高橋和巳の小説の深層
橋本安央著『高橋和巳 棄子の風景』(試論社)

 
 まさに、高橋和巳の心性のラディカリズムというものであろうか。“全共闘のアイドル作家”として刻印されたテクストが、時代の流れに錯綜しながらも、いま新たな知見によって解明されようとしているといわねばならない。

 本書は、高橋文学におけるこれまでの玉石混交の独善と感傷にとらわれた作家論、評伝的なものを爽やかに一蹴、瑞々しい現代文学への回路に視座をおいて異彩を放つ。  

 埋没した高橋和巳の小説世界を「文芸作品として再読するときに、同時代の読み手が見落としていたものが見えてくるのだ。<褐色の憤怒>や<悲哀>だけが、作者の鍵語ではない」と著者はまず断言する。<父>の論理を前にした無力な<子>の心情レベルでの自己確認は、常におおげさな崩壊感覚をともなって甚だ滑稽ですらあるが、それがいってみれば内面派の高橋和巳が最後まで貫き通した誠実さであった。だが、「作品論をつうじて文芸作家の在りかた」について論及するには、伝説の迷妄にいつまでも愚かに陥ってはいられまい。

 かくて、学園紛争とはまったく関係のないノンポリの一九八〇年代後半から九〇年代前半に思春期を過ごした著者は、「遅れてきた世代」ゆえの衿を糺したリテラシーも快い余韻をひびかせ、鮮烈なデビューを飾った『悲の器』を始めとした小説十編を俎上に載せる。なぜか、最後の未完『白く塗りたる墓』が除かれていることについては知る由もないが、「<時間>と<性>に疎外された孤独のなかで、おのれを賭して不在の<父>を探し求める蒼き姿の彷徨」が明らかにされる。

 つまり、『悲の器』は何より老人の性小説として読まれねばならぬとし、裏切られた国家に裁きを求めてさすらう『堕落』は棄子(すてご)そのもののモノローグであり、『憂鬱なる党派』は終末のない世界における黙示と受胎の暗黒めぐり。虚妄の愛に生きる『我が心は石にあらず』は<性>を抑圧したエリートの虚飾の物語である。そして、民衆と土俗のエートスに彩られた長編『邪宗門』に登場する行徳阿礼ほど<性>にとらわれて艶かしく輝く女性は見当たらないとあざやかに解き、それら一つ一つにうなずかされるところが多い。いずれも、人間の宿業的なエロスとタナトスに激しく揺れる文学作品の本質論に迫る。

 そもそも著者の謂いである<棄子>とは、「どうしても理由なく見捨てられたとしか思えない憎しみのなかで、出口が見当たらない孤児の感覚」である。不条理な<棄子>の怒りと悲しみは、不在の<父>に向かって常におのれの断罪と処罰を希求している。

 たしかに高橋文学のモチーフに色濃くきざまれる破滅、憎悪、相克、解体衝動などのすべては、それこそ<父>へ向けた<子>の叫びであり、告発であり、同時にまぎれもない憎愛の裏返しであるといえよう。没後三十余年、ここに「審美学的に読むことができる」高橋和巳の小説の深層が、情理をつくした独自の眼光により眩しく照らし出されているのである。

 思えばあの狂乱の祝祭を遠景にして、いまさら、鰯一万匹に目くじら立ててもいたしかたない。それでも、その一途で過激な言動が閃光を浴びて鮮烈に切り開いていっただろう同時代の仁義もさることながら、節を持したとはいえ高橋和巳の同行者だった凶状持ちなど、所詮は浅学無能このうえない一介のセンチメンタリストであることを知るがいい。

 いまや、<知識人の苦悩>とやらは三文の値打ちすらなく、ましてや、その内的に禍々しく塗りこめられた呪詛や怨恨、未明の嗚咽や絶望も、煎じ詰めれば駄々っ子まがいの下司なサブカル的狂言回しいがいのなにものでもないのだろう。とするなら、この現代という高度デジタル感性の時代にあって、漂流する高橋和巳は<棄子>という根源的風景に臆面もなくニタリと微笑しながら、おおわれた時代の狂熱からやっと開放され、新たな文学の地平で甦ろうとしているということなのかもしれないのだ。

 苦悩教の始祖でも全共闘のカリスマでもなく、「高橋和巳の姿を浮き彫りにしよう」と、そこに祈りと再生の眼差しをやさしく向ける著者の昂揚感が熱く伝わってくる。


『図書新聞』2007年5月26日号
  

▲HOME▲