修羅鎮めても鎮めても

そのパトスと原風景

飛高敬歌集
『風の草原』
(角川学芸出版)


 

内部からはげしく衝きあげられ、現在から始源への薄明の世界がひしめくように開示される。風の大地に寄り添う暮らしにおいて、<修羅>をかかえる生き様とはいったいどういうことなのだろう。その狂おしい詩魂は深淵からのかがやきを放ってせまってくるのだ。

飛高敬第五歌集『風の草原』は「田園に生を受け、自然と共に生きてきた人間の原風景であり、心象風景」であり、「八十年に近い時間、風の草原に生きる人間の吐息といっていいだろうか」(あとがき)という。

たしかに、太陽と風塵と雷鳴に響(とよ)むこよなき風土と時間に世界は重層的に醸成されていった。それこそ、未踏の曠野にたちあがる紅蓮のパトスであったといえる。

万緑が怒濤のように寄せてくる森のおそろしこの 重き音

真紅なる大魚はねて深碧(ふかみどり)空流れゆく大き利根川

たてがみを逆立て走りゆくものよ草原は赫き陽の 真っ盛り

ここには大自然(原風景=心象風景)の根源の息遣いがある。埼玉県の東北部に位置し、内陸砂丘とよばれる砂の大地には、強烈は季節風と強風が砂塵をまきあげる。

旧利根川の風と砂の大地に生まれ育った者の負いと一つのゆらぎが、私性の肉質化した詩情を豊かにくりひろげている。常に風の草原に向かって色濃い心情をにじませ、真正面からとらえられた韻律ははげしく波立っている。躍動する「青の詩精神」と「赤い情熱」の一韻一韻に強く撃たれる。

亡父をしのび、恵まれた師恩に感謝し、田畑を耕す日々、内部のリアルが表現をつきさし風の詠唱を刻印する。自然に唱和させてゆくことによりひろがる内的な豊穣こそ、情念の波動としての祝祭であったといえよう。風の大地の自然に向き合った生の緊張感がみなぎり、歌が言葉のリズムにのってはばたく。

夢の上に夢重ねきて七十七年道なき荒野青遙かなり  

さすらいて生きるあこがれいたる日よ若葉の光、風の草原

地獄にも花吹雪あらん絢爛と飛沫(しぶき)をあげて散る山桜

日常生活の細やかなできごとにふとたちどまりながら、酷烈な生命力を秘めた詠嘆が幾重にもかさなる。常に闊達な精神のありようも人柄の一つなのだろうが、おそらく飛高敬の長い葛藤を経ての位相には、凄まじくも非情の形而上学が無残に織りなされていったのだとおもわれる。ゆえに、無窮の空の果てや大地の底からひたひたと押し寄せる原風景の一つ一つが連結する歌のひびきになって、拠るべき本源性を啓示する。

「地獄にも花吹雪あらん」その幻想空間こそ、痛切な思想の情動性でありうるだろう。絢爛の地獄の落花の舞いは一つの鎮魂のあかしでもあったか。「夢の上に夢を重ねきて」、虚妄と憤怒の深い声が奇妙にからまる。

まろやかな余生がいいと友のいうおだやかならず老いゆくことは

閃光のような戦慄歌わんと気負いし時代遠くなりたり

死への速度いや増すゆえか真剣に生き抜く日々よ、喜寿すぎてゆく

抄出した三首には老いの悲哀や含羞をのぞかせながら、「まろやかな余生」にもおだやかならず、新たな光芒がたゆたう。「閃光のような戦慄歌わん」時代は無情に遠く駆けめぐるが、ならばこそ反語的にこの燃え盛る未明の原野に歌い、往時茫々にあらざる不変の深部を解き、ほかならぬ遙かな源郷に止揚してゆくだろう。

たしかにやむにやまれぬ表現が己を掻き立て、それが魂の躍動感となり、三十一音律はするどくはりつめる。凶暴な自然を体感した歌の力に、われわれは深い感慨と慰籍をおぼえる。

本歌集一巻をおおう風韻は、時に直撃的な無辺の暗喩を駆使しながら、言葉にまきこんだ情念が歌の深さや重さをかたちづくっている。冷徹で熱い視線が、韻律の華やぎをたたえながら内部の軋みを烈風のように吹きあげ、歌が直截に生きていることのよろこびをあきらかにしているのである。それにしても、注目の一首、

わが内の修羅鎮めても鎮めても怒りしぶきてくる 雨の音

鎮めえぬ混沌に引き裂かれながら、ここにしぶく雨音は、絶望も救済もありはしないだろう無明の宇宙における存在感覚をうがっているということだ。その境涯を受苦の共有の抒情にたたきこみ、剛くしなやかな技法と精彩究める調べをもって、内にかかえた闇は自然の精気とともに一つのたかみに削がれている。自己を相対化しなおも反復するイメージは、強靭な超越性をもっている。ほとばしる詩心は、ほかでもない聖なる原風景におけるいのちの発露であったのだ。

ここには、まぎれもなく風の草原に浄化されてゆく修羅の優しい眼差しがある。時空に強烈な光を投げかける抒情とあいまって、飛高敬の絶唱は開かれたパトスの永劫の論理になっている。


『曠野』第78号(2015年02月11日発行)


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