罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支
配せねばならない。
                    ――創世記4・7















 気付くべきだった、とプロトタイプは心の底から後悔したが、所詮後悔とい
うものは、文字通り失敗してから初めて訪れる感情であって、己の領分もわき
まえなかった彼の運命は、どう未来が個々の選択肢によって変化していたにせ
よ、全く変わらなかったに違いない。
 一瞬の後悔が一生涯の絶望に成り替わった刻。
 プロトタイプは門を完全に閉めようと伸ばした腕を、中の腕にしっかりと掴
まれた時に、そう感じただろう。腕の末端神経から順々に遺伝子レベルで同化
させられ、次第に自分が自分以外のものでなくなるという恐怖。
 絶望を噛み締めながら、プロトタイプはいつしか全身を溶けさせ、カインを
形成する要素の一つとなってしまっていた。
 そうなってからは楽だった、何しろ何も考えなくていいから。


                ***


 キャルがエレン、そして玲二と合流できたのは全くの偶然というもので、考
えてみればこれもこの日に起こったいくつかの奇蹟的な出来事の一つに挙げら
れるのかもしれない。何しろヴァチカンに行く、という目的は一緒でも時間帯
が三分ズレていれば、恐らくキャルは殺されているか血を吸われていただろう
し、玲二とエレンが袋小路に追い詰められた彼女に気付くこともなかったろう。
 だからといってこれは神が与えた奇蹟という訳ではない、キャルが、そして
玲二とエレンが己の手で、血みどろの手で掴み取ったものだ。
 大切なのは、戦う意志を持ち続けること。おおよそこの世にある全ての暴力
に、そしてそれを己の欲望のままに振るう輩に絶対に屈しないこと。そのため
に己が持つ力を行使すること。
 ――戦わなければならない。


 背中にくくりつけたハンマーが重たくて仕方がなかったが、棄てる訳にはい
かなかった。紐が背中に食い込み、鍛え上げた筋肉を締め付ける。だが、辛い
とは一度たりとも感じない、感じている暇もない。在るのはただ、重いという
事実だけで、それを受け止めてさえいれば辛いなどという感情とは無縁になる。
 バイクがあれば、とキャルは思ったがバイクが出す音は非常に派手でさすが
にそんな事をすれば、吸血鬼に襲いかかられるのは目に見えていた。
 そうかといって、先ほどからのようにこっそりと路地裏をかいくぐりながら
ゆっくりとしている訳にもいかなかった。キャルは何度見ても異形のそれに圧
倒され、逃げ出したくなる。
 地面と水平になったまま、宙に浮かぶ巨大な門。蛇のようにのたうつ生物の
躰で造り上げられていることが、キャルの肉眼ですら分かるくらいにその門は
地表に接近していた。
 そして、門が開き――。吸血鬼達は大混乱に陥った。

 何が起きているのか、キャルには当然分からない。だが、確実に言えること
は一糸乱れぬとまではいかないまでも、それなりに統率が取れていたはずの、
吸血鬼達が仲間割れを始め、共食いを開始していることだ。
 後はモーラの居場所さえ分かれば、とキャルは吸血鬼から掠め取った軍用の
双眼鏡を手にして、狂乱と混沌の真っ只中のヴァチカンを観察する。混乱を遠
巻きに視る、というのはまるでドタバタの喜劇を間近で見物しているようだっ
た――だからこそ、わずかばかりの油断があったのかもしれない。
 ぴしっ、と石が砕ける音がした。反射的に路地の奥に転がるように引っ込む、
彼女が先ほどまで居た場所に無数の弾丸が突き刺さり、壁を砕いた。
 ――吸血鬼!
 憎悪が膨らみ、即座に爆発する。拳銃を二挺構えた。めくらめっぽうという
感じで連射する。十二体いた吸血鬼の内、四体にヒットした。彼等の躰を銀の
弾丸によって、風で消えてなくなる粉末にしてやった。
 しかし、残り八体。しかも、イノヴェルチのチンピラまがいの吸血鬼より、
明らかに統率が取れていた。キャルは彼等が着ているドイツ第三帝国帝国。武
装親衛隊の制服を見て、首を捻った。
 もちろん、キャルはミレニアムという存在は知らない。だから武装親衛隊の
制服を彼等が着ている理由を、せいぜい軍事マニアが吸血鬼になった、と解釈
することにした。
 戦争映画で観たことはあるが、実際に観たのはさすがに始めてだ。一瞬タイ
ムスリップした感覚を味わう。まるで映画、まるでカートゥーン、まるで――
現実。
 八体の吸血鬼が一斉にMP43を構えた。
「くそっ!」
 背中を向けて逃げ出す。路地裏の曲がりくねった道を勘だけを頼りに走る。
 相変わらずハンマーは重たいが、彼女はさほど気にせず、走る速度もあまり
落ちたとは言えない。首を傾けてちらりと後ろを見ると、予想通り八体のドイ
ツ産吸血鬼たちは、彼等のようにごつい体格ではさぞ狭苦しいであろう路地裏
にまんまと誘い込まれた。
 角を曲がる、キャルの姿がミレニアムの兵士達の視界から消失する。だが、
匂いを辿れば何ということはない。彼等の中で一番鼻がきく兵士が、鼻をひく
つかせながら、角を曲がったすぐそこでくたびれ果てて動けない彼女の最初の
血を戴こうとする。
 次の瞬間、凄まじい衝撃がなりたて吸血鬼である彼の頭部を襲った。
 何があった、などと考える暇も与えない。振りかぶって叩きつけられたのは
モーラのハンマーだった。相手が予測できる位置に立ってさえいれば、非力な
キャルでも充分効果的に活用できる。
 頭に叩きつけられた吸血鬼が思考を完全に忘失している間に、ハンマーから
手を放したキャルはベレッタM92FSを心臓に押し当てた。
 吸血鬼は即座に怯えた表情をキャルに向けた――返答にキャルは、ニヤリと
嗤う、嗤われた彼は青ざめて待ちたくもない沙汰を待つ。
 心臓に銀の弾丸が直撃した。動きが止まる、肉体が歪み、細胞がひずむ。キ
ャルは彼の躰を角から押し出しながら、自分も角から飛び出して、地面に転が
る。
 心臓に銀の弾丸を打ち込まれた吸血鬼が、一瞬風船のように膨らんで破裂し
た。かつての仲間達はその悲惨な光景にわずかに目を奪われる。
 そんな隙をキャルが見逃すはずもない。
 二挺のベレッタの弾丸が、一発を残すまで連射した。四体を仕留める。だが、
反応の素早かった三体は弾丸をギリギリで躱し、更に仲間の屍体を踏み越えて
反撃を加えてきた。
 MP43の一斉掃射をキャルは転がって避ける。石畳の床が粉々に弾け飛ん
だ。苛烈な攻撃に、キャルは反撃もできずにいる。三体はフォーメーションを
組んで、キャルを追い込もうとする。
 キャルは一瞬、地面に転がったハンマーに目を奪われた。後で取りに行くと
それに誓い、一目散にその場を逃げ出した。向こうが追い込もうとするならば、
こちらは反撃できるに相応しい場所に位置しなければならない。
 キャルは幼年時代を過ごしたあのスラムを思い出した。そう言えば、景色そ
のものは違っても、この雑然とした雰囲気は何も変わらない。
 ――右と左、どちらへ行くべきか。
 追い立てられて勘が鈍っていたのかもしれない、それとも単なる選択間違い
か。いずれにせよ、キャルは道を誤った。
「ち……」
 袋小路。完全に追い詰められた。
 背中の壁が憎たらしい、周りの壁を乗り越えられない自分が憎らしい。だが
何より一番憎らしいのは、いかにもという嘲りの笑みと血走った瞳で自分を見
つめる三匹の吸血鬼どもだ。
「女だ」
 舌なめずり。背筋に怖気が走る、だが今回は助けに来てくれる人間はいない。
 モーラは助けを待っている、ダークマンは死んだ、だから助けに来ない。
 ――ああ、いけない。
 また怒りが湧いてきた、闘志が沸いてきた。
「うるせぇよ」
 ゆっくりと近付いてくる吸血鬼に唾を吐いた。まだ距離があったせいで、相
手に届くことなく地面に落下する。が、キャルの侮蔑の感情は充分に伝わった
ようだ。
「くっ」
 だが侮蔑の感情を叩きつけられて、彼等はますます笑った。活きのいい雌犬
だ、生きながら血を吸い尽くしてやろう。
 その際に浮かべるであろう絶望的な表情を考えながら彼女に詰め寄る。それ
だからいけない、油断をしてはならない。このような路地に迷い込むのが自分
達だけだと考えてはならない、先ほどの銃声を聞きつけてわざわざ様子を観に
来る物好きはこの世に結構な数が存在し、そして少なくとも今この場にも二人
いた。
「キャルッ!」
 力強い、男の声だった。かつて聞き慣れた男の声だった。だが涙を流して感
動している暇も、そしてそんな弱気も今のキャルには全く存在しない。ただ重
要なのは、自分の敵がその声に反応して彼女を刹那の時間、忘却したというこ
とだ。暗殺者として当然のことだが、キャルは今自分がどちらの拳銃に何発弾
丸を持っているか、完全に把握している。
 弾丸は二挺の拳銃に残り一発ずつ。一体ずつ仕留めたとして、もう一体に対
しては丸腰だ。
 だが。丸腰になっても大丈夫だ、という信頼が今のキャルには存在する。
 何故なら自分の名前を叫んだ彼は、きっと向こう見ずに自分を助けてくれる
はずなのだ。少なくとも、アメリカにいたときの彼ならば。
 キャルは壁と地面を蹴って、疾った。吸血鬼達とすれ違う瞬間、交差させた
両手でベレッタの引金を引いた。二体の吸血鬼の眉間に銀の弾丸が直撃。糸の
切れた人形のように崩れ落ちる。
 しかし、最後に生き残った吸血鬼ラインボード・フォルトナーは冷静にベレ
ッタの弾丸が尽きたのを確認していた。どうやら向こうには増援も来たようだ、
逆に追い詰められてしまっている――だが我々に敗北は無い、二度とだ。
 MP43を構える。逃げた少女と増援もろとも蜂の巣にしようとする。しか
し、突然の閃光が彼の目を焼き尽くした。
 ――馬鹿な……に、日光か!?
 襲ってきた痛みに転げ回る。
 否。突然の閃光だと彼が思ったのはバーレットM82A1の12.7mmの
弾丸であり、焼き尽くされたと思ったのはそれが直撃したからだ。
 弾丸は彼の目だけに留まらず顔全体を吹き飛ばしていた。
 ラインボード・フォルトナーにとっては幸運なことに、弾丸は銀ではない―
―だが、少なくとも彼の思考は完全に停止している、視覚も聴覚も奪われてい
る。痙攣を二度、三度繰り返しながら彼はゆっくりと地面に倒れ込んだ。
「キャル……」
 少年――吾妻玲二が声をかける。
「レイジ――――ねぇ、どうして?」
 駆け寄ってきた玲二に、まずキャルが発した台詞がそれだった。玲二は当然
よくわからない、という顔をする。
「どうした来たのさ?」
「なぜって、その――キャルの声が聞こえたからさ」
 ぽりぽりと頭を掻くその仕草は、何処となく呑気でキャルは思わず笑みを漏
らした。玲二が怪訝そうな表情を浮かべる。
 何とか笑いを堪え、キャルは玲二を真っ直ぐ見つめた。ほんの少し酷薄な表
情。玲二の表情も引き締まる。
「……玲二、アタシはアンタが憎かった」
「そうか」
「今でも憎いのかもしれない」
「……だろうな」
「でも、今はどうでもいい。どうだっていいんだ……憎いとか、憎くないとか。
 ただアタシは助けたい。モーラって娘を――助けたいんだ」
 キャルがおずおずと右手を玲二に差し出した。
「協力――してくれないかな?」
 キャルは承諾するかしないかに関わらず、玲二は悩むだろうと思っていた。
 が、彼女の予想に反して彼は差し出された手をほとんどタイムラグもなく、
しっかりと握り締めた。
「俺も手伝って欲しいことがあるんだ……モーラって娘を助けに行くって作戦
をな」
 キャルが目を見開き、玲二は軽く笑った。その時――。
 背後から未だ両目の再生が追い付いていないラインボード・フォルトナーが
声のした場所へ闇雲に腕を振り回し始めた。
「キャル、どけ!」
 言うなり、玲二はキャルを突き飛ばした。突き飛ばされたキャルは尻餅を突
いて、何しやがる、と抗議しようとしてから己の置かれた状況に気付いて、慌
てて弾切れのベレッタを構える。
 しかし突き飛ばした玲二も、銃を構えたキャルもそうまでする必要はなかっ
た。伏せた玲二の上から、もう一度12.7mmの弾丸が音速を越えて吸血鬼
の肉体に飛びこみ、心臓と胸骨とそれから内臓のかなりの部分をズタズタに切
り刻み、ぽっかりと空洞を開けた。
 玲二は腕を背中に回す、するりとベルトに差していた木の杭が引き抜かれた。
 心臓はかなりの部分を抉り取られていたので、一瞬彼はどこに杭を叩きこん
でやるべきか迷ったが、とりあえず一番効果がありそうな顔面を選んだ。そし
てそれは正しかったようで、しばらくもがいていたラインボード・フォルトナ
ーは顔面からすぐに灰となって消えて行った。
 キャルが立ち上がって、
「……あの女も来ているんだ」
 と、酷く苛ついたように言葉を投げかけた、玲二はため息をついた。どうも
前々から思っていた、というか分かっていたことだが彼女とエレンの相性は、
恐らくこれまでのいざこざを抜きにしても、絶望的に悪い。
 けれど、これが切欠になるかもしれない。彼女達二人に共通する点であるモ
ーラによって。
 まあ、それは何もかもが幸福な結末に終わったときにゆっくりと考えること
にしよう、と玲二は思った。
「ああ、エレンも……彼女も、モーラには深い関わりがあるからな」
 エレンは玲二とキャルから離れたところで、バーレットM82A1を片付け
ている。ちらりとエレンはキャルを観たが、すぐに興味なさそうに目を逸らす。
 キャルは、玲二とエレンがモーラとついこの間、とある事件によって関わっ
たということを知った。何たる偶然、それともこの極めてだだっぴろいと思っ
ていた世界が極めて窮屈に狭苦しいだけなのか。
「キャル、俺はな。運命なんてものをまるで信じちゃいなかったけど」
 玲二が歩きながら言う。
「俺とエレン、そしてお前とモーラの四人が出会えたってのは、あながち偶然
で片付けられるものじゃなさそうだ」
 そう言うと、玲二は柔らかい笑みを浮かべた。キャルが今まで一度たりとも
見たことのない笑み。そうか、とキャルは唐突に理解する。玲二も、成長して
いるのだ。怒りに任せて全てを破壊しようとしていた自分が、ペイトンやカレ
ン、そしてモーラの出会いで変わったように。
 キャルはエレンや玲二を許すことにした。玲二は二度と殺せないだろう。エ
レンは……まあ、向こうが攻撃してこなければ、という条件付で。
「ああ、いっけない!」
 ダークマンから託されたモーラのハンマーを忘れるところだった、重たくて
も何でも、あれは持っていかなければならない。多少渋った玲二を説き伏せ、
キャルは駆け足で――さっき死にかけたことなどとうに忘れている――戻り、
モーラのハンマーを置き棄てたはずの場所に戻った。
 そして、キャルと後を追いかけてきた玲二、エレンは硬直した。何が起きた
のか、瞬間的に判断がつかなかったのは、周り中に血と屍体が積み上げられて
いたからに違いない。屍体? 違う、彼等はまだ息がある。だが、少なくとも
簡単に止めを刺せるほど弱っているのは間違いない。

 そして、まだ生きていて動き回る吸血鬼の群れの真ん中に、黒い悪鬼が存在
していた。イノヴェルチの吸血鬼らしい男がナイフを使って、喚きながら振り
回した。
 だが冷静に、そして冷徹に黒い悪鬼は躰全体を押し付けるようにして振り回
す腕を受け止めた。ナイフを持った腕の間接を捻じ曲げ、通常ならばまずあり
えない(そして絶対に真似したくない)方向に骨をヘシ折った。
 悲鳴を上げさせる暇もさせる気もなく、男はサブマシンガンの銃口を殴りつ
けるように彼の眉間に押し当て、銀の弾丸をきっちり一発だけ撃ち込んだ。男
がニヤリと笑ったのは、きっと節約を心がけているからに違いない。
 灰。
 次いでもう一人の男、拳銃を撃ったものの、黒い悪鬼の巧みな体術に阻まれ
て、下の石畳をほんの少し弾け飛ばせるだけに終わっていた彼。くるりと回転
した黒い悪鬼が手にしていたハンマーを――キャルにとってはやけに見慣れた
ハンマーだった――顔面に叩きこまれ、悶絶した。
 二人が一斉に襲いかかる、だが彼等は接近戦でありながらライフルを使おう
とする愚を犯した。互いにライフルを持ち上げようとして、引っかかった。阿
呆、と言いたげな顔をしながら黒い悪鬼が躰を捻って回転、右腕に持ったハン
マーからはスイッチで飛び出した白木の杭を男の心臓に打ち込み、左腕に持っ
た刀はそのまま逆側の男の首を撥ね飛ばした。最後に悶絶している男の心臓に
刀を突き刺し――。
 灰になり、灰になり、灰になる。全ては塵に還る。
 だが、黒い悪鬼は続けざまにやってきた男女三人組を仕留めようとハンマー
を放り棄てて愛用のサブマシンガンに手をかけ――――――――。
 呆気に取られていたキャルが、あっと息を呑んで黒い悪鬼の顔を見るなり、
叫んだ。
 鬼の形相で三人を睨みつけていた男はあっと息を呑んで男女の顔――の中の
女の顔を見た。
「あんた、ブレイド!?」
「お前、キャルか!?」
 二人はほとんど同時に叫んだ、男がサブマシンガンを抜いたのに反応して、
デザートイーグルを抜き放っていた玲二がぽかん、という顔をして二人の顔を
交互に見比べている。玲二はふと、何だか自分が馬鹿なことをしているような
気がしていた。同じく銃を抜いたエレンがやはり二人の顔を交互に見て、気ま
ずそうにデザートイーグルを下ろす玲二を次に見て、
「どうしたの?」
 と尋ねた。もちろん玲二も一番聞いておきたいのはそれだった。


                ***


 惣太は再び己の暴れ馬と化したデスモドゥスをそっと、いとおしむように掌
で撫でた。デスモドゥスは猟犬が獲物を見つけたときのような唸り声をあげ、
主人である惣太が動け、という命令を下すのを今か今かと待ち望んでいる。
「よっ……また逢ったな、デスモドゥス」
 もちろん装甲車を相手に爆発させてしまったあのデスモドゥスとは違う、全
く別のバイクを全く別に改造しただけだ。それでもやはりこのデスモドゥスに
はかつての面影が残っており(惣太はしつこくこのバイクを諦めなかったウピ
エルに心から感謝した)、やはり世界最狂のモンスターバイクだった。
「悪いな、もう一度俺と一緒に戦ってもらうぜ」
 望むところだ、と言わんばかりにデスモドゥスが唸る。
 惣太は欲しかった玩具を手に入れた子供のように笑い、そして――フルスロ
ットルでクラッチを繋ぎ、弾丸のように飛び出した。
 驚愕するべきはデスモドゥスほどのモンスターバイクを、惣太は左腕一本で
操っていた。日本であの事件に巻き込まれてからわずか数日だったが、これほ
ど愛し、頼もしいと思ったバイクは他にない。彼はデスモドゥスの操作を熟知
していた(それでも左腕一本では苦労したが)。
 では、空いた右腕は何をするのか?
 もちろん、空いた右腕はあの騎士の高潔なる魂が宿っていて、敵を欲してい
る、敵を斬ることを欲している。

 デスモドゥスの凄まじい咆哮は、ヴァチカン中の吸血鬼が気付かんばかりの
ものだった。儀式がまだ終了していないのに、無法者を乱入させる訳にはいか
ないイノヴェルチは、次々にサン・ピエトロ広場に集まって、次第に近付いて
くる咆哮に慄然したものを感じながらも、ライフルを一斉に構えた。
 彼等の脳裏に共通して浮かぶ疑問はただ一つ。

「何が来る?」

 そして彼等の疑問の答えは疾風の如くやってきた。
 突風による、全身が切り刻まれるようなゾクゾクする感覚。凄まじい速度に
よって引き起こされる身体への重圧が吸血鬼の身に心地よい刺激をもたらし、
脳内麻薬はフル活動で分泌される。
 右腕をだらりと下げた、ヒルドルヴ・フォークの尖端が地面に擦れ、火花を
散らせる。闇夜にキラキラと光るそれは遠目から見れば、まるで流れ星のよう
に思ったに違いない。流れ星にしてはやけに凶悪だったが。
 吸血鬼達が惣太の姿を捉え、騒ぎ出した。辿り着くまでにはあと十秒以上の
猶予がある。ライフルを構えて狙い撃つには充分すぎる時間だろう。だが、惣
太には自信があった。自分に弾丸は一発たりとも当たらず、そしてデスモドゥ
スには傷一つないと。
 予想通り、彼等の銃口から光が瞬いた。避けない。当たると分かっていても
全く避けない。弾丸は水流加工されたチタンの牙に当たり、軌道を変えてしま
う。彼等がパニックになって撃ち捲くり、弾丸が切れるのとちょうど同時に、
惣太とデスモドゥスは敵の真っ只中に飛びこんだ。
 鋼鉄より凌駕する硬さを誇る右腕が駆動し、ヒルドルヴ・フォークを思い切
り振り回した。ただそれだけの所作で、剣の軌道に存在していた吸血鬼の首と
胴体が吹き飛んでいく。
 まるで豆腐を切るような容易さだ。惣太はギーラッハに心の底から感謝した。
 ありがとうよ、ギーラッハ。しばらく、この剣は血と脂とその他色々なもの
で穢れてもらうことにしよう。もちろんギーラッハがこの場にいればこういう
はずだ――当たり前だ、騎士の剣は穢れるために在る。

 たまたまデスモドゥスの前に居た不幸な吸血鬼は、躰をほとんど半身丸ごと
食いちぎられてしまっていた。デスモドゥスの牙に突き刺さって苦悶する男を、
惣太はヒルドルヴ・フォークで払い除けた。
「ようし、デスモドゥス! まだまだ来るぞ!」
 惣太がデスモドゥスを叱咤した通り、ミレニアムの吸血鬼が蛙(フロッグ)
のように飛び跳ねて、上空から襲いかかってきた。彼等の持つパンツァーファ
ウストやMP43が一斉に地上のデスモドゥスに叩きこまれる。
 惣太は致命的なダメージになるであろう、パンツァーファウストのロケット
弾のみに注目した。MP43の弾丸は黙殺する、当たったらそれまでのこと。
 左手一本で何とかデスモドゥスをコントロールする、ロケット弾が発射され
る直前に急激な回避行動を取っていたためにバランスが崩れた。そこに第二弾
が狙い違わず、惣太を直撃しようとする。
「ウォォォォォッッ!」
 惣太は吼えた。右手のヒルドルヴ・フォークはロケット弾の速度に対してや
や緩慢とも言えたが、それでも弧を描いてロケット弾を叩き潰した。当たる前
に爆発したとは言え、衝撃波によるダメージは避けられない。
 だが、惣太はデスモドゥスを心から信頼している。だから、このような無茶
な行動もできる。惣太は慣性の法則に従って自由落下を続ける吸血鬼にニヤリ
と嗤いかけると、そのまま跳躍した。
「なっ……!?」
「え!?」
「何だ……貴様ァ!」
 空中で一瞬、吸血鬼達と交差する。だが、その一瞬は致命的に吸血鬼達にと
って隙だらけだった。大剣を一振りするだけで、吸血鬼達の躰は真っ二つに分
断され、空中で爆発するように灰燼と化した。
 乗り手がいないにも関わらず、真っ直ぐ走り続けたデスモドゥスに再び着地。
 惣太はヒルドルヴ・フォークの血を振り払い、さらに疾走する。階段をバウ
ンドするように駆け抜ける、そこにはさらに多勢の吸血鬼が待ち受けていた。
 ――惣太!
 聞き慣れた声、聞き慣れたイントネーションが脳内に響いて惣太は嬉しくて
泣きたくなった。良かった、彼女が生きていてくれた。
 大群に少しだけ怯んだ己の心を奮い立たせる。彼女が生きている、それだけ
で自分には命を賭ける甲斐も、そして価値も存在する。
 返答の絶叫。
「今行くぞ、リァノーン――!」
 今一度、デスモドゥスが咆哮する。惣太は策も何も無く、真正面から大軍に
突っ込んだ。ヒルドルヴ・フォークを振るう、振るう、ひたすら無心になって
振るい続ける。振るうたびに剣に肉がへばりついた、血が付着した、骨の欠片
がぽろぽろと零れた。そしてそれ以上に灰と塵が、そして腕を切断され、脚を
切断され、上半身と下半身が分離して悶絶する吸血鬼達を大量に生産し続ける。
「どけぇぇぇぇぇぇ!」
 血を吐かんばかりに憤怒の絶叫、デスモドゥスの牙は無数の吸血鬼を喰い尽
し、尚もその輝きと斬れ味を失わない。ライトに血がべっとりとつき、紅の光
が吸血鬼達を照らし出す。
 恐怖に怯える者もいる、憤怒に顔を歪ませる者もいる、ただ凍りついたまま
動けない者もいる。だがしかし共通する点がただ一つ。
 惣太の前を阻んだ全員、完膚なきまでに殺された。
 ヒルドルヴ・フォークで。右腕“イージス”から射出された白木の杭で。そ
してデスモドゥスのバンパーファングで。平等に殺されて行く。惣太は陶酔と
いう感覚を勝手に侵入させる脳味噌を戒めた。
 戦闘の最中に、殺戮の愉悦に浸ることほど愚かなことはない。敵が圧倒的に
弱い相手ならともかく、敵一人一人が自分とほぼ同等の力を持つ化物達なのだ。
 油断せず、たじろぎもせず、ただ一心不乱に相手を屠ることだけを考える。
 思考を全て周囲の索敵・周囲の状況推移への対応・周囲の敵の優先順位に振
り分ける。デジタルな思考、それは即ち順番に、効率よく、最速で、吸血鬼を
打ち滅ぼすにはどのようにすればいいか。
 デスモドゥスの咆哮がさらに高まる、サン・ピエトロ広場を突き抜け、そこ
から右方向に曲がった途端にAK−74の一斉掃射が惣太に襲いかかった。
 咄嗟に避けられないと判断し、覚悟を決める。弾丸はデスモドゥスに傷をつ
け、孔を穿った。そしてそればかりか惣太の右肩、右脚に電撃的な痛みを叩き
こむ。幸い鉛玉だ、痛くはあっても即座に治癒される。だが、その両脇の建物
に挟まれた狭苦しい道にはイノヴェルチの吸血鬼が二列三列とぎゅうぎゅうに
詰めており、突撃して屠るのは困難なようだった。
 惣太はコンマ以下の秒の間思考し、判断する。
 突貫。
 AK−74が再び一斉に弾丸を撃ち込む。だが、惣太はゆっくりと左にハン
ドルを切り、タイヤを建物の壁に乗せた。そしてアクセルを全開にする――吸
血鬼達はぽかんと口を開けて、壁を疾駆するデスモドゥスを見た。
「殺ッ――――――――――!」
 右腕のヒルドルヴ・フォークで斬撃、集まっていた吸血鬼達の首を残らず刎
ね飛ばした。首がごろごろと転がり、残された躰は生理学的な反応である痙攣
を行い続ける。戦闘能力は奪った、塵に還るか復活するかは彼等の頑張り次第
だろう。いずれにせよ、現時点での脅威とはならない。無視だ、無視。後始末
なんてのはヴァチカンにいずれやってくるであろう対吸血鬼のプロフェッショ
ナルに任せておけばいいのだ。

 デスモドゥスは多少の傷を負ったものの、エンジンの咆哮には痛みの呷き一
つとてなく、車体の傷は内部にまでは届いていない。惣太の躰にしても同様だ。
 後はこのまま――。
 ――惣太、惣太! 聞こえますか、惣太!
 リァノーンが念話を送ってきた。
 ――君の方こそ! リァノーン、君こそ大丈夫なのか!?
 ――私は、大丈夫です……今のところは。それより惣太、まもなくこの場に
カインが降臨します。私のことはいいですから……!
 ――五月蝿い!
 リァノーンが何を言おうとしていたかすぐに分かった惣太は、彼女を一喝し
て黙らせた。
 ――リァノーン、俺の魂は君と共に在る! ギーラッハに誓ったんだ、俺は
君の傍にい続ける! 次に言ったら、本気で怒るからな!
 ――……。
 ――君が俺無しでは生きられないと言うのなら、俺が君無しで生きられない
ということも分かってくれ……な?
 ――惣太……。
 ――大丈夫、大丈夫さ。君のためなら、俺は神だって殺す!
 ――はい、待ってます、待ってます、惣太!

 リァノーンの声が感極まったようだ、多分、きっと、間違いなく、彼女は泣
いているだろう。それが感動か、絶望か、あるいは喜びか、それともそれを全
部合わせたものなのか。いずれにせよ、惣太はこんな声を出させた俺を、ギー
ラッハは怒っているだろうな、と考えた。
 ――悪いなギーラッハ。だけど、リァノーンは絶対に死なせやしないし、俺
も死なない、それで勘弁してくれ……!

 ヒルドルヴ・フォークが三度、四度と振るわれる。惣太の頭の上で何度も何
度も回転し、十文字に、一文字に、八文字に、逆八文字に斬り裂いていく。
 振るうたびに、確実に肉片と血糊が増加していった。右腕、左足、右脚首、
首そのもの、顔面、耳、肝臓、腎臓、大腸、あばら骨、ありとあらゆる人体の
部品がまるで噴水のようにぱっと空へ散って行った。
 ――リァノーン。
 全身の震えが止まらない、近付いている、今、自分は確実にリァノーンに近
付いている。だが――。 
 左手のそれを視ただけで怖気が走った。
「何なんだよ! あの、化物はッ! あの化物はなんなんだ!」
 否。惣太は思う、あれは化物と呼べるものですらないと。あれは何者でもな
い、神? せめて神様らしい姿であれば良かったのだが。
 まず、地面に転がっている化物が一匹。それはシャムの双子のように奇怪な
姿だった、二つ首があり、内一つの首は己の躰に噛み付いている。
 そして門。
 宙に浮かんでいたはずの門は地面に墜ちていた。ただ、下にシャムの双子が
存在する。そして惣太が毒づいた理由がここにある。シャムの双子は門に巨大
な腕を伸ばしていた、そして門は半ば開きそれを受け入れている。そして門は、
そのシャムの双子と――融合しつつあった。
 そして、周りに漂う圧倒的な臭気、怨気、そして冷気。門がぶるぶると唸る。
 門の周りの装飾――生物は蠢いて、ゆっくりと周りに居たらしい吸血鬼を取
りこみ、膨らんでいく。毒々しい紅色の肉、ぶよぶよとしていて汚らしく、見
ているだけで惣太は全身にむず痒さが走った。
 惣太は横目でそれを見ながら、尚もリァノーンの元へデスモドゥスを走らせ
る、彼の目がついにリァノーンを捉えた――。だが、彼の前に一人の吸血鬼が
立ち塞がった。珍しいことに、先ほどのDのように馬に乗り、惣太の真正面に
位置する。
 不審に思ったのはわずかの間、とにかく敵だと認識し、
「邪魔だ、退けェッ!」
 そう言って真っ直ぐ馬を疾らせてこちらにやってくる吸血鬼にヒルドルヴ・
フォークを振るった。一瞬、彼の顔が闇夜に浮かび上がる。眼球がない、とい
うよりは皮膚の肉そのものが存在しない。要するにただの骸骨だった。
 おまけに格好も古めかしい、黒いマント、そして鈍く輝く鎧、その鎧には十
字軍の文様が彫り込まれている――と言っても惣太には、その文様が何かとい
うことまでは分からなかったが。
 一刀両断。
 骸骨は呆気なくこの世から消し飛んだ。
「……?」
 思わず背後を振り返って、本当にこの世から消し飛んだかどうかを確認する。
 一瞬目を凝らしただけだが、確かにその場は無人だった。まるで自分が斬っ
たことすらこの世に無かった出来事だと言わんばかりに。
 纏わりつく疑念を振り払い、再びリァノーンに集中する。世界は広い、色々
な吸血鬼が存在する、たまには見掛け倒しの吸血鬼がいてもいいだろう。
 惣太は今や肉眼で、ハッキリとリァノーンとそれから――遠野志貴とアルク
ェイド・ブ、ブ――ブラッドとか、ブレイドとかいう真祖の吸血鬼の姿を認め
るまでになった。今や惣太を邪魔するのは、パニックになりながら右往左往す
るどう見ても戦闘向きとは思えない肥え太った吸血鬼達だけだ。
 もちろん、彼は立ち塞がるならば容赦はしない。不幸なことに、たまたまデ
スモドゥスの疾るラインに存在した吸血鬼が何匹か犠牲になった。

 それに最初に気付いたのは、まだ回復しきってないアルクェイドではなく、
遠野志貴の方だった。
「おい、アルクェイド」
 アルクェイドはゆさゆさと揺さぶられ、眠りを妨げられた時のように膨れっ
面で目を開いた。既に先ほど意識があることは確認している。暴れ回ることは
できなくとも、ただじっとしているだけなら大丈夫だ。ただし、夜の間ならば。
 朝になったら――どうなる?
 いや、今そんなことを考えてみても始まらない。それよりは、だ。
「なによ〜、私ちょっと眠た……へ?」
 疾走する鋼鉄の塊が、
「だから、アルクェイド。一体あれはなんだと――」
 真っ直ぐこちらに、三人がいるバルコニーに、
「私が分かる訳――」
 飛びこんできた。
「のわっ!」
「なっ――!?」
「………………………………………………………………ああ」
 アルクェイドと志貴は驚愕、リァノーンは――先ほどから何を志貴に話し掛
けられても押し黙っていたリァノーンは、初めて安堵のため息を吐いた。
 それは来てくれた、という安堵のため息だった。だが、即座に惣太と、これ
から先の運命を思ってリァノーンの顔が曇る。リァノーンはふらふらと立ち上
がった、惣太の元へ向かう前にちらりと彼がやってきた方を見る。
 果たしてそこには絶望の門が、未だその口を開いていた。


「リァノーン、悪い、遅くなっちまったな」
 だが、今はとりあえずこのほがらかに笑う青年に、身を預けることに専念し
よう――リァノーンはそう思って覚束ない足取りで、惣太に駆け寄り、しっか
りと抱きすくめられた。
「信じてました」
 リァノーンはそう惣太の耳元で囁いた。
「信じてくれていると思ったよ」
 惣太がリァノーンの耳元で囁いた。
 アルクェイドと志貴は、何となく気恥ずかしくなって目を逸らした。危機的
状況にも関わらず、二人は何をやっているのだ、と思わなくもなかったが、そ
れよりは両者ともこう考えていた。
「羨ましい」
「羨ましい」
 お互いの呟きがふと零れた。お互いに顔を見合わせ、お互いに睨みつける。
 アルクェイドは惣太の誠実で一途そうなところがが羨ましかった。遠野志貴
はリァノーンの儚げでおしとやかそうなところが実に羨ましかった。お互いに
あまりないものを求めているのでは、全くもってどうしようもない。
 だが、同時に思う。ああ、なんて馬鹿なことを考えていられるのだろう。そ
れはなんて幸せなのだろう。
 アルクェイドと志貴は目を見合わせてしばらく睨んでいたが、やがて相貌を
崩し――。


 門が叩き壊された。


 途端、凄まじい熱風が四人に襲いかかった。立っていた二人は咄嗟にしゃが
みこんだが、志貴は座っていたにも関わらず、思い切り吹き飛び――アルクェ
イドが何とか彼の手を掴んで、バルコニーのガラスを突き破って部屋に飛びこ
むのを防いだ。
 衝撃波がやんだ。慌てて四人はバルコニーから、あの門を覗く。瞬時に何が
起きたか、何が死んだのか、何があったのか、全て理解した。そして同時にあ
まりにも途方のない絶望が身を包む。
 門と、プロトタイプ・カイン、そしてカインの魂。それら全てが――融合し
ていた。それは最早異形という言葉では収まりきらない凄まじさだった。カイ
ンの魂は肉体に入り込んだが、そこにはプロトタイプという先客が寄生してい
る、そしてそこらに群れるような、ただの吸血鬼の肉体も混じっている。それ
が為にカインの精神と肉体は変容し、神というにはほど遠い全身を紅黒い肉に
覆われた怪物と化していた。門はぐにゃぐにゃと曲がり、圧縮され、ヴァチカ
ンを覆っていると言っても良かったほどの大きさだったものが幾分収縮されて
いたのは唯一の救いだったか。
 目玉。かつて門であったものもカインと融合し、全身に一斉に目玉が開く。
 人の目玉、蛇の目玉、魚の目玉、紅の目、蒼い目、黄色く濁った目、ありと
あらゆる目玉がぎょろ、ぎょろと周りを見る。神の周りには、まだまだ沢山の
吸血鬼達が――。
 門が再び開いた、だがそれは最早門とは言えない。カインによって、その形
状に一番相応しい肉体の一部分として姿を変えていた。門の扉が吹き飛び、内
側からじゅるじゅるという音と共に鮫のような歯がびっしりと生える。
 勘の良い吸血鬼は脱兎の如く逃げ出した、勘の悪い吸血鬼は茫として見てい
たせいで、カインが伸ばした触手に掴まり、片っ端から門――口の中に放り込
まれた。
 門が閉じる――もちろん、咀嚼運動のために。くぐもった絶叫は混声し、合
唱に変化し、距離が離れた四人の耳に届く。志貴は胃から液体が逆流しそうに
なるのを堪えながらその光景を見続ける。
 触手? 否、あれはもしかして――いや、あの形状は――人間と同じような
形状で、人間より長く、つまり……あれは、舌(タン)だ。

 やってきたそれに反応が鈍かったのは、アルクェイドでもリァノーンでも伊
藤惣太でもなく、遠野志貴だった。
「………………あれ?」
 あまりにも素っ頓狂な声。舌がじゅるじゅるっという音を立てて一本バルコ
ニーにまで伸び、しっかりと志貴の足首に絡まっていた。
「……」
「……」
「……」
 一瞬で志貴の躰が宙空に浮かび、凄まじい勢いで引っ張られた。
「志貴!」
「志貴!」
 惣太とアルクェイドが叫ぶ。アルクェイドは追いかけようとして、がくりと
体勢を崩す。
 ――駄目だ、瞬間的には躰に力が入らない!
 伊藤惣太はデスモドゥスに即行で飛び乗った。エンジンをかける。アクセル
を開く。
「俺が行く!」
 そう一言二人に言い残して、惣太はバルコニーからデスモドゥスで跳躍した。
 眼下に広がるは、あまりにも醜くぶよぶよと広がった肉の塊。こんなところ
をタイヤで疾るという事実そのものに腹が立つ。それでもデスモドゥスは着地
し、肉塊をタイヤで押し潰し、回転して肉の表面を引き裂きながら駆ける。
 舌が一斉に惣太に向けて襲いかかった。背中の革ベルトに引っ掛けておいた
ヒルドルヴ・フォークを引き抜いた。
「気持ち悪ィんだよ、舌は舌らしく焼肉屋のメニューに載ってやがれ!」
 頭上でヒルドルヴ・フォークを回転させる、ぐるりぐるりと回る度に神の舌
は千切れ、弾け飛んだ……にも関わらず、神はくぐもった欠伸のような泣き声
をあげただけだ。
「くっ!」
「あ――!」
 アルクェイドとリァノーンが同時に崩れ落ちた。カインが行う欠伸すら、今
の二人には極めて精神に堪える。もっとも堪えたのは彼女達だけではない、未
だ周りで右往左往していた吸血鬼達の何人かは絶叫の直撃で発狂し、耳から血
を流して息絶えた。舌で飲み込まれる直前だった吸血鬼は直撃どころではなか
った、音の衝撃が躰自体を消し炭のように吹き飛ばした。
 さて、舌に脚を捉えられた志貴は咄嗟に眼鏡を外した。無論、自分を引っ張
って口の中に放り込もうとするこの忌々しい舌を切り離すためだ。案の定、舌
には線が無数に走っていた。腰に差してあった七つ夜を抜き、手の届く範囲の
線に沿って七つ夜を動かす。
 しかし、志貴は放り込まれるまいとパニックになっていたせいで致命的な点
に気付いていなかった。即ち、志貴の今の状態は舌に吊り下げられていた状態
で、それを切り離せば当然慣性の法則に従って彼は肉の塊の上に落下する。
 おおよそ十数メートルの高さから。確かに地面であるそれはコンクリートよ
りは柔らかいが、逆様に落ちればどこかの骨が砕けるのは間違いない。
 以上の事に気付いたのが、線を切り裂いて数刹那後のこと。
「しまっ――」
 己の馬鹿さ加減をつくづく呪う。せめて受け身を取ろうと考えたが柔道の授
業など数えるほどしかないことを思い出す、第一こんな高さで果たして受け身
が効果あるのかどうか。
 思わず現実から逃避して目を瞑る。が、そんな志貴に惣太はヒルドルヴ・フ
ォークを放り投げて、デスモドゥスを飛ばす。間一髪。デスモドゥスから転げ
落ちながら、惣太は志貴の躰を抱き止めて肉の大地に自身を叩きつけた。
 しばし呼吸が強制的に排除され、ぐるぐると世界が回転してからようやく停
止した。志貴も、惣太も呼吸が荒い。特に志貴はそこら中の血の匂いもあいま
って空嘔吐を何度も繰り返した。
「大……丈夫……って訳じゃなさそうだが……モタモタしてないで、逃げるぞ」
 惣太は、志貴を無理矢理引き起こして両肩に担ぎ、横転したデスモドゥスに
乗りつけた。
「いいか、しっかり掴まってろよ。間違っても手伝おうと思うな、片手でぶっ
飛ばされたら今度こそ助ける自信はないぞ」
 志貴は頷いた。落ちていた時でもしっかりと握り締めて離さなかった七つ夜
は、再びベルトに差し込んでおく。両腕を惣太の腰に回し、しっかりとしがみ
つく。バイクの後ろに乗るのは初めてという訳ではないが、やはり緊張は隠せ
ない。
「よし、行く――」
 惣太はぞ、と言おうとして舌を思い切り噛んでしまった。デスモドゥスから
二人して放り出される。地面が揺れる、いや、揺れどころではない。志貴は転
がりながら地面がどんどんと垂直になっていくのを見た。まさか――。
「じ、地面が……くそっ」
 地面がますます斜めになっていく、ずるずると己の躰が滑り落ちていく。山
を下っているときに走っていると、止まらなくなってしまうあの恐怖を思い出
した、しかしあれよりずっと、何百倍は酷い、酷い怖さだ。
「志貴ィ! 乗れぇ!」
 惣太が同じく滑り落ちつつあったデスモドゥスを掴み、志貴に向かって手を
伸ばした。躰がずるずると地面に向かって墜ちかけていた志貴の躰を何とかデ
スモドゥスに引っ張り上げる。志貴が自分の腰を掴んだかどうかも確認する前
に、デスモドゥスを発進させた。肉の大地はますます垂直に近付き、デスモド
ゥスで走っているのか、デスモドゥスと共に墜ちているのか、それすら定かで
はなくなる。
 結局二人はデスモドゥスを全開で走らせたせいでギリギリで墜落死は免れた。
 懐かしの大地に降り立ち、生の実感を噛み締め、それから空を見上げる。も
ちろんそこには果てしない青空ではなく、絶望的なまでの闇夜が広がっている。
 だが、今の二人には青空も闇夜も絶望も希望も全く見えはしない。カインの
足下で、カインを見上げ、カインに圧倒されている。
 そして二人はカインが起き上がったことによって、新たに戦慄の事実を突き
つけられてしまった。起き上がったということは――まさか。
 アルクェイドがバルコニーからカインの異形にして威容の姿を見、吐き気を
堪えながら呟いた。
「まさか……コイツ……今まで……………………寝ていた…………!?」
 気付けば、人間二人分程度の大きさでしかなかったカインの肉体がぶよぶよ
と際限なく膨れ上がり始めた。門は逆に、カインに合わせるようにさらに収縮
する――が、やはり巨大な口であることには変わりない。
「ということは、ということはだぞ。おい、志貴。こいつもしかして――」
 カインの本来の肉体の、本来の顔の眼球が開いた。それは――爬虫類の目を
していた、黄色く濁り、虹彩は限りなく細まり、そして喜びも悲しみも怒りも
何も感じさせないような、無関心そのものの瞳。せめて憎しみに燃えていれば
まだしもましだったろうに――。
 背中にくっついていた門は口に変化している、即ち、今のカインには口が二
つあった。そして唐突に、二つの口が息を大きく吸い込み始めた。それだけで、
周りの吸血鬼は大パニックに陥った。門の口へと吸い込まれる、カイン本来の
口へと吸い込まれる。
 惣太と志貴は咄嗟にデスモドゥスにしがみついた。重さ三百キロの車体が二
人が吸い込まれるのを防いでくれる。もう一つ、場所的にカインの足下にいた
ということも幸いした。
 やがて、吸い込みが突然止まった。途中で突然風が無くなって空中に浮かん
でいた吸血鬼は地面に叩きつけられ、痙攣を繰り返す。突然訪れた凪のような
状態に、惣太も志貴も戸惑う。
 遠目で様子を窺っていたリァノーンは、次にカインが起こす行動に気付いて
愕然とした。
 ――惣太! 逃げてぇ!
 絶叫が念波に変化して惣太の脳に叩きつけられる。悲痛な絶叫、惣太は戸惑
いながらカインを見た。カインはわずかに背中を仰け反らせていた。あのポー
ズ、人間ならば誰でもやる動作。息を吸い込むと背中が仰け反り、次に起こす
行動で前のめりになる。
 つまり。
 つまり、という事は。
 ――惣太、逃げてぇ!
 リァノーンの絶叫が惣太の脳を激しく揺さぶった。惣太は無言で志貴の両肩
を掴むと、自分も地面に伏せて耳を塞いだ。くぐもった抗議の声が下から聞こ
えてきたが黙殺する。そして数瞬後。

 カインが絶叫した。苦悶のせいか? 憤怒のせいか? 歓喜のせいか? 悲
哀のせいか? いずれにせよ、その絶叫はヴァチカンを越え、ローマに到達し、
無数の喰屍鬼と、無数の聖職者を塵のように吹き飛ばした。喰屍鬼はその多く
が脆い躰でしかないせいで、あっという間に一千人単位で灰燼と化し、聖職者
――即ち、ヴァチカンを取り戻そうと戦っていた内の何百人かは声の衝撃その
ものに耐え切れず、全身の骨を粉砕して死亡した。
 全員が地面に伏せ、突然の衝撃に混乱しながらも必死に対応する。やがて、
衝撃が終わり、一人が立ち上がり、二人が立ち上がり、全員が立ち上がり始め
た。だが、物理的な衝撃な方がまだマシなくらいの衝撃、怖気が彼等全員に襲
いかかった。
「な――なんだアレは!」
「おい、見ろ。あれを見ろ!」
「ああ、畜生! ――神よ!」
「あ、は。何だよ……何だよ、何なんだよ!」
 マルタ騎士団のメンバーがヴァチカンに出現したカインを指差した。日頃か
ら冷静沈着を旨とするマクスウェルですら、茫然とそれを見た、ヴァチカンに
登場した、正真正銘の悪魔を、否、正真正銘の――神を。
「ガッ! ……ぐッ……」
「うぁっ! うっ………………」
 力をごっそりと削ぎ取られていたアルクェイドとリァノーンはとても耐え切
れず、その身を床に横たえて悶絶する。胎児のように丸まり、胎児のように震
える。
 カインの圧倒的な存在感が彼女達の躰を激しく苛む。力を完全に奪い取られ、
弱りきった彼女達は今や喰屍鬼よりもか細い存在と成り果てていた。このまま、
このままカインが存在し続けるだけで、二人は間違いなく“殺される”。
「……し……きっ………………」
「そう――――た」
 だが、二人は見た。そして絶望し、それから歓喜し、最後に信じた。カイン
の足下に転がる二人が、ゆっくりとその身を起こすのを見た、己の番(つがい)
である二人。
 遠野志貴と伊藤惣太――彼等は神に挑もうとしていた。世界なんてどうでも
いい、自分達の知ったことではない、ヴァチカンがどうなろうか彼等が解決す
べき事柄だ、そう思う。
 だが――。
 二人には、命に替えてでも、命を賭けてでも、己の命を費やしても、己の命
を燃やし尽くしても護らなければならない……いやいや、これは良くない。惣
太は自分を厳しく戒める。自分も生き残り、リァノーンも生き残る。そして隣
の友とその恋人も生き残ることができれば最高だ。最高の未来を考えて、最高
の未来を掴むために。
 ――彼女(アルクェイド)を救うために。
 ――彼女(リァノーン)を救うために。




 ――カインを殺さなければならない、絶対に!






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