魯山人・星岡窯の宴 |
鎌倉、蝉時雨のひととき。 魯山人跡の広大な敷地は山に囲まれ、うだるように暑かった。 この「魯山人窯藝研究所・星岡窯」跡は昭和2年(1927)発足している。 ”臥龍峡”と名づけられた切り通し、満里荒寥たる広大な敷地に、あづまや、古陶磁を収集した参考館、来賓用の慶雲閣、田舎家、工場などが次ぎつぎに配置されていった。いわずとしれた魯山人が天下の貴賓を迎えて連日賑わう星岡茶寮を閉鎖後、後半生のすべてを託した夢想境。 あくなき<美>への執念を狂おしく燃やしつづけた幻。まさに、絢爛多彩、魯山人藝術の饗宴が繰り広げられた空前絶後の天地である。 『腰越通信』によれば、 「魯山人は大正14年夏から秋にかけて、6000坪のこの場所に窯を築いた。通称星岡窯といわれるものである。山裾の岩石を切り拓いた切り通しによって、村道につなげられた山懐である。 この切り通しのことを魯山人は「臥龍きょう」と命名した。 その前の菜の花畑をへだて、星岡窯一帯の眺めは別天地の興趣があった。一本の桜の大樹の幹から派生して数本の桜のように見えて、春には爛漫と咲き誇り、観る者をして陶然とさせた」。 昭和34年(1959)、魯山人没。 2年後、人が去り、荒れ果てた当地は野村證券の北裏喜一郎(当時副社長)に移譲され、修復管理。同時に河村喜太郎が窯を起こし、京都大覚寺の立花大亀老師が庭園造成に力を尽くす。 一般公開はされていないが、北裏家ではこの由緒ある地をなるべく往時のまま保存しておくように努めてきた。 緑の山間に建つ慶雲閣の縁に腰を下ろして黙然。 一陣の風も爽やか、一世の巨人の面影が彷彿とする。思うに、白崎秀雄著『北大路魯山人』は、希代の藝術家に迫った畢生の名著である。 その白崎さんに新橋のお座敷につれられ、老妓に端唄の一節を教え込まれたのはいつのことだったか。そして、話しの弾みに女将が魯山人のひととかかえもある大皿を持ってきた。 「うむ。これはいいものだよ。大切にね」 白崎さんはその大皿はすでに何度も見ているようで、頷きながら言った。 目近かに見る大皿は眩しい輝きを放っていた。 豪快な釉薬に、鮮やかな絵付けをほどこされた逸品に唸った。 *この稿は20年前頃の断片である。 *「北裏喜一郎追討集」を編むということで、野村証券秘書部のスタッフと2度ほど訪れたのだったか。 *そのことを白崎秀雄さんに高輪のお宅で申し上げたら、「そうか」といって、それから人形町の玉ひでご馳走してくれたり、新橋のお座敷へ連れていってくれたのだった。 |
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