埼玉の文学ルネッサンス




 何年か前、県内各地を散策ルポで隈なく駆け回ったことがある。古墳群、古城跡、社寺の例大祭、狭い盆地の巡礼、川辺の町ーー四季折々のその連綿たる歴史と文化、風物の重層に、たちまち魅了させられた。それまではデラシネ風情で眺めていた山河が、実に親しげな精彩を帯びて迫ってきたのである。

 万葉集で東歌にうたわれる、”佐以多萬”の風土は哀切に満ち、奥州への旅の途上の西行は一首を残し、武蔵国を通りすぎている。一般の文学通史はともかく、そして、武蔵武士たちは広大な関東平野を血で塗り染めた。京の宮廷中心の歌舞音曲はすぐ地方に伝播してゆく。かくて、北関東の諸豪族の館では連歌会が盛んに行われ、心敬、道灌らは関東歌壇で縦横に活躍。戦乱の渦中、連歌を好み、陣所で千句、千五百句を張行するなど風流三昧の味なことをしている。

 草の戸も住替る代ぞひなの家ーー元禄二年(一六八九)五月、芭蕉は千住大橋から、草加を経て春日部の地に立つ。奥の細道の出立であった。
 また、塙保巳一が編集刊行した空前絶後の大叢書『群書類従』は座右の書であり、鎌倉管領から太閤秀吉の小田原攻略までの合戦記『関八州古戦録』も興味津々。
 明治近代国家は、東都を強大なモデルに仕立てるが、埼玉はなぜかワリを食うかたちで”文学の不毛地帯”を余儀なくされる。志破れて挫折、苦悩するさまは『田舎教師』で克明に描かれ、その他多くの詩歌によって切実にうたわれた。渋谷定輔の土まみれの野良の叫びも大地を揺るがしている。
 今、それら風土や人情に根を下ろした先人たちが鮮烈に語りかけてくる。
 
 思えば、関西から上京し、慌ただしい毎日に右往左往しつつ、世帯を持ったのが南浦和の安アパートであった。爾来、新座に一時住んでから岩槻に在住し、方丈記「仮の庵もやヽふるさと」なるわが埼玉暮らしもかれこれ三十年余に及ぶ。小さな城下町は彩雲清風の趣きに満ちている。家の近くの緑したたる城址に佇むと、ふと軍馬の嘶きを耳にするようで、「孤魂流落、此の城辺」とつい嘯いてもいるが、顧みるに武蔵野の風月に身を寄せる日々、多くの出会いのドラマがあった。会えば、人情の機微も細やか、一夕の酒興を得て、談大いに弾む。

 その無頼とダンディズムを貫徹、後藤明生らと「新早稲田文学」を興して『地獄は一定の住みかぞかし』を苦しい状態の中で書き上げた石和鷹氏(一九七七年四月没)は羽生の出身だった。
 阿佐ヶ谷のお宅を訪ねたり、また新宿ゴールデン街や浅草などで一緒に飲んだことのあるこの火宅の人は、
「何だ。君は岩槻住まいか」
 と言って、今から思うに、どこか同郷のよしみのようなものを感じさせた。
 初期の二十代から三十代にかけて書かれた『北風の町』など、「生まれ故郷のひなびた地域を舞台」にしていることを自ずから表白している。ことほどさように、源郷が、時の流れの中で文学を育む。

 いつだったか、松本鶴雄さんと大宮でしこたま飲んで、駅前東口のネオン街をぶらぶらしている時だった。
「太宰は大宮大門に住んでいて、この先の店に入ってラーメンを食べりして、『人間失格』を書き上げたんですね」
 と話してくれたことも忘れられない。
 なるほど、太宰治も森鴎外も若山牧水も、文墨の戯れを愛するこの地に来往している。古今、彩の国は多くの文人を輩出し、花香脈々としてきている。

 それにしても、電子ネットワークが文化・思想・芸術・科学のあらゆる分野を大きく揺さぶり続ける中で、現代文学がかかえている問題は際限なく深い。デジタル芸術の創出過程とリンクしながら、出版産業不況はますます深刻化している。表層的な俳句、短歌の隆盛にもかかわらず、活字文化は輝きを失い、負の地平で喘いでいるのである。
 だが、何もこれはおためごかしではないが、とりもなおさず、「孤立の憂愁の中で、悠々と、激しく」己の内実のゆらぎをじっと見てゆくことだと、と私は思っている。

 このたびの埼玉文芸家集団の発足に当り、ひたすら埼玉の文学ルネッサンスの意気や盛んなれ、と念じている。あの中世連歌会のような絢爛のサロンが、知の饗宴のパラダイムとして、今こそ甦らなければなるまい。


『埼玉文芸家集団会報』2003年7月1日号

 
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