世阿弥の幻



  1
 
世阿弥の花の<幻>が眩しく匂い立ちはじめようとしていた。
 時に、応永七年(一三七四)十二月。
 京都今熊野神社で、観世一座による神事能「翁」が演じられた。
 これを見た十七歳の将軍足利義満は、感動する。ーーすべてのはじまりであった。
 
 この頃、観世が参加している結城座は、もともと多武峰(とうのみね)、興福寺に属して、寺社の法令や祭礼に奉仕する一団であった。平素は各地の巡業にでる漂泊の芸能集団である。
 こうした中で、観阿弥の優雅な歌舞を取り入れた猿楽は新たな趣向として、注目をあびつつあった。世阿弥、幼名鬼夜叉は十二歳、紅も滴る美少年だった。

 これ以降、義満はその風雅なたしなみととに観世父子を贔屓にしていく。
 かくて、観世一座は将軍家の絶大な保護を受け、大和猿楽の地位を確立していことになる。

 鬼夜叉は藤若という名を賜り、世阿弥は人目をはばかることなく義満に寵愛された。
 内外に山積する国事をかかえながら豊熟した足利幕府の華麗な文化サロンとともに、その波瀾の新興芸術は<祭り>から、<劇>へと飛翔していったのである。

 もともと、猿楽は大和において「七道の者」であった。
 漂泊の白拍子をはじめ、神子、鉦叩、鉢叩、歩き横行、猿引きらとともに下層の賎であり、同じ賎民階級の声聞師の配下にあった。

  カクノ如キ猿楽ハ乞食ノ所業ナリ。シカルニ賞玩近仕ノ条、世以テ傾寄ノ由。
                                       (『後愚昧記』)

 この押小路卿の憂慮や焦りも当然のことで、芸能のすべては下賎なものであり、ましてや、将軍や貴族が近くにはべらすことなどもってのほかであった。
 しかし、時代の狂気である美とデカダンに先鋭に研ぎ澄んだ義満は、そんなことに頓着していない。下賎な観世能ならばこそ、その芸能の闇の花を、貴族世界に戦略的に絢爛と咲かしていかなばらぬ。
 
 2

 少し整理しておこう。
 室町時代、芸能史上において、さまざまな中世芸能が完成している。
 延年舞、田楽、白拍子舞、曲舞、幸若舞などの芸能が、多彩に繰り広げられる。小歌が流行し、語り部としての平曲も盛んになっていた。
 諸国の祭礼には、「道々の輩」をはじめ、白拍子、御子、田楽、呪師、猿楽、乞食、非人、病唖の類が集まった。遍歴する芸能は土俗の闇をかかえながら、内なる美的怨霊を探し求めていたのだろう。その中でも、この時代の中心は何といっても猿楽であった。

 当時、大和猿楽には、結城(観世)、円満井(金春)、外山(室生)四座をはじめ、近江の日吉神社に属する上三座、下三座。また、京都、宇治、伊勢、伊賀、河内、越前、熊野などにも猿楽があり、それそれ鎬をけずっている。各座は各地を精力的に巡業し、権門勢家に出入りして、ケ亀裂な覇を競っていたのである。
 こうした競争の過程を経て、観阿弥(一三三三〜八四)の率いる結城座が脚光を浴びることになり、やがて能を大成していくことになる。

 大和猿楽の源流は、いわずとしれた大和国城下郡杜屋(もりや)で、古代楽戸の血を引く秦氏を名のる下級の遊芸者の一団である。
 猿楽は、そもそも祝宴の席などにおける奇術、曲芸に、軽妙な歌舞、音楽を加えて演じられている。つまり、猿楽というのは軽業的な要素が非常に強かったのである。忍術の秘伝の変身の術には、猿楽師も含まれ、非賎な散楽、散所の民は、古来、諸国を漂泊放浪している。山伏と同じように諜報活動をし、そのことで暮らしをたてていたともいわれている。
 民衆の間の情報をもたらす人のことを「志能便」といった。危険な山中を歩くためには、技(わざ)が必要である。自衛手段の一つであり、それが忍術といわれるものであったのだろう。今日の能の所作の一つ一つに、その忍びの技を解明しようとするアングルもあるが、むろん、それがすべてでないことはいうまでもない。

 観世家も秦姓を名のり、当初、結城の糸井神社の神事に奉仕していた。
 観世家図の異本『上島文書』といおう一書がある。
 江戸時代末期の書写とされ、現在、その系図は信頼に欠けると断定されている。だが、この「伊賀観世の系図」の伝えるところによれば、世阿弥は南朝の血を重々しく引きずっていたことになっている。
 世阿弥の母は伊賀小馬の人、竹原大覚法師という者の娘。生年は正平十八年=貞次二年(一三六三)。しかも、観阿弥の母と楠木正茂とは姉弟という間柄であった、というものである。 

 3

 世阿弥は第一人者となりながら、奢ることなく、詩魂をたぎらせている。
 それと同時に、絶えず演じる者としていかに大衆の目を意識していたか。<花>は、華麗優美でなければならぬ。それは、「衆人愛敬」が、その芸の要諦の一つであるということからもよく分る。
 
 いかなる上手なりとも、衆人愛敬欠けたる所あらむをば、寿福増長の為手(して)とは申がたし。しかれば、亡父は、いかなる  田舎、山里の片辺(かたほとり)にても、その心を受け、所の風儀を一大事にかけて、芸をせしなり。
                                 (『風姿花伝』)

 大衆に愛される芸能をつくるには、土地の慣習や民俗に深く関わっていかなければなんらない。そこに一座の繁栄がかかっており、常に芸の練達に励む「所の風儀」を負った者の葛藤があったのである。
 漂泊芸能者の新しい劇的構想は、闇の深淵に引き裂かれるように展開されていく。将軍の庇護寵愛を受け、大衆の歓呼を受けている絶頂にあっても、流れの一瞬の芸に歪が現れるやたちまち見放されてしまいかねない極限での闘い、技の冴え、緊張と覚醒のあわい。
やがて、世阿弥一座は満都の拍手喝采を浴びるようになる。

 世阿弥は、その「乞食の所業」の稽古に一心不乱に励み、精進を重ね、常に観衆の心をとらえて自分の演技を磨いた。
 それは大和猿楽の写実、物まねを生かしつつ、いかに幽玄の境地ある世界に能を纏め上げるかということであり、父観阿弥が打ち立てた高い芸風を継ぐということでもあった。
 こうした中で、世阿弥は百七十四番という多くの能をつくっている。
 
 能の詞章である謡曲の題材は、霊験説話、文芸説話、武人説話、世話巷談、異類説話、中国伝説によっている。
 また、その出典は記紀をはじめ、、万葉集以下の歌集、伊勢物語以下の物語、今昔物語以下の説話集、平家物語・義経記、曽我物語などの軍記物、社寺の縁起など、あらゆる古典にわたっている。
 それと同時に世阿弥は、『花伝書』『申楽談義』などの伝書により、能の芸術理論を展開している。
 4

 栄光の日々であった。
 各地の有力な大名の統制に苦慮する不安定な足利幕府にとって、<美>もまて方便であり、権威の象徴の一つであったか。
 将軍家では連歌会に夢中になり、またわけてもただならぬ出自の能楽に興味を示していくのだが、それは働する庶民の原理からは大きく逸脱していた、といえる。
 将軍義満が美童世阿弥と会ったとき以来、田楽などの持つ豪放な性や笑いの欲望のダイナミズムを否定し、ひたすらに幽玄という芸術的完成をめざしたといおうのも、まさに運命的なことであった。

 そう、幽玄という艶めかしい美しさ。
 鎌倉中期の藤原定家の説く<余情妖艶>は、挑発的な室町時代のありかとして、「何を見るも花やかな為手(して)、これ幽玄なり」(『花伝書』)という芸術的完成に向かわねばならない。世阿弥は、時代の思想の反映としての歌舞幽玄を本体とし、一方、また将軍義満はこれまでの確固たる貴族芸術に新たな美の原理を持ち込むことで、この極北の両者は符合し、争乱の時代を切り抜けていった。

 だが、そうはいっても、申楽散所の一族は、絶えず危険に晒されていた。
 漆黒の闇の歴史の裂け目で生き延びていくには、その一子相伝こそ、一つの隠れ蓑であり、身の証しそのものであった
 練り上げられた究極の美の所作、一片の風姿、一節の詞章。
 それらは、動乱に生きる暗い負の存在としての、それこそ秘められた戦略的条件ではなかったのか。
     
 幽玄の花は、時代の覇者の栄光に寄り添って匂い立つ。
 かくて、大和猿楽を不動の芸術に高めた世阿弥は絶頂の芸を展開していくことになる。
 しかし、応永十五年、絢爛の花の御所、北山文化を創出した三代将軍義満が逝去。
 この義満亡きあと、世阿弥はそのパトロンを失い、衰微の一途を辿ることになる。


(2004年4月・未稿)

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