世阿弥流罪考 



 いつか佐渡の世阿弥の配流跡を辿りたいと思っていた。
 歴史の迷妄の闇に埋もれた世阿弥の最期の風姿にすがりつくように、佐渡の痛切な風光に触れてみたかった。
 日本海の荒波にもまれた島は、順徳j上皇をはじめ、京極為兼、日蓮、日野資朝など遠流の悲しみを色濃くただよわせている。
 
 五月半ば、訪れた佐渡は折りから小雨に煙っていた。
 両津に着き、潮の匂いと湿気にに満ちた空気に触れた時、これが佐渡の風なのだ、と私は思った。
 世阿弥配流の初夏の風であったか。
 チャーターしてあったのはおけさ観光タクシーで、両津から一路海沿に南下、前浜海岸を走る。
 海は険しく曇り、憂鬱な空模様が変幻する光を投げている。松ケ崎は、世阿弥着船の地である。潮風の中を無性に歩いた。花の影の片鱗にでも出会うことができないか。しきりに、むなしく思っていた。
 そして、車は北上、そのかみの古道を走り、途中、山間に丸山神社の素朴な能舞台を見てから、長谷寺に着く。
 小雨の上がった長谷寺の石段を、私はゆっくりと登っていった。
 この長谷寺について世阿弥は「山路を下れば長谷と申して観音の霊地にわたらせ給ひて故郷にも聞こへし名仏なれば懇に礼拝し」(「道の記)と記している。その境内の色鮮やかに咲いている牡丹が印象的だった。
 また、”配所の寺”として知られる金井町泉の正法寺の境内にある観世太夫腰掛石に手を伸ばし、ふと触ってみた。世阿弥伝承を佐渡で伝えているものといいえば、第二の配所であるこの寺だけらしい。何の変哲もない、台地にどっかと居座った腰掛石である。

 それにしても、いったいかなる罪だったのか。
 佐渡流罪は謎のままになっている。幼名鬼夜叉、藤若、通称三郎、実名元清。その世阿弥が京都を発ったのは永享六年(一四三四)五月四日。若狭街道か、もしくは琵琶湖の船便で越後小浜に行き、ここで船待ちし、五月末に佐渡大田浦に着いている。大田というのは佐渡の南東部、同じ入江に松ケ崎がある。
 ジェットフォイルで新潟から約一時間、両津から海沿いの道を車で飛ばした午後、私は漁船が波打ち際に並ぶ静かな漁村の松ケ崎港に佇っていた。冷たい潮風に、思わずスーツの下に薄手のセーターを着込む。
 
 大田に一泊した翌日、世阿弥は小佐渡の峠を超える。笠借峠という室町時代からの古道で、ここで駒を休め、山越道を下って長谷寺に詣でる。その観音堂に「ねんごろに礼拝」した。
 そして、そこから、満福寺へと落魄の重たい脚を引きずっていったのである。今は廃絶しているこの満福寺が囚われ人の小院であった。老いた世阿弥は国の守の代官の監視下におかれたのだろう。三カ月して、近くで合戦が起こり、やむなく泉に移る。
 
 思えば、室町時代にはさまざまな風流(ふりゅう)が取り入れた芸能が勃興している。
 なかでも、当時の田楽、猿楽の芸能集団は寺社の祭礼を求めて、旅から旅の興行を業としていた。吉野・多武峰に参勤する観世一座は大和だけでなく、七道の者とさげすまれながら飢餓と病苦にとらわれながら、伊勢、近江、河内など各地を巡業していた。
 
 その観世座を率いる観阿弥が、京都今熊野で『翁』を演じたのは応安五年(一三七二)のことだったか。
 世阿弥の父観阿弥は、大和猿楽の写実を衷心とした能を、風流と歌舞の要素を取り入れていくのが特徴で、これをきっかけに、京都に観阿弥の名が高まり、やがて絢爛の室町文化の高揚と倦怠をあわせもつ足利義満に、観世父子は絶大な評価を得るようになる。
 才気あふれる年若のめくるめく日々だった。
 十二歳の世阿弥は摂政二条良基に初参して、藤若の名を賜る。有力大名を容赦なく切り落し、絶対幕府の統率に邁進する一方で、将軍義満は室町文化の高揚と倦怠に明け暮れていたのだが、この美とデカダンの祭主にはべりつつ、世阿弥は連歌を詠み、蹴鞠に堪能し、祇園会を見物する。
 紅したたる卑しき少年は、将軍に人目もはばからず寵愛されていったのである。

 これを傍らから見ていた押小路公忠は憤然として、
「カクノ如キ散楽ハ乞食ノ所業ナリ」と記す(『後愚味記)。
 その散楽が声聞師(しょもじ)の配下のおかれた漂白の白拍子や神子(みこ)、鉢叩、歩き横行、猿気など下層の賎民の職とされ、その出自を問われたとて、もはやいったい何であったろう。世阿弥は土俗の闇をかかえた漂白芸能者の新しい劇的構想を練り上げていった。ひとえに観衆の心をとらえ、自分の演技をみがき、幽玄の境地に徹していくことに己のすべてを賭ける。
 それは、西行にはじまる美と幽玄の伝統の滔々たる流れを正等に受け止めるということであった。

 舞台幽玄を本体とする世阿弥の能は、「何と見るも花やかな為手、これ幽玄なり」(『花伝書』)であらねばならない。
 いってみれば、それは本来の田楽や猿楽の持つ欲望のダイナミズムに充満した大衆芸能から、能を至高の芸術に纏め上げることである。
 その幽玄無上の美学こそ、絢爛の室町幕府の絶対強化をはかる将軍義の挑発的な戦略の一環でなくて何であただろう。乱世を生きる芸能者の<花>のよすがとして、宿命的な時代の思想を反映していたのだともいえる。

 応永六年(一三九九)、京都の一条竹ケ鼻(現上京区滝ケ鼻町)で勧進能が演じられ、連日、管領や四職の武将が桟敷の用意をし、そこで将軍が観世の能を見ている。
 世阿弥三十六歳、絶頂期であった。
 しかし、ここから、世阿弥は下降期に入ったといわれる。近江猿楽の犬王が将軍の道号を賜り、道阿弥を名乗って、評判になってゆくにしたがい、第一戦から退くことになる。つまり、世阿弥は当時の芸能の激しい競争原理から、脱落していったのだといえよう。

 まもなく世阿弥のパトロンであった義満が没し、その跡を継いだ将軍義持はもっぱら田楽を贔屓にし、増阿弥の演能にたびたび臨席するというありさまだった。それは、次の将軍義教の時代にいたっても同じことであった。
 恐怖政治を断行した義教は、意に染まぬ公卿、僧侶、武家の首を情け容赦なく刎ね、南朝皇胤の断絶をはかり、また敵対する関東鎌倉の殲滅にに大軍を派遣する。世に一揆が起り、土蔵が襲撃され、不作続きで人々が死に、地震や火事で町は荒れた。
 京の都には流民であふれかえる。加茂川には人々の死屍が幾万と折り重なった。

 悪御所とよばれた義教は、連歌、猿楽、酒宴にふけった。
 将軍第では、もっぱら世阿弥の甥の音阿弥が重用されるようになっていた。音阿弥はそれに応えて伏見勧進能を催し、満都の喝采を博した。当然、世阿弥の長男である元重は無視されることになる。
 後援者を失った世阿弥は第一人者ではなく、いまや流行遅れの一介の申楽者にすぎない。しかも、不幸が重なる。世阿弥父子は、それまでのすべての権勢から外されていく。

 永享元年(一四二九)五月。
 世阿弥父子の仙洞御所演能が禁止となる。あろうことか、音阿弥が醍醐清滝宮楽頭に就任。観世太夫の長男元重は、京都将軍家と対立する南朝吉野方と何かと親しくしていたところかやらくる幕府の叛意を被っていたともいわれる。
 また、次男の元能が世阿弥の芸談を筆録した「申楽談義」を残して出家。そして、四年後の永享四年(一四三二)八月、世阿弥自らの芸道のすべてを託した元雅が四十に満たずして、伊勢安濃津で客死したのである。
 これにより、晴れの糺河原勧進猿楽の観世太夫は、音阿弥が就任披露することになる。世阿弥という一世の統率者、演出家としての面目は、もはや、どこにもない。しかも、こうした一連の悲劇は、なぜか、将軍義教時代の六年間に集中して起っている。

 佐渡配流の世阿弥は、ときに七十二歳。
 なぜ、「罪なくして配所の月を見る事」になったのか。
 諸説があるが、確実な史料はない。ただ、配流中、金春が妻の面倒をみていると同時に、佐渡の世阿弥のもとには何かと送り届けて、その生活はさほど不便でなかったものらしい。
 
 その頃、京の街は戦乱に荒れ狂っていた。
 うたかたの<花>などにかまっていられない。血の地獄の真っ只中に漂流しながら、すでに世阿弥は遠い過去の人間だったのであろう。佐渡配流については、上流階層をはじめ誰もまったく関心を示していない。
 老残を晒す申楽師の流罪など、何であるというのか。当時の夥しく残された諸記録のいずれにも、その消息の片鱗さえうかがえないのである。

 嘉吉元年(一四四一)六月、将軍義教が暗殺される。
 家臣赤松邸で念願の関東制圧を果たした祝いの席に招かれ、能を見ている最中、刺客に襲われた。世にいう嘉吉の乱である。
 この年、世阿弥は何かの符号のように佐渡流罪を許されている。それは一休禅師のはからいによるものだともいわれるが、帰洛して女婿の金春禅竹のもとに剥落の身を寄せたのか。それとも、ひとり島に残ったまま、八十一歳の天寿を完うしたともいわれるが定かでない。

 『金島書』は佐渡の配所でしたためた小謡曲舞集であるが、それは心澄んだ、円熟の文章に徹している。まさに、「見るべきほどのものは見つ」的心境の一巻。
 この『金島書』を読むかぎり、ここが終の棲家というかのように鋭い詩精神の極地にt収斂されている。
 
  あら面白や佐渡の海
  満目青山なほ自ら
  その名を問へば
  佐渡と云ふ黄金の島ぞ妙なる
 
 世阿弥は、これをもって消息を絶った。
 この島の内に、人の生の果ての幻を見ていたのでなかったか。乞食所業を逸脱した至高の幽玄の世界には、陰惨な物狂いの恭しい花々が慄然と咲き乱れなければならぬ。世阿弥は、あまりにも深い修羅と妄執の闇をかかえ屹立していたのである。
 
 佐渡は”能楽の里”として観光パンフレットにも大きくうたわれているが、島内にある三十二の能舞台はすべて江戸時代につくられたものらしい。
 佐渡博物館正面には世阿弥直筆の書状「佐渡状」を基につくられた記念碑が建っていた。
 晴れ上がった五月の空が透明な光にあふれている。
 その光のあわいに、ふと、佐渡状における世阿弥の苦渋の声が聞こえてくるようだった。
 世阿弥の緊張に満ちた波瀾の生が、また、重く私の内に迫ってきた。


(「文」2000年9月号掲載)
 
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