤務を経て江戸川乱歩賞最終選考に残った「模倣の殺意」でデビュー。意外なストーリーの展開とミステリーの遊び心に通じ、全国観光地をモデルとし、“ツアー作家”ともいわれた。今もその大がかりなトリックが読者をうならせている。

太田代志朗(一九四〇~)は岩槻城址近くの本丸に居住、三十年になる。若く京都にあって、『隠された十字架』など壮大な梅原日本学をうちたてる哲学者・梅原猛(一九二五~)や、長編『悲の器』で華々しく文壇デビューした高橋和巳(一九三一~一九七一)の薫陶を受けて上京。修作時代を経て長編『このひとときは風にみち』など重厚なロマンを発表。掌編「武州残月記」は岩槻城・落城にまつわる史実をもとにした妖艶悲壮の世界を描き、室町後期の関東争乱で武州岩槻などを舞台にする長編「公方繚乱」は日本ペンクラブ電子文藝館にて配信中。静穏な日常の狂気と闇をみつめ、実存と不条理の人間模様を探る。あわせて歌人・福島泰樹(一九四三~)主宰の季刊『月光』編集同人に加わり、「城下小庵」「武州晴嵐」など詠む。冷ややかにも沸騰する抒情と幻想、みなぎる言霊の焔(ルビ=ほむら)を浄化させている。

文学碑としては、浄国寺に歌人・大西民子の「一本の木となりてあれゆさぶるを過ぎにしものを風と呼ぶべし」の歌碑がある。

城址公園の人形塚に隣接して岩槻人形共同組合の委嘱による詩人・槙皓志(一九〇〇~二〇〇二)の「その頬にぼんぼり映しその髪に/桜かざして城あとに相逢うひとの/いまも雛に似る人形のまち」の詩碑がある。また、本丸公民館前には岩槻市俳句連盟の句碑がありここには七十六名の句が刻まれている。

「城下町・人形のまちは」は二〇〇五年(平成十七)五月、さいたま市に編入され岩槻区となった。“さいたま市の奥座敷”として脚光を浴び、歴史・文化・自然を誇る副都心の一つとして位置づけられている。歴史文化情報センターなるべき岩槻城に関する歴史博物館創設プランは望むべくもないようだが、地下鉄七号線の岩槻延長、東武野田線岩槻駅周辺の再開発、人形会館(仮称)建設など着々とすすめられている。

 

 

――憂愁禁じえず、憂愁禁じがたし、憂愁禁ずべからず。

華麗にして無頼高踏の一大叙事詩、『断腸亭日乗』において大正八年正月元旦、大正十年六月九日、昭和十四年十月二十八日、昭和二十三年十一月二十八日などに見られるこの一節は、あたかも玲瓏の楽の音のような通奏低音となっている。世塵に本身(ルビ=ほんみ)をさらした蠱惑のリフレインであった。現今の俗流アカデミズムもどきのトレンディな江戸学はともあれ、日本近代の終焉のなかでくりひろげられる官能の美学は放蕩淫行やみがたく徘徊する挑発的ダンディズムの饗宴そのものだった。何をかいわん、月夜の静寂のなかでおこなわれた江戸への回帰の儀式であった。

その時、町外れの川明かりは紅灯の情話を映じ、ひめやかな夢現(ルビ=ゆめうつつ)のうちに幾千の映像となってかけめぐる。永代橋は、「哀愁の美感」に酔った幻影の彼方にきらめかしく蘇っていたのだろう。

■断腸亭日乗』(摘録)は岩波文庫一九八七年版より引用


 
『埼玉文芸』第86号 2011年12月25日発行
発行:埼玉県教育委員会・さいたま文学館


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