孤立の憂愁

高橋和巳拾遺@
立命館大学文学部講師の時代(1960年〜1965年)

 

 高橋和巳の立命館大学における文学部講師としての在職期間は、就任一九六〇年四月一日付け、退職一九六四年十二月三十一日付けである。

 講師採用については、中国文学科の白川静教授に当たっている。応募者四人の中で、京都大学の吉川幸次郎博士門下の俊英、六朝美文を研究している高橋和巳は自費出版の長編小説「捨子物語」を提出。それを読んだ教授は、そこにただならぬ才気を感じて、すぐ採用することに決め、教授会にはかった。当時、立命館大学中国文学科には、橋本循、白川静、笠原仲二、高木正一ら教授陣がいた。

 高橋和巳の担当科目の講義題目は、
  一、中国語学講義
  二、中国語学特殊講義であり、いずれも中国文学専攻の学生を対象に講義されている。夜間の二部も担当した。

 大学の紀要「立命館文学」(役員=梅原猛、白川静、内藤耕治郎、奈良本辰也、西川富雄、橋本循、林屋辰三郎、山元一郎、和田繁二郎)に発表する高橋和巳の小論や学会動向を読んだ梅原猛助教授は、そこにきらきらしながら、「不思議な黒い鉱石のようなもの」を覚えた。初めて会ってみると、「その底に何か巨大な深い闇の海を秘めている男」だという印象を受けて強く惹かれていったという。背が高く、美青年で、酒はめっぽう強いが、口数は少なかった。

梅原猛はその絶望と実存の「闇のパトス」の書で以て、「ミケランジェロの恐れ」で洛陽の紙価を高めた突兀たる山元一郎の肝煎りにより、龍谷大学から立命館に入り、笑いの哲学を経て日本文化研究に取り組み出しているところだった。自由放任の恵まれた環境で基礎的な学問を積み上げ、美や宗教のジャンルに迫っていた。悠揚としてどこかおおまかなところのある梅原猛は、高橋和巳にとって、安心して何事も話すことができる親身ないい兄貴分だった。

この時、梅原三十六歳、高橋三十歳の煌く壮年。やがて多田道太郎、山田稔が主宰する日本の小説を読む会」や、京大人文科学研究所の桑原武夫を班長とする文学理論研究に参加する二人は、まぎれもなく京都アカデミズムの麒麟児だった。酒を奢れば、次には必ず自分のほうで席を設ける。高い志を秘めた礼儀正しい男だと梅原猛は思った。

「オレには才能がある。絶対、小説家になる」
 高橋和巳は自信に満ち、創作、研究に余念がなかった。教授会などにはあまり出ず、出ても人を食らったように無口で、学内の付き合いもない。名にしおう吉川幸次郎門下であれば、立命館の中でも暗黙のうちに別格扱いであるが、たまに出る教授会では、「自分は一生懸命に講義をしたから、海外にぜひ留学させてほしい」といきなり切り出す。むろん、これは一同の批判を食らって一蹴されてしまう。

そんな中で、「埴谷雄高論」(「近代文学」)、「竹内好論」(「思想の科学」)を発表し、「憂鬱なる党派」を「VIKINNG」に連載。大学講師に糧を仰ぎつつ、高橋和巳は文学の鬼と化していた。外から帰る妻にも半分残すべき一枚のビフテキを一人で食べたとて、それが何だろう。執筆に興が乗り、つい釜の飯に塩をぶっかけて行儀悪く手つかみで食べたとて、それが何なのだろう。いわんや、一升瓶や安ウィスキーに酔いつぶれ、寝床で泥酔したとていったいどうしたというのか。

一つの機縁がきっかけで、長編に取りかかる。これまで当てのない原稿を書いてきていたが、復刊が決った「文藝」(河出書房)に設置された長編小説を対象にした文藝賞に応募宣言する。それはいくらか下書き原稿があったとはいえ、執筆期間は十カ月とないものだった。全力を傾注した。桎梏の原稿は九百四十二枚。

一九六二年十月、その「悲の器」が第一回文藝賞を受賞することになる。選考委員は日頃、敬愛している寺田透、中村真一郎、野間宏、埴谷雄高、福田恒存。華麗に青春を謳歌する「太陽の季節」の石原慎太郎には一歩先を越された悶々たる中で、戦後派文学を真正面から引き継ぐ憂鬱派のデビューであった。

原稿依頼は殺到し、「散華」「我が心は石にあらず」などを発表、エッセイ集「文学の責任」が刊行される。

大学の講義はつい疎かになっていった。授業中、どこかへ行ったきりで行方不明になってしまう。これは言語道断なことだった。何でも友人が訪ねてきたのでふと外へ出て酒になったといのが真相らしいが、助手はほとほと手を焼いてしまう。だが、本人はケロっとしている。
「何も大したことでないではないか」
 周辺の迷惑など知ったことでない。休講が続く。学生には心臓が悪い、痔が痛むということだった。
 文学部長の奈良本辰也教授が、そうした状態の高橋和巳を気遣い研究と文学の二束草鞋は可能だと激励し、教授会その他で白川静、梅原猛がいつもかばい続ける。

だが、いつからともなく、高橋和巳には大学とのあいだに軋轢が生じていた。担当が文学関係の科目でなく、語学であるというのもかねての不満で、どうもやりきれない。それに、世間の評判も芳しくない私学にこのまま骨を埋めるつもりは最初から毛頭ない。

現今の立命館は産学交流を目指した先進の改革を断行、めざましい躍進の一途を辿り、私学の中では慶応、早稲田に続く高い評価を得て大きな注目を浴びている。だが、当時の立命館といえば、もっぱら平和・民主主義を標榜する圧倒的なマルクス系の学者が学園を指導し、関西六大学の中でもまったく魅力に乏しかった。

「今の大学での研究は、死せる学問である」
 と高橋和巳は白川静に迫った。
 ――もう、立命館を辞めたい、と一途に思う。
 文学の仕事に打ち込みたい。こんなところでいつまでものんびりとやっていられない。大きな連載の仕事も入っているのだ。相談にきた高橋和巳は、長安の男児ならざるも、すでに決意秘めた横顔の美しい男だと師は思う。だが、何も辞めないでいいではないか。
「きみのいう研究、評論、創作の三位一体説は、着々と実践しているではないか」と白川は説いた。
 だが、高橋和巳の決意は固かった。
「そうか」
 白川は応える。逃げられた思いだったが、すべがない。これからの立命館の中国文学を背負ってもらうべく期待しているというのに。
「分かった。だが、もう少し考えてくれ。授業に出なくていい。半年間、給料は出すよう大学と交渉しておく」
 まだ一縷の望みを賭けようとする白川静教授の申し出だった。その好意に頭が下がった。

高橋和巳が立命館の御所に隣接した梨木神社脇の研究室を引き払うのは一九六四年十一月。手伝いの学生二人と段ボール箱七、八個に書籍やちょっとした小物を詰め終わると、
「よし。ほな、寿司、食べに行こ」
 サバサバした気持ちで言った。

明けて一九六五年一月から「邪宗門」の連載が「朝日ジャーナル」に始まり、上京して鎌倉・二階堂に居を構えるのは同年九月のことである。意気軒昂だった。「憂鬱なる党派」が刊行され、「堕落――打なる曠野」を発表、「日本の悪霊」の連載が始まる。次々に新境地を開く高橋和巳の評価はいやだがうえにも高まった。学者としても注目され、唐木順三の要請で明治大学文学部助教授に就任するが、ここで運命が大きく変わる。

母校京都大学文学部助教授としての要請があったのである。恩師吉川幸次郎の退官にともなう後任人事で、その三顧の礼についに断り切れず承服することになる。初期の夫の原稿のすべてを清書し、ある時期はアルバイトで家計を助け、フランス文学の数々を翻案し、新たに自分も作家のスタートを切りはじめている夫人の高橋たか子は強く反対した。何と理不尽な! やっと念願の上京を果たし、作家生活も順調に進んでいるではないか。それを、今更、なぜ京都に舞い戻らなければならないのか。

とまれ、事態は京都大学中国文学の将来が高橋和巳に托されたということであった。それは愛する高橋和巳を身近におき、学者として完成させようとした恩師の悲願であったが、そんな重い責任を一人の小説家が負わなければならないとすれば真にたまったものでない。
 いかに緊張し、荷が重かったことだろう。
 埴谷雄高に相談すると、言下に、
「断るわけにはいかないだろう。やってみてダメなら大いに放蕩して、アカデミズムの顰蹙を買って追放されるがよろしかろう。われわれはそういうことは何とも思わんから」

かくて一九六七年三月、明治大学助教授を辞職し、同年六月、京都大学文学部助教授となり、十月より「李商隠論」を講義(一九六九年一月まで)する。

当初の高橋和巳の京都生活は平穏そのもので、同人雑誌「対話」復刊に漕ぎつけ、慕ってくる若い世代の者とその読書研究会などを率先して開催しているが、やがて勃発した学園紛争は東大医学部の闘争を端初に、急激に全国的にエスカレートしていく。

一九六九年一月、東大に機動隊導入。安田講堂封鎖が解除されるが、これは京大にすぐ波及し、二月、京大代議員大会で乱闘。全学共闘会議が時計台のある大学本部封鎖。文学部の全学封鎖。そして、六十五時間の教授会断交と日増しに学園闘争は激しくなっていった。最初は関心の薄い高橋和巳だったが、それら全共闘の運動にしだいに持ち前の誠実さで理解を寄せていくことになる。東洋史闘争委員会の張り出した「清官教授を排す」の大字報に、その欺瞞性を衝かれたことも大きな動揺をきたすことになる。

バリケードが築かれ、ヘルメットやゲバ棒が散乱した。現実の攻撃や矛盾による実力抗争で大量の負傷者が続出し、内ゲバがエスカレートしていく。高橋和巳は覚悟の所信表明をする。すなわち、それは大学自治なるものへの懐疑と特権的な教授会のあり方、また学問の自由について厳しく批判するということだった。それを黙認することは自己の思想の死活問題である。

闘いは自己の分裂の克服から始まるとした、高橋和巳自らが書いた小説の中に登場する主人公のように臓腑をえぐられるまま、大学の知の腐敗原理に敵対していくのである。生来の誠実ゆえに徹底的に自己指弾し、内的根拠を問い詰め、つまるところ「私を支えるものは文学であり、その同じ文学が自己を告発」していくのである。かくて、“全共闘のアイドル作家”は、即刻、教授会からボイコットされることになる。

若者は絶え間ない乱闘で血を流し、路上では火炎瓶が炸裂した。右脇腹が痛んだ。医者に見せると胆嚢ということだった。疲れ果てて下宿で眠りこける日が続く。
 その闘争の渦中、心配した梅原猛、小松左京は高橋和巳に会って言う。
「これでは心身ともにやられてしまうぞ」

だが、当の梅原猛助教授も、日共・民青の大学闘争の方針の帰結を出発に立命館民主主義の神話を巡る紛争に研究者としての限界を感じ、思案の末に辞表を提出する。一九六九年二月、まさに「叡山を下りる心境」だった。同じく奈良本辰也、林屋辰三郎、北山茂、高野澄=日本史学、守屋光雄=心理学、平中苓二=東洋史、佐々木高明=地理などの教官の大量辞任が続き、立命館の講座解体の学科は多数にのぼるという有様だった。

むろん、高橋和巳は二人の説得を聞くわけがなかった。お祭り好きの若者を前に蒼白の風貌を晒し続ける様はやりきれないが、それも泪羅に身を投げる悲壮な屈原にオーバーラップしてくる。

生涯にわたる阿修羅となれ。孤立の憂愁を甘受せよ。叫びながら徹底した心優しい壊滅へ自己を駆り立ててゆく。無援の闘いだった。義による闘争は敗北を余儀なくされる。深夜、酒をあおる。一気に暗黒の下降を辿ってゆくようで、疲れ切った神経はズタズタに引き裂かれ、夜明けの時刻定かでない明るみのもとでふと目覚め、そして不意に嗚咽したのだった。

その時、再び高橋和巳は立命館を、わけても理解ある白川静を心から慕うことになる。あの学園紛争に騒然としていた時でも、教授の研究室はいつも深夜まで明かりが煌々と照らされて、十年一日のごとき地道な研究が続けられていた。白川静は、そこにくる学生は誰でも静かに匿っていたといわれている。

――どうして、あのS教授のようにやってゆけないのか。世間がどう騒ごうとどうして一心に研究に打ち込むことができないのか。この哀れに右往左往する文弱の徒よ・・・・。
「大分、勝手なことしよったけど、だけどまあねぇ。いい才能やったからなあ」
 と白川静は茫々の三十余年後、対談集「呪の思想」(平凡社)で、当時、周囲に次々と論争を巻き起こして「よく吼えた」梅原猛に、才溢れた白皙の講師をしのびながらふと言う。あの燃える上がる日々、矍鑠たる双璧の二人の呪師に熱いドラマが甦る。

そのやみがたい悲哀の中で、自己を告発し続け、解体し、破滅した高橋和巳の境涯であった。「暗黒の出発」も叶わず、その夢と志の果てに見たものは、いったい何であったのだろう。


『季刊月光』1号(2002年11月)


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