波瀾の“烈々たるる文学魂”
――三上兎於吉



 少年時代の私はチャンバラ映画ファンだった。片岡知恵蔵、坂東妻三郎、市川歌右衛門、大河内伝次郎、嵐寛十郎生など銀幕の剣士たちに夢中になった。中でも、親の仇討ちとはいえ、『雪之丞変化』の妖艶華麗な世界に、なぜかときめく思いで魅了させられた。

 そこには江戸の甘い歓楽の夢と、ひしめく闇の殺意が鮮烈に躍った。中村菊之丞一座が江戸へ招かれて中村座の舞台に立つや、いちはやく満都の人気をさらう。菊之丞に拾われ芸を仕込まれた女形雪之丞はもと長崎の豪商の息子だったが、父が密貿易の事件に巻き込まれて悶死。その父を死に追いやった長崎奉行、代官、手代、大商人などを敵と狙いをつけて立ち回るのである。雪之丞の美貌に苦しむ浪路、由緒正しい盗賊闇太郎、女盗賊のお初など、物語は痛快無比、小気味よく二転三転してゆく。

 映画ではお馴染みの長谷川一夫、美空ひばりがあり、絢爛の江戸を背景にその哀切な悪と美が朧夜の花明りのように妖しく縫い上げられ、平成の現代においても、なおグランドミュージカルやオペラ、演劇にと絶えず上演されている。

『雪之丞変化』の作者である三上兎吉は、明治二十四年(一八九一)、埼玉県北葛飾郡桜井村字木崎(木崎は庄和町、さらに春日部市に合併)生まれ。代々医者の家系で祖父と両親の愛情を一身に受けて育っている。

粕壁中学(春日部高校)に入学すると、早熟な文学少年として「文章世界」などに投書。成績優秀で本を貪り読み、学校の近くの古利根川の畔をよくぶらぶらしては、やみがたい思いに胸を熱く滾らせる。時に学友たちと箱根や日光に遠足にいった。また、荒川の畔をあてもなくさまよった。秩父を源流とするこの川の流れに、不安な己の将来のことをぼんやり思い、何よりも文学で身を立てるべく情熱を募らせていった。

早稲田大学に進み、宇野浩二、広津和郎、谷崎精二、直木三十五、国枝史郎、近松秋江などを知り、三富朽葉、北原白秋と親しくなる。

だが、発表した「懺露歌」が姦通罪に値すると掲載雑誌は発禁処分を受け、やむなく中途退学。蟄居謹慎のために帰郷している。大正三年(一九一四)に父が没するまで埼玉の生家に住み、翌年に処女作「春光のもとに」を自費出版、これを機に作家としての道を歩みはじめる。ところが、処女作は朝鮮の独立運動を扱いまたも発禁処分となるのだが、これが機縁で十三歳年上の劇作家として活躍中の長谷川時雨と知り合い、後に結婚する。

不遇をかこつ三上於兎吉を深く理解したのが、長谷川時雨(一八七九〜一九四一)であった。

ちなみに、東京・日本橋生まれで江戸っ子の長谷川時雨は、初の歌舞伎脚本を書くなど劇作家としての活躍を経て、『美人伝』『旧聞日本橋』を執筆するなど脚光を浴びているところだった。また、婦人解放文芸誌『女人藝術』を主宰し、神近市子、山川菊枝、平林たい子、中条百合子などを論客に、林芙美子、矢田津世子、円地文子など女流作家を育てようとしていた。長谷川時雨は三上と知り合うとすぐ同棲、彼女は無名の三上の才能をいち早く見出し世に送り出すことに全力を傾けるのである。そうした意味では長谷川時雨こそ、三上於兎吉を庇護者であり、恩人であったのかもしれない。

時あたかも社会の不安や矛盾を抱えた中で、自然主義文学からプロレタリア文学が興っていた。それと同時に、日本資本主義の勃興により登場した大衆の葛藤が都市の享楽文化を生み、「娯楽本意の通俗的な文芸」がエンターテイメントの美酒として大きく迎えられようとしていた。

大衆向けの通俗小説は話題に話題を呼んだ。これは芥川龍之介と「新思潮」を創刊した菊地寛が、通俗小説に新境地を見出し、文壇の大御所として後世の育成に努めるということとも大きく影響されていた。 

この動きに乗じて、西欧の近代文学に通じた三上は、才気縦横に外国文学の翻案を生かした作品などを精力的に発表していく。現代小説『日鬼』、『日輪』は好評を博した。一般受けする現代物はほとんどが恋愛小説で、登場する色男や毒婦が騙し、奪ったりするというパターンだったが、これにより三上は大衆作家としての地位を確立するのである。

その執筆の場は書斎でなく、もっぱら待合だった。締め切り間際になって、友人や編集者たちに取り囲まれながら書き飛ばしてゆくのだが、それがみるみる仕上げられ、ひと晩で四十枚、五十枚というのはざらだった。いや、時代の寵児、文壇の多産流行作家はケチな通俗小説で金を稼ぎまくると妬まれ、一日一千枚は書くと囃された。

早書きとはいえ、文章の行間には厚みと奥行きがあり、学識をてらうことなく、いずれも人を惹きつける魅力的な文体になっている。売れっ子ならではの手練手管であるが、「その瞬間こそ、烈々たる文学魂が燃えさかるときで、能面のような彼の青白い柔軟性の顔色の底には、遊蕩とはまったく別なものが潜在」していたと白井喬二はいう。

 “大衆文壇の偉才”は、翻訳、時代、劇作、随筆と実に何でもござれであった。現在、その厖大な量になる作品の一部は散逸して、確かでないものも多いといわれているが、「決して多作を恥としない」どころか、それこそ自分の天分であり、滾々たる泉の水は汲めばくむほど、掘り下げれば堀さげるほどよき質を見せ、掬すべき味を示す。まさに“日本のバルザック”といわれた所以だったのだろう。

こうした中で、家庭・恋愛小説など一連の風俗もの、通俗ものの大衆文学は、大正中期以後、時代小説が主軸になってゆく。いわゆる、チャンバラ小説のことである。マス・メディアの成熟もあり、小説の読み手の欲求に応えた時代小説は、何といっても伝記性に富み、空想の面白さ、出鱈目の痛快さ、奇想天外の醍醐味などが持ち味となっている。「敵打日月双紙」「百万両秘聞」「落花剣光録」「清川八郎」、「愛憎秘刀録」「明月白刀祭」「北時雨一人旅」「毒婦一国図」「敵討三都錦絵」などが書かれ、爆発的人気の「雪之丞変化」はじめ、「百万両秘聞」「日輪」「激流」「淀君」「見果てぬ夢」「落花剣光録」などが映画化された。

一方、実生活は乱脈を極めた。

姉さん女房の長谷川時雨は、無法な生活を送る三上の女性関係には大いに悩まされた。とはいえ、悩みながらも、自分から惚れ込み、好きになったのだった。「尽くして、尽くさせ」、五十を過ぎても、女として、妻としてなお色っぽくなろうとする一途さが彼女にはあった。しかし、三上の放蕩三昧は、すでに理解の範囲を超えていたといわねばなるまい。

父が病に倒れて家督を継ぐと、すぐさま先祖代々の広大な家屋敷を叩き売る。銀行に全額預金すると思いきや、雲隠れ。浅草の料亭では大金を使い果たす。神楽坂の芸者とのことで筋者が表れてはひと悶着を起こす。赤坂氷川町に家を構えても、銀行の通帳を懐に遊び回って行方が知れない。大衆作家サイドの高額所得トップは遊里に興を催し、女遍歴を続けて波乱万丈、スキャンダラスな話題を撒きつづける。だが、遊蕩三昧のその破天荒な生こそ、多種多様な矛盾撞着であり、小説家ならではの運命的な宿業の苦しみと喜びであったのだろう。

江戸研究の大家である三田村鳶魚はこの新興の大衆文学に辛辣な筆誅を下す。その著「大衆文芸評判記」では時代考証の誤りなどを痛烈に批判するべく取り上げた作家は大仏次郎、土師清二、直木三十五、白井喬二、長谷川伸、吉川英治、林不忘、中里介山、佐々木味津三、子母澤寛であり、三上は世評の饗宴の中からなぜか外され、問題にもされていない。以て、これこそ三上の栄光と悲残というべきか。

三上於兎吉の小説は新聞や雑誌を賑わし大衆文壇、通俗文壇の大立者として、友人たちを羨望させた。だが、根は何といっても純文学である。旧友の宇野浩二は、その根源的な純文学愛が「何のけがされる事もなく、美しく清純に残っている」(「同時代の作家たち」)と指摘している。「ひた走り、疲れ、濁り、出鱈目に投げ出している」といはいえ、それが本来の三上の光と影の真実だったのかもしれない。   

晩年は寂しい限りであった。昭和一〇年(一九三五)、「雪之丞変化」が映画化されるなど全盛期を迎えるが、翌年には自動車事故で右腕を骨折、さらに血栓症で病に伏せて文壇から遠ざかる。昭和十九年(一九四四)二月十八日、埼玉県幸松村(現・春日部市八丁目)で五十三年の生涯を閉じた。

告別式は日本文学報告会によって東京・青山斎場で行われ、世話人には宇野浩二、大仏次郎、菊地寛、白井喬二、広津和郎、吉川英治らが名を連ねた。

●三上於兎吉(一八九一〜一九四四)
昭和期の小説家。大正末期に連載した現代小説『日鬼』、『日輪』によって大衆作家としての地位を確立。同時代の菊地寛、吉川英治らと方を並べ、“多産流行作家”として次々に傑作を発表。朝日新聞に連載した『雪之丞変化』は、三上の作家としての集大成であるとともに、大衆文学史上に残る傑作とされる。

『荒川流域の文学ーー埼玉をめぐる人と作品』(埼玉文芸家集団・編=2006年6月15日発行)

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