――誰かが自分を呼んでいる。
 ――誰かが自分を揺さぶっている。
 ――誰かが自分に問い掛けている。
 ……最後は、違うか?

「ん……」
「ばか、モーラ!」
 突然怒鳴られたので、非常にびっくりする。ふわふわと夢見心地だったのに、
一気に現実に引き戻されてしまう。長い、とても長い夢を、悪夢を観ていた気
がする。
「こんなとこでねてたら、かぜ引くだろ」
「あ――」
 フリッツだ、わたしのお兄ちゃん。乱暴だけど、わたしに対してだけはとて
も優しい。わたしはいつもお兄ちゃんの後ろにくっついて遊んでいる。お兄ち
ゃんは――男の子だから女の子と遊ぶのはつまんないと思うんだけど、それで
もお兄ちゃんは嫌な顔一つしない。
 だから、わたしはお兄ちゃんのことが大好きだ。多分、お母さんと同じくら
い。遊んでくれるから、お母さんよりもちょっとかも。あ、でもでもシチュー
がおいしいから、やっぱりお母さんのほうがすきかな?
「今日はさ、みんなで遊ぼうと思うんだ」
 照れたように、お兄ちゃんが頭をぽりぽりと掻いた。けれど、その言葉にわ
たしは凍りついた。
「え? なんで? みんなと……って、やだよ、わたし、お兄ちゃんと遊ぶ」
「たまにはいいだろ」
 よくない、お兄ちゃんだって知っているはずだ。わたしがいくらみんなと遊
ぼうと思っても、みんなはわたしをいじめるだけ、石を投げられて、悪し様に
罵られて、それでわたしはぐちゃぐちゃに泣くのだ。
「大丈夫だよ、今日は大丈夫なんだ」
 嫌がってぐずりだすわたしを無視して、お兄ちゃんは腕を引っ張って、みん
なのところにわたしを連れていく。みんながいた、男の子女の子、みんなわた
しやお兄ちゃんとちょうど一緒くらいの歳で、みんなにこにこしている。
 うそだ。
 うそだ。
 うそに決まってる、みんなわたしをいじめるに決まってる。
「モーラ」
 誰かがわたしを呼んだ。わたしは恐る恐るその子を見た。男の子、たぶん、
ここに集まったみんなのリーダーみたいなやつ。この子が「あいつ、気に入ら
ない、いじめてやろう」って言えば、みんなが従う。
 わたしは怖くて怖くて、ぱっとその子の顔を見ただけで俯いてしまった。
 脚が震え出す、スカートをぎゅっと握り締める。目尻にみるみる内に涙が溜
まっていって、泣いてしまう準備は既に完了だ。石をぶつけられるときの痛み
への覚悟も既に完了だ。完了していても、痛いものは痛いけど。
 フリッツのばか――と思いながら、わたしは子供ならではの残酷な判決を待
っている。
 けれど。
 自分の全く予想しなかったことが起きた。
 その子は、こう言った。
「何して、あそぶ?」
 ……………………しばらく、口が利けなかった。息もできなかった、何を言
われたのかすら理解できなかった。やがて、言葉がゆっくりとわたしの頭に浸
透する。
 わたしは恐る恐る顔を上げた、もしかしてからかっているのだろうか。わた
しがこうして顔を上げたところで、「うそだよ、バーカ!」と言うのだろうか?
 けれど。
 やっぱりそれも違っていた。男の子はどこまでも真剣な瞳でわたしをじっと
見つめている。わたしの返事を待っている、わたしの答えを待っている。
 わたしは心臓が高鳴るのを実感していた、緊張する、いじめられている方が
まだしも気が楽であきらめがつきそうだ、どうしよう、どうしよう、何を言え
ばいいのだろう?
 ぎゅっ、とわたしの手をお兄ちゃんが握った。
 お兄ちゃんの方に振り向くと、にっこりと笑う。まるで、わたしを応援して
くれるみたいに。
 それでようやく周りを見る余裕ができた、みんな、にっこにこに微笑んで、
わたしの返事を待っている。よし、わたしも返事するぞ。
 言う、
 言うんだ。
「あ、あのね……か、かくれんぼ」
「うん!」
 一人が鬼になって、わたしはお兄ちゃんと一緒に近くの馬小屋に隠れた。
 馬の匂いがちょっときつかったけど、それよりわたしはどきどきするのを抑
えきれなかった。胸を抑える、そうすれば心臓の音が外に漏れないような気が
して。
 がさがさっ! わたしとお兄ちゃんは硬直した。
「ん? おい、誰かそこにいるのか?」
 子供の声じゃない、老人の声。どうしよう、わたしたちがこんなところに隠
れているのを見つかったら、怒られる怒られる怒られる怒られる――。
 おじいさんと、目が合った。
「……」
「……」
 だめだ、怒られるに決まってる。悪魔の子、と呼ばれて十字架を目の前に差
し出されたり、殴られたりするに決まってる。
 かちかちと歯が鳴りだす、怖くて怖くて思わず後ずさりしてしまう。がさが
さ、という藁の音。
 鬼になっていた子が、それを聞きとがめたらしい。けれど、今はそんなこと
どうでもよかった。
 お兄ちゃんは、ただ黙ってわたしの手をぎゅっと握り締める。
「おじーさーん! そっちに誰かいる!?」
 子供の声。
 おじいさんは、そちらを振り向いて――。
「何もありゃせんよ、馬がちょっと暴れただけじゃ」
「ちぇー!」
 わたしは、目をぱちくりとさせていたに違いない。
 それからおじいさんはわたしの方を振り向くと、にっこりと笑って、そっと
人差し指を自分の内に押し当てた。
 お兄ちゃんが二ヤッと笑って人差し指を口に当てる。
 わたしも、笑って――人差し指を口に当てた。

 結局、鬼になった子はわたしたちをとうとう見つけることができず、降参し
た。わたしとお兄ちゃんはみんなから、どこに隠れていたのかと聞かれたが、
二人とも笑ってごまかした。あれはわたしとお兄ちゃん、そしておじいさんの
三人だけの秘密。
 ……さあ、次はなんで遊ぼう!
 それから遊んだ、一日に遊ぶ量ではないと思うくらいに遊びに遊んだ。
 鬼ごっこ、かけっこ、花輪作り(男の子たちは嫌がった)、水遊び、教会の
鶏から玉子を盗んだのは、ちょっと悪ふざけしすぎだった気がするけど、でも
楽しかった。
 そう、とても楽しい。
 そして夕刻。太陽がゆっくりと西に沈み、光がみんなの顔を橙色に染める頃、
ようやくわたしたちはもうすぐ夜で、もうすぐ夕食で、だから遊べないという
ことを承知した。
 村中央にみんなで集まって、口々にこう叫ぶ。
「またあした!」
「またあした!」
「またあした!」
 わたしも叫んだ。思い切り叫んだ。
「またあした!」
 そうお兄ちゃんと一緒に叫んだ。

 家に帰ると、お母さんが「あらあらまあまあ」と凄く楽しそうに怒り出した
――変なお母さんだ。
「こらこら、がきんちょども。まずは手を洗って、着替えてらっしゃい!
 さもないと夕食抜き!」
 夕食抜き、というのは嫌なので、大人しく手を洗って服を着替える。泥だら
けになった服を、お母さんは楽しそうに抱えた。

 夕食はホワイトシチューだった。焼けた牛乳の甘い匂いがする。前から思っ
ていたんだけど、このシチューの匂いは何だかお母さんの匂いに似ていた。
 わたしがそう言うと、お母さんはくすくす笑った。お兄ちゃんは口元にソー
スを飛び散らせながら三杯おかわりした。
 お腹がばぁん! と破裂しそうなくらいシチューを詰め込むと、わたしとお
兄ちゃんは、お母さんの読んでくれる物語に聞き入る。王子様とお姫様、悪い
魔法使い、悪い怪物、正義の味方の優しい魔法使い、優しい王様とお妃様、そ
して最後は王子様とお姫様が結婚してめでたしめでたし。
 二度、その話を繰り返してもらった。
 お兄ちゃんは少し退屈そうだったけど、わたしは退屈なんてしない。だって
それはとても幸せで素敵な物語だと思ったから。
 わたしとお兄ちゃんは一緒の部屋で、そして違うベッドで寝ている。ベッド
はとても小さくて、わたしはともかくお兄ちゃんはそろそろ使い辛そうだった。
 お兄ちゃんに、こう言う。
「お兄ちゃん。わたしのベッドも使えば、楽?」
「そりゃ、そうだけど……」
「じゃあ、わたしお母さんと一緒に寝るから。こっちのベッドも使っていいよ」
 甘えん坊め、とからかうお兄ちゃんを無視して、わたしはお母さんのベッド
に潜り込む。お母さんはからかうことなく、わたしを受け入れてくれた。
「おや、モーラはちょっと冷たいかもね。
 でも気にしなくていいんだよ、冷たい肌の女の子は心が温かいんだから」
 あったかいふかふかのベッド。
 あったかいふかふかのお母さん。
 何もかもが幸せで何もかもが温かかった。
 目を閉じるのが少し怖い、幸せな日、幸福という言葉を具現化させたような
時間。目を閉じて、朝が来るのを待って開けば明日も同じ幸福が待っているの
だろう。そしてそれは永遠に続く、ずっと、ずっと。
 そう。
 だからこそ。


 ――私は、戻らなくてはならない。


 私は、そっとベッドから抜け出すとお母さんの頬にそっとキスをした。それ
から自分達の部屋に戻ってお兄ちゃん――まだ少年であるフリッツの頬にもキ
スをする。
「ありがとう」
 フリッツにそう言って部屋を抜け出すと、私は外へと続く扉へ手をかけた。
「行くのかい?」
 お母さんの声。
 振り返ってしまうと、決心が鈍りそうだった。しかし、この声に振り返らな
いという抵抗は私にはできない。
 振り返ると、お母さんの後ろにフリッツがくっついていた。お母さんの手を
握り締め、私の方を悲しそうに見つめている。
「………………ごめんなさい、もう行かなくちゃ」
「そう」
 何を言うべきなのか、迷う。思い出として創り上げられた二人に対して、果
たして何を言うべきなのだろう。
「お別れなんかしなくていいんだよ。私達はずっとお前と共にあるんだから」
 限界だった。
 私は私が創り上げたはずのお母さんに駆け寄って、しっかりと抱き締めた。
 互いの顔を寄せ合うと、お母さんに赤ん坊のように抱え上げられる。
「お母さん! お母さん! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
「馬鹿ねぇ、何を謝ることがあるのさ。いいんだよ、行っておいで。
 自分の大切な人達が傷つけられていて、それを許さない娘に育ってくれた、
というのが私には嬉しくて嬉しくて……」
 首筋に温かいものが流れる。顔に温かいものが流れる。気付けば二人して、
私とお母さんは涙を流し続けていた。
「フリッツ! アンタ、外まで送っておやり!」
「うん」
 フリッツがお母さんの手を離し、私の手をぎゅっと握り締めた。ああ、いつ
まで経っても、私ときたらこの手に護られてばかりだった気がする。
 名残惜しかったけど、私はお母さんから離れて、自分の足で、二本の足で立
った。
「じゃあ、お母さん――」
 お母さんは、笑顔だった。多分、これから先もずっと笑顔でいてくれるだろ
う。それが幸福で仕方ない。それが嬉しくて、でも哀しくて仕方ない。
「ああ、いってらっしゃい」
「……うん、いってきます」
 フリッツに手を握られて、私は外へと続く扉を開いた。

 扉を閉めると、どこまでも真っ暗闇。私は恐る恐る足を踏み出した。フリッ
ツは闇を全く恐れてないように、私を引っ張ってずんずんと突き進む。
 やがて、私にも理解できた。
 暗闇でありながら、この暗闇には一本一本道がある。ありとあらゆる人間と
ありとあらゆる吸血鬼が、平等にこの道を訪れる。
 そしてありとあらゆる存在が己の望む方向へと歩いて行く。
 ――あ。
 私達と全く反対方向に歩いてくる男がいる。フリッツが警戒するように、私
の手をぎゅぅっと握り締めた。そしてその警戒は当たっている。
「貴方は――!」
「ほぅ、お前は逆方向なのか」
 ナハツェーラー、私の母を犯した男。
 私の表情が固くなったのを見て、彼は頭を振った。
「残念ながら、私はこの通り。向こうの世界に行かねばならない存在だ。
 君の相手はしていられん」
「そうね、私もあなたを相手にしてはいられない」
 ほぅ、と感心したように彼が言う。
「私を……怨んではないのかね?」
「私は貴方を怨んでいたかもしれないけど、今はもうどうだっていいわ。私は
私であることに、感謝しているくらいね。
 だから、その点について私は貴方のことを恨んでない。貴方が滅んだのなら、
邪悪な吸血鬼である貴方が滅んだのなら、それで終わりよ」
 ナハツェーラーは不敵な――否、悟ったような笑みを浮かべた。
「そうか。では私は行こう。地獄で己の罪をせいぜい悔い改めてくるとするよ。
 悔い改める必要があればな」
 片手を掲げて、ナハツェーラーは歩き出す。私とフリッツもそれを見て、再
び歩き出した。
 しばらく歩くと、また誰かとすれ違う。
「モーラ? モーラじゃないか」
 男の声。
 自分を知っている。だが、聞き覚えのある声で見覚えのない顔だ。
 白人、金髪、年齢は三十代というところだろうか。だが親戚ではない、知り
合いでもない。
 私が首を捻っていることに気付いて、彼は言う。
「ああ、君には包帯姿しか見せてなかったからな」
 その一言で疑問が氷解した。
「あ――ダークマン!」
「おいおい」
 両肩を竦めた。
「今や私はダークマンじゃない。ペイトン、ペイトン・ウェストレイクだ。
 改めて、よろしくな」
 そう言って手を差し出す。私も空いていた手で彼の手をしっかりと握る。
 しかし、彼がここにいるということは一つの事実が存在していた、哀しい
現実が。
「……すまない。キャルを一人残してきちまった」
「ひどい人ね」
 そう思った、本当に心の底から。
「悪いとは思っている。キャルには、君から謝っておいてもらいたい」
「分かったわ。でも、キャルは謝ったって許してくれないかもよ?」
 そう言って悪戯っぽい笑みを浮かべると、ペイトンは苦笑いを浮かべた。
「そうかもな。だが……君が傍にいてくれれば、彼女は大丈夫さ」
 これ以上ないくらい真剣な表情を浮かべていてダークマン……いや、ペイト
ンは言った。
「ええ。……私に、任せてちょうだい」
 そう聞くと彼は頷いて、笑った。なんだ、そうか――この人は、こういう風
に笑うことができたのか。
「カレンとジュリーが待っているんでね。お先に失礼するよ」
 ダークマンであったときの、あのつばのついた帽子を被ってペイトンは歩き
出した。遠のいていく彼の背中に手を振り、また私はフリッツと歩き出す。
 どこか温かくて、神聖な暗闇の道を歩き続けて、誰も彼ともすれ違わなくな
った頃。お兄ちゃんが急に立ち止まった。
 私は振り返り、声をかけようとして――驚いた。
 お兄ちゃんは何時の間にか見慣れた服装と見慣れた歳格好――つまり、最後
に私が見ていた彼と同じ姿になっていた。気付けば、握られていた手も私より
一回りも二回りも大きいものになっている。
「悪ィな。俺はここまでしか行けねぇ」
 口調も、元通りだった。
「そう」
 淡々と言って別れようとしたつもりだったが、彼は私の両肩を優しく抱くと、
首に手を回した。多分、父親が娘にやるように。私が男性に一度たりともやっ
てもらえなかった行為。
「すまなかった」
 今度はお母さんの時のような感情の爆発はなかった。ただ、静かに静かにお
兄ちゃん――フリッツの私に対する愛情が、全身に染み渡っていく。
 静かに泣いた。
 私も。
 そしてフリッツも、多分泣いていた。
「幸せは他にもあったかもしれない」
「謝ることないわ、私が望んだ道だもの。私が自分で選んだ道よ」
 これはそうだ、後悔が無いと言えば嘘になる。けれど私は、多分これが一番
幸福な道だったのだ。
「お兄ちゃんは、私に泣き方じゃなく、戦い方を教えてくれた。
 お母さんは、私に笑い方を教えてくれた。だからいい、私はこの躰であるこ
とに後悔するのを止めたわ。
 私を見て、微笑んでくれる人がいるから――」
「そうか。じゃあ、俺がいなくても大丈夫だよな?」
「馬鹿ね。大丈夫な訳ないじゃない――しばらく、フリッツのこと思い出して、
泣くからね」
「そんな事言わないでくれ。おちおち死んでもいられねぇ」
「大丈夫よ、泣いた後。フリッツのこと思い出して、笑ってみるから。
 お兄ちゃんとの思い出で笑うから」
「じゃあ、さっさと泣き止んでくれ」
「フリッツこそ、さっさと泣き止んでよ」
 二人して、目尻から流れる涙を拭おうともせずに、そんな軽口を叩いて、私
達は笑った。
 ようやく笑うのを止めて、距離を取る。即ち、別離の時間だ。
 十九年一緒に過ごしてきた、世界でたった一人の、私の家族だった人。
 ありがとう。
 ありがとう。
 ありがとう。
 どれだけ礼を言えば、どれだけ言葉を重ねれば、私の感謝の想いが伝わって
くれるだろうか? しかし、言葉に出てくるのは余りにも素っ気無い別れの言
葉だけだ。
「フリッツ、またね」
「ああ、またな。……次に逢うのは、百年後くらいかな」
 最後にそんなことを彼が言った。
 かもね、と私は笑った。笑って、瞬きして、また笑って、その内に、ふいと、
フリッツは消えていた。
 後には、私が残るのみ。
 しばらく待って、それでも出てこないことを理解すると、私はようやく背中
を向けて歩き出した。もう、これで十年分くらいは泣いた気がする。だから、
この先に何が待っていようが、私は泣くまいと誓う。
 目に焼きつくくらいの白い光が、徐々に私の躰を覆っていく。ふわふわする、
あやふやで、頼りなかった己の五感がゆっくりと現実に戻るのが分かる。
 一瞬。

 私の記憶に、これまで全く見た事も聞いた事もない映像が挿入された。
 そこはあまりにも広い草原。男が二人、いや、一人か。一人は、既に人の形
を保ってはいなかった。左腕がない、右腕もない、左足もない、唯一残った右
足は、今にももう一人の男によって、斬り落とされようとしている。
 では、三本の手足はどこにいったのか? 答えは簡単で、男の周りに散らば
った喰いカスと骨の欠片が、全てを指し示していた。
(……食べたのね)
 私は、その記憶を――まるで、映画か何かでも見るような感覚で見ている。
 その男は、憎悪を露にして、その――恐らく男の躰を貪り尽くす。
 血を啜る、肉を噛み千切る、骨を砕く。
 延々とどこまでも続くグロテスクでおぞましい、儀式。

 ああ、そうか。
 私はこの光景を、おぼろげに、心の片隅で覚えていた。
 これは恐らく人間には知らない、分からない、記憶にない光景――世界で最
初の吸血鬼が誕生した瞬間だ。
 カイン。彼は、弟であるアベルの血と肉を、飽きる事無く貪り食っている。
 ……どうやら、聖書とは行いそのものが随分と違うらしい。
 やがて、カインは弟の全てを食べ尽くした。アベルの血を、アベルの肉を、
アベルの骨を、何もかもを己のものとした。そう、何もかもを。
 カインが叫んだ。
「俺は神の愛を、俺のものとしたぞ!」
 力強い咆哮。瞳は紅色に染め上がり、喰い尽くした口は人とは思えない牙が
剥き出しになっている。
 憎悪。
 愛情。
 あまりにも相反する、それでいて限りなく紙一重なその感情をカインはつい
に得てしまった。
 ここに吸血鬼カインが現出した。

 ……それから後も、また聖書とは事情が異なっている。カインは神の怒りを
買って追放された――のではなく、いや、もちろんそれも在るのだが――怒る
一方で、彼は恐れられて追放された。神への限りない愛情、弟への限りない憎
悪、神への限りない憎悪。神が人間を見限ったのならば、恐らくカインのこの
行為が理由であるかもしれない。
 カインは神の怒りを買い、同時に恐れられ、地上をさすらう者となった。さ
すらう内に神については忘れ、弟を殺したという事実についてすらも忘れ、最
終的に彼の記憶に強烈に焼きついたものはただ一つ、弟の血の味だった。
 カインは、人に噛みついて血を啜ることを覚えた。殺された者もいる、殺さ
れなかった者もいる。その中でからくも生き残った人間達は、カインの記憶が
体液を交換することによって、自分達にも刻み込まれることを知った。
 カインの記憶。それは即ち――血への渇望、肉への渇望、骨への渇望。噛ま
れた人間達がカインと同じ行為を繰り返すようになるのに、そう時間はかから
なかった。
 記憶は人に伝わる、伝わっていく内に、記憶はあやふやなものに、おぼろげ
なものに変化し、代わりに本能に事実のみが刻まれていく。血への渇望、とい
う事実のみが。
 かくして、吸血鬼という世界最強の怪物が完成した。

 映像が終わる。
 たった一人の人間の、
 たった一つの感情が、
 世界の全てを動かしたのか。
 私はカインを哀れんだ、今のカインは繰り返し続けた吸血行為のせいで、膨
大な記憶が混濁し、何もかもが溶け合い途方もない虚無と成り果てていた。
 だが今、ナハツェーラーの儀式によって叩き起こされた今。カインは、久方
ぶりに思い出し始めている。
 人の血の温かさを。
 人の肉の温もりを。
 そして、カインは――肉体と魂が(不完全とはいえ)結合したことによって、
もっとも厄介なものを思い出していた。魂が触れ合う――というよりは、溶け
込んでいる私には痛烈に、それが感じられる。
 そう。即ち、餓えと渇きというものを。


「モーラ」
 私を呼ぶ声がする、それに応じなくてはならない、彼女の声に応じなくては
ならない。応じなければ、私は私たりえない。
 目を瞑る、笑顔が思い起こされる。お母さん、フリッツ、カレン、エレン、
玲二、その他私が助けて、助けられた人達――そして、キャル。
 キャルに逢いたかった、キャルを抱き締め、抱き締められたかった。そう願
う、心の底からそう願った。私の心……魂はどんどんカインから剥がれていく。
 カインの魂は、膨大な力の源流である私を追い求め、是が非でも逃すまいと
する。数千年の怨念で、数千年の憎悪で、彼は私を捕らえ、離すまいと必死だ。
 だが、そんなたかだか数千年の憎悪が何になるというのだろう。私が十九年、
与えられてきた優しく、強い感情――即ち、私が受けてきた愛情に比べれば。
 私は伸びてくるカインの闇の手を無造作に振り払った、光に包まれた私に対
してカインは手出しできない。それは、彼が求めて、求め続けて、そしてとう
とう手に入らなかったものだから。
「神の愛」
 それは万物に、神の恐れを、そして怒りを買わない限り、誰にでも平等に与
えられるもの。
、カインの魂が急速に離れていくのを感じる。無念の呻きが聞こえる。だが、
もう彼になど構ってはいられない。今、私はカインから離れて。


 ――もう一度現世に産まれた。


                ***


 その時――志貴は視た。確かに存在した、確かに紅黒い『極点』を視たのだ。
 一瞬の歓喜、そして絶望。
「駄目だ……あれじゃ……あれじゃ、届かない!」
 右手に持つ七つ夜は、これまでありとあらゆる戦闘を潜り抜けてきた志貴に
とっての、まさに護り刀だが、所詮それは短刀である。例え、全身全霊を持っ
てそれをカインに打ち込んでも、点を穿つことはできない。志貴の視た極点は
人間ならば心臓に当たる部分に在った。
 だが……志貴は確信している。鋼のように頑強な胸板に比較して、この七つ
夜では貫通力が足りないと。つまり、例え、極点が視えるとしても――。
 その極点を、突くことも抉ることも穿つことも撃つこともできないのだ。
「ちくしょぉ!」
 だがそれでも。
 やらなければならない。
 百に一つ、千に一つ、万に一つ、億に一つの可能性に賭けて。
 カインの極点を穿たなければならない。
 志貴の闘争本能が「この七つ夜では彼の極点を突くことはできない」と囁き
かける。それを黙殺。左腕の喪失感も苦痛も、全て遮断。自分が殺さなければ、
全てが死に絶える。アルクェイドも、シエル先輩も、秋葉も翡翠も琥珀も有彦
も自分のささやかな人生に幸福を与え続けてくれた皆が、全て。
 それは闘争本能を遥かに凌駕した、純粋な想いだった。どうしようもないく
らいシンプルで純粋な感情。誰かを護りたい、誰かを救いたい、誰かを愛し続
けたい、死なせたくないと思う、そんな些細なもの。しかし、それ故に強い。
 足に絡まった舌を七つ夜で切り裂いた。そのまま、力を失って倒れる寸前の
舌を踏み、跳躍――そして、ついに心臓の極点に向けて七つ夜を叩きつけた。

 だが、闘争本能は正しかった。カインの胸板に七つ夜を叩きつけた瞬間、右
腕の感覚が遮断された。
(痺れっ……)
 同時に、突いたはずの七つ夜が自分と同じように地面に落下していくのが分
かった。七つ夜の尖端に、ヒビが入っていた。ヒビはゆっくりと広がっていき、
やがて――砕け散ってしまった。
 志貴はからくも着地する。全身に衝撃が疾り、背骨にかなりの激痛を覚えた
が、そんな事はどうでもよかった。見れば、カインの胸板には傷一つない。
 それに比べて、こちらは唯一の、そして無二である武器を失った。だが、志
貴は自分を奮い立たせ、七つ夜の欠片の、一番大きく、一番武器に使えそうな
それを手に取った。
 構える。
 全身が震える、恐怖と苦痛が混ざり、志貴を責め立てる。
「諦めるか……諦めて……たまるかってんだ!」
 咆哮。
 否、絶叫。
 やはり否か、その力強さは間違いなく咆哮であった。

 その声を聞き届けたのかどうか、あるいは様子を窺っていたのか、窺ってい
なくても分かっていたのか。志貴に襲い掛かる舌たちを回転して斬り飛ばしな
がら、それは手前の地面に突き刺さった。
 恐らくは、日本刀である。
 襲い掛かってきた舌を相手にしようとしていた志貴は、呆気に取られた。ま
るで己の願い――強力な武器が欲しい、という願いを神様が叶えてくれた?
 ――まさか!
 だが、どうやらそのまさからしい。ただし、神は神ではなかった。神は――
吸血鬼ハンターだった。
「D!?」
 ヒルドルヴ・フォークで襲いかかってくる舌を斬り飛ばしていた惣太が、驚
愕の叫びを発した。
「D?」
 アルクェイドが、そんな名前の吸血鬼ハンターについて言っていたような気
がした――が、今は記憶を掘り起こしている場合ではない。
「使え」
 透き通るような声がした。声の方向に振り向くことすら忘れて、志貴はその
刀を掴んだ。右手に電流が疾る、先ほどとは違う心地よい痺れ。凄い、と思っ
た。何が凄いのか――この刀が凄いのだろうか、この刀を持った自分が凄いの
だろうか。
 いずれにせよ、今は――この一刀で極点を貫くことだけを考えよう。
 もう一度疾った、遮二無二疾った。体力の限界も、苦痛の限界もとうに越え
た世界、一切の不必要な情報が遮断された純粋なる世界に志貴は身を投じてい
た。
 舌が邪魔をする、全てが削ぎ落とされた世界において、彼等はただの障害物
でしかない。あちこちに存在する線を斬ることで、世界から排除する。
 一瞬――カインが、怯んだように見えた。……見えただけか? 気のせいか
もしれない、あるいは志貴という存在に怯んだのではなく、他の何かに怯んだ
のかもしれない。
 志貴には関係ない、カインの膝を蹴って一気に心臓。即ち、極点を狙う。
 全身を極限までねじってから、右手の日本刀をカインの極点の在る場所へ叩
きこんだ。
 今の志貴は片腕で、神経から肉体から骨に至るまで、何もかもが限界ギリギ
リかとうに限界を越えていたが――それでも尚、この一撃には満足が行った。
 突き刺さった日本刀に右手一本でぶら下がる。カインは動かない。崩れろ、
と志貴は念じる。点を突いたのならば、崩れるはずだ、悲鳴をあげる暇もなく、
こんな風にぶら下がる間もなく。
 だが。
 ああ……志貴は絶望する。確かにこの一撃は理想的だった、完全に完璧なま
での一撃だったと言えよう。しかし、その一撃すらカインは凌駕してしまって
いた。それも極単純な防護、滑るように纏わりつく表皮と鋼のような筋肉によ
って防いでいたのだ。
 ああ――そして惣太は絶望した。動いている、カインの腕がゆっくりと動い
て、胸板にくっついたそれを振り払おうとしている。
「避けろ――志貴!」
 気付いたときには、カインの巨大な右腕が空を切り裂き、奇妙な歌を唸りな
がら志貴に襲いかかっていた。
 惣太のアドバイスが良かったのか、あるいは志貴の生存本能の為せる技か。
 咄嗟に志貴は胸板を蹴り上げていた。遅れてカインの拳と爪が誰もいない空
間を蹂躙する。惣太がほっと息をついたのも束の間、宙空にいた志貴にカイン
の左拳が襲いかかっていた。
「志貴ィ!」
 惣太が吼えて、跳躍した。志貴の躰を抱え込むのとカインの左拳が惣太の背
中に激突するのとは、ほとんど同時だった。惣太が感じたのは、最早痛みとい
う概念からは全く離れた代物、惣太の存在そのものを消滅崩壊させるような、
完全にして荘厳なる衝撃だった。
 濁流に飲み込まれる意識を必死で繋ぎとめるが、生きるということにあまり
にも精一杯で、カインの目の前で無様に喘ぎ、地面を転がる。
 志貴の方も、最悪にして致命的な打撃こそ免れたものの、惣太の躰で防ぎき
れなかったカインの拳の衝撃が、全身を蝕んでいた。
 共に二人、倒れて自身の武器も全て手元から離れ、尽きることなく生えてく
るカインの無数の舌に取り囲まれた。だが、志貴も惣太も――周囲の世界から
完全なまでに断絶してしまった。今の二人は、五歳の子供より無力な胎児のよ
うなものだろう。
 自然と、二人の躰が丸まった。
 二人の思考には絶望すらなかった、いや、思考そのものが存在しない。漠然
と剥がれて行く意識、漠然と剥がれて行く痛み、闇夜だと言うのに、視界が白
く塗りつぶされる。ホワイトアウト。繋ぎ止める努力をすることも思い浮かば
ない。
 それでも、二人は身を起こすことができた。それは自らを叱咤激励したから
でも、誰かの為を思ったからでもない。ただ――視たからだ、感じたからだ、
聞こえたからだ。
 産声を。少女の産声を。少女が、世界に帰還した産声を。
 そして、光を。


 カインの首筋を食い破るようにして、モーラは現実へと帰還した。薄い、黄
金色の光がオーラのように彼女を薄く覆っている。ゆっくりと、ゆらゆらと、
まるでそこだけ時間がゆっくりと流れているかのように、モーラは地上へと舞
い降りた。
 惣太は――何とか半身を立ち上がらせて、茫然と彼女を見ていた。痛みなど
何処かへ置き去りにしてしまうくらいの衝撃だった。
「モー………………ラ?」
 彼女は一人、カインに立ち向かった。
 今の今まで無関心を貫いてきたカインが、特大の憎悪を篭めてモーラを睨み
つけた。だが、モーラはそれこそ意に介さない。それどころか――背中を見る
惣太には分からないことだが、彼女はうっすらと笑みを浮かべ、そして哀しそ
うにカインを見るのだ。
 そんな目で俺を見るな、と言わんばかりにカインが拳を振り上げモーラを思
い切り殴りつけた、カインの握り締めた拳と同程度の大きさしかないモーラは
たまらず吹き飛ばされる。
 しかし惣太が驚嘆したことには、モーラの躰はふわりと吹き飛びながら次第
にその速度を弱め、やがてふわふわと宙を舞うようにゆっくりになり、あまつ
さえ――ごく普通に、何の気負いもなく着地してしまった。まるで空気が、彼
女を石煉瓦の壁に叩きつけることを拒否したようだった。
 そんな彼女の背中に、
「モーラ!」
 声が掛かった。金色の光を纏ったままモーラは振り向き、懐かしい面々を見
渡した。なぜか驚きはしなかった――予知していた、という訳ではないが、モ
ーラは何となく、彼等が此処に来るのではないか、と思っていた。
 微笑んで、手を差し出す。
 四人の内、三人はきょとんとした目をしていたがただ一人――彼女の意図を
知ったキャルだけは、微笑んだ彼女に応じるように笑顔を見せ、ブレイドに耳
打ちした。
 ブレイドは心得たように背中のハンマーを放り投げた。ハンマーはその形状
故に、くるくると回転しながら数メートル先のモーラの元へ向かう。
 モーラは右腕を振り回した、ハンマーが吸いつくように右手に収まる。ぐい、
とハンマーを両手で持ち、天に向けて掲げる。
「灰は灰に――」
 何度この言葉を唱えただろう、何度この言葉に従って吸血鬼を屠っただろう?
 今日が最後、今日こそ最後と唱え続けた。時に死ぬまでこの言葉を唱えなく
てはならないと絶望し、時にはこの言葉を唱えることに誇りと希望を持つこと
もできた。
 今日はこの言葉を唱えることに誇りを持てる。
 今日はこの言葉を唱えることに希望を持てる。
 そしてこれからも、何度唱えても絶望など持ちはしない。
 何故なら――。
「塵は塵に!」

 疾駆。
 彼女と刻をほとんど同じくして、志貴が疾走する。
 恐怖と怒りのために眠らせていた闘争本能が再度起動し、彼に囁く。
 ――今しかない。
 カインは喰いちぎられたような状態の首筋を手で抑え、ぐらぐらとよろめい
ている、どうやらあの少女がカインの体内から抜け出たことが相当のダメージ
を及ぼしているらしい。
 心臓に突き刺さったままの、日本刀を見た。カインの巨躯には、あの日本刀
ですら、針のようにか細い。だが、そのか細い日本刀はそう容易く折れはしな
い、幾多の戦いをDと共に勝ち抜いてきた七つ夜を凌駕する概念武装なのだ。
 そして同時に、神と人類の生死を分ける要でもある。今、志貴は自分が何を
すべきなのか、あの少女が何をしようとしているのか、全て理解していた。
 だが、同時にカインも自分が何をされるのか――完全に理解してはいないま
でも、二人を止めなければ己が“殺される”という慄然たる事実だけは解る。
 全身の目玉から舌が突き出され、伸びる。先割れした舌から無数の歯が出現、
モーラと志貴に襲いかかる――だが、それを見逃すほど伊藤惣太は愚かではな
い。
 ――距離が離れすぎている、間合いを詰めるには遠すぎる。
「となると……これしかねぇか!」
 惣太は吼えた、ヒルドルヴ・フォークを上段に構え、己の頭にイメージを構
築させる。ヒルドルヴ・フォークの剣先をひたすら伸ばす、倍に伸ばし、三倍
に伸ばし、カインの襲いかかる舌を叩き斬ることができる程度の長さを夢想し
たところでそのイメージを固着化。
 ヒルドルヴ・フォークが惣太の念を受けて青白く光る、やはりあの時、ギー
ラッハの業を見ていたのが大きい。さもなければ、こう容易くイメージさせる
ことはできなかったろう。
「ありがとうよ、ギーラッハ。――行けェッ!!」
 ヒルドルヴ・フォークを勢い良く振った、わずかに遅れて志貴とモーラを取
り囲もうとしていた舌が千切れ飛ぶ。あまつさえカインの腹部に念動力で作り
あげた刃がめり込んだ。同時に惣太の全身に痺れが疾る。もう一度今のを撃て
るかどうかは自信がない。
 ――だけど、もういいか。
 既に、志貴はカインの躰に辿り着いていた。跳躍。惣太はそれを見て、安心
して膝を突いて、運命の行く末を見護ることにした。
 日本刀の柄は志貴の目の前に在った、それをしっかりと握り締める。そこま
ででいい、自分の役割はそれでいい。
 ――何故なら、今の俺は触媒だからだ。カインにトドメを刺すのは俺ではな
く、そして惣太でもなく。アルクェイドでもリァノーンでも他の誰でもなく。
「不死なる者に」
 モーラが遅れて跳躍。狙いはたった一点、志貴が握り締めた日本刀の――柄!

 全てがやけにスローモーに感じられた。自分の跳躍も、カインの動きも、何
もかもが。フラッシュバック、母と幼いフリッツと嘲笑する村人と侮蔑する村
人と恐怖する村人、青年となったフリッツと変わらない自分、吾妻玲二とエレ
ン、伊藤惣太と夜魔の森の女王と異形の化物達、カレンとダークマンとキャル、
カイン。
 そして今、此処に居ること。そして今、此処に在ること。
「滅びの――刻を」
 モーラの振り下ろしたハンマーは寸分違わず、志貴の持った日本刀に叩きこ
まれ、そして志貴は視た。確かに遠野志貴はその瞬間を視た。
 カインの『極点』に日本刀の切先が刺しこまれる瞬間を、確かに視た。


 崩壊。


 まるで膨れ上がった風船が爆発するように、カインの肉体は紅の血を飛び散
らせながら、しかし、その血すらも闇に紛れるように消えていく。
 志貴が己の躰のよりどころとしていたカインが崩壊したことで、彼の躰は空
から一気に放り出されていた。だが、慌てずモーラはハンマーを放り投げて、
志貴の躰を受け止めて着地する。
 惣太が慌てて駆け寄ってくる。志貴は失神寸前だったが、何とか持ち堪えて
いた。モーラは志貴の左腕を見て、服の切れ端を縛り直す。
「モーラ! 志貴!」
 惣太は笑顔だった、かつて人間で在った時の彼はこういう風に笑っていたの
だろう、そして今ですら彼はこうして笑える。モーラは――何とはなしに、惣
太が日本で選んだ道は決して間違いばかりではないことを知った。
「久しぶりね――惣太」
 モーラに纏わりついていた光はゆるゆると消えようとしていた。惣太はモー
ラを一瞬聖女を目の当たりにしたかのように見つめている。
 ――っと、今はそれどころじゃなかったっけ。
 志貴の左腕を改めて確かめる。切断されたまま動き回っていたせいか、縛り
つけた布は既に真っ赤に染まっている。左腕を捜そうとしたが、それよりも彼
の容態を安定させる方が先か。惣太は志貴を担ぐと、リァノーンとアルクェイ
ドが待つバルコニーに戻ることにした。もしかしたら、あの二人ならば何とか
なるかもしれない。
「モーラ」
 ぐったりとしている志貴を担ぎ上げてから、惣太は彼女に声をかける。
「えっとその……ありがとう。助かったよ」
 どう言おうかしばし迷った末に、そんな事を言った。モーラはじっと、惣太
と志貴を見ていたが――ふいに、微笑んだ。多分、日本で惣太がモーラと関わ
ったときには、一度も見せなかった笑顔で。
「惣太くん――もう逢うことはないと思うけど、元気でね」
 そうだろうな、と彼女の言葉を受けて惣太は頷いた。もう逢うことはあるま
い、またこのような事態が起きた時は別として。
「ああ、モーラも。……元気でな」
 言って、惣太は駆け出す。ちょっとした喪失感、だがそれもすぐに二人の帰
りを待っているであろう愛しい女性に埋め尽くされる。惣太は、モーラを自分
の心から切り離した、また一つ日本が遠くなった気がする。
「リァノーン――――――!」
 その声に応じるように、リァノーンとアルクェイドはその身を起こし――そ
して、惣太と志貴の姿を認めて、
「惣太!」
「志貴!」
 二人も駆け出していた。


 モーラは己の躰から、光がふわふわと抜け出ていくのを見ながら四人を待つ。
 四人――吾妻玲二、ブレイド、エレン、そしてキャル。
 まず一番最初に自分に向かって突撃してきたのは、予想通りキャルだった。
「モーラ!」
 モーラが何か答えるより先に、キャルは力一杯モーラを抱き締めていた。
「ちょ……くるし、苦しいってば……!」
 そう言いながら、モーラは笑っていた。キャルは抱き締めただけでは飽き足
らず、くるくると踊るように回っていた。解放されたのは、たっぷり五分ほど
後だった。
「やあ」
「……良かった」
 気の抜けたような挨拶をする玲二、そして涙を溜めてモーラの両手を握るエ
レン。二人にモーラは微笑んで、
「貴方達こそ……よく、生きてた……生きててくれて、よかった」
 そう言った。エレンもまた、キャルに負けないくらいに力強くモーラを抱き
締めた。それから、モーラは玲二と握手を交わした。
「ありがとう。全て――モーラのお陰だ」
「ううん」
 首を横に振る、訝しげな顔で玲二はモーラを見た。
「私が今ここに在るのは、誰でもない皆のお陰なのよ」
 その言葉を追求したい、と玲二は思わないでもなかったがそれは無粋だろう
と考え直す、多分モーラの言っていることは正しいのだろう。
 最後にブレイドは白い歯を見せて笑い、黙って拳を突き出した。
 モーラも不敵に笑い、自分の小さな拳をブレイドの拳に合わせた。
「よくやった」
 そう言って、ブレイドは拳を広げた。
「貴方もね」
 そう言って、モーラも拳を広げると、ぱちん、とブレイドの掌に合わせた、
 百戦錬磨の吸血鬼ハンター同士の、ささやかなエール。かくしてモーラは、
現世に帰還し、カインは消滅した。
「さて……これからどうする?」
 キャルの問いに、モーラが応じようとして――。
 歓声、というよりは怒号のようなものがこの場に迫り来るのを感じた。四人
も同様に、周りを見渡す。そしてほぼ同時に気付いた、自分達が今居る場所は、
どう呼ばれているところか。
「ヴァチカンの――騎士団!?」
 不味い、と全員が予感した。ヴァチカンの恐ろしさは、特にブレイドとモー
ラは身に染みて理解している。玲二とエレン、そしてキャルはともかく、いや、
三人すら危ないものだが、モーラとブレイドは吸血鬼の血を半ば引くものであ
る。
 彼等の教義からすれば、間違いなく誅殺されるだろう。しかし、逃げるとす
るならば、一体何処に――。
「あらまあ」
 呆れたような声を出して、聖職者が降り立った。その数一人。
 一瞬絶望的な想いに囚われたモーラだが、すぐに彼女が見覚えのある存在だ
と知って、安堵の息をついた。
 銃を構えかけているキャルとエレンを押し留め、モーラは聖職者の前に立つ。
「あなたでしたか」
「貴女だったの」
 シエルだった。第七聖典を構え、服のあちこちがぼろぼろに破けて血が滲ん
でいる、その様は彼女が死闘を繰り広げてきたことをよく現わしていた。
 無言。沈黙。
 そしてため息。
「別れを惜しんでる暇はありません。さっさとお行きなさい。
 もうすぐ――アンデルセンがやってきますから」
 彼の名前を聞いて、ブレイドとモーラが身を強張らせた。アレクサンド・ア
ンデルセン。第十三課の中で最も苛烈な――と言っても全員似たりよったりだ
が――絶滅主義者。
「私が来た方の逆へ……多分、まだそこは空いてます。
 ローマは戒厳令が布かれてますけど、貴方達だったら何とでもなるでしょう」
 シエルはそう言って、背後を振り返った。テンプル騎士団を一人仕留めて、
自分のノルマは達成したとばかりに抜け出してきたが――そろそろ他の連中も
仕留めた頃だろう。つまり、時間は残り少ない。
「多分、貴方達は――世界の誰にも感謝されることはないでしょう。
 ですが、あえて言わせていただきます」
 シエルは頭を下げた。深々と。そして、
「ありがとうございました」
 そう言った。
 モーラは無言で首を横に振った。自分はそう大層なことをした訳ではない、
ただこの現世に戻りたかっただけだ。ただ、こういう風にキャルやエレンや玲
二といった大切な人間と共に、もう一度語り合いたかっただけだ。
 自分勝手な願いの付随として、もしかしたら世界を救っただけに過ぎない。
 感謝される筋合いは無い、とモーラは思った。もっとも、単にくすぐったい
だけかもしれないが。
「ん……?」
 玲二がふと空を見た。空を見上げる顔に勢いよく水滴が叩きつけられる。
 これが今日、最後の奇蹟となりそうだった。


                ***


 志貴は予想以上に衰弱していた、左腕が切断されたこともさることながら、
ずっと眼鏡を外して、カインの死の点を見続けていたのも原因なのだろう。
 呼吸が浅い、心臓の鼓動が次第にか細くなっていく。
「ちょ……志貴! やだよ、志貴! 志貴志貴志貴!」
 アルクェイドがパニックになりながら、志貴を抱き締める。リァノーンも、
アルクェイドも、傷を癒すという芸当はできない。以前の時はある媒介――元
吸血鬼の肉塊を使うことで、死の淵にあった志貴を救い出したらしい。
「志貴! おい、手前しっかりしやがれ!」
 惣太が真新しい布で左腕を縛り直しながら、声をかける。だが、志貴はわず
かに呷いただけで、目を開くことすらない。
「くそ! おい、頼むから目を開けてくれ! お前は世界を救った男だぞ、神
様をブッ殺した男だぞ! 死んじまう訳ねぇだろ!」
 そんな惣太の叫びを聞き届けたのかどうか、ともかくアルクェイドにとって
今一番最も逢いたくない女が、
「遠野くん!」
 彼等の元に駆け込んできた。


 ――目を開けると、アルクェイドの不機嫌そのものの満面の笑顔が見えた。
 矛盾している、と志貴は思った。だが、ともかくそんな表情だったことは間
違いない。
「アルクェイド……翡翠が起こしに来るから、ベッドに潜り込むのは止めてく
れ、ってあれほど言わなかったか……?」
 痛む頭を堪えつつ、そんなことを言った。
 途端。
 アルクェイドの目からボロボロと涙が零れ出す。え? と思う間もなく志貴
は両腕を躰に回され、思い切り抱き着かれた。気付けばここは自分の家――遠
野家の屋敷ではなく、周りには惣太とリァノーンと、それから彼女がいた。
「志貴! もう、心配ばかりかけるんだからあなたは!」
「あ、ああ……えっと、何だっけ?」
 よく分からない、記憶が飛んでいる。再構成しなくてはならない、ええと、
確か、確か自分は――。
「ああ」
 思い出した。
「カインは――」
「死んだぜ」
 惣太が答えた、彼もまた目尻に少々涙を浮かべている。が、それ以上に彼は
ひどく愉快そうに笑っていた。その顔を見る内に、志貴も自分の成し遂げたこ
とを思い出し、そして――吹き出した。
「もう、志貴! 笑ってないで……」
「そうですね、笑ってないでとっとと脱出した方がいいと思いますよ」
 地獄の釜の底から響くような冷然とした声。両肩の刺青、射貫くような眼差
しに志貴は戦慄する。
「せ、せんぱ……い?」
「あー、シエルいたんだー、あー、ありがとありがと。もういいから帰りなよ。
 後はわたしがどうにかするから」
 炎の息を吐き出すような憤怒の表情をシエルは一瞬見せたが、咳払いをして、
現在の状況を説明する。ヴァチカンの騎士団がとうとう喰屍鬼を駆逐し、また
第十三課も合流して、今まさにここに迫っているということ。志貴もアルクェ
イドも、それからそこの吸血鬼カップルも、彼等に捕まったらただじゃ済まな
いということ。
「分かりましたか、遠野君?」
「分かった、ごめん……先輩。日本に戻ったら、お礼するよ」
 その言葉に、シエルは一瞬優しく微笑んだ。日本にいるときに、いつも見せ
てくれるようなあの微笑を志貴に見せてくれた。だが、それも一瞬。
 真剣な表情に戻ると、四人から少しずつ後退し、第七聖典を構えた。
 不思議そうに彼女を視る四人に構わず、天井に向けて、壁に向けて第七聖典
を放ち、黒鍵で周りを破壊していく。
「……逃げられました」
 シエルの呟きに、四人が納得する。アルクェイドが、ニヤリと笑ってシエル
に親指を立てた、どうやら志貴が復活したことで相当機嫌が良くなったらしい。
 シエルはそれに構わず、相変わらず厳しい――そして、何処まで寂しい表情
を浮かべて、志貴を見た。
「さようなら、遠野くん。ほら、三人ともちゃっちゃと行く!」
 そして、アンデルセンを含む残り六人が駆けつけた頃、既に彼等の姿は消え
失せていた。
「何処に消えた?」
「さあ……」
 ぼんやりと、答えるシエルを問い詰めようとする五人をアンデルセンが押し
留めた。
「今はそんなことを言っている刻ではない。残党はまだ残っている、それの掃
討に行くぞ」
 その言葉に、弾かれたように五人は飛び出していく。ある者は掃討に、ある
者は救助に、ある兄弟は自主的に休息に。
 残ったのはアンデルセンとシエルだけだ。アンデルセンが、黒鍵を手に取っ
――たと思った瞬間、シエルの横に突き刺さっていた。
「逃がしたな?」
 シエルは応じない。ただ、無表情に彼を見つめる。
「さあ」
 曖昧に、どちらとも取れる言い方をすると、シエルは黒鍵を引き抜いた。
 アンデルセンがそれこそ炎でも吐かんような表情で彼女に詰め寄り――笑い
出した。大笑いに笑う、怖気がするほどの喜色満面の笑顔。
「そうか、そうか! 素晴らしい、それでこそ狩り甲斐があるというものだ。
 礼を言うぞ、シエル! アレを打ち倒すのも打ち倒せるのも私だけ、私だけ
だ!」
 シエルは応じない。
「そうですか、せいぜい返り討ちに逢わないようお気をつけくださいね。
 アレクサンド・アンデルセン神父」
「貴様も」
 去り際に、アンデルセンは猛禽類のような目でシエルを睨み付けた。シエル
は涼しい顔でその憎悪を受け流す。
「せいぜい寝首をかかれんように気をつけることだ」
 そう言い残して彼は去って行った。
 ため息。
 ついたのは安堵か、それともこれから先のことを想ってか。
 ゆっくりと降り出していた雨は、今や叩きつけんばかりの豪雨に変わってい
た、いかに太陽が頭を出したとしても、この分厚い雨雲の間を縫って光を射さ
せるのは困難な行為に違いあるまい。
 言い換えれば、それだけあの四人――と、さらに五人が逃げられる時間は増
えるということになる。
 シエルは唐突に唄い出した。無性に唄いたくてならなかった。
 嬉しくて、たまらなく嬉しくて――それでも、これから先のことを想って、
ため息をついて。
「僕は雨の中で唄っている
 ただ雨の中で唄っているだけさ
 なんて素敵な気分なんだろう
 また幸せになれたんだ
 僕は雨雲に笑いかける
 空は暗く曇っているけれど
 僕の心にはお日様が照ってる
 新しい恋にはぴったりだ――」
 しかし歌声は雨の音に掻き消されて、誰にも届くことがない。それでも構わ
ないとばかりに、シエルは唄い続けた。
 そして彼女の歌声が止むと同時に、全ての事態が終わりを告げた。
 始まりと同じく、終わりはやけに呆気ないものだった――恐らく、誰にも実
感というものは湧くまい。
 だが、いずれにせよ公式ではシエルが確認した時間――午前五時四十七分二
十五秒が正式な記録として扱われている。
 そう、即ち。










 吸血大殲は終結した。







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