戦慄歌わん

飛高敬歌集『この一首を読む』
現代短歌社)

太田代志朗


 
 『この一首』は、第一歌集から第五歌集までの秀歌がえらばれている。百五十二人による一首は屹立し、新たな波立ちをもってわれわれに鮮やかにせまってくる。それぞれの詩的信条による一首の詠嘆性、その背景や時代の重みにくわえ、そこからとどまることのしらない黄金律の自由な世界がはばたく。類いまれない絶唱と感動のモーメントがひろがっている。

 まさに、「自分の人生の折々の出会い、感動し、支えとなった大切な一首を選んで、熱い心でそれぞれの思いを書き記し」ている。作品選出の的確さはもとより、作者の心象風景をおもんばかりつつ再編された一巻が新鮮なひびきでもって新たに読む者の

 おもえば望郷と不在というテーマこそ、すぐれた近代抒情詩の条件であった。故郷にたいする叛逆や逃亡が、断念としての文学の根源性をはかってきたといえる。それは石川啄木の悲痛な叫びや、萩原朔太郎における葛藤と彷徨の美的倫理のありようがあきらかにしていることはいうまでもない。

 土埃の風が吹き荒れ、空は色をおび、地が臭い、人影もまばらな家郷の暮らしの切実さは、とりもなおさず、逃れられぬ久遠の郷愁を追いゆく悲哀であった。すなわち、「意志なき断崖を漂泊ひ行けど、いづこに家郷有らざるべし」(萩原朔太郎『氷島』)なる酷愛と悲傷の冴えである。同時に故郷を失った文学(小林秀雄)であり、文学のふるさと(坂口安吾)なる叙情の遠景からの告発でもある。

 しかるに、飛高敬の世界は歌ほんらいの調べとともに、独自の研ぎ澄んだ感性により、かけがえのない故郷をしなやかに抱合してことばがはじめられる。ここには、詩語の洗練と淘汰によることはもとより、歌人としての生き方に直属したなみなみならぬ詩魂のかがやきがあるからだろう。

 埼玉県の東北部に位置し、内陸砂丘とよばれる砂の大地には、強烈な季節風と強風が砂塵をまきあげる。旧利根川の風と砂の大地に生まれ育った者の負いと一つのゆらぎが、私性の肉質化した詩情を豊かにくりひろげている。風の大地の自然に向き合った生の緊張感がみなぎり、歌がことばのリズムにのってはばたく。

  閃光のような戦慄歌わんと気負いし時代遠くなりたり(『風の草原』)

 かつて、『風の草原』特集(『曠野』第七十八号・二〇〇五年二月発行)で詳術したことであったが、 かくいう私における「この一首」となれば、やはり『風の草原』を推し、「田園に生を受け、自然と共に生きてきた人間の原風景であり、心象風景」に惹かれている。

 ことばの美と秩序の回復をねがい、故郷の風光がうたわれている。その内面の源泉性とは、山野の神々に呼応じた人間のうちなるデモンであり、同時にたましいの鎮めそのものであるといえる。

 しかもここには、作者の自恃と持続する意志が静かにも力強く提示されている。生を問う主体は通常の完成とか、円熟とか、安逸とかを、老いの身をこえてしなやかに拒否しているということである。

 たとえば、その深層によりそうように沸騰する情念は万緑、怒涛、赫き陽、日輪、熱砂、獣径、荒野、飛沫、御霊、赤銅、断崖、闇底、臓腑、花吹雪、修羅、疾風、土礫、末枯野、肋骨、髑髏など痛切な変調のひびきをもって告示される。

 しかも、この転位した創造的言語イメージはかぎりなく開放され、一つの昂揚と調和をねがってうたいあげられている。汎神論的に身をゆだね、血肉化したそれらの語彙や旋律こそ、とりもなおさず独自の詩情の彩りそのものなのだといっていい。

 飛高短歌の世界は古典と前衛の源流をみつめ、リアルと抒情の三十一音定型を自在に操りながら、それら一つ一つのフレーズに熱意がこもる。老いの含羞をのぞかせながら、「まろやかな余生」にもおだやかならず、新たな原郷の光芒がたゆたう。ならばこそ、「閃光のような戦慄歌わん」とは、士は士でもって宿業たるたましいの詩歌に殉じるということなのだろう。

 短歌結社に情熱をかたむけ、時代や状況に敢然とむかわれ、そこに生の根拠を歌の根拠にしてたちあげる位相は、無類の韻をもって開示されている。

 慶賀すべく「曠野」三十周年をむかえ、初春の風にそよぐ詞華栄頌は、あらためてわれわれを時のみなもとへ誘ってやまぬ。



『曠野』第86号 30周年記念特集号(2017年2月)

 
 ▲INDEX▲