カインの咆哮の余波は、ミレニアムが待機しているイタリア政府国防省本部
にまで及んでいた、まだ面白半分で残していた大臣や官僚の何人かは咆哮だけ
で失神していた、たまたま窓の外を見ていた男はあまりにも非現実的な光景に
恐慌をきたし、黙らせるために大尉によって頭を潰されていた。
「ふむ」
 あの博士ですら、がじがじと神経質そうに手袋ごしに指を噛んで、カインの
様子を見守っているというのに。相も変わらず、ミレニアム指揮官であるモン
ティナ・マックス少佐とシュレディンガー准尉だけが愉快そうに巨大な化物を
観察している。大尉は、何事にも関心を払ってはいない。
「……いかんな」
 少佐が呟く、シュレディンガーがきょとんとした表情を浮かべて、少佐の顔
を覗きこんだ。
「いけないって、何がですかー?」
 のんびりと。まるで世界の破滅など、我関せずというように言う。
「あれは神だが、神ではない。出来損ないが世に出てしまったか。
 ……ふむ! 仕方ない、総員に撤退命令を出せ」
 これには博士も、シュレディンガーも驚いて少佐の顔を見た。少佐は言葉を
紡ぎ続ける。
「だってそうだろう? あれは狂人の類だ、触れるもの全てに腹が立ち、触れ
るもの全てが疎ましいそういう化物だ。巻き込まれるのはたまらん、我々の貴
重な兵士が可哀想だ」
 少佐が立ち上がる。
「なに、撤退戦とて楽しいものだ。第一、ここで戦争が終わる訳ではない。
 今回の我々は脇役だが、次は主役にだってヒロインにだってなれるとも」
「あ、じゃあもしかして――!」
 シュレディンガー准尉が飛び跳ねた。少佐は薄笑いを浮かべる。狂気がかっ
た笑み、何者をも恐れず、喜んでそれを受け入れる笑み。
「そう! 今、この世はまさに大殲争の時を迎えた! 我々も大英帝国へ銃を
取り、剣を取り、拳を握り、牙を砥いで、いざ出征の時が来た!」
 何人かのドイツ兵からたちまち歓声があがる。
 立ち上がり、人質――というよりは単なる生存者である一部の人間を放り出
して、部屋から出て行った。放り出された彼等は唖然として、自分達が果たし
て助かったかどうかも分からぬまま、ただひたすら呆け続けていた。
 少佐が廊下を歩く、その脇に大尉、博士、シュレディンガーが続く。さらに
その後ろから生き残ったミレニアムの兵士達が続く。国防省本部上空で待機し
ていたヒンデンブルグ二号が、ギリギリまでその巨体を地面に近づけさせ、梯
子を降ろす。
 シュレディンガーが生き残ったミレニアム全兵士にヴァチカン及びローマか
らの撤退を告げた。カインの出現でパニックに陥りつつあった彼等は一も二も
なくそれに従い、次々にヴァチカンに散開していた飛行船に乗り込んだ。
 イノヴェルチの吸血鬼達は慌てて彼等を制止しようとするが、元より指揮系
統を失った彼等と、指揮系統がまだ生き残っているミレニアムとでは個体の混
乱っぷりが比較にならない。わずか数十分でミレニアムの兵士達は飛行船に乗
り込み、ヴァチカンから撤退を始めた。

 ヒンデンブルグ二号の機内にて。少佐は機械仕掛けの司令席に座り、前面の
スクリーンに映し出されたヴァチカンとローマの惨状を見て、満足気な笑みを
浮かべる。
「おいたには、ちょっと度が過ぎたと思うかね? 博士」
「裏切り者には、これくらいの罰を与えておきませんと。
 次の戦争で懲りずに同じことを繰り返します、飽きもせず、懲りもせず」
「博士に賛成いっぴょー」
 シュレディンガーが右手を掲げて、博士の物言いに賛成した。少佐は我が意
を得たとばかりに愉快そうに頷く。だが、ローマの端境を映し出された途端に、
顔をしかめた。
「見たまえ、諸君」
 全員が少佐の指差した方向の映像に注目する、途端にあちこちから悪態が突
かれた。スクリーンに映し出されているのは、ヴァチカンが誇る対吸血鬼のた
めの大軍勢――。
 騎士団と第十三課の軍勢だった。
「おお、押してる押してる」
「やはり喰屍鬼程度では、どうにもなりませぬか」
「そうだろうな。所詮喰屍鬼は喰屍鬼、ただの抜け殻では全くもってどうにも
ならないさ」
 だが、ここで少佐は何かを思いついたらしい。蟻のようなヴァチカンの軍勢。
 喰屍鬼をゆっくりゆっくりと駆逐していき、朝方にはヴァチカンを再び自分
達の手に取り戻すだろう。
 それは面白くない、これっぽっちも、全然面白くない。全然面白くないのだ
から――少しは面白くするべきだろう。
「大尉」
 少佐の声に応じて、大尉が一歩前に進み出た。少佐の口元に顔を近づける。
 ひそひそと少佐が何かを命じると、大尉は頷き、無言で部屋を後にした。
「……?」
「……?」
 博士とシュレディンガーがきょとんとして首をひねる。
「少佐殿。一体何を大尉に?」
「ああ」
 少佐が相変わらずの薄笑いを浮かべた。二人の背中にゾクゾクとするものが
駆け上がる。こういう笑顔の時の少佐は間違いなく、良からぬ――否、素晴ら
しい考えを持っている。
「大尉にちょっと走ってもらうことにした」
「走る? 走るだけですか? 何処を?」
 ピン、とシュレディンガーの耳が逆立った。分かった、というように右手を
掲げる。
「はいはいはーい! ボク分かったよ、少佐!」
「ふふん。では解答は?」
「えっへんっ」
 シュレディンガーは威張りながらスクリーンのその部分を真っ直ぐ指差した。
 それを見た博士や他の兵士達にどよめきが巻き起こる。少佐は我が意を得た
りとばかりに、何度も何度も頷く。
「そう! 大尉には、あのヴァチカンの彼等の間を潜り抜けてもらうのさ!」


 梯子が降ろされる。
 長い長い、とてつもなく長い縄梯子。風に揺られ、一番先端の部分は暴れ馬
のように跳ねて手に負えない。だが、大尉は別段気にもせずに一歩一歩、着実
に梯子を降りて行く。恐怖とか、高揚とか、そういう感情が彼の所作にはごっ
そりと抜け落ちていた。ほとんど機械的と言ってもいいほどにその動作の一つ
一つが完璧であった。
 震えも怯えもなく、彼は縄梯子の先端でタイミングを測っている。
 一方ヒンデンブルグ二号では、賭け事(ギャンブル)が成立しつつあった。
 果たして大尉は生き残ることができるかどうか? などというつまらないも
のではない、大尉が果たして“何人殺せるか”だ。
「喰屍鬼は数に入れねぇんだぞ!」
 誰かの言葉に、全員が声をあげて笑った。少佐も笑う。
「少佐殿はいかがなされますか?」
「そうだな」
 しばらく考え込んだ後、少佐は博士に耳打ちした。博士はニヤリと笑うと、
賭け金を武装親衛隊のヘルメットへ放り込んだ。
「では諸君。遊戯開始だ、シュレディンガー准尉!」
 ぼんやりと床に座りこんでいたシュレディンガーがはい、はい、と連呼しな
がら慌てて立ち上がった。
「カウントダウンを開始せよ、それと同時に君が大尉の仕留めた数をカウント
してくるんだ。
 飛行船の速度を落とせ! なるべくゆっくり行くんだ、なるべくな」
「了解! では行きます」
「三!」
 ごくりと誰かが生唾を飲む、
「二!」
 大尉は別段、気にする様子も見当たらず、
「一!」
 全員の視線がスクリーンに集中する。飛行船下のカメラがヴァチカンの軍勢
を映し出す。どこまでも呆気に取られた顔、顔、顔。
 大尉は梯子の先端から、
「零!」
 ふいっと降り立った。それとほとんど同時、にぱっという笑顔を見せて、シ
ュレディンガーは空間に溶け込むように消えた。
 大尉がゆっくりと歩き出す。前面には大量の喰屍鬼。しかし、喰屍鬼は彼を
黙殺する。仲間だと思ったのか、それともそれ以上の存在だと感じたのか。
 大尉は自分に背中を見せている喰屍鬼を遠慮なく足場に使うことにした。そ
れの背中を蹴り、頭を踏み潰しながら天高く跳躍。
 騎士団達はそれこそ呆気に取られて見ていることしかできない。一番喰屍鬼
に近く、一番踏みやすそうな顔をした男を大尉は選んだ。顔面を踏み潰す、無
論彼は即死したが、ぐらぐらと崩れ落ちる前に大尉は再び飛び、平べったい顔、
平べったい頭の連中だけをしっかりと踏み殺していく。
「う、撃てェ!」
 誰かの叫びに誰かが応じる。しかし、彼等が恐ろしい威力であるものの振り
回すには鈍重なハルバード付アンチマテリアルライフルを宙へ掲げる前に、大
尉はその身を、軍勢の真っ只中に躍らせていた。
 右ストレートで、呆気なく目の前の男の顔が粉砕された。その首から血が噴
き出るよりもさらに速く、大尉は軍勢の真中を疾走する。ただ両手を思い切り
振って疾る。ただそれだけでたまたま周りに居た人間は躰が爆砕し、命を散ら
せていった。
「くそ、どけっ! どけどけっ!」
 人波を掻き分けて、幾人かがアンチマテリアルライフルを構えた。
 大尉はお構いなしに真っ直ぐに駆ける、呼吸一つ乱れず、されどその速度は
尋常ではない、まるで大型の肉食動物のような素晴らしい走りだった。
「撃てぇ!」
 今度こそ、彼等は大尉の心臓と顔面を狙って射撃した。周りに居た多くの人
間は刹那、勝利したと考えた。12.7mmの弾丸を喰らってまともに動ける
人間も、不死者も存在しない。生きていれば、一斉に止めを刺せばいいだけだ。
 そう考えても仕方のない状況だった。しかし、いつのまにか大尉の周辺で一
番の巨躯を誇る人間の肩に載っていたシュレディンガーはせせら嗤った。
「甘いよねぇ」
 12.7mmの弾丸が発射された後も、その弾丸が脇に退いた人間を通り抜
け、喰屍鬼の躰を捻りながら吹き飛ばした後でも。
「え?」
「な……ん?」
 大尉は相変わらず走り続けていた。地に臥して。大尉の顎が触れそうなほど
低い姿勢、人間ならばこのような姿勢で走れまい、それ以前にその姿勢を保つ
ことすらできまい。だが、彼はできた、事もなげに、いとも簡単にその姿勢で
疾っていた。
 弾丸が放たれた後、大尉は姿勢を戻すとそのあまりにも空っぽな表情で、人
間達を震撼させた。骨が砕け散る音、肉が引き裂かれる音、血が大地に滴る音。
 ここに至って、ようやく彼等は自分達の愚を悟った。この三流娼婦宿の大女
より重たい武器は、この男に対してはまるで役に立たない。
 ――しからば、白兵戦を!
 次々と銃剣が、ナイフが、短槍が、ライフルの代わりに装備される。
「かかれ」と誰が言うでもなく、男達は一斉に大尉に襲い掛かった。なるほど、
その戦法は確かに正しい、間違いなく彼のような標的に対しては最上の手段と
言える。
 だが、大尉は。そのように確実に正しい戦法を取って尚、彼等を遥かに凌駕
している、即ち人の強さの遥か高みに在った。
 腰から上だけを伏せた後、両腕をまるで鳥の翼のように構えたかと思うと、
手を半回転させて、ホルスターからモーゼルC96――ただし、銃身が尋常の
長さではない、通称メーターモーゼル――が両手に収まる。
 地面が弾け飛んだ、否、大尉は再び跳躍したのだ。相変わらず無表情に、し
かし大地を這いずる人間を嘲笑うかのように、両腕をクロスさせ、引金を引い
た。
 正確に六発の弾丸が放たれ、正確に六人が脳味噌を撒き散らせて息絶えた。
「メ……メーターモーゼル! アイツは、あの男は!」
「おのれ……マルメディの悪夢めがぁ!」
 苦悶の叫びにも、悪罵にも大尉は全く反応らしい反応を見せない、ただ恐怖
に怯える騎士団を、聖職者を侮蔑するかのようにひたすら駆けて行く。前へ、
前へ前へ前へ! ひたすらに前へ!
 一人が掴みかかった――が、それはあまりに無謀すぎる行為だ。それでも一
人が二人になり、二人が四人に、四人が八人に、八人が十六人に。一斉に掴み
押し戻そうとする。
 それでも大尉は止まらない、無造作に一番前面の男を掴み、空高く放り投げ
た。逆の腕で、もう一人を放り投げる。前者は重傷を負い、後者は頭蓋骨を砕
かれて即死した。
「――くっ」
 マクスウェルが歯噛みした。しまった、と己の失策を嘆く。ああいうイレギ
ュラー的な化物に対するマニュアルは、さすがにヴァチカンといえども持ち合
わせてはいないし、持ち合わせていたとしても、それを実践できるのは極わず
かだ。
「何をやっている貴様等!」
 焦燥。
 ヴァチカンがどうなっているのか、世界がどうなっているのか、それはアレ
を見れば分かる。ヴァチカンに立ち尽くす、あのカインを見れば分かる。あの
おぞましい化物が立っている限り、世界は破滅する。
 だのに。
 ――それなのに、たった一人の敵で我々の軍が大混乱に陥るとは!
 大尉は思う存分ヴァチカンの軍勢を凌辱しながら駆けて行く。拳を一度振る
えば確実に一人の人間の顔面が破砕した。大地を踏み締めていた足が、天に向
かって跳躍しようという時には、確実に一人の頭が踏みにじられた。そして、
彼が一度銃弾を放てば、間違いなく一人以上の人間の頭か心臓に孔が穿たれた。
 人間達の遥か上を行く飛行船から、再び梯子が降ろされる。
 大尉はそれを見ると、ホルスターにメーターモーゼルをしまいこみ、限界だ
と思われていた速度を更に上げた。こうなると、最早人間の動体視力では彼の
姿を捉えて銃の引き金を引き絞ったり、ナイフで斬りかかったりということす
ら不可能だ。
 大尉は建物の壁を蹴り上げ、縄梯子の先端をしっかりと握り締めた。大尉が
上を見上げると、そこにはシュレディンガーがデジタルカメラを持って、大尉
の顔を捉えていた。
「大尉、やほー」
 のんきに手を振る、大尉は彼を一瞥した後、無言で縄梯子を昇り始めた。
「あっ、まっ、待ってくださいよっ。結果、結果は占めて百二十七人! 銃で
射殺した者が六十八人、拳で殴り殺したのが三十九人、足で踏み潰したのが十
七人で、残り三人は投げ殺した、というのが大尉の得点(スコア)でした!」
 もちろん、彼の言動も大尉は黙殺する。ひたすら黙々と、大尉は縄梯子を昇
り詰めていく。最初はその様子を見て膨れ面をしていたシュレディンガーも、
やがて結果を心待ちにしているであろう、少佐を含む彼等のために、縄梯子を
昇り出した。
 マクスウェルの歯軋りは限界を越え、大臼歯が音を立てて割れ、血が唇から
たらたらと流れ出した。
「お……の……れぇ!」
 空を見上げる、巨大な飛行船は既に遠く、高く離れ始めている。飛行船のス
ピーカーから声が流れ出した。嫌味ったらしい、少々甲高い、それでいて聞く
者を惹きつけて――良きにせよ悪きにせよ――やまない声。
「実に楽しかったよ、ヴァチカンの諸君! わざわざこちらの遊戯に付き合っ
ていただいて感謝極まりない! いやいや、君達もよく頑張った。
 私など、三百人と予想していたからね。大外れだよ、はははははっ」
 少佐の背後から笑い声がどっと巻き起こった。既に怒り狂った何人かが、拾
い上げたアンチマテリアルライフルを空に構える。この大きさならば、どこを
狙っても――。
「ああ、其処の君! それはよくない。うっかりそんなものをこちらに撃って
きたら、我々とてV1改やV2改を発射せずにはいられないじゃないか!」
 V1改。
 V2改。
 共にミレニアムの対地ミサイル、破壊力は並大抵のものではない。少なく見
積もっても、こちらがライフルで撃ち落す前に、自分達全員を吹き飛ばすだけ
の火力は存在する。
 ヴァチカン軍の動き全てが止まった。これは脅迫である、紛れもない脅迫で
ある。しかし、それに対抗する術が全くもって彼等には存在しないのだ。
「……」
 誰もが沈黙する。その間にも飛行船は高く、何処までも何処までも高く。
 スピーカーから再び声が流れ出した。
「いい子だ、大人しくしていてくれたまえ。
 ではせいぜい君達の健闘を祈るよ! Amen(エイメン)!」
 三隻の巨大な飛行船はその鈍重な姿とは裏腹に、あっという間に消え去って
しまった。
 前線にいる人間以外の誰もが言葉を喪失した。
「何をうろたえている! 我等の最優先すべき事柄は何だ!」
 マクスウェルが激を飛ばし、ハッとしたヴァチカン軍は慌てて前線で命を失
った兵士の補強へと向かった。
「遊びか! くそ、所詮ミレニアム(あいつら)にとってこれは遊びだったか!
 だがな、舐めるなよ糞ナチ共! 貴様等が英国を打倒しようとするその日、
我々が潰し尽くしてやる!」
 だが、今はそれよりも遥かに優先的にやるべきことがある。やるべき事柄が
ある。即ち。
「全軍進撃! ヴァチカンから異端の獣を完全排除するべし!」
「応!」
 マクスウェルの命令に、ヴァチカン軍全てが再度奮い立ち、喰屍鬼の大群を
急激に駆逐し始めた。


                ***


 アンデルセンとシエル、由美江にハインケル、さらにマクマナス兄弟とジャ
ックは緊急時における集合地点の内の一つに結集していた。残念ながら、その
他に人員はいない、恐らく全滅したか、別の地点に集合しているか、あるいは
辿りつけてもいないのか、いずれにせよヴァチカン奪還の先遣隊になるのは、
自分達七人だけのようだった。
「話し合おう」
 円陣を組んで、アンデルセンが言い出した。
「話し合うって何をですか」
「そうだよ、アンデルセン。今更何を話し合うべき事柄がある?
 あたし達がやるべきことは、もうヴァチカンを――」
 アンデルセンがすぅっ、と息を吸ってから話し出す。
「この先に、七人の吸血鬼が我々を待っている」
 テンプル騎士団。
 喰屍鬼の馬に乗る、元十字軍にして最強クラスの吸血鬼。彼等が駆り立てら
れているものは、ヴァチカンに対する復讐。即ち、聖職者への復讐だ。
「彼奴等の最大の特徴は、あのアカシャの蛇をも上回る転生速度の早さ。
 死んだ瞬間に、その場で転生する。
 銀の弾丸でも、白木の杭でも、祝福儀礼を施した剣でも、彼奴等を倒すこと
はできるが、滅ぼすことはできない!
 ――では、何とする」
「……転生そのものを、弾劾してしまえばいい」
 シエルが言った。言って、第七聖典を掲げた。
「正解だ。
 だが、第七聖典だけでは、七人を打ち滅ぼすのは困難だろう?」
「そうなると」
 シエルが第七聖典の“弾倉”を取り出した。放たれるはずだった銃剣がひら
ひらと舞い落ちて羊皮紙に変化する。弾丸である紙。
 アンデルセンが拾い上げた。
「これを使う、銃剣の状態にして相手に突き刺すなり、相手に叩きつけてこい
つもろとも叩き斬るなり、いずれの方法にせよ、それでしかあの骸骨騎士ども
は倒せん」
 ピッ、と放り投げられた羊皮紙を由美江が受け止めた。
「一人一枚、一人一殺」
 全員がそれを受け取る。七人が受け取ったのを見計らったように彼等が出現
した。時間と空間を超越している彼等は、血の匂いと聖職者の在るところなら
何処にでも現れる。七人――ハインケルに言わせれば七匹の元聖職者。
 否。
 元から聖職者ではない、元から存在などしていない。少なくとも次の朝を迎
える頃に、彼等の存在そのものは抹消される。いや、抹消させてやる。
 七人が建物の屋上から屋上へ、屋上から地上へ、驚異的な跳躍力の喰屍鬼馬
を操りながら、第十三課たる人間と、ヴァチカンを守護するヴァチカナンガー
ズに斬りかかる。
「立ち塞がるか、化物!」
 アンデルセンは咆哮すると、口に第七聖典の羊皮紙を咥えて、両手一杯に銃
剣を構えた。
「狩り立ててやるぞ、吸血鬼!」
 由美江は咆哮すると、羊皮紙を刀の先端で貫いて構える。
「滅せよ、哀れにして邪なる騎士共!」
 シエルは第七聖典を肩に担ぎ上げる。
「人にして人にあらず、即ち修羅である我等に、怯むもの無し!」
 残りの四人が片手に第七聖典の銃剣を、もう片手に拳銃を構える。
 唱和。
「Amen(エイメン)!」
 七人が駆ける。
 七人が駆ける。


                ***


 巨大な門を背負った巨大で畸形な化物は、その異形の姿だけでただの人間で
ある彼等三人の心を凍りつかせるに充分だった。ただ一人、平気そうな顔をし
ているのはブレイドで、彼は後方から襲いかかる吸血鬼を片っ端から駆逐して
いるせいで、神の姿をぼんやりと見る暇など存在しない。
 しかし、三人はともすれば襲い来る吸血鬼すら意識の外へ位置させてしまう
程に、その化物の姿に――見惚れていた。人間外の化物はいくつか見てきた、
死人が蘇り、蝙蝠が変化し、人外の速度で動き、血飛沫を喜んで享受する怪物
達を。
 だが、アレは極めつけだった。
 その大きさにおいても、異形さにおいても、あまりに極めつけだった。
 同時に、キャルは気付いていた。目を逸らそうとしたが駄目だった、脚が震
えて本能が抵抗するが、駄目だった。キャルは気付いてしまった。モーラは、
あの化物の内部に存在する。いや、「していた」のか――?
 一瞬厭な予感が全身を走り抜ける、「諦めろ」と誰かが囁く。「諦めろ」と
囁いているのは自分か、それとも己の心に憑いた弱き蟲か。胸を掻き毟りたく
なるような焦燥、懸念、疑惑、それからひとさじの絶望。
「キャル!」
 玲二の叫びに、肉体のみが応じた。殺戮機械として形作られた右腕が駆動す
る。気付けば、ベレッタを襲いかかってきた吸血鬼の頭に突きつけていた。銃
声――それからもう一度銃声。
 本能と心が絶望を知らせる、諦めろと言っている。しかし、躰は前に進む。
 まるで夢遊病のように、まるで生きている屍体のように。一歩一歩ヴァチカ
ンに近付いて行く。
 ああ、だがしかし思考は何処までも絶望に囚われ――。
 膝を突きたいと思うが脚が動いて地面を蹴り、大地に寝そべりたいと思うが、
両腕を勢い良く振って走る。下卑た視線の吸血鬼にその身を任せて引き裂かれ
たいと思うが、両手はベレッタの狙いをつけて引金を引いていた。

 唐突にキャルの脳裏に映像が挿入された。モーラがこちらを見て、涙目で訴
えている。何を訴えている? 声が聞こえない。音声だけが切れている、彼女
は何を言おうとしているのだ? 駄目だ、全く分からな――。
「伏せて、耳を抑えて――」
 絶叫しているにも関わらず、囁くようにしかその声は聞こえなかった。だが、
確実にキャルの耳に響いた。けれど――伏せる、耳を抑える、果たしてこの行
動に何の意味が?
 その答えは、立ち上がったカインが背中を仰け反らせたことですぐに理解で
きた。キャルは玲二とエレン、それから背後のブレイドに伝えた。
「伏せて! 耳を抑えて!」
 一瞬きょとんとして動きを止める二人をキャルはタックルするように強引に
抑え付け、大地に伏せた。一瞬その動きをぽかんと見ていたブレイドだったが、
カインが仰け反らせた背中を戻す仕草を見て、瞬間的に状況を把握した。
 伏せる、耳を抑える。
 そんな四人の耳元に、
 囁き声が、
「安心して」


 近隣一帯の窓ガラスは全て粉砕し、半径千メートル内にいた吸血鬼の両耳か
ら血が噴出し、運が悪い――半ば腐り掛けていた躰を持っていた者は全身が腐
敗したトマトのように醜く破裂した。
 キャルは全身に響き渡った激痛に泣き叫んだ。
「あああああああああああっ!」
 キャルばかりではない、玲二も、エレンも、ブレイドですら悲鳴を抑え切れ
なかった、このまま死んだ方がいっそ楽なのではないか、と死神が囁いたのな
らば、全員喜んでそれに従っただろう。
 彼等の周りにいた吸血鬼は、カインの咆哮に気付かなかった故に悲惨を通り
越して滑稽なくらい呆気なく、全員が憤死していた。
 三千年は躰を丸めて過ごしたい、とキャルは思った。道路の冷たい感触が全
身を苛む激痛の中の唯一の快楽、悶えるたびに口の中に入る小石の感触が、唯
一激痛以外に知覚できる唯一の存在だった。
 ――ありがとう、モーラ。お陰で死なずに死んだけど……。
「死んだ…………方が………………マシな………………痛さってのも…………
ある…………ってね……」
 キャルは少しずつ全身の状態をチェックする。思考は狂っていない、耳には
ゆっくりと音が取り戻される、両腕をゆっくりと動かす、両脚で立ち上がるの
はさすがに難しい。意識がゆっくりとクリアになっていく。
 景色の靄が取り払われる。大丈夫、幸か不幸か――幸運なんだろうけどとて
もそうとは思えない――激痛以外に、身を苛むものはない。両腕も両脚も魂も、
何一つ失われてはいない。
 だが、この有様はどうだ。果たして、伏せて耳を抑えただけで自分達は助か
ることができたのだろうか? いや、それは違う。周囲の吸血鬼を残らず完全
破損するその力、とても自分達の機転で救われたとは思えない。
 ならば、誰が救ってくれたのか? 答えは考えるまでもない。
 モーラだ。モーラは警告をし、それでも駄目だと見るや、自分達を庇ってく
れたのだ。あの囁きは、あの声はモーラだったんだ。
 躰の痛みは和らいできた、だが、心が抉れそうに痛い。エレンも、そして玲
二も、ブレイドも、三人とも理解していた。自分達の命は――彼女によって、
救われたのだと。
 怒りと、哀しみと、その他ごちゃごちゃと感情が混ざり、練り合わされ――。
 全員が立ち上がった。何故その場所に向かわなければならない? この答え
をようやく得たような気がする。何故ってそこには、己を一度たりとも省みる
ことがなかったダンピィルの少女がいるからだ、幸福を与えてやりたい少女が
いるからだ、命を救ってくれた少女がいるからだ。
 逆引きに思考する。
 命を救ってくれた少女は、少女の意思を持っている。
 つまり、モーラは生きている。カインに取り込まれたが、それでも尚、彼女
の生命と意思は喪われていない。
 ふと周りを見ると、吸血鬼達は灰燼と化し、風に飛ばされて宙を舞った。ま
るで砂嵐のよう。四人はかたまることもなく、思い思いの距離で歩き出した。
 先頭はキャル、次に二人寄り添うように玲二とエレン、最後にブレイドが。
 共通するのは強い眼差し、決意に満ち溢れた眼差し。空を見る、相変わらず
カインが立っている、だが――キャルには分かった。
 憎悪で塗り固められた表皮、その中に潜む悲哀の肉、そして虚無の魂。巨体
で畸形の化物。
 恐怖の象徴、世界を滅ぼすであろう邪な神。だが、目の前のソレは――。
 モーラと魂が一瞬でも繋がったことによって、キャルはカインの魂の一端に
触れることができ、それ故に怪物の憎しみ、怪物の悲しみ、怪物の虚しさをわ
ずかながら理解していた。
 だが、その虚しさも哀しさも――キャルには不快だった。そんなもの、何だ。
 言ってしまえば、幼児期に虐待されて成立してしまった異常殺人鬼のような
ものだ。肥大した痛みと憎しみ、そんなものに無関係な人類を、無関係なモー
ラを巻き込むな! 

「急ごう!」
 キャルの声に、三人は頷き、地面を蹴って走り出した。ヴァチカンの、カイ
ンの元へ、否、カインの中に在るモーラの元へ。


                ***


 真下に居たのが大きかった。カインの咆哮で巻き起こった衝撃波は直下より
も周囲に満遍なく広がっていた。惣太は刹那の瞬間宙に遠のいた意識を、無理
矢理繋ぎ止めて、何とか失神だけは免れた。己の躰の下敷きとなっている遠野
志貴が呷いた。
「な……なんなんだよ……」
「生きてるか?」
「何とか……」
 呷きながらよろよろと立ち上がる、頭痛が引かない。慢性的な頭痛は、次第
に吐き気を伴うそれへと移り変わっていった。いや、頭痛ばかりが原因とも言
えないか、何しろこのカインは余りにも――血の匂いが強すぎる。
 ――ぐっ!
 落ち着け、牙を剥くな。落ち着け、落ち着け、落ち着け……。呼吸を整える、
志貴の首筋を見まいとする。
 ――惣太!
 惣太の脳に突然声が響いた。リァノーンからの念話だ。という事は少なくと
も彼女は無事だ、ということだ。
 ――そっちはどうだ!?
 ――私も、それから彼女も無事です……今のところは。
 惣太は心配そうに自分を見つめる志貴に向かって、無言で親指を突き立てた。
 志貴は、ほっと胸を撫で下ろす――だが、そうそう甘いことばかりではない。
 ――ですが、私達、は……もう、次は……もちま……。
 断たれた。
 惣太の表情が昏くなったのを見て、志貴が眉をひそめた。
「次はない」
 ぼそりと、惣太が事実を突きつける。
「次の咆哮の前に、俺達はこの――」
 見上げる、カインは地に伏せたゴミ蟲のような存在である彼等を見ることは
ない。いや、全地球の全存在、全生物を、カインは気にも留めてないだろう。
 徹底的な無関心。徹底的に無関心のまま、これは地球を滅ぼそうとしている。
「化物を完全に殺さなきゃならない……その為には、志貴。
 お前の力が必要だ」
 志貴は頷いた。カインを殺すというのならば。方法は自分の直死の魔眼で万
物が死に絶える『点』を突くしかない。もう一つ、線に沿って切り刻む、とい
う方法もないではないが、体格差を考えるとそれはさすがに現実味が乏しい。
 だから、点しかない。カインが死ぬ、その一点を突くしかない。
 しかし――。
「……分かっているけど。点を視ることができるって保証はない」
 眼鏡を外すのが躊躇われる。怖い、死線が視えるのか? 夜のアルクェイド
の線を視ることすらあやふやなこの魔眼が――果たして、カインに通じるもの
なのか?
「分かってる! だけど、他に方法は無い! ヒルドルヴ・フォークで滅多斬
りにしても、絶対にアイツは死なない! 斬った感触、切断した感覚で解っち
まったんだよ!」
 惣太は叫んだ、歯が軋る。
 何もできない自分に惣太はムカッ腹が立って納まらない。だが、苛立つ心、
ささくれ立つ心を抑え、彼は志貴に言った。
「頼む――アイツを視てくれ」
 志貴は頷いて、眼鏡を外した。あっという間に世界が線で埋め尽くされる。
 線、線、どこまでも真っ黒い線。果たしてカインには――。
 在った、点があった。……だが、それはやはり絶望だった。
「在りすぎる……!」
 カインの全身を覆う点と線と点と線と点と線。
 ネロ・カオスの時と同じだ、このカインはネロと性質が同じなのだ!
 あの時は無数の死の点の奥に、極点が在った。けれど、今回は見つからない。
 性質の悪いことに、点はざっと数えるだけでもは数百を越える。一つ一つ虱
潰しに? それしか方法がなさそうだが……。
 あいにく、カインはそれを許しはしないだろう。
「惣太」
 志貴は眼鏡を外したまま、彼の顔を覗き込む。惣太は初めて彼の蒼く澄んだ
瞳を見た。果たして彼の瞳には、自分がどのように映っているのだろう。きっ
と自分のような半人前は線と点だらけに違いあるまい。
「……やってみる」
 視えた、とは言わなかった。惣太の両肩に現実が重くのしかかる。だが、彼
は迷いと恐怖を振り払るように首をぶんぶんと振り、ヒルドルヴ・フォークを
構えた。
「援護する」
 言うなり、惣太はカインに飛びかかった。彼の殺気に自動反応したカインの
躰から無数の舌(タン)が襲い掛かる。どこどこまでも舌が伸びる伸びる。そ
して舌の先端が唾液を滴らせながら四つに割れた、その内部から覗くのは無数
の歯。
 ――くそ、化物って奴は!
 毒づきながら、ヒルドルヴ・フォークを振り回す。
 カインを威圧するかのように咆哮した、振り回されたヒルドルヴ・フォーク
は惣太の周りに近付くたびに斬り刻まれる。
 だが、カインはさしたる動揺も見せない。いや、ひょっとしたら感じてすら
いないのかもしれない。だが、恐らくはカインそのものとは別個の思考形態―
―といっても原始的な生物本能であるだろうが――を持ち合わせている舌達は
怯え、彼の元から離れようとする。
 その中の一つを惣太は右腕で捻るように掴んだ。
 舌が先端から悲鳴をあげた。惣太を放り投げようと、上へ下へと彼を振り回
す。上へ振り回された瞬間、カインの胸板に限りなく近付いたときにヒルドル
ヴ・フォークを叩きつけた。だが、カインの胸板にずぶりと嵌り込んだ大剣は
まるで拒否されたように、肉体からずぶずぶと吐き出された。どうやら惰眠を
貪っていたときとは、随分身体構造が異なるらしい。
 カインが――まるでつまらなそうに、惣太を視た。無関心な瞳、無関心な仕
草、無関心な攻撃。
 だが、無関心な瞳で見つめられた瞬間、惣太は己の全身がこそげ取られたと
思った。本能的に胸板を蹴り上げ、間合いから離れる。刹那、カインの翼が動
いた。惣太が在った位置に翼が伸びた。
 だがいち早く避けていた惣太のせいで、カインの翼は虚空を斬った――よう
に見えた。次の刹那、惣太の胸板がぱっくりと割れて、血が噴き出した。
「なに……!?」
 激痛が全身を疾駆する。惣太は姿勢を崩しながら無様に地面に叩きつけられ
た。志貴が慌てて駆け寄る。
「おい、大丈夫か!? おいったらおい!」
 惣太は右腕をいい加減に振り回して大丈夫だ、ということをアピールするが、
いささか足取りや躰全体の動きが全くもって覚束ない。
「脚だ。脚に線が見えるか?」
 志貴は頷いた、カインの両脚からは黒い線も、そして点も見える。
「話はそれからだ。片脚斬りおとしてアイツを文字通りに倒すところから――」
「ああ……じゃあ、ちょっと殺してくる」
 志貴は話を聞くか聞かないかの内に駆け出していた。その台詞は、まるでこ
れから近所のコンビニに出かける程度の気安さだった。
 志貴は七つ夜を引き抜いた。
 逆右手に持ち、左手で柄を抑えて左脚を狙う。カインの肉体に果たしてアキ
レス腱という部位が存在するかどうかは知らないが、ともかくそこを狙う、予
想通り一本の脚だけでも点は無数にあった、一番近くにあった小さいか細い点
を突く。
 その部位が一瞬抹消した。だが、あっという間に神経が行き渡り、肉がその
部位を埋め尽くし、薄膜の皮が貼られた。
(ネロは――線を切っても再生できなかったのに……!)
 所詮一介の吸血鬼でしかないネロ・カオスと存在そのものが違うのだ。気が
滅入る、頭痛がこみ上げる、今の自分は風車に立ち向かうドン・キホーテのよ
うなものか。いや、ドン・キホーテは風車を魔物だと勘違いしていた。自分は
わざわざ知っていて立ち向かっている分、ドン・キホーテより遥かに愚かだ。
 それでもやらなければならない、頭痛はますます惨くなり、頭が加熱して沸
騰寸前だ、世界はぐるぐると周り、踊り、呪歌を高らかに歌う。
「諦めろ。世界は滅びる」
 ――それがどうした。
「諦めろ。世界は終わる」
 ――だから、それが何だってんだ。
「諦めろ。汝の愛しい女も誤りなく死ぬ」
 ――五月蝿い、黙れクソ野郎ッ!
 突いた。もう一度死の点をを突いた、七つ夜の耐久力などまるで考えずにひ
たすら突き続ける。そのたびにカインの脚は死に、生まれ、また死ぬ。
 舌が襲いかかってきた。バク転を繰り返しながらそれを避ける。伸びてきた
舌の目玉の真中に『点』が視えた。躊躇なく、それを突いた。
 だが、圧倒的物量の前に遠野志貴の身体運動は限界に達した。隙を突いた一
本が彼の左手に絡んだ。そのまま先ほどの惣太と同様に思い切り宙空に振り上
げられる。
「くそっ!」
 右手の七つ夜で左手に絡まった舌を斬り落とそうとする。惣太も既に志貴を
救おうとヒルドルヴ・フォークを上段に構えて走り出している。だが、二人の
対抗手段よりもわずかに、恐らく刹那のさらに刹那程度に舌のおぞましい行為
の方が早かった。

 志貴の左手がぶちり、という音と共に捻り潰された。
 一瞬の沈黙。世界が凍りつく。

「ああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 絶叫した。
 今思うと、これまで志貴は痛みにそれなりに縁が深い生活を過ごしてきた。
 慢性的な頭痛や貧血、過去の事故の時の、あのとてつもない痛み。
 獣にたかられて喰い殺されそうになったこともあるし、刃物で斬りかかられ
たことだって数限りない。
 だが、いずれの場合も身体欠損までには至らなかった。なるほど、この激痛
は別格だ、しかも厄介なことに自分は絶対に失神してはならない、と気を強く
持ち続けている。失神すれば楽だ、と死神が囁く。
 腕は千切られている、大量の失血、頭痛の代わりに眠気、積み重ねられる眠
気、まどろみからの死を提案する眠りの神(ヒュプノス)、昏倒からの死を提
案する死の神(タナトス)。
 だがしかし、だがしかし、だ。
 ――悪いが、どっちもお断りだ。
 左腕が千切られたことで、彼の自由を妨げるものはない。だが、それでは悔
しいので、左腕を貪る舌を七つ夜で切り刻んだ。
 舌が志貴の左腕を吐き出した。地面に落下する左腕を、惣太が掴んだ。
 志貴は舌を蹴り上げた反動で着地する。慌てて惣太が未だ血の噴き出る左腕
のつけねをきっちり抑え、服の一部を破り棄ててしっかりと左腕を縛り付けた。
 ただ、切断されたのではなく、引き千切られたという点は致命的だろう。
 志貴がその時漠然と考えたことは、左腕がないとやっぱり秋葉に怒られるだ
ろうな、という些か現実から逃避したたわいないものだった。ぼんやりと、千
切れた左腕を視る。
 ――ああ、いけない。戦わなくちゃならないんだっけ。
 だが先ほどと同じく志貴が左腕を失ったというショックから自失し、的確な
攻撃の判断を下すよりも、カインの無数の舌が蠢いて、割れた口で襲いかかる
方がやはり彼より速かった。
 しかし、今回は。
「志貴、どけぇ!」
 惣太が志貴の前に回り込み、その攻撃の盾になる方が速かった。全身に舌が
絡まり、噛みつかれた。肉と骨がごりごりと削られる。茫然と惣太を視る志貴、
憤怒の表情で舌から逃れよう――というよりは、引き千切ろうとする惣太。
 右腕が捕らえられて、ヒルドルヴ・フォークが地面に落ちた。無数の舌が彼
を引っ張り、噛み砕く力は相当強いらしく、惣太は磔になったように両腕を引
っ張られ、両脚を縛り付けられた。
 ――イージス、動けッ!
 親指を惣太の意思で、回転させる。イージスの内部に仕込まれた仕掛が発動
した。甲から剃刀のように鋭い祝福儀礼済の刃が飛び出る。飛び出ると同時に、
絡まっていた舌を切断した。
「ギニャアアアアア!」
 悲鳴。怯んだ隙に右腕を上下左右前後に振り回す。あっという間に舌の残骸
が地面に転がった。最後にしぶとく噛みついていた舌を無理矢理引き剥がすと、
甲の刃で突き刺し、灰にした。
 だが、彼が思っていた以上にダメージは深刻だった。あちこちの肉が食い千
切られて骨の部位に至るまで砕かれている上に、それは再生するとしても、あ
まりにも失血が酷かった。
 先端を切断され、蠢いている舌を惣太は拾い上げ、噛みついた。化物の血は
あまりにもおぞましい味だったが、贅沢は言っていられない。
 惣太が志貴の様子はどうだと振り返ると、彼は青ざめて――元々顔色が良い
方ではないが――惣太の顔を見つめている。そこには幾分の嫌悪感が滲み出て
いた。
 無言で舌を放り棄てる。
「すまん」
 志貴が謝る、惣太は苦笑した。自分の方こそ今はそれどころじゃない、って
言うのに、この男は他人のことを気にかけるんだな、と思う。
「左腕は――」
「大丈夫だ」
 大丈夫な訳があるはずもない。動いても動かなくとも活動限界は残り数分と
いうところだろう。ゆっくりと、真綿のような絶望が二人を締めつけていく。


「――来るぞ!」
 再度、カインの生存本能が攻撃を仕掛けてきた。
 無数の舌が地面を這いずり回り、宙空を螺旋を描く。上下からの二段攻撃。
 志貴は左腕を千切られている以上、戦力としては期待できない。となれば、
もう一人の男――伊藤惣太がどうにかするしかない。
 ――どうにか、できるか? ……どうにか、してみせるか。
 呼吸を整える、傷が癒えるのを待たずに、痛みが癒えるのも待たずに、ヒル
ドルヴ・フォークを下段に構える。
「志貴、お前はもういい。……ちょっとここで待ってろ」
「そうはいくか、ばか」
「馬鹿と言うな、馬鹿と。そういうのはな、言った方が――」
 阿呆に決まってる、と言い残して惣太が走り出した。一拍置いて、志貴も飛
び出す、不思議なことに先ほどまで存在していたはずの痛みが消え失せていた。
 生成された脳内麻薬が左腕の痛みを打ち消してくれている、ならばその一時
だけでも戦うべきだ。それに、惣太には言わなかったが――志貴は舌に振り上
げられた瞬間、カインの全身を裸眼、即ち直死の魔眼で視た。
 途方もなく存在する点と点と点と点と点。その中に確かに視えた、視えたは
ずなのだ、あのネロ・カオスを滅ぼした時と同じ――『極点』が。
 もし、その極点が痛みによる見間違えなどでなく、もし、その極点を突くこ
とができたのならば。仮定による仮定の積み重ねだ。だが試してみる価値は絶
対にある。
 志貴は喪失した左腕を掲げた。服できつく縛られてもなお、噴出し続ける血
の匂いに酔うように、カインの舌が彼の左手に襲いかかる。申し訳程度に残っ
た腕に、舌達が二重三重に巻きついた。志貴はなすがままだ、右腕に襲いかか
ってきた舌のみを七つ夜で線を斬る。
 左腕に絡んだ舌が志貴を一気に持ち上げた。宙空で一斉に喰らおうと言うの
だろう、だがその一瞬でもう一度志貴はカインの全体を視る。直死の魔眼は果
たして本当に『極点』を視ることができたのか。
 ――確か、あの時視たと思った場所は……!

 在った。
 確かに、全ての点より一際昏く暗く輝く点が確かに存在した。しかし、同時
にそれは、遠野志貴への、伊藤惣太への、アルクェイド・ブリュンスタッドへ
の、リァノーンへの、そして人間という種そのものへの死刑宣告のようなもの
だった。
 ――何てこった。


 絶望した遠野志貴と、舌を切り刻んでいたもののついに限界が訪れた伊藤惣
太を、無数の舌が覆い隠した。






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