梅原猛著『世阿弥の神秘』(角川学芸出版)

草も木も成仏する世阿弥のパトス

梅原日本学の根源を揺さぶる世阿弥の世界




 

中世の闇を巡りつづける世阿弥とはいったい何者だったのだろう。この乱世の美の戦略に苦悩する国家的エンターテイナーは、未だ謎めき「秘すれば花よ」と不敵に笑いかけてくる。

大和猿楽において、わけても物真似を本意とする観世座が京好みの美意識を高めてゆく中で、至高の幽玄美を織りなしてゆくことは、いってみればこれも時代ファッションの潮流の証しだった。「能の本を書くこと、この道の命なり」(「花伝」)と命がけに能を創作し改作し、熱狂的な絢爛の宴を持続するにはごく自然のなりゆきであったのかもしれない。複式夢幻能のシテの舞は無上の女の哀れをたたえ、人のこころに深く迫る。世阿弥の舞台こそ、いわれなき敗者の抒情であり、執心・妄執を逃れられぬ人間の業であり、祈りと鎮魂による夢の願望であるのだろう。

こうした世阿弥に関する研究や伝書の基礎的な大系は、不出世の研究者の功績などにより、現在一つのうごかしがたい分水嶺になっている。だが、はたしてそれでいいのか。近代合理主義による能楽論が臆面もなく百科総覧の態をなしているだけではないのか。

本書は在来の能楽論に真っ向から取組み、その深層を説き明かしている。すなわち、「今までの世阿弥論は、彼の人生とその作品との関係を殆ど論じなかった」のであり、「その作品がいつの時代につくられたか、それによって世阿弥の人生を解明しようとする研究はまだない」と、日本文化研究には中世が必要であるとして、八十歳を越え突然に「中世」が襲ってきた著者・梅原猛ならでは気丈とともに、深遠清新に徹した深い洞察がおこなわれる。

本書の核心は天台本覚思想を芸術化した作品として、「高砂」「西行桜「当麻「殺生石」「白楽天」があげられている点にある。屈指の名曲に独自の新たな光学が当てられるのだが、この「天台本覚思想」こそ、「能楽という芸術を形成する根本思想」であるという。天台本覚思想は平安時代に生まれた思想で、鎌倉新仏教の浄土、禅、法華に共通する思想的前提となり、「草木国土悉皆成仏」と表現される。ここでは人間ばかりでなく、草木や動物、鉱物などもふくめた森羅万象が仏となる。つまり人間ではない鵺や蝶や魚、桜、柳や梅の精がシテとなり、また怪獣や雪なども怨霊となって現われ、これらはいずれも仏性をもち、仏教の教えを聞くことにより、鎮魂されて成仏する。

さらに著者は、「世阿弥は生きとし生けるものの代表は人間であるという人間中心主義の思想を超えている」と爽快明晰に指摘している。

こうした日本の伝統思想は、現代の文明の危機を超克する思想であるが、中世の風塵の辻にたちすくむ世阿弥は常に絶叫していたのだろう。連歌・猿楽・酒宴に乱舞する室町第の虚構の文雅の共同体を背景にした栄光の一座は、また同時に衆生の宿命的な悲哀そのものの全容をかかえて苦闘していたといえる。シテの霊力による夢幻空間は、まさに「仏法あれば世法あり、煩悩あれば菩提」なる浄土の遥かな輝きであったのだ。

世阿弥芸術の本質が、天台本覚思想による万物成仏の祈りであったことには、六百年を経た今日において慄然とし、あらためて身を糺すおもいになる。

すでに、前書『うつぼ舟』一巻、二巻により能楽の祖・秦河勝の流罪流浪があきらかにされ、加えて観阿弥・世阿弥の出自については伝統と古式に則る能楽界が一蹴し頑としてとりあげぬ、江戸時代末期の写本「上嶋家文書」を紐解き、南朝ゆかりの伊賀上野であることを一気に論断していることも興味深い。

著者は「世阿弥と能の研究にあと二年はかかる」というが、精力的なフィールドワークと慧眼により、ここに新たな世阿弥の解読・鑑賞・研究が史実豊かに検証された。旧来の世阿弥学に震撼が走り、能楽研究に一刀両断の大鉈が振るわれたのだといっていい。

だが、何も今さら、これらの一撃を驚くことはあるまい。思えば、『地獄の思想』(中公新書、一九六七)において、著者はすで世阿弥の真髄に迫り、その妄執の世界を論破していたのだった。つまり、能の特徴は人間中心主義でない。「主人公シテは人間ばかりか、鬼や鵺や桜や杜若ですらある。いったい、人間以外の動物や植物の霊がドラマの主人公である場合が、世界の劇にあるであろうか」と。

梅原学の集大成に向かう世阿弥と能の研究により、哲学者にしてスーパー歌舞伎創出者の根源のパトスが熱く揺さぶられている。


『図書新聞』2011年01月01日号


 
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