清田由井子歌論集
歌は志の之くところ

ながらみ書房(2016年12月刊)


痛切なたましいの根源の風景
「歌とは述志の文学である」と熱い心情にじむ歌論集



 内奥からつむがれるべき真情は、いったいどこへいってしまったのだろう。その根源的なといかけの中で、本書は「述志と抒情「、「歌の根底へ」、「歌人の哀惜」の三章立てになっている。

 激動の一九八〇代を起点に、現代へ向かってつづられる本歌論集は、夥しく発刊される歌集を読み解き、各種文化催事にでかけるなど歌壇ジャーナリズムにも目配りの利いた視線で、現代の短歌状況に鋭く斬りこむ。

 主体性がなくなった現状に切り裂かれなあgらも、何より「歌とは述志の文学である」と歌の初源に向きあう著者の切ない心情がにじむ。ひたむきに現代短歌への批判と愛着が、読むもののこころに染みいってくる。しして、「安易な涙や妥協などとうに捨てて、いかに瀬戸際を生きぬいてゆくか」という著者のはりつめた詩的真実もたいへん印象ふかい。

 詞華のまことに賭ける非情の美学として読むものに鮮烈になげかける。しなやかに、ほほえむ著者の風姿が、漆黒の花野の彼方からうかびあがってくるのである。

 かえりみるに、「器用にモチーフをあやつるのみの時代や風俗にたよるだけの歌」があり、加えてスマホやラインなど高度情報下の言語ツールにわけいる薄っぺらな情報短歌などが横行し、個性あふれる定型空間が時代の波風とともに錯綜する。そこにはうつつの詩魂の彩りがなければ、情感ふかい調べもみあたらない。

 いってみれば、こうした「いのちや思想をもって闘うという気概が稀薄になった」状況とは、われわれ自身が明るく醒めた荒野になげだされたまま、不埒にも茫然としていることでないのか。ならば、つきだされたこの現実を真正面にうけとめ、「いまこそ歌人のひとりひとりが、高度の見識と審美眼をもって今日の抒情を生きるべきなのだ」と、著者はいう。いや、それをしも、通俗的殉教的レトリックだと笑わば笑っているがいい。

 さらに、「癒しなどという安易な救いなど求めたりせず、確固たる詩の志をもって、とことん孤独を見つづけること」であると、さりげなくこの閨秀歌人は断言する。畢竟、定型短歌とは「たましいの叫び」であり、「私たちは志をもって、歌う必然の中で、謙虚に、歌いつづけてゆくほかない」。詩歌本来の内なる声が、身悶えするように反復されるのである。

 時代を超越して屹立する歌は、つねに内奥の重さにゆさぶられ、ゆたかに展げられる。その生きざまのもとに、歌の志こそ、さけがた人間の根源を開示してゆうものでなければなるまい。

 すなわち、言葉の源泉への思いとともに、「短歌という文芸の背負う一つの使命」を説く著者の覚悟は、まぎれもなく抒情の決然たる発信なのであろう。人の心の深みの情念の冴えとなって、極限的に歌がよみがえる。だが、見渡してもしたたかな述歌の歌はどこにもない。禁欲的な絢爛が原野の灯りに揺れる。何をよろこび、何に怒り、何を抒情するか。言葉の思想がせまる絶唱へのたましいの歌をもとめ、定型の栄耀がさぐられる。

 つつましやかにも、「野棲みに凄惨や愉悦を歌う」ことに徹し、生来の辺境にあることを愁いながらも、そこに豊穣な詩精神をもって凛冽の修辞をかたちづくる。定型韻律の絶叫のきりぎしに身をさらし、自らの奥処にひそむデモンを、典雅にひきよせる。抒情を生きるということの三十一音詩学のありようが、鎮かに検証されている。

 巻中、精彩を放つあまたの歌人がとりあげられ、その作品が紹介されていることも興味をひく。わけても、師・安永蕗子、同士・福島泰樹の文学の血脈に息づく著者の位相はあざやかにして、何とも清々しい。

 だが、それにしても、このお悲愴の告発はいったい何なのだろう。孤高の光に含羞の眼差しをむけながら、現代短歌など、いってみれば混沌のはてにむなしくつきはなしてしまっていいのではなかったのか。はばからず一歩ゆずっていっても、それがまぎれもなく生き死にのはざまにおける逆説的な詩歌栄耀の謂でないのか。

  蒼白の定型韻律がめざめ、ほとばしる。言葉と表現に心血をそそぐ著者の決意と痛切がせまる。抒情という∧宿命の海峡∨の夕陽をあびながら、とりもなおざす、清田由井子は艶然とたたずんでいるのである。


 『図書新聞』(2017年06月03日号


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