「…ょう、隊長、起きて下さい。隊長!」

「…んー…?」

 肩を揺すぶられる感覚に、大神は目を覚ました。
ボーっとした眼で顔を上げると、そこには自分に声を掛けた人物の顔があった。

「うわっ!? マリア!!?? どうして風呂に!?」

 大神は驚いて、突っ伏していた上体を起こした。そのまま口をパクパクさせている。

「そ、それはですね…」

 顔を真っ赤にしながら、マリアは説明を始めた。






 今から五分ほど前。
 地階に降りた彼女は、まっすぐに浴室へ向かった。
 消灯後の入浴が規律違反なのは承知の上だが、これ以上眠れない状態が続けば、さらに体力を消耗することになる。
緊急出撃などで支障をきたす前に、この問題を解決しておかねばならない。
 脱衣室にやってくると、室内の明かりがついているのに気づいた。

 大帝国劇場では男女が共同生活をするにあたり、幾つかの約束事がある。
そのひとつに、浴室を使用する際は入り口に使用中を示す札を掛けておく、というものがあった。
 しかし今、使用中を示す札は掛けられていない。
 どうやら大浴場にも明かりがついたままのようだ。
とりあえず様子を確認するべく、浴室の戸を少しだけ開いて声を掛けてみた。

「誰かいるの!?」

 が、中からの返事はない。
誰かいるような気配も感じられなかった。
 首を捻りながらも、着衣を脱いで、浴室へ入る。
とにかく今は汗を流したかった。
思考より先に身体が動いていく。

 シャワーから迸る湯で不快感を洗い流すと、ようやく気持ちも落ち着いてきた。
お湯を止めてバスタオルを手に取ろうとしたとき、マリアの視界の端に何かが映る。
咄嗟に洗い場の鏡の陰に身を隠し、そっと顔だけのぞかせて様子を窺う。
湯船の右隅、浴槽の縁に突っ伏した黒い頭が見える。
短い黒髪―この特徴に当てはまるのはここでは一人しかいない。

(!! ど、どうしてこんなところに隊長が!?
しかもこんな時間に…いえ、それより私ったら何で気づかなかったのかしら!?)

 気配には敏感なはずの自分が彼の存在に気づかなかったことは、彼女に少なからず動揺を与えた。
 半ばパニック状態に陥りながらも、まずはこの場から立ち去るということに思い至った。
大神が目覚めるより前に。何よりこんな姿を彼に見られたら…。
彼女はバスタオルを身体に巻きつけると、壁を背にして、大神の様子に注意しながら入り口まで移動した。
途中足がもつれそうになりながらも何とか辿り着くと、後ろ手に戸を開け、逃げるように脱衣室に駆け込み、素早く戸を閉める。
 戸に寄りかかりながら、マリアは大きく息をついた。心臓が激しく鼓動を打っている。なんとか気づかれずに帰ってくることが出来た。
しかし、ここで彼女は新たな問題を発見し、頭を抱える。
最初に気づけなかったのは自分の注意力が散漫になっていたのが原因だが、大神が眠っていたせいもあった。
そう、困ったことに、水音を立てても気づかないほどに熟睡しているのだ。
このまま放置しておいたら、のぼせるか風邪をひくかだろう。
下手をすれば溺れてしまう可能性だってある
。いくら何でも放っておくわけにはいかない。

(仕方ないわね…)

 溜息をつきながらバスローブを身に着けると、彼女は再び浴室へ向かった。





「…というわけで、その…」

 “札”のことを言われたとき、大神は初めてそれに気がついた。
普段なら人が来ないであろうこの時間にも律儀に行っていたことなのに、今日に限って忘れていたのだ。
その結果がこれである。

「いや、こっちこそすまなかった。
起こしてくれてありがとう。」

 礼を言った彼は、なんとなくマリアに目を向けた。
説明を終えて俯いている顔は、まだ頬が赤い。
さっきは気づかなかったが、よく見れば彼女が身に纏っているのは白いバスローブ一枚。
胸元から覗く白い肌が妙に眩しく見える。
濡れた髪が頬に張り付いているのも、何だか艶かしかった。
その姿に、思わずドキッとする。

(ま、待てよ!? ということは、さっきまでマリアがここでシャワーを…)

 自分が眠りこけている間に起こった出来事を想像した瞬間、彼は鼻腔に液体の流れる感触を覚えた。
金属のような匂いがする。

「隊長? 大丈夫ですか?」

 マリアにもそれを指摘され、あわてて鼻に手を当ててみると、案の定指に赤い液体が付いた。

(しまった!!)

 今度は大神が赤くなる番だった。

「のぼせたのではありませんか?
顔も赤いですし。すぐにあがった方が…」

 心配そうにマリアが尋ねる。
鼻血の理由を言ったら殴られるに違いない。

「い、いや、ほんとに大丈夫。
たいしたことないから。
……それに、その…君がそこにいると、出られない…。」

 マリアはしばらくぽかんとしていたが、大神の言葉を理解すると、再び頬を染めた。

「あっ! す、すみません。すぐ出ますから…。
そ、そうだ。
冷たいお水を用意しておきますから、あとで厨房に寄ってください。
では!」

 そういい残して足早に去っていく、その後ろ姿を見送ると、大神は大きな溜息をついた。

(まだまだ修行が足りないなあ…)

 この程度のことで鼻血などとは情けない、などと言いながら、上を向いて鼻の根元をつまむ。
 彼にとってマリアは他の何にも変えがたい特別な存在だった。
共に戦った先の大戦のあと、自分に海軍へ復帰命令が出たために、彼女のもとから離れざるをえなかった。
その一年後、華撃団へ着任して再会を喜んだのもつかの間、今度は彼女の任務で再び三ヶ月間離れ離れ。
そして深川での黒鬼会・火車との戦いの最中、これ以上ない絶妙のタイミングで彼女が帰ってきてくれたのは、ついこの間のことだ。
 二人の関係はまだ口付けを交わした程度だったが、気持ちは互いに通じ合っていた。
その大切な人が、真夏でもスーツをきっちりと着ている彼女が、浴室だったとはいえ普段では考えられないほどに無防備な姿をしているのである。
これでは興奮するなというほうが無理な話だ。
何とか鼻血は止まったようなので、湯からあがろうかと立ち上がりかけたとき、誰かの気配を感じた。嫌な予感がする。

「いやぁ、風呂はいいなぁ、大神ぃ。」

 やっぱり、と大神は思った。

「お前はこんな時間にここで何をしているんだよ……。」

 白スーツの男、加山は、質問には触れずに続ける。

「風呂に向かうお前の姿が見えたものでな。隊長自ら規律違反はいかんぞぉ、大神。」

 それはわかっているが…、そのとき、大神の頭の中で何かが引っ掛かかった。

「ちょっと待て、お前いつからここにいたんだ?」

 途端に加山の表情が強張った。
それまで説教口調だったのが一転して、なんとも歯切れが悪くなる。

「もしかして、見たのか?」

 いつになく大神の表情が鋭い。

「今更堅いことをいうな、士官学校からの付き合いじゃないか。」

「俺のことを言ってるんじゃない!!」

 加山は何とかごまかそうとしたものの、大神の剣幕に負け、つい口を滑らせてしまった。

「まるでヴィーナスのようだったよ…。俺は幸せだなぁ。」

 胸に手を当てて、ほぅ、と溜息などついている彼に、大神の怒りが爆発した。

「き〜さ〜ま〜、許さ〜ん!!」

 白いスーツの腕を、大神の手が捉える。

「ま、まぁ、落ち着け……事故みたいなものだって……う、うわぁ〜〜〜!!」


 ザッパーン!!

 帝劇の地下に、大きな水音が響いた。
 白いスーツが湯船に沈んだのは言うまでもない。

前へ        次へ


小説の間へ

Topへ