創造と苦悩の根源的エロス
梅原猛著『歓喜する円空』(新潮社)


十二万体の異形の木彫仏をつくった円空とはいかなる僧だったのか。

思えば、あまたの愚書駄本が世を欺き、凡百の円空論が世を席巻してきた。俗悪凡庸な美的ディレッタンティズムが、山岳修験者として苦行をつづける円空を、日本文化史の気まぐれな闇の中に放置してきていたといわねばなるまい。

本書は、円空に関する伝承に着目しつつ先行の諸論を整理。一部これまでの虚像や錯誤を糺し、その謎多き生涯に鮮烈な眼光を当てる。絢爛と混沌の円空芸術の創造の源流が、土俗の内部のドラマとともに理路整然と説き明かされてゆくのである。

まず、著者の関心をよんだのは、円空が白山信仰の修験者であり、「神仏習合の先駆けであり、それは日本宗教史において最も重要な問題」であるからであった。白山信仰の創始者である泰澄は同時に木彫仏制作の創始者であり、さらに造寺や架橋などで諸国を行脚した行基は、泰澄から木彫仏制作を学んでいる。ゆえに、円空は「神仏習合思想と木彫仏の制作」において、泰澄、行基の伝統の上に立つ。すなわち、著者にとっては、円空こそ「神仏習合思想の深い秘密を教える哲学者」なのである。

かくて、円空は「神仏像・絵画・和歌の三位一体」のものとして、総合的に解明されなければならないとする著者の慧眼が行間に熱く滲む。

その放浪の足取りは生まれ故郷の美濃を旅立ち、関東、東北、北海道を経て、飛騨や吉野に分け入り荒行をつづけ、一片の素木に彫る造仏に一切衆生の救い祈りを籠めていった。著者はそれら奉納された造仏を訪ね、その制作年代の確定や作風の変遷などに厳密な考証を行い、流離の運命の諸行について独自の瞑想的洞察を馳せる。

「大般若経」写本の見返しに貼られた百八十四枚を始めとした絵画に、円空における仏教思想の根幹を突き詰めようと精緻な論証を行う。そのために、絵を三カ月も四カ月もひたすら穴の開くほど眺め続けるのである。さらに、近年発見された千六百首の和歌の研究が必要であると取り組み、西行の歌より円空のほうが面白く、「雄大な世界観が脈打っている」と指摘。孤高の造仏聖に迫る著者は、滔々たる「梅原日本学」の山脈を基層に、旧に変らぬ息軒昂に満ちている。

それに本書の何よりの核心は、円空が思想的に一大転換をなしとげる美と文化の重層的な軌跡を明らかにしていることだろう。ここに、狂気と情熱に駆り立てられ、放浪をつづけねばならなかった苦行僧の真実として、新たに男盛りのエネルギッシュで無類にポジティブな相貌が、歴史の襞の燦然たる闇の中からくっきりと浮かび上がってくるのだ。

当初は忠実で写実的な傾向の強い仏像制作であった。だが、やがて変革し、破壊への証として「円空仏のエッセンス」である護法神の誕生を経て、まもなく「自由な境地となり、自在な作風の仏像」が精力的につくられるようになる。こうした数々の円空仏に対面して、「ユーモアと慈悲」、「遊びと荘厳」の芸術創造の真髄を見出す著者の熱狂が、一読、爽やかに噴きこぼれるように伝わってくる。

現実への深い絶望と理想の世界を前に歓喜する仏の躍動するエネルギーは、大いなる笑いになって現れる。現実を絶対肯定する精神の表現として、これこそ「哄笑の交響楽」であり、「円空の思想の中心は生きている喜び、楽しみを礼賛すること」であるという。

「心に花を絶やさず、心はいつも花であった」円空の創造と苦悩の根源的エロスは、常にまばゆい祭典のように光輝いている。神と仏の共感のシンフォニーを肉声とする強靭な現実肯定の精神とは、永遠に遊び狂いつづける清らかさということであろうか。

「私もこの歳になってようやく菩薩の遊び、円空の遊びがわかってきた」のであり、「私は円空の思想の中心は生きている喜び、楽しみを礼賛することであると思う」という論述には、並々ならぬ躍動感が漲る。

また本書には、著者・梅原猛の生の悲しみの水脈に沿う蒼白の呼吸遣いが静かにとおりぬけてゆく。弾ける歓喜とともに、円空の抱えた深い闇に、著者の悲哀が重なる。

「まつばり子の悲しみは、まつばり子同士でなければ分からないかもしれない。私もまた円空と同じ星の下に生まれたので、まつばり子の気持ちが痛いほどよく分かる」という。円空が慕う泰澄・行基もまたまつばり子であった。

一巻は天を衝いて歓喜大笑する円空と、永遠のディオニュソスの使徒たる著者の法楽の遊びの華やぎに満ちている。


『図書
『図書新聞』(2006年12月02日号)


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