太刀の鞘鳴り
三島由紀夫小論



一冊のノートをつくった。
A四判、横線の入った何でもない冊子。
三島由紀夫に関する新聞や雑誌の切り抜きを、つぎつぎと張り込む。
「わが三島由紀夫ノート」、美とデカダンへの門出だった。
 
まず、 『花ざかりの森』に踏み込んだ夕暮れ。
豊饒な言葉に覆われた新古今体験。
美と背徳への渇望。
 
肉筆版『創作ノオト』(ひまわり社)は1955年発行。
これは『盗賊』、習作的長編のノート。
限定3000部のうちの第1323番を手にして、私は震える。
作家の虚栄心と我執のなりふりかまわぬ栄頌。
 
1956年、戯曲集『近代能楽集』には、「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵の上」「班女」五編。
朱色和紙の帙入り、初版、定価420円。
そして、『金閣寺』。
漆黒の闇に浮かぶ金閣寺は可視的な世界の幻想。
苦痛に満ちあふれるばかりの美、絶対的なものへの嫉妬。
 
1959年、長編書き下ろし、堂々1000枚。
『鏡子の家』である。
「みんな退屈していた」の書き出しにはじまる鏡子の家に集まる四人の青年たちの野心と行動。
しかし、批判が集中し、失敗作という評価がくだる。

1959年5月、三島邸は大田区馬込に完成。
純白のヴィクトリアン風コロニアル様式とやらの新居の庭で写真に収まる風姿。
フランスやスペインの骨董店をあさって収集したというスパニッシュ・バロックの豪華な装飾美。
明るい地中海文化に魅せられて庭に立つアポロ像。
「ロココの家具に、アロハ・シャツにジーンパンツで腰かけるような生活が理想でね」
嘯く花形作家の得意満面。

とまれ、
『詩を書く少年』『旅の絵本』『裸体と衣装』『作家ノート』など、わが書庫は飾られていく。
あやかな灼熱の凶(まが)ごと。
官能とデカダンに渇望した私の10代は終わる。

映画『からっ風野郎』(増村保造監督)が封切られたのは1960年3月。
颯爽たる「非情の殺し屋の群れに挑戦する白いやくざ」。
三島35歳の男ざかり。
「文壇の寵児」が情熱と才気を銀幕に傾注とは、花形作家のお遊びだったか。
それとも、剣道やボディビルに精出す肉体虚弱意識からのパーフォマンスだったのか。
 
同年2月、文学座公演『熱帯樹』。
同年、三島の初演出の『サロメ』。
関西公演では、大坂・毎日ホールに万難を配して駆けつける。
4月28日、記念すべき1階おー8番の席。
ローマ皇帝の支配下の暴政と乱倫の嵐が吹きすさぶ暗黒時代。
ユダヤ・ガラリヤの王ヘロデは、預言者ヨハネを古井戸に閉じ込める。
サロメはヨハネの唇を求めて、乱舞する。
舞台は白と黒のビアズレーの絵を基調にした色感ゆたかな装置。
出演者の漆黒の髪、琥珀色の肌、そして充満する真紅の血の匂い。
サロメに象徴されたわがエロティシズムへの開花。
おお、悪徳。
倦怠、逸楽、残酷、憂鬱、邪悪、頽廃。 
  
1960年6月。
安保闘争、国会突入。
全学連反主流派は一人の女子大生を犠牲に、多くの血を流す。
6月18日、日本政治上空前絶後、50万人のデモが国会包囲。
このとき、三島由紀夫は記者クラブのバルコニーにいた。
そこでさまざまな政治的スローガンをかかげたプラカードを見ながら思った。
そして、それら政治的人間の前に、
「私は何かというと、ニヒリストである」と宣言したのである。
主張と行為の背離。
美と政治というパトスの恍惚だったか。

そして、安保以後の混沌に身をさらしながら、不条理な転生のロマンを探しつづける京雀たち。
芝居仲間のあいだにも、『近代能楽集』が話題にあがる。
その一つ二つが公演されつつあった・・・・。

写真集『薔薇刑』を京都書院で購ったのは1963年5月。
そのデカダンスと残酷の絢爛の花々。
被写体の当人が序文でいうように熾烈に腐乱する「死とエロス」の饗宴である。
<エロス>こそ、わが深層の物語そのものであった。
 
はからずも、実際の三島由紀夫に会ったのは、1967年9月。
新宿文化劇場地下で劇団アンダーグラウンド蠍座による上演『三原色』(堂本正樹演出)。
むろん、居を正して相見えたというわけではない。
その制作に関わっていた友人の案内で早目に蠍座に行くと、キャストや制作スタッフがあわただしく打ち合 わせをやっているところだった。
薄暗いホールのやや中央辺りの席に座っていると、後ろのほうから声高く話し合いながら入ってくる人が  あった。
「いやあ。このところ、人の芝居には滅多に行かないんだが、友人がやるんだから、やはり来ないわけには いかないででしょう」
顔を上げると、目の前で鋭く見返された。
精巧で、張り詰めた感じだった。
圧倒された。
渋茶のタートルに茶のスラックス、茶の靴。それにア・テストーニ風のブランドもののアタッシュケース。
華麗ないでたちだった。
「このカバン、至極、便利でね。何でもここにぶち込んで持ってるんだよ」
狭いホールに、また大きな声が響く。
紹介しようと友人が言ったが、私は照れて断った。

わが芝居巡りはつづく。
アングラとサイケ全盛のモーレツ、ビューティフルな過剰の時代。
『鹿鳴館』(新橋演舞場)、
『恋の帆影』(日生劇場)、
『朱雀家の滅亡』(紀伊国屋ホール)、
『薔薇と海賊』(紀伊国屋ホール)、
『サド侯爵夫人』(草月ホール)、
『癩王のテラス』(帝劇)、
『わが友ヒットラー』(紀伊国屋ホール)
『薔薇と海賊』(紀伊国屋ホール)
『近代能楽集』の「班女」(国立劇場)は板東玉三郎。
一方、寺山j修司の演劇実験室「天井桟敷」が見世物の復権を唱えて開場。
同時に、唐十郎の状況劇場が「腰巻お仙」「ジョン・シルバー」「由比正雪」など挑戦的に開幕して、世を沸  かせていた。

しばらくして、三島の自衛隊体験入隊が、久留米、御殿場、富士で行われる。
「中央公論」に「文化防衛論」が発表されると、大きな話題を呼んだ。
『憂国』の映画制作、『英霊の声』、そして自衛隊体験入隊、楯の会の結成。
「文化概念としての天皇」、ないしは「文化天皇制」の系譜とその展開。
三島由紀夫は、”死とエロス”に向かって暴走しはじめる。
その天皇論の対する、頼みとしていた文芸評論家、橋川文三の深く矛盾を衝く反論。
三島由紀夫は、時代の葛藤のズレに苛立ち、しだいに孤立していく。

わが同人雑誌「対話」の読書会で、
『文化防衛論』を真っ先に取り上げたのは、ほかならぬ高橋和巳だった。
この読書会は1969年1月15日。
生駒・宝山寺前の旅亭で行われ、同人の古川修がレポートしている。
 
1968年8月。
渋谷の東横ホールで『黒蜥蜴』公演。
三輪明宏、天地茂の熱演。
カーテンコールに純白のスーツに真紅のバラを胸に挿した三島が演出者として登場。
万来の拍手を浴びた。
 
1969年12月。
国立劇場で『椿説弓張月』。
中村雁次郎、板東玉三郎、松本幸四郎らにより初演(作者演出)。
これは高橋和巳、たか子夫妻と観た。
高橋和巳はすでにガンを内臓、手術を受けて弱り切っていた。
横尾忠則描くサイケデリックな弓張月のポスターは、
京大から文化庁無形文化課にいった星野紘に懇願して、1部譲りうけた。

1970年、全国に大学紛争が激化。知の解体を叫ぶ。
バリケードが築かれ、路上に火炎瓶が炸裂し、学生たちは血を流した。
三島由紀夫は、権力幻想のプログラムを立てずに、これら若者をして「義」の運動だとする高橋和巳に言う 。
「言葉を刻むように行為を刻むべきだよ。
彼らは言葉を信じないから行為を刻めないじゃないか」(『大いなる過渡期の論理』)

1975年11月。池袋東武百貨店で三島由紀夫展。
その45歳10カ月の生を、書物の河、舞台の河、肉体の河、行動の河の4部門に総括した三島の決意。
展覧会開催は11月12日〜17日の6日間、私は何気なく立ち寄っている。
「行動の河」では、「ただ、男である以上は、どうしてもこの河の誘惑に勝つことはできないのである」と。
すでに、すべて決していたのだろう。

同月25日。
銀座のオフィスから渋谷に向かう車の中で、市谷の陸上自衛隊総監室突入を知る。
テレビの実況、白鉢巻きをしてバルコニーからクーデターを訴える三島。
やがて、割腹自殺が伝えられる。
翌朝の新聞に、三島と若き同士の首二つが転がっている戦慄的な写真。
病床の高橋和巳は身体を震わせながらその死を悼む。

「『武』とは花と散ることであり、『文』とは不朽の花を育てることだ」(『太陽と鉄』)という。
昭和史に投げた鮮烈なイロニーに、その後、私は執拗にこだわりつづけてきた。
「文武両道」とは、散る花と散らぬ花を兼ねそなえることであろう。
だが、その相反する実現不可能な二つの夢。確たる不文律としての行動と認識の二元論。美と政治という 綺羅の呪縛。
 
昭和の神風連を興すべく、『奔馬』の主人公である飯沼勲は、
右翼の塾に属してテロ計画にくわわり、財界の黒幕を刺殺、切腹する。
ここには、その花の行方も見定めないまま、
ついに成らざりし三島由紀夫の美的ニヒリズムの宿命のようなものが感じられてならぬ。

ーーかくて、戦後50年。
没後25年霜月。
辞世の歌は、
・益荒男(ますらお)がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜
・散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐

その朝のひそかな太刀の鞘鳴り。
散り急ぐ花の下を、小夜嵐が冷たく今日も吹き抜けていく。


(「文」1995年12月号掲載)

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