修羅と愛欲
能『清経』より


 

  寿永二年(一一八三)七月。
  ひそかに叡山に非難していた後白河院は、ふたたび京の都へ還御した。
 
 栄華を誇った平家は、六波羅をはじめ一門の邸宅や、民家五万軒に放つ。それと同時に、公卿、殿上人、僧侶以下、総勢7千騎が京をあとにした。平維盛の大軍を破った木曾義仲が、破竹の勢いで乱入しようとしていたからだった。
  一行は一夜を明かした福原の内裏に火をかける。
  追撃を受け、一軍は混乱した。
 
 やむなく幼帝を擁し神器を持って船に乗り、西海にさまよいでることになる。翌八月、平家追討の院宣がくだされる。京都では安徳帝を見捨て給い、高倉上皇の四の宮が神器不在のまま即位、後鳥羽天皇となる。
  西下した平家は大宰府に着き、ここに皇居を造営する予定であった。
 
  だが、宇佐八幡の神にも見放され、しかも味方の緒方維義三郎が敵に回り、三万騎をすすめていることを察知すると、大宰府を逃れ、豊前国柳ケ浦に渡る。寿永には秋の紅葉となって散ろうとする平家は追われるままに西海をただよい、どこに落ち着くこともできない。それは、まるで中有をさまよう衆生のようであった。
 
  折しも、京は焼け野原となっていた。
  盗賊が出没し、乱暴狼藉が横行していた。一日として、心安らぐことができない。
 
 小松殿の三男、左中将平清経を戦場に送り出した妻は、夫を信じてひとり都に残っていた。若く、気丈な女(ひと)であった。清経は美しい妻とは尽きぬ別れを惜しんだ。平家一門の主だった者は妻子を同道していたが、清経は妻を戦場に連れて行くのに偲び難かったのである。
 
 「清経」は、『平家物語』巻八「太宰府落ち」、『源平盛衰記』巻三十三「清経海に入る事」を典拠にした世阿弥の二番目修羅物。古来、舞歌幽玄の恋と修羅のせめぎの一曲として名高い。
 
  季は秋の暮れ(寿永二年)、ところは都、清経の屋敷。
  筑紫から京に従者淡津三郎(ワキ)が訪ねてくる。能『清経』はここからはじまる。
  従者の来訪に、清経の妻(ツレ)は、
「もしや、夫が出家、遁世したのでは・・・・」
  と問いかける。
  いや、そうではない。
 淡津三郎は舞台中央の着座。清経入水の次第を述べる。
 平家は筑紫の戦いには何とか勝利した。
 だが、源氏方の襲撃の前に、もう誰の目にも明らかだった。
 先陣を立て直して、都に帰ることはおよそ不可能であった。さればといって、この機におよび、雑兵の手にかかることはできない。
 清経は更けゆく月の夜、柳カ浦の沖で舟から身を投げて亡くなった、という。
  何と、入水したと? 清経の妻は愕然とする。
  
    なに身を投げ空しくなり給ひたるとや。
   恨めしやせめては討たれもしはまた、
   病の床の露とも消えなば、
   力なしと思うふべきに、
   われと身を投げ給ふこと、
   偽りなりつるかねことかな。
   げに、恨みてもそのかひの、
   なき世となるこそ悲しけれ。

何ですって、海に身を投げたのですって・・・・。
  ああ、せめて戦い敗れたのであれば、いいえ、あるいは病に伏せて露と消えたというのであれば、まだ私の気持ちは整理できますものを・・・・。
  一瞬、目が眩む。
  妻は絶望の底に突き落とされる。妖艶な女の息遣いが切ない。
  清経は、もともと深く心にかける繊細な感性の持ち主であった。だが、せめて戦死とか病死ならともかく、おのずから死を選んだというのが恨めしい。あんなにも固く誓いあった二人ではなかったか。
 
  淡津三郎は清経が舟に残した形見の鬢の髪を、おもむろに妻の前に差し出す。
  女はその遺髪を手にすると、苦しく「偽りなし契りかな」と取り乱してしまう。
  そして、最愛の夫、中将殿の黒髪は筑紫の宇佐八幡の神のもとに返すべきでないか。妻は夫の自死を恨み、悲嘆に暮れた。  
 
 その夜、妻の夢の中に清経の亡霊が現れる。
 清経(シテ)は波に沈む日輪を描いた負修羅扇を持ち、甲冑に中将の面、黒垂、白鉢巻、子打烏帽子、単法被。
 笛方の音取(ねとり)という特別の譜が吹かれ、その音とともにシテは登場する。

   げにや憂しと見し世も夢、
   辛しと思ふも幻の、
   いづれ跡ある雲水の、
   往くも、帰るも閻浮(えんぶ)の故郷に、
   たどる心の、はかなさよ。
   うたたねに恋しき人を見てしより、
   夢てふものは、頼みそめにき。

  清経の亡霊は苦悶の表情をたたえながら、妻をじっと見つめる。
  栄華の絶頂から一門の滅亡のいたる道は、日に日に迫っていた。志西海漂流とともに、大叫喚の地獄が繰り広げられた。己の夢も、志も、遂げるべき思いも、そこではすべてが空しく断ち切られていった。
  もはや、救う手はもうどこにもない。修羅の苦しみだった。
 
  でも、聞いてくださいな、と妻はつぶやく。不安な京の都にひとり残り、わたしはあなたのお帰りをひたすら待っていたのです。あなたはかならず帰ってくる、と誓ってくれたじゃありませんか。その言葉を信じていました。信じて、じっと待っていました。それなのに、どうしてですか。約束を勝手に破って、どうして命を捨てたのですか。さぞ、苦しかったことでしょう。ああ、わたしの愛しい人。二人が会うべき夜、形見の黒髪がこんなにも苦しく、恨めしい。
 
  語り尽くせぬまま、妻は涙に暮れる。
  無情な戦乱に引き裂かれた男と女の深い悲しみ。夫婦に恋慕の情がもつれあい、喘ぎ、苦しむつづける。
  清経は「よそ目にはひたぶる狂人と人や見るらん」と、平家一門の滅亡を前にあくまでも冷静であった。
 
  それは己を<狂人>と化すことによってしか、中世という乱世を生き抜くことができなかった証しであり、それだけに一門の中では特異な存在あったのかもしれない。かかるがゆえに、清経のまなざしは、無類にやさしく、せつない。平家公達の中で、もとりわけ、孤立の位相をおびて凄愴に迫ってくるゆえんなのだろう。
 
  軍語りに清経は、妻に最期の自分のことを伝える。
  太宰府を追われた一門は、多くの小舟に分乗して柳ケ浦に着く。
  すでに、清経は一門の不運な生を八幡大菩薩に祈るしかないことを察知していた。栄華の夢のあとの欣求浄土であった。清経は恩讐や迷妄を超えた寂光をひたすら求め、成仏をねがおうとしているのである。しかも、愛する妻への情を断ち切らねばならぬ苦しみ。修羅道に堕ちた清経を理解するのは、幽明へだてたその妻をおいて誰もいない。
  夫の亡霊に、やがて妻はその入水のほどを理解し、納得してゆく。
 
  もう恨むまい。
  そう、恨んでも、せんないこと。
  ああ、愛しいお方。
  二人の仲の儚さこそお恨みしましょう。
  わたしたちはもう永劫に引き離されてしまったのですから。
  夜の西海の冷たさが、わたしを闇の襞の奥にとつつみこむ。
  わたしを無明の岸辺に引き寄せる。
  そういえば、また、あなたは奈落にも等しいこの世の娑婆の哀れさを説くでしょう。
  ええ、わかっていますわ。
  武将として、戦場を死に物狂いで駆けてきたのですものね。
  もう、愚痴はいいますまい。
  あなたの黒髪をわたしの手元ではなく、宇佐八幡の神の御前にといったのも、女の苦しみと悲しみゆえ。
  どうぞ、分かってくださいな。
  ああ、でも最後に一度でいいから、死を決した舟の舳先であなたが吹いたという横笛を、朗詠した今様を、静かに聞きたかった・・・・。
 
  キリの修羅道のさまは、一曲の白眉の場面であり、清経の成仏できない霊の叫びである。恨む妻の前で太刀を抜き払い、修羅道の苦患を激しい立ち回りで見せる。

  シテ「さて、修羅道に、をちこちの、
   地 「たづきは敵、雨は矢先、土は精剣、山は鉄城、
   雲は旗手をついて、驕慢の、剣を揃えへ、
   邪見の眼の光、愛欲ののいちつうげん道場、
   無明も法性も、乱るる敵、打つは波、引くは潮、
   西海四海の因果を見せて、
   これまでなりや、まことは最期の十念乱れぬ御法の船に、
   頼みしまに、疑ひもなくげにも心は清経がげにも心は、
   清経が仏果を得そこそありがたけれ。

  妄執に哀れに裂かれた末、清経は念仏を唱えることによって、仏の誓いの舟に乗ることができた。
  力強い絢爛の舞いを収め、「清経がげにも心は、清経が仏果を得しこそありがたけれ」と、その純粋な心は美しく昇華していくのである。生き残った者の勤めとして、妻は夫を理解する。それが彷徨う夫の亡霊を鎮めることであった。
  妻の心は晴れ、清経の亡霊はこの世から解き放される。
 
  月の海が果てしなく広がり、闇の昏がりがいつまでも深い余韻を残す。
  その劇的夢幻能による鎮魂と愛欲の絶ちがたい苦界の極限のしらべこそ、世阿弥の花であり、歌であった。中世人間の葛藤のドラマを芸術的に突き詰めた魂の叫びそのものであったのだろう。


 『文』1998年10月号

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