はつなつの恋と死
板東玉三郎監督『外科室』の世界



西大路から衣笠山沿いに車で走っていると、北山しぐれがあった。 
その雨が、時々、雪まみれになった。
それでも、嵯峨野の天竜寺慈斎院で友人の七回忌の打ち合わせに入ったころになると、明るく陽が射した。白砂を敷きつめた庭の小倉山からの風が肌につきさすように冷たかった。
翌日、少し時間があって、新京極の映画館で『外科室』を見た。
 
明治末期というのは、近代日本が驀進する軍国化とともに、もっとも欧風化風潮のさかんな時代である。
そうしたなかで味わいこまやかな誌的幽玄にいろどられた魔性の世界を開示した鏡花のエロティシズムは、官能と美の毒をたっぷりふくんで、それ自体が屹立した反時代の様相を持っていた。

醜も、不徳も、悪も、魔も、闇も、夢や超現実の怪異なるすべてを戦慄的な時代の感覚としながら、その永遠のロマン的情熱とともに生き貫かれていった。
そこには、まぎれもないわが国の近代が避けては決して通れぬ鏡花のかかえた<魔>そものがあった、というべきだろう。

昏くくぐもった受苦の量感に喘ぐとき、かつて、私は秋成、南北、馬琴と読みつづけ、そのきわめて異色の悲傷の系譜に立ちながら、いわゆる”鏡花世界”に、熱病のようにのめりこんでいたことがある。異界のやみがたい霊を重層的に内包した鏡花は、たしかに神経的で、怪異で、そのくせ縹渺としていた。
しかし、その鏡花のただなぬ世界というのは、谷崎潤一郎がいみじくも指摘するように、反面、「本質に於て、明るく、花やかで、優美で、天真爛漫」であるものなのかもしれない。

『外科室』は、明治38年、『文章倶楽部』に発表されるや、田岡嶺雲に絶賛され、島村抱月によって”観念小説”と呼ばれ、一躍、新進作家として文壇に華々しく迎えられている。ときに、
鏡花、二十三歳。

不治の病にかかって、その手術は一刻の猶予もゆるされぬ外科室で、貴船伯爵夫人は療治が、
「出来なくつてもいいのよ」
と麻酔薬(ねむりぐすり)をかたくなに拒みつづる。

真白く細き手を動かして、辛うじて衣紋(えもん)を少し寛げつつ、玉の如き胸部を顕し、
「さ、殺されても痛いかあない。ちつとも動きやしないから、切つても可(よ)い。」
決然と言放(いいはな)てる、辞色とともに動か統べからず。

それは「意中の秘密を夢現に間に人に呟かむことを恐れて、死を以てこれを守ろう」としていたからである。長年、連れ沿って、2人の間には可愛い姫までいる操守堅実の身では、むろん、良人に何事も知られたくない。
「私にも、聞かされぬことなんか。え、奥」
と優しく詰問する伯爵に、
「はい。誰にも聞かすことはなりません。」
夫人は夢見るように決然と応える。
「私はね。心に一つの秘密がある。麻酔薬(ねむりぐすり)はうわごとをいうと申すから、それが怖くて怖くてなりません。何卒、もう眠らずにお療治できないようなら、快(なお)らんでも可(い)い。よしてくださいな。」

かくて、医学士の高峰は、夫人の両頬に紅潮した一瞬のたゆたいをしかとみつめながら、その真白く艶めく肌に鮮血のメスを無惨に走らせる。
「痛みますか。」
「否(いいえ)、貴下(あなた)だから、貴下だから。」
貴船夫人は悲痛に喘ぎ、がっくり仰向きつつも、恍惚として最期の目をうつろに放す。
「でも、貴下は、貴下は私を知りますまい!」
そういうや、夫人は医学士からメスを自らの手に取っていた。
 そして、力を籠め、乳房の下深くを一気に掻き切ってゆく。
「忘れません。」
その迸る血の匂いと恋の苦しみの狭間ののけぞる切愛の伯爵夫人に、若き医学士は誇りにみちて応える。

其声(そのこえ)、其呼吸(そのいき)、其姿(そのすがた)、伯爵夫人は嬉しげに、 いとあどけなき微笑(えみ)を含みて高峰の手より手 をはなし、ばったり、枕に伏すぞ見えし、唇の色変わりたり。
其時の二人が状、あたかも二人の身辺に天なく、地なく、社会なく、全く人なくが如くなり。

それが浅薄なロマンだと揶揄する手合いには勝手にいわせておけばいい。
いったい何が近代であり、進歩であり、合理主義であるというのか。
いつか、きっと奴等は手厳しく報復され、復習されるにちがいないのだから。

九年前、まだ医学大学の学生であった高峰は、躑躅の花盛りの五月、小石川植物園を散策していた。
 
そこで、深張りの涼傘(ひがさ)を指翳(ゆびかざ)し、裾捌(すそさばき)の音もさやかに、霞に乗ってゆくような歩きぶりの妙齢の婦人に会ったのである。
その一瞬の、いや一瞬であるがゆえの永遠の出会いだった。
その出会いについては実にさりげなく描かれている。

行違いざま、高峰は、思わず後を見送りたり。
「見たか」
高峰は頷きぬ。
「むっ。」
恁て丘に上り、て躑躅を見たり。躑躅は美なりしなり。
されど、唯赤かりしのみ。

これが運命的な出会いである。
恋のいちずな苦しみのはじまりだった。爾来、触れ合うこともなく孤独な二人は黙々とさむしろに生きてきたのである。
何とすれちがいざま、花匂うはつなつの光の下で、二人はふと目を交わしただけだった。一目惚れであり、一瞬の見初めである。一種の姦通物であり、心中物である。
まさに、鏡花の観念小説の清凄な世界であり、血ぬられた恋の鎮魂というものであろう。

歌舞伎の妖艶な女形から、新派、、シェークスピア、新劇にと迫る板東玉三郎は、花柳紅燈の粋に徹し、滅びゆく風流と侠気をこよなく愛して、鏡花の究極のエロティシズムを紡ぐ。その至上の美と恋の殉教の世界を、痛切の映像に結晶させる。
情熱の狂気と神の叡智。研ぎ澄んだ映像は、終始、匂うような官能美に彩られ、薄明の女のあえかな息づかいを切々と伝えている。 
女の夢見る幻想空間の果てには、逆ユートピアとしての死と美の饗宴が愁いに沈み、ひたむきに血したたらせながら現出しようとする。玉三郎は自ずからの絢爛の夢を、抒情あふれるラフマニノフのチェロ・ソナタ第3楽章の旋律をバックに、現代という絵草子のなかに目映く織り上げたのである。
生、死、愛を紡ぐ映像美学の冴えが、深く心に残る。   

 ・貴下(あなた)だから死すはつなつの恋ゆえに血しぶき喘ぐ乳房に触れぬ
 ・血汐は胸よりつと流れひとときをゆめみてな告ぐる躑躅に
 ・知りますまいに死にゆくを秘めごとのこの九年をしぐれ恕せよ 


歌誌『月光』1997年3月号掲載

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