葛藤する時代の”絢爛と憂愁
セゾン文化をつくった「実業と文学」の深層



菅野昭正 編
粟津則雄・松本健一・山口昭男・小池一子

『辻井喬=堤清二 文化を創造する文化』
 平凡社四六版 3月9日刊)

 
 本書は世田谷部文学館の連続講座をもとにまとめられた。各人の語り口の濃やかな息遣いとともに、まことに趣向をこらした一書となっているが、そもそも堤清二=辻井喬(一九二七 ~二〇一三)とは、いた何者だったのか。ひとりはセゾングループの総裁、もうひとりは過激な革命を夢想する詩人。その核心にせまり、本来は相矛盾する二つの実像が、ここに実に鮮やかに浮かびあがってくる。

 経営者になることは文学に反する人間になることだが、現実の虚妄性を見抜き、その重層性の背後にある感性や倫理にはげしくつきあげられていた。いってみれば、それがあるがままなる人間の根源的表現であったとおもえる「一身にして二つの異なる人生」、つまり、「実業と文学」を生きることが、自ずからに課した宿命的な戦略であった。

 いや、詩魂きわまる内部力学の冴えであったのだろうが、この二つの世界を負う詩人の生き方を「それぞれがもう一方の深いところから突き崩すような、危険な存在であり続ける」と粟津則雄は論じる。そして詩人・辻井喬が華々しく活躍している時でも、
「なんとも暗い表情で、黙って考え込んでいることがありました」そういう彼を見て、彼は、自分も一番奥にある苦しみのようなものを抑えている。あの穏やかな微笑みでくるんでいる。そういう思いがしましたね」。

 ビジネスにおいては小さな「私」にこだわることができないであろうが、文学においては、その「小さな私」こそ表現の拠り所である。孤独の深さとともに、企業=行動、文学=表現という多様性の世界をかかえ、現実がおのれを裏切れば裏切るほど、現実に立ち向かう。つまり、それがまぎれもない生来の叙情と闘争の位相であったのだろう。
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 そうした意味では、「ビジネスの分野との緊張が筆を進ませる」というのが辻井文学の本音の一面でもあったのだが、それが同時に“負い目”としての文学創造の方法の一つであったことはいうまでもない。

 熱狂の八〇~九〇年高度消費社会においては、生活総合産業としての多様な賞品戦略の発信があり、そこにポストモダン(後期)的資本主義の再編する市場から文化のビジネス化が着々とはかられた。しかも、この時代の饗宴絵巻の背景には、常に西武コンツェルンを背景にした一族の確執と抗争があったこともわすれてはなるまい。

 そうした沸騰する遊・知・体・美の制作情報の現場にいた小池一子が「堤さんは、今現在の感覚のことを時代精神という言葉で表現」していたというのだが、それは戦後ジレンマを抜け出し、新たに生きている感覚の現在性をマーケティングすべく時代の力強い脈動そのものであった。畏怖すべきカリスマ性を放ち、毀誉褒貶の激しい詩人的経営者・堤清二はその時代精神をもって、ひたむきに創造的な文化を結実しようとはかる。

 しかるに、芸術・演劇に関しては、あれほど現代の最前線たるにふさわしい先駆的な作品を重んじた人が、小説の筆を執るとなると、古風な、あえて不利な作風をつらぬいたのはなぜか。それについて菅野昭正が、「堅実過ぎるほどのリアリズムの小説作法に徹して動じなかった」と説いているのには、なるほどと注目させられた。

 たしかに、辻井文学は一族の抗争を背景に父親から逃れようとして逃れられない宿命を甘受しながら、個人を解体する。ほかでもない、それが“醒めた熱狂”がかかえる文学リアリティの証しであったといえよう。

 また、松本健一によれば、「文学者たちは辻井さんのことをこねとして使うかもしれないけれど、文学者として評価しようとしません」という。ここには現代の狭量な文学の事情が指摘されている。こうした中で、三浦雅士がその堤=辻井の総体的言動を「激しい無関心」と直裁にいうのも、なるほどとうなづける。

 かくて、バブル崩壊とともに二兆円借金経営のセゾングループは自壊し、堤清二は撤退を余儀なくされる。すなわち、ビジネスの呪縛から離れた、旺盛な文筆活動が始まることになる。

 ここにおいて、「変わろう、行動しよう、言表現しよう」という姿勢を表明。戦争を知っている世代としての本来の「政治と文学」の問題が、平和や憲法、言論・表現の自由などに、積極的に取り組んでいたことがよくわかる。

 編集者としてその身近にいた山口昭男は、「社会を見る目とその表現活動の多様性の総体、それが辻井喬の政治であった」と指摘している。いずれにしても、「芸術家が経営に携わった感性の人」、辻井喬の平和の活動はこれからも受け継がれていくのだろう。

 しかし、論ずれば論ずるほど、断じれば断じるほど、俯きかげんにくるりと背を向け、蒼茫の霧の彼方に歩みはじめる。とらえがたい微笑とともに逸脱していくこの選良の絢爛と憂愁はいったい何なのだろう。

 各人の冴えざえとした眼識が堤清二=辻井喬の人間像の多面体を解明している。
 闊達自在な文書とちがい、哀悼のこもった語りにそれぞれの洞察が鋭くひかる。講義録とはいえ、まことに読み応えがあり、抜き身で伝える一巻となっている。


『図書新聞』2016年6月11日号