哀感こめた下町の人情図会
立松和平
『不憫惚れーー法昌寺百話』
(アートン)



 本書に登場するのは、いずれも都会の片隅で生きる名もなき隣人たちである。その浮き沈みを飄々と耐えてきたのだろうが、老いた淡墨のような人生模様など、もはや誰も見向きもしないし関心もない。だが、それが法昌寺毘沙門講という一つの場の交歓を軸にすると、何ともいえぬ衆生の笑いとペーソスとして鮮烈に浮かび上がってくる。

 東京・下谷にある法華宗日照山法昌寺(福島泰樹住職)は霊験あらたかな毘沙門天の寺でたくさんの善男善女がお参りする。毎月三日には毘沙門天の前で講がある。講とは太鼓を叩き、みんなで南無妙法華経を読誦する。法華経の功徳は無量なのであり、真冬の寒さに震える寒行では、団扇太鼓を打って町内を練り歩く。朗々たる声のお上人を先頭にした一団のこの行進のコースの一つは、入谷から吉原神社、山谷をかすめ、隅田川の岸辺、そこから言問橋通りを西に浅草寺の裏から入谷に戻る、といったあんばいだ。

 毘沙門講の面々ほど、「強力な連れ」はいない。それは人情味あふれた拠り所であり、「苦しみに満ちた泥のようなこの世」を生きてゆくには、そうした?がりが大きな支えとなっている。しかも、祈れば祈るほど心が強くなり、身の穢(けが)れが浄められる。

 講のあとは近くの酒場に席を移して直会(なおらい)の大宴会となる。すなわち精進落としということなのだが、宴は和尚を中心にそれとなく寄り添うようなかたちで、いずれもほのぼのとした陰翳に包まれ、「ただひたすらに楽しみ」、語り合う。東京大空襲で家族を失い天涯孤独になった老女、小噺を演じて夢中になる中年男、人のいいのが取得だけのようなアパート暮らしの粋人、嫁にいびられ家にも帰れない老婆、女装に気分が沸き立つ優男、気の弱い賽銭泥棒に声をかける総代など、「てやんでえ、ほっといてくれ」と意気がる中で、これまでは何の縁もゆかりもなかった人たちが、すべては仏によって生かされているといわんばかりに一大ハーモニーをつくる。なりゆき任せの日々だが、不憫ゆえに人は人に惚れ、その悲しみを共有し、なにごとも広く受け入れてゆく。急激に進むデジタル社会などはまったく知らず存ぜず、ここには何ともいえぬ温かい下町の人情図絵が彷彿としている。

 それにしても、立松文学における近年の仏教への傾斜については、真にゆるやかにも強靭なものがある。わけても、現実の立松和平の毘沙門講への共感は年々深まっている。それはひとえに、立松和平の福島泰樹に対する畏敬と友情のしからしむるものであることはいうまでもない。法昌寺和尚として慕われる福島泰樹は、酒は滅法強く、ボクシングのセコンドも勤める。あわせて、現代歌人としてその流動する戦線を荒魂抱えて疾駆。短歌絶叫コンサートを各地で精力的に公演し、熱狂的なファンを呼び込んで話題にこと欠かない。

 立松和平が敬慕した深沢七郎の『庶民列伝』を向こうに、本書は、うだつの上がらぬ羞しくも愚劣な人間の生き様を活写する列伝となっている。「問題小説」(徳間書店)に二〇〇二年一月から一年間連載された十二話に、書き下ろし「逆風」が加えられた。そして、「法昌寺への供養として、短編連作小説を捧げることを誓願した」(あとがき)というように「早稲田文学」以来の同志として、余人にはうかがいしれぬ立松の熱い視線がそそがれている。

 通読すると、哀感がひしひしと迫ってくる。下町の暗い小路や川辺の灯かり、小さな飲み屋の煤けた暖簾、焼きそばやラーメンの匂いが籠る商店街の通りなども鮮やかに、そこにはかつての吉原の遊女の声がからまり、浅草の歓楽のひびきが流れ、大空襲の夜の火の粉がめらめらと舞い上がる。菩提をとむらう諸精霊よ。いつもはひっそり暮らす無口な人々は、それぞれ重たく切ないものを背負って生きているのである。

 百話というから、江戸下町の香りを背景に、悲しくも愚かな物語はこれからも続く。

 立松和平の作家魂は一分の揺れもなく、いろいろなかたちで崩壊の危機に瀕している現代の曼荼羅を透視しているのだ、ともいえよう。

 この毘沙門講や寒行に加わり、早朝の勤行でお題目を唱え、そして直会の席の華やぎに無上の安らぎをおぼえてきたことがある凡愚には、『不憫惚れーー法昌寺百話』の世界が実話にもとづく虚構であることが痛いほどよく分かる。いや、時に実名で登場する人々が放つ体感は、このうえもなく爽やかに迸っている。“供養誓願”した立松和平の魅力なのだろう。

『図書新聞』2006年8月19日号

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