悲哀と解体のパトロジー

――高橋和巳生誕八〇年・没後四〇年に

『図書新聞』・短期連載(2011年8月〜10月)


【第1回】

  巡りくる初夏、新緑のかがやきが眩しかった。

二〇一一年五月、青あらしに吹かれながら、私は何することもなくただ暗澹としていた。武州小城下には花々が咲き乱れた。朝夕の散歩にゆく川沿いの雑木林には時鳥ならぬ鶯が啼きつづけていた。

3・11東日本大震災・津波・福島原発事故とかつてない歴史的大惨事のなかで、それでも四季は巡り、薫風がこのうえなくさわやかだった。人類の奢りと強欲が地球の生命までをも奪いかねない状況にあって、なお人間の生きる力の逞しさを信じたいと縋るように念じる日々だった。

年々、高橋和巳像が変容していく。

花舞う黄泉比良坂ーー呵呵大笑し、
 「おい。花札にはよく負けたな。さあ、またやってみるか」

と湯上りの浴衣の袂をたくしあげながらいなせにいう。

薄明の彼方に幻視するわが高橋和巳は、陰々滅々の風姿ではなくいつも颯爽として満面の笑みを浮かべている。きらきらとした夢に羞しくあふれている。

「ええか、またフケるんや。フケてやる。マイナスの札をあつめると今度はプラスになる。絶望は希望に変身するんだ」

世にいうバカ花に興じる大阪のヤンチャクレの面目躍如。ただならぬ花明かりの下の夢幻万華の世界。時の流れに、さまざまな思いが浮かんでは消えていく。

高橋和巳生誕八〇年、没後四〇年。――思えば三十九歳九カ月という何と短い生涯だったか。夢研ぎて怒濤にゆらぐ風立つ痕の無血の言葉よ。それにしても、華々しく文壇にデビューし戦後文学の流れを真正面に引き受け、六〇年代から七〇年への架橋のはてに潰えた高橋和巳とはいったい何だったのだろう。

過ぎ去った日々、夢幻と混沌の凶兆の幻野を<褐色の憤怒>そのままに駆け抜けて行った。郷愁に閉ざされた日々、鮮烈な志、傷つき痛む時の無情のきざみよ。極限の夢に憑かれた漆黒の闇の中で、その夢と志が重たくゆらぎつづける。六〇年安保世代のしんがりが古希を過ぎ、七〇年全共闘・団塊の世代も還暦という大きなひと節を迎え、老いて悠揚ながら未だ血気にはやる一面をかかえて嘯く。

無慚に流した血の中にのたうちまわり、刹那に生くるべくわれはあらぬとさけんでいる。そして吹きくる烈風に身をさらし、さみなしに義に立ちしかばとうなだれている。かえりみるに、この世には長い時間とともに惨めな呻吟を通してしか到達できぬ真実もあろう。

絶えぬるをはつなつの湖に向かへば夜明けは停止する。地獄のなかで歓喜せよというあの根源的な問い、絶望的な問いに対して、私の内ではまだ何も解明されていない。迷宮の年々を通りしじまのなかに落ちれば、無明のはてに黄昏の橋がきしむばかりだ。いや、恐らく何も明らかにされないまま、愚かな夢と錯誤のうちにむなしく囚われた戦慄の歌とともにすべてははかなく消え去る。

こうしたなかで、現実的には高橋文学は一顧だにせず、昭和文学史の一点の小さな明りとしか評価されなくなっている。さもありなん、その「現実に対する認識方法」「内省の仕方」「一切の価値判断の根底にある価値座標の提示」といった長編小説が内包していた独自の機能も、変転する時代のなかでは古色蒼然となってしまったということであろう。それが当面の問題や批評対象とは別にしても、ましてや効率的な共感システムを設定するデジタル情報社会とやらは、すでに文学至上主義的価値感を失効して久しい。加うるに小賢しくいえば、いわゆる冷戦や社会主義が終結とともに「近代」の終焉が語られ、「文学」は先端的な意味を持たなくなり、「近代文学」は文字通り葬られたという妄言もむべなるかなであろう。

それにつけても思うに「肉体のはかなさと文学の強靭、また文学のはかなさと肉体の剛毅」のコントラストの十字架を負いながら美と武のエロスに葛藤する三島由紀夫は、また高橋和巳とは対局の人であり、いうならば心通わせる同士でもあった。昨年(二〇一〇年)の三島由紀夫没後四〇周年では、多くの関連出版物や催し物が開催されるなどその人気や関心の高さははかりしれないものがあった。そうした三島由紀夫と比べるのでないが、高橋和巳は海の引き潮のように遠くに忘れさられてしまっている。同時代を伴走しつつ狂喜した高橋文学ファンも、気難しい老年期にはいるとともに俯き加減になり、視野狭窄のまま茫漠としているというのが偽らざる現状だ。

あるいは、サブカルチャー的な薄っぺらな文化風土に文学不在のメロディーがのどかに流れ、<日本的ラディカリズム>など口ずさむだけで冷ややかな仕打ちに甘んじなければならぬ逆説的至福の現状にあって、もはや「思想の内的根拠」などどうでもいいことなのだろう。
 だがそれでも孤燈をかかげ、昨日も詩を読み、今日も詩を読み、明日も詩を読む。書棚の一画に埋もれた重厚な全集二〇巻を手元に引き寄せてしなやかに紐解くならば、そこには研究者および作家としての業績が引き裂かれた殉教の調べをもって肉迫してくる。小説、評論、エッセー、研究という高橋文学のそれら相補的な世界がくりひろがる。

“変速的なビルドゥグス・ロマン”たる『捨子物語』は「逆らえぬ巨大な力」に翻弄される不幸な少年の運命的な物語だった。敗戦の瓦礫の町に立ちつくし恐怖にふるえて自閉症におちいる少年は、いってみればそれが高橋和巳の原風景だった。

そして、「おれたちは終わった」とそれぞれの苦悩と放浪を描く『憂鬱なる党派』はマルクス主義とその革命理論に賭ける青春群像である。どや街に身をもちくずした男の共苦の観念や、またそこに色濃くただよう「虚妄の理想、虚妄の絶望」のもとに、亡者の会議の一人がのたまう。すなわち「みずからの孤立と無気力を噛みしめ、日々の無目的な多忙さの中に辛うじて生の実感を自虐的に味わうにしがない朋友たちよ」と。

さらに『悲の器』は醜悪と汚辱にみちた現実、その虚偽と平和を拒否しても地獄への道を志向する現象学的刑法理論の確立者を描き注目の全体小説としてまとめあげている。そこから飛躍して、さらに壮大な昭和史という歴史を背景に土着のエートスを根幹にした『邪宗門』は、巨大宗教集団の鎮魂譜とともに新たな本格小説の領域をなしたのだった。また、『散華』における中津清人の個の自覚的消滅による民族の再生のさけび、”幻の国の建設”に青春のすべてを賭けた『堕落』の青木周三の国家論を前にした深淵が、哀切と激情をひびかせながら読む者の胸を感動的にえぐる。

その文章は漢文脈の系統を引くもので、一部生理的悪寒さえするリズムの感に当惑するのだが、何か抗しがたい魅力を備えている。事物と想像力の深く本質的なかかわりのなかで読みすすめば、しだいに灼きつくすような情念の回路に引き込まれていくのである。そして下降、荒廃、滅亡のコンテストのなかで、わけても高橋文学は現実世界の感触とともにすべての主題がいかに生きるかという苛烈な一点にしぼられていることがよくわかる。

 そこには限りない夢と志が熱く問いかけられ、倫理的にきびしくかたられているのである。六〇年代高度成長時代の選ばれたはざまのなかで、その読者といえばまぎれもなく「真剣に自分の青春の生き方と重ねて読んでいた青年学生」が大半だった。左翼理論なんて何かと鼻にかける、一部泥臭い実存主義かぶれの高踏ロマン派を自称するものでさえ、その「新時代の人間存在の根源」に魅かれて危機とスキャンダリックな思索の手がかりにしていったのだ。

当初、戦後文学の旗手として一躍脚光を浴びた高橋和巳はこのうえない凛々しさにあふれていた。激動の七〇年代をひかえ、その作家生活も好調に新作をつぎつぎに発表して居を大阪・京都から鎌倉に構える。だが、それがながくつづかない。恩師の三顧の礼で迎えられた京都大学助教授赴任とともに、ここで運命の歯車が大きく変わることになる。京都の仮住まいから大学にかよい、広い研究室に陣取り講義も忠実にこなしていった。その文学主張も分析も説得力も鮮烈だった。若くして作品集の編集にとりかかり、同人雑誌『対話』についても、われわれ新たな若手をまきこんで読書会や研究会など精力的に参加していた。だが、やがて全国的にひろがる全共闘運動に加担していくことにより、それがみずからの誠実な文学的行為であったにせよ、しだいに体力的限界に達していったのだ。

 だが一方の若者たちは闘いの挑発的な遊戯性をこそもて、それほど真剣にかまうものでもなかったのだろう。路上に火炎瓶が炸裂し、当の倫理的潔癖をつらぬく高橋和巳はしだいに大学や教授会から離脱せざるをえないという状況下において、なお“孤立の憂愁を甘受”していく。一連の学園紛争を意識改革運動としての「義」の問題として痛切にとらえたのだろうが、これも今となってみれば甚だ滑稽なことというしかあるまい。いずれにしても、美しき凌辱、悲哀と号泣に深酒がすすむ。眠りの安らぎもなくむしばまれていった肉体の悲鳴。たびたびおこる腹痛とともに、「解体」を余儀なくされる深夜の慟哭がいじらしくもある。

そうした運動の渦中において、祇園のお座敷で盃を重ねて荒れ狂う夜を一緒に過ごし、また先斗町の居酒屋で高倉健の「唐獅子牡丹」を真似て「姓は高橋、名は和巳、その名も網走番外地」と御詠歌のようにうたうのを聞かされ、教授会をボイコットされたと沈鬱にいう鎌倉の夕べのひとときなど、高橋和巳のいわくいいがたいそれら誠実と苦悩を、今にして宿命の主調低音として痛々しく思いおこす。思いおこしては、いまなお私は不覚の涙をこぼしている。所詮おためごかしの「政治」や「闘争」などどうでもよかったのだ。その内面的な破壊の衝動や自己処罰の地獄篇からの遥かな再生の光のなかで文学はさらにその先へすすまなければならない。

それにしても、悲哀の断崖で息を吐く。その墓碑銘に思いをすする。いったい文学とはどのような営為によってなされるべきものなのか。荒涼たる心を埋めるべくもない彷徨。いったい何を引き出し何を裂き切っていけばいいというのか。高速インターネットの混迷する現状において、「言葉」は淡白に薄らぎ、空虚にゆらぎつづける。電子書籍やケータイ小説に沸く出版ジャーナリズムの動向はともあれ、滑稽と悲惨にそくそくと成熟した風景に、「文学」がますます遠ざかっていく。立ちすくむこともなければ、静かに立ち止まることもない。その場限りの安直な風潮にはただ言葉の断片がむなしく連なってゆくだけなのである。

『憂鬱なる党派』において、かつて原爆を投下された死都に生き残り、恐怖とともにあてなくさまよいつづけた主人公・西村恒一は訪ねてきた友にいう。

「君がこだわる核分裂も、人類が、神の審判、カイロスに先んじてみずからの手に全き破滅を招きうる武器をにぎったというだけの意味しか持たないのじゃない。なぜか・・」

人類の叡智を絞った科学文明の先端をいく原子エネルギーもその安全神話が崩壊し、現今の日本列島は終戦直後と同じような未曾有の状況を余儀なくされている。未だ終息のみえない福島原発事故を前に、青あらしとともに放射能に汚染されたこの山河に生きぬく覚悟をしておこうとひそかにおもう。君が常に夢想することを好んだあの海の白波――遠く地平線のつづく限り、一斉に波頭をもたげ、砕けては進み、沈んでは浮び、倒れては起きあがりつつ、ひたすら押し寄せる波とは何であるか・・。悲哀と解体のパトロジーこそ、いってみれば高橋和巳の抒情と闘争の序章のかがやかしい聖痕であったことを知るがいい。

「文学だけが問うこのできる総体としての人間性」の問題であるべく“暗黒への出発“が最後の告認であった。はたして文学とは何か。文学とは人生に必要なものか。いや、人生にとって文学とは必要なものだろうか。没後四〇年初夏、根源的な闇をかかえた高橋和巳の内なる荒野が改めてひろがってくる。


『図書新聞』2011年08月06日号
 
【第2回】

(承前)
その文章は漢文脈の系統を引くもので、一部生理的悪寒さえするリズムの感に当惑するのだが、何か抗しがたい魅力を備えている。事物と想像力の深く本質的なかかわりのなかで読みすすめば、しだいに灼きつくすような情念の回路に引き込まれていくのである。そして下降、荒廃、滅亡のコンテクストのなかで、わけても高橋文学は現実世界の感触とともにすべての主題がいかに生きるかという苛烈な一点にしぼられていることがよくわかる。

 そこには限りない夢と志が熱く問いかけられ、倫理的にきびしくかたられているのである。六〇〜七〇年代高度経済成長時代の選ばれたはざまのなかで、その読者といえばまぎれもなく「真剣に自分の青春の生き方と重ねて読んでいた青年学生」が大半だった。運命的な共犯のパトスが、その時代の根源構造としてあったというべきかもしれない。左翼理論なんて何かと鼻にかける、一部泥臭い実存主義かぶれの高踏ロマン派を自称するものでさえ、その「新時代の人間存在の根源」に魅かれて危機とスキャンダラスな思索の手がかりにしていったのだ。

 当初、戦後文学の旗手として一躍脚光を浴びた高橋和巳はこのうえない凛々しさにあふれていた。激動の七〇年代をひかえ、その作家生活も好調に新作をつぎつぎに発表して居を大阪・京都から鎌倉に構える。だが、恩師の三顧の礼で迎えられた京都大学助教授赴任とともに、ここで文学創造としての行為の歯車が大きく変わることになる。京都の仮住まいから大学にかよい、広い研究室に陣取り講義も忠実にこなしていった。その文学主張も分析も説得力も鮮烈だった。

 若くして作品集の編集にとりかかり、同人雑誌『対話』についても、われわれ新たな若手をまきこんで読書会や研究会など精力的に参加していた。だが、やがて全国的にひろがる全共闘運動に加担していくことにより、それがみずからの誠実な文学的行為であったにせよ、しだいに体力的限界に達していったのだ。だが一方の若者たちは闘いの挑発的な遊戯性をこそもて、それほど真剣にかまうものでもなかったのだろう。

 路上に火炎瓶が炸裂し、当の倫理的潔癖をつらぬく高橋和巳はしだいに大学や教授会から離脱せざるをえないという状況下において、なお"孤立の憂愁を甘受"していく。一連の学園紛争を意識改革運動としての「義」の問題として痛切にとらえたのだろうが、これも今となってみれば甚だ滑稽なことというしかあるまい。いずれにしても、美しき凌辱、悲哀と号泣に深酒がすすむ。眠りの安らぎもなくむしばまれていった肉体の悲鳴。たびたびおこる腹痛とともに、「解体」を余儀なくされる深夜の慟哭がいじらしくもある。

 そうした運動の渦中において、祇園のお座敷で盃を重ねて荒れ狂う夜を一緒に過ごし、また先斗町の居酒屋で高倉健の「唐獅子牡丹」を真似て「姓は高橋、名は和巳、その名も網走番外地」と御詠歌のようにうたうのをきかされ、教授会をボイコットされたと沈鬱にいう鎌倉の夕べのひとときなど、高橋和巳のかかえたいわくいいがたい苦悩を、今にして宿命の主調低音として痛々しく思いおこす。思いおこしては、いまなお私は不覚の涙をこぼしている。所詮おためごかしの「政治」や「闘争」などどうでもよかったのだ。その内面的な破壊の衝動や自己処罰の地獄篇からの遥かな再生の光のなかでこそ、文学はさらにその先へすすまなければならないのでなかったか。

 それにしても、悲哀の断崖で息を吐く。その墓碑銘に思いをすする。いったい文学とはどのような営為によってなされるべきものなのか。荒涼たる心を埋めるべくもない彷徨。いったい何を引き出し何を裂き切っていけばいいというのか。震災後の社会がこれまでの体制をかえりみて、あらたな局面を切り拓こうとしているとはいえ、混迷する現状において、「言葉」は淡白に薄らぎ、空虚にとまどいつづける。

 電子書籍やケータイ小説に沸く出版ジャーナリズムの動向はともあれ、そくそくとしたのっぺらぼうな風景に、「文学」がますます遠ざかっていく。明るく空々しい光の乱舞。「風よ、私は美しく病んでいる」とは誰もいわない。立ちすくむこともなければ、静かに立ち止まることもない。その場限りの安直な言葉の断片がむなしく連なってゆく。言語と行為が胸の奥でなぐりあっていた時代。一回性の自分に真摯に向き合っていた時代というのは、いったいどこへいってしまったのだろう。

 『憂鬱なる党派』において、かつて原爆を投下された死都に生き残り、恐怖とともにあてなくさまよいつづけた主人公・西村恒一は訪ねてきた友にいう。「君がこだわる核分裂も、人類が、神の審判、カイロスに先んじてみずからの手に全き破滅を招きうる武器をにぎったというだけの意味しか持たないのじゃない。なぜか……」。

 人類の叡智を絞った科学文明の先端をいく原子エネルギーもその安全神話が崩壊し、現今の日本列島は終戦直後と同じような未曾有の状況を余儀なくされている。未だ終息のみえない福島原発事故を前に、青あらしとともに放射能に汚染されたこの山河に生きぬく覚悟をしておこうとひそかにおもう。共有すべき共同体が、風の歌ごえの中に混沌としている。

 君が常に夢想することを好んだあの海の白波――遠く地平線のつづく限り、一斉に波頭をもたげ、砕けては進み、沈んでは浮かび、倒れては起きあがりつつ、ひたすら押し寄せる波とは何であるか……。悲哀と解体のパトロジーこそ、いってみれば高橋和巳の抒情と闘争の序章のかがやかしい聖痕であったことを知るがいい。

 「文学だけが問うことのできる総体としての人間性」の問題であるべく"暗黒への出発"が最後の告認であった。はたして文学とは何か。文学とは人生に必要なものか。いや、人生にとって文学とは必要なものだろうか。没後四〇年、根源的な闇をかかえた高橋和巳の内なる荒野が改めてひろがってくる。


2011年8月13日号

 
 【第3回】

 まぎれもない疾風怒濤の荒野を〈褐色の憤怒〉もて修羅のように駆け抜けて行ったのは、いったい何だったのか。

 文藝賞受賞の『悲の器』で華々しくデビューした期待の新人作家は三十二歳、意気軒昂であった。
 念願の作家生活に入り、鎌倉・二階堂に居を構える。首塚に隣接した平屋の侘び住まいだった。文壇の一部の批判冷笑を浴びながらも、この戦後文学の旗手の評価はいやがうえにも高まろうとしていたのだ。

 だが、ここで気鋭の作家の運命が大きく変わる。恩師吉川幸次郎の退官にともなう後任人事で、京都大学文学部助教授に招請され一九六七年六月赴任。これは学者として完成させるべく恩師の期待であり、事態は京都大学中国文学の将来が托されたということであった。高橋和巳は「京都学派の鬼子」として、そこにはたえてみられぬ泥臭さと非合理主義的霊魂があったといわれている。だが、そんな重大な責任を一人の小説家が負わなければならないとすれば実に大変なことで、当人においてはどれほど荷が重いことだったろう。

 初期の夫の原稿のすべてを清書し、ある時期は通訳などのアルバイトで家計を助け、フランス文学の数々を翻案し、新たに自分も作家としてのスタートをきっている夫人の高橋たか子は強く反対した。何と理不尽な! いまさら、なぜ京都に戻らなければならないのか。

 かくて、たか子夫人とは別居の不自由な京都の下宿生活を余儀なくされ、京都大学に赴任する同年十月より「李商隠論」を講義。当初の研究室の高橋和巳は授業を受け持つかたわら、同人雑誌『対話』復刊にこぎつけ、定例の読書研究会の開催などに精魂をかたむけている。また若い同志を集めて合宿、猛勉強をするべく構想を持っていた。いわゆる“幻の高橋塾”構想である。

 執筆、対談、編集打ち合わせと新進作家のスケジュールは目白押しだった。仮寓の生活は食事やその他のことで何かと不便で、銀閣寺近くの旅館に缶詰になることもしばしばであった。そうこうする中で東大医学部闘争を端初に、学園紛争が日増しに過激な様相を呈し各大学にも連鎖的に波及、全国的にエスカレートしていく。

 京大学園闘争は一九六九年一月にはじまる。まず寮闘争委員会が交渉決裂し、机や椅子でバリケードを築き乱闘。つづいて正門前で流血の惨事、三百人の機動隊が構外で待機する。同月三十一日、教養部が無期限ストに突入。二月十六日、文学部・医学部・理学部・法学部スト。市街戦さながらの乱闘となり負傷者二百五十二人余。路上には火炎瓶が炸裂した。バリケードが築かれ、黒ヘルが突っ込み学生たちは血を流していった。

 こうした中である日、突然、”バリ祭”が誕生する。京大ラディカル派主催のムーブメントはまたたくまに燎原の火のように広がり、黒のジプシーが奏でる爆発的なGO―GOリズム、水谷孝率いる”裸のラリーズ”、荒木一郎のギター、ゼロ次元などアーティスト集団によるハプニング、そして全国から集まったヒッピーたちの乱舞など、まさに目をみはる華麗な祭典だった。こうした一連の動きについて「いびつな美学への嗜好」としてとらえる高橋和巳の偏狭な見方も一興だが、それこそ未決のたたかいの日々にきらめく祝祭空間だったといえよう。

 ――やるのか。やれへんのか。もう、やるしかあらへんのや。そこには時代の熱狂とともに、たたかいの爆発的流動の無限エネルギーが放たれ、会議・集会・団交・デモと暴力戦士たちの未分のカオスは不断に連動して燃え上がっていた。
 高橋和巳にとって、直面する大学闘争は、当初「人間としてのあり方、知的な誠実のあり方が問われる非常に小さな岐路にすぎなかった」。だが、しだいに理解を寄せていくことになる。それは困難な状況に直面しつつも、何より孤立を恐れることなく基本的にトータルな人間変革を模索するべきである、という考えであった。

 つまり大学解体は、究極的には国家変革にまですすまなければならぬものであるにしろ、まず当面の立場の心の中の動きもふくめ、集団的な意識運動であるということである。

  大学闘争という大規模な意識変革運動というものを、ひじょうに大きな意味をもっていると評価するのは、奪還運動  それ自体が内部に人間変革の契機を含んでいなければならないと考えるからであり、今次の闘争にはそういう志向  が存在すると認めえたからです。それがまず前提にありまして、それにたいして自分を賭けるといいますか、そうい  うぼくの態度が出てくるわけです。         『変革の思想を問う』

 また高橋和巳にとって政治の論理と倫理的価値の相克はどうとらえられていたかということなのだが、それは今の大学の闘争の中には、非常に「倫理的な部分」があり、きびしく相手を突くと同時にある程度、自分の矛盾をさらけ出す。元来は政治に口出ししなかったいわゆるノンセクト・ラディカルの青年たちが参加している様相は、よくもわるくも「極度の厳格さ」を要求している。その感ずるがままに感ずる自己規制のもとに権威主義の欺瞞を暴露しなければならない。それは人間の倫理的価値こそがたいへん重要だとするしなやかな関係の同質化である。

 自由自在のごった煮の革命戦士たちは、まことにみごとに突き抜け、どこか頼もしく、まぎれもない自己の内面変革を通じた〈正義運動〉に一身を賭ける同志であった。しかも、これら性急な若い戦士たちに猶予はない。一刻もはやく暴力装置としての権力機構の中枢を奪還し、古いものを吐きだし、生気溌剌と進軍せよ。時代の激流がすべてをのみ込んでいこうとしていた。

 この時、高橋和巳には戦後の若者たちがたたかいとった栄光とは何かときびしく問い詰めた「政治と社会と愛の現実に破れゆく青年の群像」が二重写しになって迫っていたといえる。ゆえにこそ、自己のありようを徹底的に告発していったのだろう。ここにおいてかつて”憂鬱なる党派”の政治的マヌーバーのもとに活動した日々が、思想的殉教者のように高橋和巳を内的に衝き上げていく。

 いってみれば、これは〈悲劇の力学〉ともいうべき不可変の運命の象徴でもある。小説に書いた憤激と破滅志向の人間存在の深部が、現実の学園闘争のありようと折り重なるように迫ってくるのであるが、これも高橋文学ならではの求道的な自己処罰の謂なのだろう。

 『憂鬱なる党派』は「一九五〇年代はじめの学生運動の崩壊や、共産党の分裂や、馬鹿者どもの極左的偏向」に身をさらした群像を活写した高橋和巳の青春の原点だった。
 
 すなわち、それら憂鬱なる群像の次の台詞の一つ一つが、現実の照り返しのように全共闘運動の風景を鮮烈に抉る。すなわち「すすんで敗北することを欲した人間がこの世代にもあったことを示さねばならない」し、「各個に破滅してゆくこと、各個に破滅させることが必要だ。破滅こそ、おれたちに残された最後の理想」なのであり、「すすんで敗北することを欲し、すすんで破滅することを欲した人間」を証明すべく行動し、「糞ったれ、巧みに身をかわし、逃げ出すな」と苦言を呈すかたわら「一層愚かな泥酔と淫乱よ」と愚直に白状し、「僕は世界全体の惨めったらしい破局を望んでいたんだ」と絶叫する。もしくは「いったい、いつから心の扉を鎖したのか。いつからすべての基礎的な人間関係を崩したのだったか」、いや「おれみたいな傷だらけの大酒飲みになりたいか」と嘆き、また青春の一時期に政治的思考の洗礼を受けた人間は、「結局、原罪のようにその発想を背負わねばならない」のだし、さらに「闘争するにせよ、最後には社会に甘えかかり、最後の逃げ道を残しておけるといった年代はもう終わった」のである。

 つまるところ「敗れることを欲せずして敗れたり、何事もなすつもりもなく、挫折を謳歌したりする破廉恥漢どもを恥じ入らせるためにも、すすんで破滅することを欲した人間がこの世代にもあったことを示さねばならない」のだ、と。

 最後までたたかい、壊滅的に敗北すべく自己否定を貫徹する知性の叛乱。忍びよる下降と憂愁にうちふるえながらも、終わりなき闘争の論理が容赦なく内部を切り裂いていったのだ。
 ――つづく


2011年09月10日号


 
【第4回】

 だが、団交の席では「全存在を賭けよ」といい、「肺腑をえぐる質問を投げかけよ。肺腑をえぐる質問を投げ返すであろう」と迫る高橋和巳の気迫に学生たちがたじろぐ。そして、思わぬ高橋和巳批判が勃発する。それは東洋史闘争委員会が張り出した「清官教授を排す」の大字報であった。

  清官教授は闘争を主体的に担う部分に対しては、一定程度進歩的ポーズをとる。(略)
  我々は告発する。彼らの“清"をふりまき“清”にしがみつく思想の頽廃形式を。“官”はそもそも清"たりうるかと   いう問を発せられんことを。“官"たることに決別せられんことを。そして我々の知的誠実を求める正義の闘いに参   加せられんことを。

 とりわけ、そこに格別の思想があるわけがなかったのだろうが、真剣に受け止めうろたえ、無様に嘆く高橋和巳は哀れだった。別に“清"にしがみついているわけでない。“官"に安住し、正義のたたかいから逃げているわけでない。清濁相ふくめ全存在を賭けてやろうとしているじゃないか。この「大字報」を前に不意打ちを喰らって大きく動揺する。

 それに対してどこか全存在を賭けないお祭り好きの学生たちには日々の切迫感とともにある種のゆらぎがあり、どこかで興醒めした思いもあったのだろう。バリケード封鎖の大学の異様な日常と破壊を描き、その思想や感性を内在化した一群の全共闘小説の中で、京大闘争を背景にした高城修三の『闇を抱いて戦士たちよ』の主人公ルクスはふと次のように呟く。

 「おれは今年の一月まで、自分で言うのも変だけど、平凡な、どこにでもいるK大生だったんだ。(略)何か、朝起きたら世界が一変しているような、そんな激しい瞬間が欲しくなったんだ。だが、何をしていいか分らなかった。ところが、始まったんだ。そうだろう? 学生部封鎖と聞いたとき、おれの中の何かが揺れ始めた。輝かしい眩暈のようなものがあったよ。何かがおれを鷲掴みにしたんだ。何でもいい。無茶苦茶にやりたい。そんな激しい気持ちがすべてだった」と。
 口先だけの大言壮語主義を許さぬ筋金入りの革命的工作者とちがい、反人民的弾圧を粉砕する市街戦さながらの流血の惨事をひきおこしているとはいえ、当時の学生大衆の叛乱の内情の一面とは、多かれ少なかれこうした無茶苦茶に何かをやりたい〈激しい気持ち〉の爆発であったともいえなくはない。

 周知のように全共闘運動に参加した学生大衆というのは、世代的に一九四三年から一九五三年までの十年間に生まれた者をさしている。すなわち、戦後高度経済成長のもとに育った若者たちは入学した大学の欺瞞的な知的風土に根本的なノンを突きつけ、自らの怒りの論理を展開したのだった。大学解体・造反有理のスローガンは、戦後民主主義につちかわれてきたすべての特権的な価値を否定する時代の証しであり、同時に情念に彩られた挑発的な暴力と叛乱の宴であったともいえる。

 いずれにしても、京大全共闘運動は大衆武闘の巨大な波浪で迫ってくるが、それに対応する高橋和巳には何より「知的誠実を求める正義の闘い」であった。それは大学自治なるものへの懐疑と特権的な教授会のあり方、また学問の自由について厳しく批判するということであり、それを黙認することは自己の「思想の死活問題」である。

 つまり、時代の現実は内部の問題であり、高橋和巳の感性は時代の現実を徹底批判することになる。すべての思想は極限までおしすすめれば、必ずその思想を実践する人間に破滅をもたらす。だが、革命を説きながら破滅しない人間はハッタリだ、と。

  こういってしまえば単純なことだが、それこそがまた私にとっては、一番痛い点であり、苦しいことでもあった。学園   闘争の中で、私をともかく支えてきたもの、その同じものが、目下の自己の身分や地位のありようが虚偽であること  を自分に告げる。私を支えるものは文学であり、その同じ文学が自己を告発する。
                                          (『わが解体』)

 かくて、叛逆とともに悲惨も併せ持つことになる学生たちの発した根源的な問いに真正面から高橋和巳は向き合うことになる。その誠実さはそのまま宿命的な文学への問いかけでもある。それは同時に言語世界に生きる高橋和巳を自己表出の深淵に落とし込むことになる。言葉の矛盾でなく自己処罰の苛烈な文学空間が、のっぴきならぬ現実を乗り越え固有の心情倫理の世界をみちびき出さねばならぬということである。

 全共闘運動が暴力戦士や大衆武闘の多くの課題を持っているとはいえ、人間の喜怒哀楽をふくめた〈意識改革運動〉であり、〈正義〉のための情動であるという前提に、自己を断罪し処罰しつづける高橋和巳には、とりもなおさずそれは聖なる理想としての文学に殉ずることだった。いくら政治主義的志向であろうと、すべて「文学精神」が基本的認識であり、そこがすべての立脚点であるということである。ここに高橋和巳における正義―倫理―誠実という一連の行動規範がともすれば誤解を生むのであろうが、それもすべては極限の文学に収斂するものであり、作家の内部の強烈な転位そのものであるといっていい。相対すべき不毛のイデオロギーを前にした狂気じみたパセティックな情熱がまぎれもない文学の荒野だったのだ。高橋和巳の処罰の生来の潜在的希求はともあれ、その反合理的な呪われたはぐらかしのきかぬ内部意識こそ、いってみれば根源的な思想と文学の課題だったといわねばならないだろう。

 またそれは運命共同体ともいうべき心情の共生感でもあったにちがいない。そして、その反抗の情熱と苦悩の深淵は、政治における心情主義とでもいうものだが、心情の急進性を説くのではなく、その本質にある人間の実存としての日々の生活の営みこそが文学の問題なのである。新しい時代には新しい文学理念がもたらされるのだろうが、高橋和巳にとっては大学内部の知的崩壊にともない言語表現全体に対する不信が高まると同時に、ここでは言語および表現者に対する信頼感をどこかで確かめようとすることであった。

 それがまた、同時に「じわじわと文学のほうにも押し寄せてきている」ことの危機感であったということだろう。つまり、特権的“選良”の特定の言論や思想など知の構造が攪乱され、崩壊されようとしていたからである。
 ――つづく


2011年9月24日号


 【第5回】

 いずれにしても、高橋和巳は不可能への渇望を生きる人間として、すべてを誠実に対処していった。自分の全共闘の精神のあり方としては、「一つの具体的な問題に当面する際に、そこでどれだけ人間的に誠実であろうとしたかということのほうが、全共闘としては重要であったというふうに感じられ」る。そして、闘争資金を求める者には気安くカンパをし、またその他の大学サイドの人間関係については互いに相容れぬものになっても最後の節度は堅持していく。大酒飲みだったが、人前では口数少なく静かに盃を酌んだ。

 高橋和巳にとっては学園闘争を前にした自己の曖昧な態度は「思想的自殺」であり大学の混乱した事態は自分自身の「思想の死活的問題」であった。同時に「大学解体」や「自己否定からの出発」がいってみれば一つの政治的スローガンにすぎないにせよ、それこそが『憂鬱なる党派』の作者としての誠実な内部の鏡そのものであった。

 だが、こうした高橋和巳について疑問をなげかける吉本隆明は、「あの種の倫理観がどこからくるのかわからない」(文藝総合誌『海』一九七一年七月号)という。だが、「全共闘運動への参加は、彼の文学的営為の倫理的な帰結」だと今更ほざいてみたところでいかようでもあるまいし、また村上一郎のように「人間はそんな簡単に大学問題なんぞで解体すべきものでなし。また解体するいわれもない。大学の問題となると、もう何が何でも早く去就をつけるという人にわたしは与しない」(前掲同書)ともいうが、これも後の祭りというものだろう。

 たたかいは自己の分裂の克服からはじまり、「臓腑をえぐられるまま」、大学の知の腐敗原理を黙認するわけにはゆかない。内なる欺瞞と俗物をたたきだせ。「スターリンを疑い、レーニンを疑うことからやがてはマルクスをも疑うに到るだろう。仏法のためには釈迦をも斬る精神のほかに、しかし期待しうる何があるだろう。」(『わが解体』)

 学問とは何か、学園自治とは何か、戦後民主主義とは何か、大学生あるいは研究者の自己啓発とは何か。大学側の無対応にいらだちつつも、孤立無援のうちに病躯を押して能うかぎりに負おうとした〈内面変革〉が、政治思想のレベルで多くの批判と対立面を持っているにせよ、悲劇的な文学への祈願としての両義性をもって結実するものでなければならないと私は今にして思う。そうでも思わなければ、文壇的規制をかけられ、封印された高橋文学が永遠に浮かばれはしまい。

 ともあれ、いずれにしてもこの“全共闘のアイドル作家”の内的な思想的問題として、現実に共振するものは周りを見渡してみてもまったくどこにもいない。冷静な客観性こそが、学者としての世間的叡智であったのか。姑息で無批判な沈黙こそ良識だったのか。大衆団交や無期限ストで混乱する構内で、同僚の二、三教授が大学の方針に異を唱えてハンストをこころみたくらいであった。ただ高橋和巳の体力的限界を心配し駆けつけたのは梅原猛、小松左京の二人だった。一夜、三人が会うことになり、「もう、ここらでいいんじゃないか。これでは心身ともにやられてしまうぞ。静かに休んでみてはどうかな」
 二人は何より高橋和巳の身体を気遣っていった。もう学園闘争問題から手を引くべき時だろう。自分の生活をたてなおしてみたらどうか。だが、信頼すべき人の言葉にも頑なに、
 「諸君は何も理解していないじゃないか」
 高橋和巳は二人を前に激昂して慌ただしく席を立った。
 全共闘に加担することがその文学の本質であろうがなかろうが、知ったことではない。それこそ、自ら選んだまぎれもない思想的殉教としての栄光の文学の原野だったと思うがいい。
 当の梅原猛も立命館大学助教授として、その平和民主主義の神話を巡る紛争に研究者としての限界を感じ、思案の末に辞表を提出している。立命館の講座解体の学科は多数にのぼり、著名な看板教授が次々に学園を去っていた。

 また、作品集の刊行が予定通りすすまず、それを急がせる編集者の高圧的な言説にじっと耐えしのぶ高橋和巳をそばで見ているのは哀れだった。編集者風情にやりこめられ、いいわけする流行作家の言葉もそぞろなのがよくわかった。

 生活事情もしだいに荒れ、研究室でも落ち着かなかったのだろう。祇園のお茶屋に上がっては酒をぐいぐい飲み、
 「おい。俺は真剣にやってるんやで……」
 と凄みをみせる高橋和巳は苦しみ喘いでいるのがよくわかった。

 それでも、小説『黄昏の橋』は断続的に書き継がれる。文学が己を弾劾し、執筆するということは「五寸釘」を身体に打ちつける思いであっただろう。だが、それこそが文学を愛し、文学に生きる証であった。文学者は政治イデオロギー上の細部の対立いかんにかかわらず踏みこたえうる、いわば耐える思想というものを身につけているのだ。それがまぎれもない高橋和巳の沸騰する情念のコードであった。しかも現状は佐賀や長崎、熊本、北海道など各大学の講演をはじめ、講演後の断り切れない夥しい編集者らとの打合せが目白押しという有様だった。

 生涯にわたる阿修羅となれ。孤立の憂愁を甘受せよ。叫びながら破滅へと自己を駆り立てていく。無援のたたかいだった。運命的な文化共同体の無惨な解体への道である。義による闘争は敗北を余儀なくされる。

 高橋和巳の肉体的限界が、その運命をまたも無情な奈落へ突き落としていった。深夜、酒をあおる。飯も食わずぶっ倒れ、起き上がると下調べの資料を広げ、ふらふらしながら原稿に向かう。右脇腹がキリキリ痛んだ。一気に暗黒の下降をたどり、疲れ切った神経はズタズタに引き裂かれていく。疲労困憊が錘のように重たく身体をしばりつける。だが、これも生来の疲れだろう。少し眠ればいい。一昼夜、眠りこけることがあった。目覚めては、また酒を浴びるほど飲んだ。病魔は深まっていたが、近くの医院で診察を受けると胆嚢でたいしたこともないといわれる。いや、それにしてもここはどこだ……。おれはどこをさまよっているのだ……。どうしてこんなことになってしまったのだ……。褐色の煮えたぎるような激怒を覚えて道をふみはずしたのだったか。夜明け、ふと嗚咽の涙を流していた。
――つづく


2011年10月01日号


 
 【第6回】

  解体とは、これまでもっていた幻想――大学の自治とか学問の自由とか――だけに限られず、私たちが依拠していた、いろいろな基本的なものと思われていた価値も幻想かもしれない、ということを疑  い続ける、そしてその疑いを経過することによって、自分自身の立つ瀬がなくなるかもしれないけれど  も、それをあえてやる、という意味での解体です。               (『暗黒への出発』)

 鋭敏に感取していた虚構のヴィジョンの純化として、ここに〈解体〉は現実的な規制原理に重なる。おそらく〈死〉は予感していたのだろうが、末期の病名を知らされることなく結腸ガンの手術を受けた高橋和巳は、病院に見舞いにおとずれた友人にベッドでその手術痕の腹部を見せながら、
 「この傷痕を見てやってほしい。これで一つの私の業は終ったんですからね」
 と静かにいったという。

 自己否定の倫理を相対化して、戦略的政治としての現実闘争を一つの〈業〉としたところに、いってみれば文学の無窮の再生復活の願いがこめられていたというべきだろう。人間は愚行をおこない、ふたたび人間に帰ればいい。何より無事に帰還し、再進撃することが作家生命の本質といわねばならない。とするなら、苦渋にみちた闘争の現実世界に解体自滅を余儀なくされたとはいえ、そこからこそ新たな豊饒の原野を開示してゆけばいいのではないか。

 聖なる理想とともに、ひと筋縄ではゆかぬ文学とは時代に異をとなえながら赫々と輝きつづけてゆくのであろうから。「目標も定かならぬ暗黒への船出をするようなものであるが、しかし現在それ以外の出発はありえない」(『暗黒への出発』)というように、私もまたその内面に秘められたきらめく渇望を断固として信じていたいのだから。

 高橋和巳の運命的な京都行きについて、
「断るわけにはいかないだろう。やってみてダメなら大いに放蕩して、アカデミズムの顰蹙を買って追放されるがよろしかろう」という埴谷雄高ならではの韜晦ではあれ、その軽々しい言説を私は決して信じない。また同じく、真継伸彦の一連の高橋和巳に関する全共闘論についても同様であるのだが、ただここで指摘されるその自己否定の衝動、敗戦による惨憺たる体験による自己を呪わなければならぬ救いがたい課題に分け入っているということには深く傾聴するものがある
 
 底なしの暗鬱で陰惨なうごかしがたい心象風景が、神経過敏な高橋和巳の幼少体験だった。それは戦争による本土爆撃で受けた地獄的な風景による恐怖であり、それがゆえの高橋文学の動かしがたい通底奏音となり、常にのしかかってくる重圧でもあったことはすでに論を待たない。

 それにしても、まったく断腸の思いがしてならない。めぐりくる季節の流れに潰え、やみがたい悲哀の中で自己を告発しつづけ、〈解体〉していった高橋和巳の境涯とはいったい何であったのだろう。

 文壇デビューとともに精力的に『散華』、『堕落――内なる荒野』が発表され、長編『邪宗門』の連載がはじまり、八年を要してまとめた一四〇〇枚の『憂鬱なる党派』を刊行。息つくまもなく『日本の悪霊』の断続的連載、『捨子物語』の上梓。エッセイ集『孤立無援の思想』、『新しき長城』などが次々にだされ、作品集十巻の刊行がすすめられ、さらに『黄昏の橋』(未刊)の連載にとりかかっていった。だが考えてみれば、京都大学文学部助教授赴任(一九六七年六月)から三年後の一九六九年一月から京大学園闘争に激動とともに苦闘したとはいえ、僅か十カ月で病に倒れて入院手術。四年間の京都大学文学部助教授を勤めて辞任(一九七〇年三月)、死の床で『三度目の敗北』(一九七〇年九月)が書かれたのだが、徹底した自己破壊への極限コースは、ひるがえってその内部のリアリティがエロス的情念の当為に回帰するものであるとしても、あまりにも短い素面の真実を伝えてむなしい。

 さりながらその出自においては中流下層庶民としての大阪・釜ガ崎であり、幼く美的環境に恵まれなく知識こそ階級離脱の階梯なのだが、その恐るべき戦後的異端の風貌は泪羅に身を投げる悲愴な屈原にオーバーラップしてくる。どす黒い狂気と混沌を基層としながらも高橋和巳には気品があり、無限のやさしさがあり、どこかいいしれぬ駘蕩の風があった。六〇年安保闘争の余燼くすぶる学園の研究室を訪ねて以来、私は公私にわたる薫陶に浴してきた。酔い覚ましに深夜の通りを二人で駈けっこしたり、不意に訪ねて思わずその胸の中に泣き崩れたり、徹宵の花札に夢中になったりする中で、
 「おい、いいか。雑文は絶対に書くな。長編に挑戦しろ。芸術の国はいい。美の国はすばらしい。何てすばらしいんや。いいか。小説を書け。必死に書いてゆけ!」

 昂揚した戦後文学の正統派の自罰の衝動としての境位が一つの光芒を放ってまぶしく迫る。女王の支配する国、史記の列伝のような方法でその一世の興亡を書きたいとして最後に遺された未刊『遥かなる美の国』は円還的な時間の謎を秘めて回流する。

 またそれが「自閉症の狂人」であろうがなかろうが、高橋和巳が徹底的に自己指弾していったということは、内面の微妙な亀裂を生じた少年時代からの生の問題とも深くかかわる。そして、そこには陰々滅々に呪われた自己断罪と指弾の原理が全作品をおおって自己完結している。人間関係は悲哀とともに紛糾していき、愛は引き裂かれ、すべてに地獄的な断罪の鞭がふるわれる。だが、マイナスのカードを集めればプラスに転化するように、やがて悪業と破滅の荒野から現実回帰の希望の光が煌くだろう。ことほどさように高橋和巳の気質や精神主義は、危うくも自己回復としての日本的ラディカリズムの心性にみたされているのである。

 現今のデジタル情報社会とやらの情況に肥大しつづけるバーチャル化現象には、もはや「文学は趣味でしか存在しない」のであろうが、その〈暗黒の出発〉において夢と志のはてに見た高橋文学の行方は、私の内で未だ何も解明されていない。

  その廃墟の原風景から「わが解体」にいたる壮絶なたたかいや、本質的な葛藤の文学と思想のいとなみについて、また六〇年代から七〇年代にかけてのあの熱狂の時代に刻印された深い憂愁の影は、「直接行動の季節」ならではの痛切な政治の人間化の苦闘そのものであった。「このまま死ぬにせよ、生きながらえるにせよ、これが恐らく私にとって三度目の敗北なのだ」と呟く滅びの道をたどる運命の声に耳傾けながら、とりもなおさず私にとっては高橋和巳は永遠の謎であり、永遠の序説なのである。

 やみがたい悲哀の中で自己を告発しつづけ、解体破滅を鮮烈に彩った境涯であった。

 むろん、そこには幼年時代を戦火の中ですごし、また戦後の焼け跡をおののきさまよわねばならなかった恐怖体験が劫罰の恩寵のように色濃くきざまれている。幼くして「暗黒の出発」もかなわず、その夢と志のはてに見たものはいったい何であったのだろう。

 生誕八〇年・没後四〇年――その生と死が人知れぬ文学の回生の主題を奏でる。いや、修羅の昇華に内なる荒野が広漠とひろがる。「憧憬、何という懐かしい言葉だろう」と遥かなる美の国からの使者は悲の器をかかげ、邪宗の門を軋ませ、黄昏の橋をわたっていく。しかるにせよ、抒情と闘争も郷愁と悲哀も、また一つの狂気と虚無のイロニーだと笑わば笑え。

 3・11により、確かにこの国の戦後を支えてきた“何か”が大きな音をたてて崩れた。崩れたあとに、己の無力な言葉や表現に身をすくませる。それでも、書くことは現在の私にとって唯一の行動だ。あわただしく生きながら立ちどまり一回性の自分と真摯に向き合っていかねばならず、生の深淵をみつめ未明の階段を降りつづける。思いにふけり、人や車が行き交う町の小路をあてもなく歩きつづける。結局、人間の宿命を見つめ直していくことで、日常の風景が興奮と栄光にみちて示現してくれる闇と光にむきあってゆくことだろう、とひそかに思う。

 われわれを繋ぐ高橋文学というものがあれば、いやそれが封殺されたものゆえに花や風とともにやさしい人たちがくれた感動に身をふるわせる。もの狂おしい予感とともに言語と行為が胸の奥でなぐりあう。

 京大に辞職届を出して鎌倉の家で力なく病床に臥せている時だったか。あのしだいに暮れていく早春の二階堂の小さな庭の薄闇の静寂が忘れられない。一時間近くも黙り込んだまま、ただ私たちはじっとしていたのだったが、やがてふぅーっとした息をつき、静かな微笑を浮かべた一瞬のその柔和な表情が今も忘れられない。そして、目を瞑れば闇の彼方から一つの歌声が哀愁のひびきもて静かに聞こえてくるのである。

 あの闘争の渦中、「網走番外地」をうたう高橋和巳は悲愴そのものだった。高倉健の太刀が血しぶき、唐獅子牡丹が吼えつづけていた。不穏な京の夜風が冷たかった。高橋和巳は行きつけの祇園の小料理屋のカウンターの前に歌詞を書いたメモをひろげ、低く調子外れにうたうのだった。

 春に 春に追われし 花も散る
 酒ひけ酒ひけ 酒暮れて
 どうせ俺らの行く先は
 その名も網走番外地

 キラリ キラリ光った流れ星
 燃えるこの身は北の果て
 姓は高橋 名は和巳
 その名も網走番外地



2011年10月08日号

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