マリアは部屋の机の前でぼんやりと過ごしていた。
明日はとうとう大神の出航の日。
あの花見の日以来、お互いゆっくりと話をする暇がなかった。
いや、任務以外では無意識のうちに避けるようにしていたのかもしれない。
自ら閉ざしていた心を大神が開放してから、マリアの心の一角を彼への思いが占めるようになった。
ともに過ごす日々を経るうちにそれは領域を広げていき、今では彼女にとって大切な心の支えである。
その彼がいなくなる――支配人室で昇進と巴里留学を知らされたときは胸が張り裂ける思いがしたが、迷うことなく承諾の返事をする大神を前に、彼女は平静を装って励ますのが精一杯だった。
残された日々、叶う限りそばにいたいという気持ちのある反面、彼を困らせることを言ってしまいそうで、二人きりになるのが怖かった。
相反する気持ちの葛藤が、このところの彼女の睡眠を奪っている。
泣いてはいけない、とマリアは思う。
一度涙を流したら最後、感情に流されて自分を見失ってしまいそうだった。
留守を預かる者として、それはあってはならない。
けれどこの叫びだしそうな心は、どう静めたらよいのだろう。
さんざん考えた挙句、彼女は大神に手紙を書くことにした。
大神と過ごした日々を思い出しながら、自分は大丈夫だと自らに言い聞かせるように。
意を決した彼女は、引き出しから取り出した便箋に向かうとペンを執った。
花組隊長として最後の見回りを終えた大神は、重い足取りで自室へ戻ってきた。
送別会が終わってから始めたこともあって、普段より時間も遅い。
かえでには今日くらいやらなくてよいと言われていたのだが、敢えてやらせてもらうことにした。
それに、最後だからこそ一人ずつ会っておきたいと思ったのだ。
その甲斐あって、一人を除いて花組の隊員たちと話をすることができた。
明日の出発を前に緊張しているのか、体が疲れている割にあまり眠気を感じない。
大神はモギリ服のままでベッドに身を投げ出した。
(君は何故…)
天井を見つめながら彼は先ほど話せなかった隊員のことを考える。
見回り中に話ができなかった人物、それは意外にもマリアであった。
彼女の部屋へ立ち寄ろうと声をかけたとき、返ってきたのは取り込み中であるという返事。
部屋には異常がないから、と結局ドアを開けてもらえず、大神はその場を去るしかなかった。
このところ渡航準備に追われて、彼女とはろくに話もしていない。
それどころか花見の日以来ずっと避けられているような気がする。
大神の頭の中は疑問でいっぱいだった。
二人にはもう僅かな時間しか残っていないというのに。
先程それぞれの形で自分を励ましてくれた花組の仲間、彼女たちのためにも自分は巴里で多くのことを学び、立派になって戻ってこなければならない。
けれども今のような気持ちのままでは、旅立つことすらままならなかった。
やはりもう一度マリアの部屋へ行くべきだろう。
きちんと自分の気持ちを伝えておきたいし、そして何よりも彼女の本当の気持ちが知りたい。
“コンコン”
行動を起こそうとベッドから起き上がったところで、ドアをノックする音が聞こえた。
もしやと思い扉を開けると、そこには今一番会いたかった人の姿がある。
「マリア…」
久しぶりに近くで見た彼女は、少々やつれたように見える。
「隊長…夜分遅くに申し訳ありません。」
これを書いている途中でした、とマリアは手にしていた白い封筒を差し出す。
「手紙を…書いてみました。
フランスへ向かう船の中で…読んでください。」
大神が受け取ったのを確認すると、彼女は自室へ戻ろうとした。
それを大神の手が引き止める。
「その…少し寄っていかないか?
話があるんだ。」
マリアは困惑したが、彼に従った。
部屋に入った彼女の目に真っ先に飛び込んだのは、テーブルの上に置かれたトランク。
明日の出発を象徴しているようで、胸が締め付けられる。
勧められるままにベッドに座ると、彼は机の前から椅子を引き、向かい合うように腰掛けた。
微妙に置かれた距離にどこか緊張を覚え、彼女は膝に置いた手を握り締める。
「ごめんっ!」
少し沈黙が続いた後、大神はいきなり頭を下げた。
予想外の展開にマリアは些か拍子抜けする。
「花見の晩、折角来てくれたのに、君に気まずい思いをさせてしまった。」
深々と頭を下げたまま彼は続けた。
自ら留まって欲しいと頼んだにもかかわらず、場の雰囲気を悪くしてしまったことを彼は後悔していたようだ。
マリアにしてみればそのことは大した問題ではなかったので、ずっと気に留めたままでいた彼に申し訳なく思えた。
自分が許すまでは決して上げないであろう大神の頭を見ていると、自然と口元が緩んでくる。
「頭を上げてください。
あの晩のことは私の独断でやったことです。
大神さんが気にされることではありませんよ。」
大神はマリアの表情を窺うように少しだけ頭を上げ、怒っていないのを確認すると安心したように身を起こした。
その表情がまるで悪戯をして叱られた後の子供のようだったので、マリアも思わず笑みをこぼす。
しかし次の瞬間、彼は急に真剣な顔になって訊ねた。
「それならどうして俺を避けるんだ?」
その言葉にマリアは凍りつく。
部屋に入ってよりの緊張が解けた瞬間だっただけに、彼女にとっては不意打ちに近かった。
膝の上で一度緩めた拳をぎゅっと握りなおす。
「それは…」
マリアは胸の鼓動が早まるのを感じる。
次の句が継げずにいる彼女を待たずに、大神は続けた。
「確かに俺も出発の準備でいろいろ忙しかったけど、それでも話す時間を作ることはできたと思う。
だけど君は、皆といるときや任務以外では会ってくれなくて…」
普段の彼では考えられないような、心をえぐる言葉が次々飛び出してくる。
それを俯きながらマリアは聞いていたが、責めるようでなく、むしろ怖いほどに静かな大神の口調はかえって痛く感じた。
「そんなに俺と顔を合わせるのは嫌だった?
もしかして君にとっては俺が巴里へ行くことなど何でもないことなのかな?」
「違います!」
容赦ない言葉にマリアの心はかき乱されていく。
やがて耐えられなくなった彼女が、それを遮るように叫んだ。
二人が離れ離れになることが何でもないことだなどと、どうして思えるだろうか。
そんなことを言い出す大神が彼女には理解できない。
大神は席を立ち、俯いたままの彼女の傍に近づくと、両の拳の上に自分の掌を重ね、そのまま床に跪く。
「マリア…俺だって本当は君を置いて巴里へなんか行きたくない。
このまま君を離したくないんだ。
そう思っているのは俺だけなのかな?
お願いだ、君の本当の気持ちを聞かせてくれ。
そうでないと…このまま旅立つことなんて出来ない…」
俯いたままだったマリアの視界の片隅に大神が映る。
その顔を覗き込んだとき、彼女はハッとした。
何と不安そうな瞳をしているのだろう。
それは戦闘の際、前線で指揮を執る彼からは想像もつかないものだった。
少なくとも彼のこんな姿は今までに見たことがない。
そう、彼にも旅立ちへの不安があったのだ。
二年前に花組を去ったときは予備役として海軍への復帰だったし、彼にとっては古巣も同然である。
だが今度は、単身で巴里へ赴かねばならない。
知らない環境へ飛び込んでいくことが人をどれだけ不安にさせるか、自分は知っていた筈だ。
それなのに別れのつらさを堪えることが精一杯で、彼の気持ちまで思いやる余裕を無くしていた。
自分のことしか考えられずにいた身勝手さに恥入る思いがする。
「私は…臆病者です。
言っても仕方のないことだとか、大神さんを困らせるだけだとか、わかったようなふりをして…
自分の気持ちに正直になることから逃げていました。
自分の弱さと向き合うのが怖かったんです。
それで平気なふりをして…でも…でも私は…」
彼の気持ちに応えるべく、ぽつりぽつりとマリアは語り始めた。
目頭に熱いものがこみ上げてくるのを、マリアは拳をさらに強く握ることで堪えようとする。
まだ泣いてはいけないと思った。
自分は肝心なことを何一つ大神に伝えていないから。
しかし、そう思えば思うほど気持ちは溢れそうになって、言葉が継げなくなる。
「……」
大神は静かにマリアの言葉を待っている。
今の彼には旅立ちへの不安も勿論あったが、それよりも離れ離れになる二人の互いへの想いの形の方が重要であった。
同じであるならば、安心して一人旅立つことができるだろう。
もっとも、今の彼女を見ていれば答えは聞くまでもない。
それでも彼はマリア自身の言葉を聞きたかった。
「君が辛いのは十分わかっているよ。
だから俺の前でまで我慢しなくていいんだ。
ここにいるのは俺と君だけ。
他には誰もいない。
…さぁ、聞かせてくれるね。」
重ねた手を通してマリアの震えが伝わってくる。
彼女をここまで追い詰めていることに罪悪感を覚えながらも、答えを聞かずにいられない。
自分はこんなにも未熟であったのかと大神は痛感した。
「私は…叶うならずっと…あなたの傍にいたい…離れなくなんか…な…い…」
ありったけの勇気を振り絞ったであろう震えた声が、マリアの口からこぼれる。
それとほぼ同時に、熱い滴が大神の手に零れ落ちた。掌から伝わる震えが強くなって律動を帯びてくる。
「マリア…」
胸のつかえが取れていくのと同時に、大神は大切な人を苦しめてしまったことへの後悔を覚える。
彼女の本心を聞きたいと思ったのは確かだった。
それが自らの気持ちを押さえ込むがゆえに人知れず苦しんでしまう彼女のためだったのか、新天地への不安を拭いきれなかった自分のためだったのか、今となってはわからない。
だが少なくとも、今目の前でむせび泣く彼女を放っておくことなどできなかった。
大神は右手をマリアの手に置いたままゆっくりと立ち上がると、そのまま彼女の隣に座り、背中に腕を廻して震える肩に伸ばす。それに呼応するように胸に縋り付いてきたマリアを、しっかりと抱き締めた。
「…連れて行って…一人にしないで…」
嗚咽の合間にマリアが呟いた。
飾り気のない素直な言葉が胸を打つ。
けれどもこの切なる願いは叶わない。
それはお互いに十分すぎるほど知っている。
大神はとても切なくなって、マリアを抱き締める腕に力を込めた。
「…行こう、一緒に…」
自分を包む腕に力が篭るのを感じながら、マリアは驚くべき言葉を耳にした。
大神には海軍留学生としての、自分には帝国華撃団および帝国歌劇団・花組としての立場がある。
二人が共にあることは事実上不可能である。
それを重々承知したうえで、敢えて彼は自分の身勝手な呟きに応えてくれたのだ。
それだけで十分だった。
二人が離れるのはやはり悲しいけれど、彼のくれた言葉があれば帝都で帰りを待ち続けられる。
「すみません…こんな…私…」
少し落ち着いたのか、マリアが口を開いた。
しかし、うまく言葉にならない。
伝えたい気持ちがたくさんあるのに。
マリアはそんな自分が歯痒かった。
「いや、いいんだ。
…君にはこれからもっと辛い思いをさせてしまうから…だから、今は思い切り泣いていいんだよ。」
大神の言葉がまた新たな涙を誘う。
そんな状態が幾度となく繰り返されたが、とめどなく流れる涙は心の中のわだかまりを洗い流す。
マリアは大神の暖かさに包まれながら、少しずつ心が軽くなっていくのを感じていた。
大神からも彼女の状態が徐々に落ち着きつつあることは見て取れた。
肩の揺れが小さくなり、その間隔も開いてきている。
あと少し、マリアが完全に落ち着いたら、言おうと思っていることがあった。
それは二人の将来を約束する言葉。
『結婚しよう』と彼女に言えるほど自分に自信を持ってはいなかったが、遠く距離を隔てる二人には何らかの約束が必要な気がした。
どのくらい時が経っただろうか。
マリアの息遣いが落ち着いたのを見計らって、大神はありったけの勇気を振絞った。
「マリア、そのままで聞いて…。
俺、巴里へ行くよ。向こうで多くのことを学んで、人間として大きくなって、必ず帝都に戻ってくる。
だから、君にはそれまで待っていてほしいんだ。
…勝手な願いだけど、聞いてくれるかい?」
とりあえず言うだけのことは言った。
あとは返答を待つのみなのだが、彼女からの反応はない。
首を傾けて彼女の様子を窺ってみると、聞こえてきたのは規則正しい呼吸音。
「そ、そんなぁ…」
どうやら、泣き疲れてそのまま眠ってしまったらしい。
一世一代の覚悟をもって臨んだ告白が見事に空振りに終わり、大神は脱力感を覚えた。
けれども腕の中で眠るマリアの寝顔を見ていると、それもどうでもいいことに思えてくる。
彼女が偽りのない心を見せてくれた結果がここにあるのだから、それだけで十分だ。
(さて、どうしよう…)
一度起こして部屋へ帰そうかとも考えたが、あまりに気持ちよさそうに眠っているのでこのまま寝かせることにした。
体勢を立て直し、眠ったままのマリアをベッドに横たえ、頬にかかる髪を優しく払う。
毛布を掛けようとしたとき、彼女の掌に残る無数の爪跡が目に入る。
そっと手を取って近くで見てみると、紅く食い込んだ爪跡と黄色がかった痣が痛々しい。
拳を握り締めるたびにつけられるそれは、人知れず苦しみに耐えてきた彼女を物語っていた。
「ごめん…」
大神は一人呟く。
こんなにも辛い思いをさせているのに、明日から自分は傍にいることさえできない。
これから始まる日々はどれだけ彼女を苦しめるだろうか、それを思うと胸が痛む。
こうなった以上、中途半端は許されない。
巴里で見識を深め、人間の幅を広げるのが今の自分に課せられた義務であると、大神は認識を新たにする。
「さて、と。これからどうしよう…」
マリアの寝顔を眺めながら、大神はぽりぽりと頭を掻いた。
夜も更けているというのに、少しも眠気がやってこない。
それどころか目は冴えていくばかり。
どのみちベッドは使えないし、このまま朝まで起きているしかないのだが、夜明けまでの時間をどう過ごすべきか。
少し考えたあとで彼は名案を思いつき、いそいそと机に向かった。
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