荷風散人の正月元旦


 永井荷風は、『断腸亭日乗』を大正六年(一九一七)から昭和三十年(一九五五)まで、すなわち三十四歳から死の直前までの四十二年間書き継いでいる。
 
 時折、何の脈絡もなく、私は、この『日乗』を紐解く。流れるままの時間と空間に遊ぶ。
 確かに、『日乗』は単なる日記ではない。虚実入り混じった、推敲に推敲を重ねた荷風ならではの日記文学である。が、そこからは散人の息遣いが実に生々しく迫ってくる。

 歳晩、何かと慌しい日々。
 荷風は銀座裏で冬帽子を求め、大黒堂で晩酌、編集者と打ち合わせ。そして、それがすむと、今度は飄々と玉ノ井陋巷の逍遙と相成る。別に”荷風ファン”でもなくても、その粋な孤高の風姿は、まさにダンディーそのもの。男一匹、こうでなければならぬ。荷風が、今、とてもおしゃれっぽく見えてくる。
 『日乗』の何と反日常的生活の新鮮なメッセージよ。
 
 荷風散人が、アメリカ、パリの生活を切り上げ、森鴎外、上田敏の推薦により就任した慶応義塾教授を辞し、新橋の芸者と別れ、神楽坂の芸者を身請けするという中で、『おかめ笹』を連載中だった大正七年
(一九一八)、四十歳になったその年の元旦は、
「例によって為す事もなし。午の頃家の内暖くなるを待ち、そこら取片づけ塵を払ふ」。
 といかにも素っ気ない。
 素っ気のない洒脱さ。
 年末、大久保余丁町の家を人手に譲り、築地二丁目の本願寺裏に移住した。

 その本願寺裏の家で向かえた翌大正八年
(一九一九)は、
「九時頃目覚めて床の内にて一碗のショコラを齧り、一片のクロワッサンを食し、昨夜読残しの『疑雨集』を読む」とある。

「年賀に行く処なければ、自炊の夕餉を終りて直に寝に就く」(大正九年)。
 この年、大正九年(一九二〇)五月、麻布市兵衛星町の偏奇館に移る。

「年賀の郵便物を一閲して後台所に行き昼餉をつくり珈琲を煮る。食後前年の日記を整理し誤字を訂す」(大正十年) 
「腹具合よろしからず。炉辺に机を移して旧年の稿をつぐ」
(大正十一年)
「睡を貪って正午に至る。晴れて暖なり」
(大正十二年)
「晴れて風なけれど寒気の甚しきこと冬の如し。去年の日記を整理し、入浴して後椅子によりてうつらうつらと居眠る中、日は早くも傾きたり」(大正十三年)
 
 一人身の荷風の元旦には家庭の団欒のかけらもない。
 芸者との交情を通して見る文士の研ぎ澄んだ眼と、周りに進撃する文明化への反発。
 荷風は文学と遊興の鬼と化していた。
 江戸の遺跡遺風を尊重し、隅田川畔の下町に江戸情緒をさぐり、花柳界に通い続ける。

 「快晴の空午後にいたり曇る。風なり暖なり。年賀の客一人も来ず」(大正十四年)
 
 むろん、この「年賀の客一人も来ず」は人の世の淋しさを嘆いているものではない。そんな甘ったれた浮世など、とっくにお別れしている。
 元旦といえば終日門を閉ざし、火を点じてショコラを食べ、炉辺に机を出して旧稿の貝書き継ぎや読書をして過す。
 
 たが、昭和二年
(一九二七)、この年の元旦は銀座に出掛けている。  
 「風なく寒気烈しからざるに銀座に往き太牙
(タイガ−)楼に登り見るに、酔客雑踏空席殆なし」(昭和二年) 
 馴染みの連れとの華やぎである。何とも粋である。
 新春三カ日は銀座通りの店は休みで、太牙楼しかなかったのであろう。
 夜、帰った荷風は柳北の『硯北日録』の万延元年の巻を写して深更におよぶ。
 この頃、銀座尾張町のカフェー・タイガーで夕食をとることが多くなる。というのは、この店の女給に荷風は深い関心を寄せていたからだ。
 
 昭和四年
(一九二九)、五十一歳。
 町には「出船」「波浮の港」が流行っている。
 「終日机によりて去年の稿を継ぐ。
(略)晩間山形ホテルに夕餉を食し、谷町通りを歩みて帰る」(昭和四年)
 
 翌昭和五年
(一九三〇)、金融恐慌の影響で銀行の取り付け騒ぎが起こる。
 そこで、正月早々に、
 「万一を慮
(おもんばか)り朝の京橋第百銀行に移し入る。帰途太牙に憩ひ昼餉をなす」とある。
 文豪は財布の紐を締めるところは締め、生活費の自己管理に徹していた。
 
 それが、昭和七年
(一九三二)元旦になると、
 「午後三時過、電車にて音羽護国寺前に至り、それより歩みて雑司が谷墓地に赴き先人の墓を俳す」とあり、この頃から元旦の墓参が習慣化されていく。
 
 世は前年に満州事変が勃発、北海道や東北地方の冷害、凶作で娘の身売りが急増していた。
 雑司ケ谷墓地で蝋梅馥郁たる先行の墓前に香華を手向けてからの荷風のコースは、護国寺門前から電車で伝通院に至り、大黒天に賽し、飯田橋の河畔から神楽坂上に出て、出原町で憩い夕食。
 あるいは、まず鬼子母神に賽してから、玉ノ井、浅草に歩を進め、「遊歩の男女織るが如し」だったのは昭和十二年(一九三七)のことだ。
 この年、『墨東綺憚』を書き、銀座八丁目の茶房きゅうるぺを溜まり場にさまざまな人と会っている。
 きゅうるぺは当時の荷風の社交の場であった。
 
 昭和十四年
(一九三九)、六十二歳。
 この元旦は浅草、玉ノ井に遊び続ける。馴染みの家で正午まで眠り、四時近く家に帰り、「自炊の飯食ひてまた眠りぬ」。
 遊蕩三昧だが、それが荷風散人における普通の生活だった。
 
 やがて、太平洋戦争が起こり、不自由極まりない生活を余儀なくされることになる。
 「炭を惜しむがため正午になるを待ち起出で台所にて焜炉に火を起こす。焚付けは割箸の古きものまたは庭木の枯枝を用ゆ。暖き日に庭を歩み枯枝を拾ひ集むる事も他人めきて興味なきに非らず。
(略)配給の餅を焼きて夕食の代りとなせり」(昭和十八年)
 
 東京の空襲は日増しに激しくなっていく。
 警報があり、「砲声爆音轟音として窓の硝子をゆすった」のは十月。そして、昭和二十年
(一九四五)三月十日、東京大空襲。五ケ月にわたる被災記事が読む者の胸をえぐる。
 
 昭和二十三年
(一九四八)、七十歳。『日乗』は、このあたりから淡々としながらも、正月元旦はどこか鬼気帯びてきている。
 「来訪者なし。終日家のあり。七十になりしあしたのさびしさを誰に告げむ松風のこえ」
 「終日家にあり人来ずバルヴェスの『地獄』を読む」
(昭和二十五年)
 「晴。金沢氏来訪」
(昭和二十六年)
 
 それでも翌年は浅草に遊び、流行の女剣劇に興味を示し、「花月劇場大江美智子一座。ロック座築地澄子。天龍座不二嶺子。公園劇場大倉千代子。松竹演芸館大利根純子。浅香光代」の看板が出ていたという。
 散人のエロスは燃え上がり、ストリップ劇場の楽屋で踊り子に囲まれてご満悦の日々が報道されている。

 しかし、その後の元旦は「家にあり」、「終日門を出でず」と続く。
 昭和三十三年
(一九五八)、八十歳の元旦には、
 「正午浅草。飯田屋に飯す。公園の人出いつもより多し」
 といかにも嬉々としている様子がうかがえる。飯田屋は荷風贔屓のどじょう屋の店である。
 ほとんど毎日、自宅のある京成電車八幡駅から浅草通いが行われるようになる。ほぼ、同時刻、同じコース、食事をする店の席も決まっている。
 
 晩年には<正午浅草>が日課となってる。
 最期の年の昭和三十四年
(一九五九)元旦は、やはり、
 「正午浅草。
(略)雨雪となる」
 
 文部官僚の父親のもとに恵まれた環境に育ちながら、若くして落語家、狂言作者の道をこころざした荷風は、自らその選良コースに反逆した。
 「市中の散歩は子供の頃から好きだった」。江戸文化を心の糧としながら、若くして嘉永板の江戸切図を懐中に日和下駄に蝙蝠傘で逍遥している。

 パリをこよなく愛したように浅草や深川を、吉原、玉ノ井を深く愛し、その「遊離に留連」した。
 荷風には浅草も、深川も、吉原、玉ノ井も、一つの夢であり、幻だった。ここには、負の異郷を通じてしか、東京の幻景を求めざるをえない戯作派の運命と悲哀がある。
 大逆事件の衝撃が、遊藝遊蕩に向かわせたというべき<荒廃の詩情>が大きはたらいていかのかもしれない。

 それにしても、「無聊なる閑人」にとっては、江戸の狂歌が勃興した天明時代の風流、また草双紙浮世絵をはじめ、文人趣味の筆硯墨紙が何よりのささえであったのだろう。
 震災前の東京には、まだ荷風が理想とする江戸文化が艶やかに息づいていたのである。

 明治、大正の国家ナショナリズムが膨張していく中で、何より凡俗であることを憎んだ荷風散人にはその野暮の骨頂であるところの成金の功利主義や実利主義がどうしても身にそぐわない。
<東京>は急激に変貌していた。
 鉄の鉄橋が造られ、江戸川の岸がセメントで固められ、木々が容赦なく伐採され、いたるところの閑地に土木工事が始まっていた。
 
 そこには、暮れゆく年の夜の静けさがない。
 月の明るい通りがない。
 山の手の坂道がない。
 寺の塀沿いに歩く人影が見当たらない。
 土蔵の壁に揺れる木の影がない。
 ーー裏町を、横町を歩こう、と荷風は叫ぶ。
 
 荷風の愛する自然は、江戸の名残をとどめた陋巷であった。
「およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味はおうとしたエジプト、イタリーに赴かずとも現在の東京は歩むほど無残に傷ましい思いをさせる処」
(『日和下駄』)はなかったのである。
 
 失われた日本の風景と心情。
 正月元旦ーー私は、荷風の日乗をよく読む。
 日乗最期の年の昭和三十四年(一九五九)正月元日。荷風散人年八十一。
「正午浅草。・・・・雨雪となる」と。

     『文藝タイムス』2000年1月号

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