法哲学者の葛藤のドラマ

関口安義著『恒藤恭とその時代』
(日本エディタースクール出版部)

 

 その信念に殉じた生涯が、激動の時代の諸相を背景に色鮮やかに浮かび上がってくる。本書は、戦後、平和憲法擁護に奔走する一世の法哲学者の評伝である。

 戦後の新しい時代の到来とともに、時代は強烈な個性を必要としていたのだろう。学問、研究を続け、戦後の大学の復興に強力なリーダーシップが求められる中で、大阪市立大学学長に就任。大学運営に当たっては教員の戦争協力問題、それに加え教授の研究能力の評価を重視するなど、画期的な人事刷新を断行した。
 同時に、公職が次々に舞い込む。京都大学法学部教授の兼任である。滝川事件で大学を心ならずも去った元教官たちの復職だった。

 しかも、戦前のファシズムに抵抗した気骨ある学者は、狭隘なアカデミズムの世界に止まるだけでなく、縦横に活躍。新時代のリーダーとして、総合雑誌へも積極的に発言してゆく。ジャンルは論文、批評、時評、随筆と多岐にわたる。自由主義、民主主義、憲法などに関する講演も時間の許すかぎり引き受けた。平和、憲法問題にかかわり、積極的な憲法擁護の発言をつづける。
 
 憲法を学問と教育の世界に生かそうとする畏友末川博は立命館大学学長になっていたが、それと呼応して政治と社会へのかかわりも果敢に行われている
 日本学術会議会員となり、平和問題懇話会では戦争放棄や安全保障の問題を論じ、湯川秀樹らと憲法問題研究会を設立して積極的な憲法擁護の発言を続け、六〇年安保条約改定には反対声明を出し、文化功労者として表彰される。
 こうした歩みをもつ戦後の典型的良識人である恒藤恭とは、そもそも何者だったのか。
 
 改憲論議が各方面で取り上げられる昨今の風潮の中で、恒藤恭を考えることは平和憲法をいかに擁護するかにあることなのだろうが、本著は近代文学史研究の視野から初々しく迫る。伝説的ともいえる法哲学者の全体像が慄然と伝えられ、その多岐にわたる葛藤的ドラマの魅力を提起してくれる。
 
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 近代日本が急速に発展しつつあった一八八八年(明治二十一年)、島根県松江市生まれ。恒藤恭は情愛に満ちる両親、七人の兄や姉、理解ある従兄弟など、知的雰囲気に満ちた家庭環境に育つ早熟の文学少年であった。

 体調を崩して神戸衛生院に入院するが、療養のかたわら俳句、短歌、エッセイ、小説を書き、地元紙や、『中学世界』へ投稿。その結果、小説「海の花」が東京の大新聞『都新聞』の一等に当選。この自然主義文学の影響濃厚な作品は、同紙に四十回の連載となる。三五〇円の賞金を得るが、大工の手間賃一日一円の時代、大金であった。以後、投稿で恒藤恭はもっぱら小遣銭を稼ぎ、観世ことよりの内職で小遣いには少しも困らなかった、といわれている。
 まもなく、健康を回復して上京。都新聞社に入社。文芸部所属の記者見習いで、取材にあちこち行かされる。だが、目的は第一高等学校英文科の受験にあり、勤務のかたわら受験準備に余念がなかった。

 一九一〇(明治四十三)年、二十二歳。厳しい競争をくぐり第一高等学校第一部乙類に入学。四年間のブランクであったが、学問への情熱は固く、希望に燃えた新たな道を歩き出す。同級には菊池寛、芥川龍之介、石原登、佐野文夫、久米正雄、石田幹之助、山本有三、土屋文明、成瀬正一、長崎太郎、藤岡蔵六の錚々たるメンバー。成績は常に一番で、仲間のあいだでは頭角を抜いていた。

 温厚謹厳な恒藤恭に、まもなく芥川龍之介との親交が始まる。それは「大きな事件」であった。というのは、芥川龍之介は都会的洗練さや、はかりしれない豊かな文学的感性を持っており、その読書量はとうていおよばない。この運命的出会いが、ついに決定的な道を選ばせる。
 
 これまでの恒藤恭の作品はすべて田山花袋の自然主義文学の影響下にあることを、芥川龍之介の交流から、思い知らされる。それは自己の限界を知ることであった。友人の英知の前に、悲しいかな、文学を専門的に研究するだけの能力のないことを痛切に感じるのである。
 ここで興味深いのは、芥川龍之介の前に文学的に屈服しながらも、相変わらず少年少女小説を書き継ぎ、学費を稼ぎまくっている。つまり、少年向きの学生小説を書く実力派のセミプロ作家であったということである(これは大学院時代、また当初の教授時代までつづく)。
 
 恒藤恭は文学で身を立てることを断念する。
 悩み抜いた果てに選んだ道は、法科への転進であった。
 
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 東京帝国大学法科入学は、文科からの学生は受け入れなかったので、多くは京都帝国大学を希望する。恒藤恭は芥川龍之介と別れ、一九一三年(大正二年)、権威に屈せぬ進取の気風に満ちた京都帝国大学法科大学に入学。
 ここで、新進気鋭の助教授佐々木惣一の魅力にとらわれ、学問にすぐれ、人間的な深みを湛える佐々木を終生の師として慕うことになる。

 その後、研究生活を経て、同志社大学教授に就任。経済法哲学の書物と格闘しつつ新カント派へラスクの訳書『法律哲学』を刊行。この出版を機縁に次々に訳書、著書を刊行することになるが、まもなく同大学を辞任、古巣の京都帝国大学法学部教授となる。

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 こうした中で、滝川事件が起こるのであるが、このあたりから、「ひとりの良心的知識人の時代の中での歩み」に、著者の関心は集中してゆく。
 
 一九三三(昭和八)年、京都帝国大学法学部教授滝川幸辰の『刑法読本』『刑法講義』の自由主義的刑法思想が国体にそむく赤化思想だとして文相鳩山一郎は、滝川の辞職を強要。これに対し京都大学法学部教授会は、文部当局の措置は大学の自治をふみにじり、学問の自由をおかすものだとして反対した。この抗議闘争は全国の大学に波及したが、京都大学法学部教授会の反対行動は分裂と孤立を余儀なくされ、まもなく敗北する。
 恒藤恭は学問の自由に対するファッショ的抑圧に対し、法学部の強硬派とともに辞表を撤回せず初志を貫き、京大を辞職している。

 この後、京大を共に去った末川博と大阪商科大学、立命館大学の専任講師になるなどして、京大事件の屈辱感を胸に秘めながらひたすら研究に打ち込み、恒藤法哲学の独自性をしだいにゆるぎないものとしてゆくのである。

 すでに、本書の姉妹編として、芥川龍之介と第四次『新思潮』を創刊し、創作を断念して学者の道を選んだ『評伝成瀬正一』がある。いずれも、理想をかかげて歩んだ知識人の生涯を、著者は近代文学史研究の新たな考察としている。

 年譜作成に十年余り、「長い時間をかけ、著作目録と略年譜づくりを先行させて、少しずつ書き溜めるという方法」をとる著者の渾身の評伝である。「芥川龍之介研究の過程で周辺人物の調査に分け入」ったともいうが、その「とことん追究」した念入りな取材調査の段階から、書き手の躍動感と文学的香気が鮮烈に伝わってくる。
 評伝について一家言を持つ著者の静かな文体の冴えにも強く惹かれる。

『図書新聞』2002年7月27日号

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