手紙
太正十五年、三月下旬。
彼岸を過ぎの陽射しはやわらかく帝都に降り注ぎ、風がそよぐ。
つい先日出された桜の開花宣言もあいまって、人々の心は本格的な春の到来に色めき立っていた。
春公演「夢のつづき」千秋楽の翌日、帝劇では舞台から開放された花組のメンバーによってお花見の計画が持ち上がる。
相談の結果、日時は帝都の桜が満開を迎えると思われる五日後、場所はいつもの通り上野公園。
それぞれの分担も決まり、あとは当日まで各人がその役割をこなすのみである。
マリアの分担は料理で、花見の席で食べる食事をさくらとともに用意することになっていた。
部屋で献立の打ち合わせをしながらマリアは、自分にとって花見という行事が二年ぶりであることを思い出した。
去年の春は満開の桜の中で大神と再会した後、任務で紐育へ渡航している。
あれから一年――戦いの日々は終わりを迎えたが、それは彼と再び別れる日が近いことを示していた。
帝国華撃団が休業状態になった今、彼は歌劇団のモギリ兼雑用係でしかない。
花組の隊長として二度の帝都防衛に成功した功績を持つ彼を、海軍が放っておくわけがなかった。
穏やかな日々に安堵しながらも、彼女は目の前の別れを恐れている。
「マリアさん? どうかしました?」
考え込んでいる様子の彼女に気づいたさくらが尋ねた。
慌てて平静を装う。
「あっ、ごめんなさい。
お花見するのって二年ぶりだから懐かしくって。」
マリアの言葉にさくらは、去年の花見には自分と大神の他にアイリス、米田、そして帝劇に来たばかりの織姫しかいなかったことを思い出した。
「そういえばマリアさん、去年はお仕事で紐育に行ってたんでしたね。
今年はカンナさんもすみれさんも帝劇にいますし、みんなでお花見ができますね。」
考えてみれば二年前の花見のときも、紅蘭やカンナはまだ帝劇に戻っていなかったため出席していなかった。
花組揃っての花見というのは実にこれが初めてなのだ。
「そうね、織姫やレニも仲間に加わったしね。」
こうしてのんびりと花見の相談ができるのは、帝都が平和である証拠である。
とにかく今はそれを楽しむことにして、マリアは来るべき別れのことをそっと胸にしまいこんだ。
「それにしても、これだけの人数分となると結構大変ですよね。」
花組の他に米田やかえで、三人娘を加えると総勢十四名。
これだけの人数、特にカンナの食欲を満たすだけの料理を用意するのは一仕事である。
「前の日から作れるものは作っておきましょう。
で、次の日もう一度火を通せばいいわ。
当日作るものも下ごしらえを前日に済ませておくと、当日の作業も楽になるわよ。」
大人数分を調理するには、それ以前に大量の下ごしらえをしなければならない。
これが相当骨の折れる作業なのだが、かえってやりがいがあると思ってしまうのがこの二人であった。
「たくさん作るのって楽しいですよね。なんだかワクワクしてきました。」
久しぶりに料理の腕を振るうことができるためか、さくらは嬉しそうだ。
そんな彼女を見ているとマリアにも自然と気合が入る。
「さぁ、献立を決めてしまいましょう。久しぶりに腕が鳴るわね。」
妥協のできない二人の料理好きは、真剣な表情で献立の詰めに取り掛かり始めた。
「春とはいえ、夜は結構冷えるなぁ…」
四日後、上野公園。
毛布に包まった大神は一人呟く。
帝劇ファミリーの花見を翌日に控え、彼は十四人分の場所取りの真っ最中であった。
朝になればカンナが交代してくれることになっていたが、それまでは一人で過ごさねばならない。
夜も更けているためか公園に人影はなく、見るものはといえば夜桜くらいである。
街灯に照らされた枝は空を覆い尽くさんばかりに花をつけ、夜の闇に輝いていた。
桜を見ていると、この季節に出会った人々の事が思い出される。
花の時期がちょうど新年度の始まりと重なるためか、一年で最も出会い、そして別れの多い時期であった。
そういえば最初に帝国華撃団に赴任して彼女と出会ったのも、別れを惜しみつつ海軍へ戻ったのも同じ季節である。
キュー、グルルル…
桜を見上げながら感慨に耽っていると、急に腹の虫が鳴り出した。
夕食はしっかり食べて来たつもりだったのに、睡眠をとっていない分お腹が空いてしまったようだ。
「参ったなぁ…」
思わず大神も苦笑いするが、残念なことに手持ちの食糧はなかった。
手元の時計は二時半を回ったところで、夜明けはまだ遠い。
せめて体力の消耗を防ごうと、毛布に包まって横たわる。
『隊長…』
寒空の中、どこからかマリアの声が聞こえたような気がした。
空腹のあまり幻聴まで聞こえてきたかと思っていると、今度はもっと近くから、はっきりと彼女の声が聞こえてくる。
「隊長、風邪をひきますよ。」
大神がいつの間にか閉じていた目を開けると、黒いスーツの上にオフホワイトのスプリングコートを重ねたマリアが、自分の傍らで膝を落としていた。
「!!」
驚きのあまり、跳ねるように飛び起きた彼の肩から毛布がずり落ちる。
「マリア!? どうしてここへ!?」
大神が驚くのも無理はなかった。
地下鉄・帝鉄はおろか、通りを走る蒸気タクシーすらいない時刻である。
「なんだか寝付けなくて、作戦司令室で地図を見ていたんです。
それで、上野までまっすぐ歩けば行けるんだなと思ったら、自然に足が向いていて…でも実際歩いてみると、結構かかりますね。」
大神の問いに対し、マリアは何気ない笑顔で答える。
歩くという選択肢を躊躇うことなく選んだ彼女に、彼は唖然としていた。
確かに帝劇から上野公園まで通りをほぼ一直線ではあるのだが、歩けば一時間半はかかる距離だ。
第一、こんな夜中に外出すること自体、普段の彼女では考えられないことであった。
「明日のお料理を味見してもらおうと思って持ってきたのですが、よろしかったら召し上がりませんか?」
彼女は角ばった風呂敷包みを軽く掲げて見せた。
ほのかに漂うおいしそうな匂いが、大神の鼻腔を刺激する。
マリアの行動に疑問を感じなくはなかったが、彼は空腹の前にあっさりと折れた。
「ありがとう、ちょうどお腹空いてたんだよ。」
嬉しそうな彼の様子を確認すると、マリアは手際よく包みを解いた。
竹の皮に包まれた握り飯と塗り箱に詰められた肉じゃが、そして温かいお茶までがあっという間に大神の前に並べられる。
いただきます、という声とともに大神が箸を取る。
少し冷めてしまったかもしれないと彼女は心配していたが、料理に残るぬくもりは寒空の下過ごしていた彼を温めるのに十分であった。
何よりもマリアの心遣いが温かい。
空腹を満たせるのがよほど嬉しいのであろうか、ものすごい勢いで料理を口に運ぶ大神をマリアは驚きつつ眺めていたが、その表情もやがて綻んでいった。
徒歩一時間半という距離はさすがに長かったが、思い切って来てよかったと心から思える。
やがて全てを食べ尽した彼が満足げに箸を置くと、マリアも嬉しそうに微笑んだ。
けれど幸せな時間は長続きしないのを知っている。
急に思い立って行動に出たせいもあり、外出の許可は当然得ていない。
だから彼女としては少しでも早く、誰かが起き出す前に帝劇に戻っている必要がある。
この場を去りがたい気持ちは強いけれども、片道にかかった時間を考えるとそろそろ帰途に着かねばならない。
「では、私はそろそろ失礼しま…」
自身の迷いを振り切るように立ち上がろうとしたマリアの手を、大神は慌てて掴んだ。
「ちょ、ちょっと待って。
こんな時間に一人で帰るなんて無謀だよ。」
彼の言い分はもっともだが、愛銃を携えているので心配はいらない。
そう答えようとすると、大神が少々照れくさそうに言う。
「その…できれば、もう少し傍にいてくれないかな?」
マリアの中で早く帝劇に戻ろうという決意が脆くも崩れ去る。
確かにこんな時間、歩いてまでここへ来たのは、少しでも大神のそばにいたかったからだ。
料理の味見などは口実にすぎない。
一方でそうした行為に若干の後ろめたさも感じていたのだが、大神の言葉でずいぶん楽になった気がした。
「…では、地下鉄が動き出すまでここにいることにします。」
立ち上がろうと中腰になっていたマリアは、再びその場に腰を下ろした。
言葉は冷静を装いつつも、表情は嬉しそうだ。
そんな彼女に大神も安堵した。
未明の冷え込みが、二人の距離を自然と近づける。
同じ毛布に包まって寄添いながら、暫くは無言のまま重たげに花をつけている桜の枝を眺めた。
やがて静けさに耐えかねたようにマリアが切り出す。
「…花見が終わったら、皆にも言わないといけませんね。」
彼女の言葉に大神も頷く。
「そうだね…。」
支配人室に呼び出され、中尉への昇進と巴里への留学を米田から命じられたのは、昨日の昼のことだ。
出発は一週間後。
別れの時は目前である。
皆が花見を楽しめるように、というマリアの配慮から、花組の仲間たちにはまだ話していなかった。
欧州・巴里は帝都のはるか西方。
横浜の港を出てから約一か月の船旅を経てようやく到着する。
この絶望的なまでの距離は彼にある種の覚悟を決めさせてはいたが、留学の期間が不明瞭な点が彼を不安にさせた。
これは今度の巴里への留学が長い期間に及ぶことを意味しているのではないだろうか。
だが、支配人室で同じく話を聞いていたにもかかわらず、動揺を少しも見せなかったマリア。
逆に、外国を見ておくのはよい機会であると彼を励ましさえした。
そんな気丈な彼女を見ていると、彼は心配になる。
(マリアは俺と離れても大丈夫なのかな…)
それは別離を予感したときからの気掛かりであった。
マリアは普段から周囲の思惑を敏感に察知して、自らの感情を押さえてしまうところがある。
公人としての自分が軍からの指令を受け入れた以上、彼女はたとえ寂しくてもそれを口にはしないだろう。
おそらくは自分の負担にならぬよう、気持ちを押し込めているに違いない。
だが、気持ちを偽り続ければ、心に過大な負担を強いることになる。
張り詰めすぎた糸はいつか切れるのだ。
そうなる前に、せめて自分の前くらいでは素直でいてほしいのだが。
しかし、無理に聞き出せば彼女の心を壊してしまうような気がして、なかなか本心を聞くことが出来ない。
互いのぬくもりを感じ取れるほど傍にいるというのに、何故だかマリアの存在を遠く感じる。
同様にマリアもどこか居心地の悪さを感じていた。
留まってはみたものの、場の空気が重い。
巴里行きの話のあと、互いの口から出てくるのは他愛もない話ばかりで、それも長続きせずに気まずい雰囲気が漂う。
いつもなら会話がなくても大神が傍にいればそれだけで安らぐのに、今日は何故か話の途切れるのがつらかった。
互いに話すのをやめると、痛いような沈黙が二人の間に流れていく。
二人寄り添っているというのに、夜明けが待ち遠しくて仕方がなかった。
やがて東の空が白み始め、街が動き出す。
マリアは今度こそ帝劇へ帰るべく、毛布を肩から外した。
二人きりの時間を過ごした後なのが信じられないほど、その表情は曇っている。
「では、私は先に帝劇へ帰ります。
もうじきカンナも来るでしょうから、あと少し頑張ってくださいね。」
立ち上がって着衣の皺を直すマリアを見上げながら、大神は相槌を打った。
「差し入れ有難う。
…それと、一緒にいてくれて嬉しかった。」
大神の言葉に表情を少しだけ緩めた後で、彼女は駅へ向かって歩き始める。
何度か振り返りながら満開の桜の中を帰る後ろ姿を見送り、それが見えなくなったあとで彼は大きな溜息をついた。
(何やってるんだろう、俺…)
折角来てくれた彼女に気まずい思いをさせてしまったことを激しく後悔する。
きっと二人に残された僅かな時間の中、少しでも一緒にいたいという思いが彼女をここへ来させたのであろうに。
早朝の澄んだ空気の中、いつしか吹き始めた風に大神は一人震えた。