熱帯夜
…ザザー……カコーン…
太正十四年八月のある夜更け、しん、と静まり返った大帝国劇場。
地下の大浴場に水音が響いた。
「ふぅ…、やっぱり風呂はいいなぁ。」
湯船に体を沈めてそう呟いたのは、大神一郎その人である。
(あぁ、今日も疲れたぁ…。)
日中何かと忙しい彼にとって、夜の見回り終了後のこの時間は、数少ない自由な時間である。
湯にのんびりと浸かることのできるこの瞬間は、多忙な彼にとって、まさに至福であった。
それにボイラーを落とした後の、少々ぬるめの湯が彼は好きなのだ。
『バカ野郎、江戸っ子なら風呂は熱めと相場が決まってらぁ!!』
米田なら言うだろうな、と思った。
米田は陸軍省前で狙撃されて以来、陸軍病院にいる。
由里によれば、もうまもなく退院できるらしい。
疲れと心地よさから瞼がとろけてくるのはよくあることだが、今日の大神はそれに逆らうことができるほど自身に余力はなかった。
そのためか、ある重大な事を忘れているのにもまったく気づいていなかったのである。
(だめだわ、眠れない…)
自室のベッドの上で、マリア・タチバナは何度も寝返りを打っていた。
このところの帝都は、異常なまでの暑さが続いている。
日中は真夏日、夜は熱帯夜に苛まれ、夏バテに陥るものが後を絶たない。
帝都ニュースではこの日も、熱射病患者の発生件数を報道していた。
帝都に来て三年、日本での暮らしにも慣れてきた彼女だったが、この夏の暑さにだけは未だに慣れることができない。
大陸で育った者にとって、この湿気は耐え難いらしい。
また、任務で赴いていた紐育から帰還したばかりということもあり、湿潤な気候に身体がついていっていなかった。
毎晩寝付くことが出来ず、明け方になってようやくうとうとする、そんな日々の繰り返しは、マリアから少しずつ冷静な思考を奪っていく。
ふと、枕元の時計に目をやると、零時三十分を少しまわっていた。
消灯の時刻はとうに過ぎている。
マリアはためらいがちにベッドから起き上がると、バスローブを羽織った。
そのまま部屋の外に出て、隣人を起こさないようにそっとドアを閉めると、忍び足で階段へ急ぐ。
闇を動く白い背中が足早に階下へ消えていった。