揺れ動く存在感と魂の行方
「決然とした精神性の奔流」にみる孤独と失意


高橋たか子『終りの日々』(みすず書房)


 

本書には高橋たか子(一九三二〜二〇一三)の晩年の五年間が克明につづられている。

「人生の最後の日々ーーという意識が、常に私にはある。その日々に、何をするか? 何も、する気がない、という気分があるのだ。むなしいわけではない。何もすることがない」。この”何もすることがない”という内的言語は呪文の絶唱となって、聖書朗読と思索の日々の無のはてしない回路を錯綜する。

ぼんやりと松林の見える部屋で過ごす独り居の無為の日々、高橋たか子のかかえた根源的な孤独とともに、その魂の行方が問われている。

死を意識したこの虚無の深淵は不思議な透明感にみちている。感官の研ぎ澄む晩年の豊熟した存在の形而上学であろうが、「一日というものが、長い。長すぎる。きっと、何もすることがないからだろう」といい、「人生の、最後の年月、というものを、日々、感じている」。そして「自分がただ呼吸しているという存在感」が醒めた認識により端正に記されているのである。

「あと何年か経てば、死ぬ。そういう意識が私にくっきりしている昨今である。私が死ねば、今かかわりのあるすべては、どうなるのだろうか?」とあからさまに書いてもいる。

高橋たか子の文学の美しさの根底には聖性と背徳がやさしく冷ややかに脈打っている。物語は混沌と渦巻き鋭く背反・離反する。あらゆる宗教、芸術、そして人間の生と死の深層が織りなされる文学空間は、自意識の絶対性に憑かれて不可解な悪と欲望を宿命的に増幅させている。だが、あれほど小説を書いてきたのに、あれほど小説を書きたくてしようがなかったのに、「何もすることがない、とずっと思っている。何をするか? 目下、自分が書きたいと思う長編小説は、無い」という。

そもそもこの時代の真情をうがつあえない文学状況とはいったい何なのだろう。死を、出生を、未来を、そして虚無をいろどる世界がひろがる。悪意のかがやきにみちた鮮烈な文学・芸術とはいったい何であろうか。

生活感を逸脱した手記はひたすら夢想と超自然的なことに徹底している。生と死の無限の砂漠のような空白感が淡い光に縁どられ、また一つのまぎれもない叫びとなってわれわれの心底を揺さぶる。

いったい私は誰なのか。「西洋インテリ」の分身として、拠るべき、“内なるフランス”の葛藤において自らの固有の純化をはかる。つまり、高橋たか子の過剰な創造的軌範としては、何より十九世紀末から二十世紀後半までのフランスとの同質化に徹することであった。そこには「誠意ある作家や芸術家や哲学者や修道者たちの、決して時代に馴れ合ったりせぬ、決然とした精神性の奔流」があり、それはすなわち「精神力、強烈な力」であるからだという。ゆえに終生、周縁の俗悪性を嫌い、「私は、今、日本人でない者となってしまっている」とも断言している。まさに鼻持ちならぬ西洋かぶれだが、その熱望体験の深化こそ独自の鋭利な感覚からつむがれる文学的営為であったことがよくわかる。フランス文学を通じて信仰の道にはいり、カソリック作家として全一の「神の強大なエネルギー」のもとにその絶え間ない波動をみずからのものとして生きていたのだろう。

その人の噂は時代の流れのなかで熱くかけめぐった。すべてを投げ捨てパリへ、エルサレムへいった。粗末な修道服に身をつつみ海辺の村を亡命者のようにさまよっているということだった。皿洗いし夜は小さなベッドに眠り、霊性ゆえに著作の絶版を宣言した。行方知れず時に北海道、時に京都にいるという風の便りであった。才走る孤高の高橋たか子は俗人を寄せつけぬ拒絶の信号を放っていたのだ。そして文学やアートを“情念言語”で語る身近な人もなく、翻訳やフランス女流作家の本の刊行をもくろみ、またパリへ慌ただしく旅立つ季節の巡りに、ふとまた静かな日常にもどれば「家族もなく、職業もなく、ただただ生きている」現実をかみしめる。

自薦の長編に『誘惑者』『装いせよ、わが魂』『怒りの子』『君の中の見知らぬ子』『きれいな人』としていることも興味深い。だがそれにしても、思うに、「あれだけのものを書いてきたのにいったい誰が書いたのかという気分」で、長い一日に「ただ呼吸している存在感」とはいかばかりのものであっただろう。

本書を読み上げ、往時をしのんでいる。われわれを繋ぐ文学というものがあれば、いやそれが空しく過去のものになっていく時代のなかで、花や風とともにやさしい人たちがくれた感動に身をふるわせる。もの狂おしい言語と行為が切々とした光のシャワーとなって降りかかる。

ふと、ひと昔前をかえりみるに、鎌倉・二階堂の護良親王の首塚脇、裏山の枯葉が時雨のように降りしきる平屋は、作家デビューをはたして上京を決意した高橋和巳(一九三一〜一九七一)・たか子がやっとのことで探しあてた住まいであった。そこには大勢の人々が出入りしたが、七〇年全共闘運動の渦中において憂愁と悲哀の新進作家が身罷ると、家は亡霊のように静まりかえった。その幻たちの家の番人になることを拒み、そして新居となる黒川紀章設計による僧院風の玄関の暗いホールで別れの挨拶をした評者をして、高橋たか子の「純朴な文学青年」だという“紺青のオマージュ”を、今は素直に聞いておくことにしよう。

本書は人間の内面を凝視しつづけてきた一女流作家の晩年の死の実感と覚醒が「白い光の、ぱっぱっと炸裂する昼間」の諧調によってつむがれている。「ただ一人で歩いている私自身」が永遠の微笑のもとに語りかけてくる。

終りの日々を甘受する高橋たか子さんの一点をみつめる情熱的な眼差しが茫然と浮かんでくるのである。


 『図書新聞』2012年5月24日号


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