Forgive your enemies, but never forget their names.
(汝の敵を許せ。だが、その名は決して忘れるな)
                   J・F・ケネディー














 車を停止させる。
 息をつく。ふと思い起こせば車を発進させてからここに停まるまで、何回呼
吸したのだろうか、この息苦しさだと全くしていなかったのかもしれない。
 エレンはハンドルに額を押し当てた、額の熱が急激に冷めて行く。だが肝心
の冷静さは取り戻せそうにない。
「お姉ちゃん」
 ハッ、として起き上がった。後部座席のケイティが不安そうに彼女を見つめ
ている。
「あのお兄ちゃん……だいじょうぶかな?」
「大丈夫よ……あのお兄ちゃんは、大丈夫」
 エレンは無理矢理微笑んだ、無理に笑顔を作ろうとしたせいか頬の筋肉が攣
りそうなくらい痛い。手を伸ばして、ケイティの頭を撫でた。が、少女はすぐ
にエレンの手が震えていることを看破した。
 何に?
 それはもちろん、エレンはあの少年が大丈夫ではないことを分かっているか
らだ。ではなぜエレンは決して大丈夫ではない彼を残してきたのか。
 ――あたしのせいだ。
 ケイティは少し泣きたくなった、自分のせいでエレンは辛い選択を選ばざる
を得なかったのだ。もし自分がいなければ、少なくとも一緒にいることはでき
ただろうに。
 そして、ケイティはふと思った。
 ――いまからでもおそくないかもしれない。
 それはあまりに怖い考えだった、しかし現時点で最良の考えだとも言える。
 出会ってわずか数時間程度しか過ごしていないが、ケイティは少女特有の鋭
い感受性で、エレンがどういう人間なのかを大まかに見抜いていた。
 一人ぼっちが苦手なタイプ、そういう人だと。だから、もし。もしエレンが
あの彼を見捨てたまま、このままここにいると、絶対に取り返しのつかないこ
とになるのではないだろうか。
 十一歳の誕生日をようやく迎えた(あの時のケーキは美味しかった!)少女
にとって、今から口に出すことはひどく勇気が必要で、恐ろしいことだった。
 だが、口に出さなければならない。
「エレン、よく聞いて」
 ケイティはエレンの瞳を覗き込んだ、あの化物の跋扈する街を恐れも見せず
に駆け抜けてきたエレンが初めて怯んだ。
「エレンは、あのお兄ちゃんのところに行かなくちゃだめだと思う」
「……何言ってるの?」
 少しだけ声が強張る、自分の醜い考えをズバリと露呈されたようで不愉快さ
とそれから恐怖がエレンの心を覆う。
「あたしは大丈夫だから、エレンは行かなくちゃだめ」
「馬鹿言わないで! ……ケイティ、私はあなたを安全なところまで――」
「ここでいいよ! ここで十分安全だから! だから、だから……行かないと
だめ! 絶対に! あたしのパパやママみたいになっちゃうよ!」
 エレンは言葉に詰まった。
「ケイティ、あなた――」
 ケイティがぼろぼろと涙を零し始めた、エレンの胸に抱き着いて嗚咽を繰り
返す、エレンは彼女の体温を胸に感じながら自分の拙い演技など、少女に見抜
かれるレベルのものだったのだ、とどうでもいいことを考えていた。
「ケイティ」
「ん……」
 二人は車の外を出た、振り向けばローマの街は未だ炎に包まれ、時折建物の
崩落する音が哀しげに木霊する。
 とは言え、二人が居る此処はまだローマであると同時に、ローマから遠く離
れてもいる。言うなれば境の部分であり、ここにあるのは観光にもならない寂
れた地下墓地のみだ。
 元々、玲二と緊急の際の落ち合い場所として選んだところだ、人など来るは
ずもない。
「ここに隠れてなさい。それから……これ」
 エレンは迷った末に、銀刃のナイフを手渡した。恐る恐ると言った様子でケ
イティはそれを受け取る、ナイフの重みと恐いくらいの綺麗さに彼女は怯えた。
「落ち着いて……大丈夫、刃に触らなければ怪我はしないんだから」
 エレンはそう言って、ナイフを鞘に納めた。
「いい? 何度も繰り返すけど、いざという時にしか使っちゃ駄目よ。
 もし見つかったら全力で逃げなさい。それでもどうしようもなくなった時だ
け、これを使いなさい。いいわね?」
 ケイティは頷いた。利発な娘だ、と思う。もし妹がいたら、こんな娘だと良
かったかもしれない。エレンは彼女の頭を撫でながらそういう考えを浮かべて
しまっていた。
「ナイフを使うときは、絶対に両手で持って……片手は危ないから。
 両手でしっかり握って、躰ごとぶつかるように刺さなきゃ――」
 ケイティが震えている。やはり恐いのだろう、だが何よりも――彼女はまだ
悪意というものに触れてはいない。純粋で残酷な悪意というものに。
 だから、人を傷つけるということを恐れているのだ。何かを傷つけて、踏み
越えて生きていかなくてはならない、ということを知るにはあまりに早すぎ、
そしてあまりに幸福に暮らしてきたのだろう。
 教えたくはない、だが生き残るためにはそれを知らなければならない。世の
中には、人間を、無抵抗な人間を笑いながら殺せる怪物がいる、ということを。
「ケイティ、あいつらにごめんなさい、って謝っても駄目なの。あいつらは酷
く邪悪で、あなたを殺すことに全然心が痛まないの。……だから、戦わなきゃ
駄目よ、絶対に戦わなきゃ駄目。……いい?」
 ケイティは震えながら何度も首を縦に振った。分かっている、自分もそして
目の前の少女も、吸血鬼が本気で襲い掛かってきたら彼女を殺すのに一秒あれ
ば充分なのだ、いやもっと悪いかもしれない、最悪――弄ばれる、という可能
性だって存在する、充分に。
 唐突にエレンはケイティを抱き寄せる、顔をくしゃくしゃにして、涙が出て
きそうになるのを必死で堪える。ふと、ケイティが――エレンも震えているこ
とに気付いた。
「ごめんね……一緒にいてあげられなくて、ごめんね……戻ってきたら――な
んでもしてあげるから――!」
「アイスクリームちょうだい」
「……え?」
 ニッ、と数時間ぶりに少女は屈託無い、そしてあどけない笑みを見せた。あ
あ、本当に幸福に生きてきた人間というのは、笑顔だけで人を幸せな気分にで
きるのだな――と、エレンはその時思った。
 無理矢理笑顔を作る、作りものではない、本当の笑顔を目指して。
「任せてちょうだい。お腹を壊して嫌になるくらいまで、沢山買ってあげるか
らね!」
 本当に無理矢理だけど、頬の筋肉が引き攣り、自分でも不自然なくらいの変
な表情だと思うけど、上手くいったとエレンは思った。

「……じゃあ、行くわね」
「うん、いってらっしゃい……お姉ちゃん、あたし、ここで待ってるからね」
「朝になって来なかったら、あなたはローマから離れ――」
「ううん」
 ケイティが初めて首を横に振った。エレンのその発言だけには絶対に従わな
い、断固拒否するつもりらしい。
「ここで待ってる。ずっと待ってるから、だからお兄ちゃんと一緒に――」
「ええ、玲二をあなたに紹介するわ。……きっと、ケイティのことを好きにな
ってくれる人だから」
 車に乗り込む。窓越しにケイティが映る。彼女の切ない瞳に別れが惜しくな
る。……いや、まだ別れではない。単に距離を取るだけだ。自分と、そして玲
二も必ずここへ戻る、戻らせてみせる。
 車を発進させる。向かう先は決まっていた。吾妻玲二と、それからサイスの
二人が殺し合っている場所へ。そしてエレンはこう思う。
 ――さあ、もう一度暗殺者に戻ろう。捨てたはずの技術を取り戻そう、捨て
たはずの昏い殺意も取り戻そう。
 懺悔は後に。
 罪の償いも後に。
 エレンは考える、主が全てを赦してくれるとは思わないし、赦してもらいた
くもないけれど――少なくともこの技術を用いて吾妻玲二を救うことだけは、
主も赦してくださるはずだ。赦してもらわなくてもいい、地獄に堕ちても構わ
ない。でも、どうか。
 ――私の大切な人達を、殺さないで。

 アクセルを踏み込む、車が加速する。


                ***


 建物の中を、それこそ呼吸をすることも忘れて走り抜ける。だが、不思議と
疲労は感じなかった、脳内麻薬が大量に分泌されているせいかもしれない。少
なくとも、あと四十二キロだって走ることができそうだ。
 だが背後から執拗に――そのくせ、明らかに手を抜いている――追いかけて
くるサイスもまた、四十二キロどころか何百キロだって走り続けることができ
るだろう、だから体力勝負をするつもりはさらさらない。
 一方で、玲二は接近戦をするつもりも全くなかった。シエルが言っていた、
人間が吸血鬼との接近戦を行う、それは即ち“死”と同義だと。素手での殺戮
にかけては、吸血鬼は生まれついての素質を持つ、生まれついての殺し屋なの
だ。
 そして玲二は今は夜で、吸血鬼の能力が最大限に発揮することができ、あま
りに距離を空けると弾丸すら避けることができる、ということもよく理解して
いた。
 だから、遠すぎもせず、近すぎもせず、そういった間合いを創らなければな
らない、となると道路のようなだだっ広い場所はまず戦闘領域しては消去され
る。次に建物の廊下も同じ理由で消去される。となると、残るは建物の部屋の
中ということになる、そしてサイスが一瞬でも足を踏み入れることに躊躇する
ような状態でなければならない。
 だが玲二には有利な点があった。それはサイスの性格を知り尽くしていると
いうこと。サイスは吸血鬼ならではの無謀さと残虐さを発揮して、ある一定下
の条件にその身を置けば、恐らく自分の思った通りに動いてくれるはずだ。

 玲二のチャンスは一度きり、そしてサイスが自分を殺すチャンスは――百回
程はあるだろう、いやもっとかも。今の玲二はかつて自分を信じさせるために
グロックの弾丸をただ一発だけ持つことで戦ったあの時よりさらに、不味い状
況に陥っていると言えた。
 だが一つだけ違うことがある。
 これまでどんな理由があるにせよ、殺すことを正当化することはできなかっ
たが――例え法で認められている正当防衛であろうとも――サイスを殺すこと
だけは、自分の心の中の感情全てが“正しい”と後押ししてくれていた。
 思えば、アメリカで出会い、日本で出会い、そして今、ここイタリアで三度
目の邂逅を果たし、しかもいずれも最終的にはこうして殺し合う。
 酷く厭な考えだが、それはまさしくサイスと玲二の運命と言えるものなのか
もしれなかった。だが、アメリカの時はあと一歩まで追い詰めながら彼を殺す
には至らず、日本のときは自分以外の者が決着をつけてしまった。だから、こ
のローマでは玲二が自分自身でサイスとの蹴りをつけておきたい、そう玲二は
思っていた。


 一か八か、飛び込んだとあるアパートの四階の部屋はまさにお誂え向きとで
も言うべきところだった。雑然と積み重ねられたガラクタ、窓の外は手すりも
ベランダも存在せず、ただ隣のアパートが見えるだけ、そしてここは地上四階。
 逃げ出すこともできず、反射的に安全な場所に隠れようとしただけの小鼠。
 サイスはまさにそう思っているだろう、玲二は彼のほくそ笑む様子が目に見
えるようだった。だが、そうなった時のサイスが取る行動、それは分かりきっ
ていた。
 予想通り、サイスは部屋に飛び込んで来ない。ここが行き止まりだというこ
とを知っている、だがそれ故に死に物狂いの反撃を警戒して踏み止まる。だが、
それも三分から五分がギリギリというところだろう、それ以上の時間を与える
と、恐らくサイスはこちらの意図に気付いてしまう。
 雑然としたガラクタを放り投げて、ドアの前にやわなバリケードを作る。と
言ってもそれは表向きで、本当は今から行うことに気付かれにくい状況を作る
ためだ。
 真昼間の大混乱の最中、玲二は襲い掛かってきた吸血鬼を辛くも撃退したと
きにあるささやかな贈り物を手に入れた。M18クレイモア――対人指向性地
雷。
 これをまず、ガラクタに紛れ込ませて、テーブルに縛り付けた。足元では駄
目だ、玲二は迷った末、動かなくなっていた大型の置時計に目を留めた。古時
計の一生を語ったあの歌をこんな時に思い出した。
 そこにワイヤーを縛りつける、古時計は部屋の右隅に置いてあったのをその
ままにしておく。つまり、クレイモアは部屋右隅から部屋全体に向かってベア
リングを放出することになる。
 もちろん、それでは玲二は死ぬ(おまけにもちろんサイスは生き残る――ク
レイモア程度でどうにかなるようなレベルの生物ではない)。だから、玲二は
いかにしてこの部屋から出るか、それが重要だ。
 そして最後にあらかじめ窓を開けておく、さあ――準備は終わった。あとは、
自分の演技力の問題だ。
 息を吸う。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 悲鳴をあげながらデザートイーグルを乱射する。弾切れ、弾倉を入れ替え、
再度撃つ。一度撃つたびに全身が恐怖で粟立つ。無駄弾を使う、というのはと
ても辛い行為だった。どんどん自分の身の安全が削られていく。
 三度目の弾倉を入れ替える瞬間だった。
「来るなぁ!!」
 そう言いながら、素早く新しい弾倉から一発だけ弾丸を抜き取り、それを胸
ポケットに差し込む。恐らくコンマ何秒か、というほどの早業。さすがにサイ
スと言えども、ドア越しからでは今の行動に気付くはずもない。
 ガチッ、という音が弾丸を切れたという事実をサイスと玲二に知らせた。サ
イスがドアをノックする。
「ツヴァイ、どうしたのかね。ファントムともあろうものが、そんなに怯え切
って」
 ――よし、予想通り。相手はこちらを舐めてかかっている。
 玲二は沈黙を護る。ドアが開こうとしてガラクタのバリケードにつっかえた。
「ふむ」
 サイスは吸血鬼の怪力で、苦もなくバリケードを吹っ飛ばした。より効果的
に恐がらせるように、サイスはゆっくりと部屋の中央に足を進める。秒針がカ
チカチと音を立てるでもないクレイモアにはとうとう気付かなかった。
 もう少し注意を凝らして、玲二を観察すれば背中に回した左手に持ったケー
ブルが床を這い回って大きなのっぽの古時計に到達していることが分かっただ
ろうに。
 だが、得意絶頂のサイスは――とうとうツヴァイが恐慌を来たしたのだ、と
信じ込み、右手の弾丸が切れたデザートイーグルにだけ注意を払っていた。
「残念だよ、ツヴァイ。こんな形でお別れとは、本当に辛い」
「……」
 気圧されたように、玲二がゆっくりと開いた窓のところまで後退る。その様
子に――というよりは、開いている窓に初めてサイスの顔が不審を帯びた。
「ツヴァイ、貴様――」
 デザートイーグルの遊底を口に咥え、空いた右手で窓のへりを掴み、自分の
躰を持ち上げながら、左手のケーブルを引っ張った。サイスはケーブルを目で
追った、崩れるガラクタ、その中に、ケーブルの先に、スイッチが、
「――」
 逃げようと足が動く前に、部屋中を直径1.2mmのベアリング球が飛翔し、
サイスの躰をズタズタに引き裂いた。


 ここまでは上手くいった、と窓にしがみつきながら玲二は思う。だが、吸血
鬼というものはなかなかしぶとい、ということを彼はよく理解している。
 だから、不用意にまた窓から戻ろうとは思わなかった。それに――吾妻玲二
の躰が、脳が、全会一致でこう囁きかけている。
 ――サイスはまだ生きている。
 そしてもちろんサイスは生きていた。生きてはいたが、怒り狂っていた。躰
を吹き飛ばされた痛みは限りなくリアルで、限りなく激しかった。激痛は悲鳴
を呼び起こし、悲鳴は鼓膜を振るわせ、聴覚はそれを屈辱の悲鳴と認識した。
 窓の外を見る、ここは四階だ。だが、ゆっくりと動けば人間でも降りられる
かもしれない。だが、
 ――そうはさせるものか!
「ツヴァァァァッァァァァイ!」
 抉り取られた右目及びこそげ取られた脳味噌を手で抑え、吹き飛んだ両脚を
手で掴んで、一歩一歩ゆっくりと窓に近付いていく。
 躰の修復は既に始まっている、吾妻玲二の匂いは既に脳に叩きこんでいる、
例え一キロ離れても見つける自信があった。
「近いぞぉぉ、ツヴァァイ、お前、まだ、近くにいるなァァァッァ」
 サイスは窓から顔を出し、玲二の姿が目に見えないか確認する。居るぞ、と
すぐにサイスは実感して分かる。そう、すぐ近くに居る。匂いが近いのだ。ま
るで、すぐ傍にいるように――。


 すぐ、


「目を開けてよく見ろ、サイス」


 近くに。


「うえ――」
 サイスは振り向いた、窓の上縁に逆立ちしながら掴まっている吾妻玲二がそ
こに居た。たった一発だけ残っていた弾丸は既にデザートイーグルに装填され
ている、どんなにサイスが素早くとも、この距離では避けようがなく、この距
離では外しようがない。
 そして、吾妻玲二は引金を引くだけの単純極まりない動作を誤ることもなく。
 脳天に銀製の銃弾を撃ち込まれた瞬間、サイスはこのまま地面から落下する
と“彼女”達が危ないな、と考えながら墜ちていった。

 サイスの崩れかけの半身がぐしゃり、という音を立てて落下するのをきっち
り見届けて、玲二はようやく全身の緊張を解いた。ゆっくりと重力に逆らう姿
勢を崩し、脇の緊急用避難梯子に手をかけて、一歩一歩地面に近づいていく。
 懐かしの地面に降り立つ。今の玲二に、常に頼もしいパートナーであった銃
はない、肝心の弾丸がなければ銃など無用の器物だ。せいぜいハッタリくらい
にしか使えまい。
 サイスの躰は、その半ばをゴミ回収用の木箱に突っ込まれていた。何という
見事な神の配剤、相応しい場所じゃあないか――玲二は薄氷のような笑いを見
せた。
 ぽつりぽつりと雨が降り出した、闇が一層色濃くなる。星や月すらも姿を隠
す。玲二はサイスの止めを刺そうと、木箱を形成している板を蹴り壊して、簡
易な杭を作り出した。
 ――何か言うべきなのだろうか?
 杭を振り上げながら、玲二は考える。だが所詮自分は無神論者であり、さら
に言ってしまえば間違ってもこのサイスという男を安らかな天国に連れて行く
つもりも全くない。
 だから、こう云う。
「あばよ、サイス。お前は先に地獄に行け」
 杭を振りかぶってサイスの心臓に叩きつけようとした瞬間、ぎょろりとサイ
スの目が見開いた。杭が心臓に達するギリギリのところで、生き残っていた腕
が杭を掴む。
「くそ、しまっ――」
「――あまりこの私を舐めるな」
 杭ごと玲二の躰を持ち上げ、無造作に放り投げた。壁に叩きつけられ、内臓
と肋骨がこっぴどく痛めつけられる、肋骨の何本かは簡単にヘシ折れてしまっ
たようだ。
 血を吐いた。奇跡的に頭だけは無事だったようだ。だが、頭が無事でも他の
機能がイカれてしまっては、弾の切れた拳銃と同じく役立たず。
 景色が掠れる、痛みは去ったが代わりに絶望的なくらいの眠気が玲二の頭に
混入してきた。だが玲二は唇を食いちぎるくらいに噛んで、死神の姿を見極め
ようとする。
 サイスが腕を振り上げ――玲二はよろよろと、泥酔したような足取りで、壁
から身を離した。地面に転がる、サイスの拳はアパートの壁を簡単に破壊した。
 冷たい雨が躰を芯から冷えさせ、玲二の気力をどんどん削ぎ取って行く。こ
のまま眠ることができればどんなにか楽だろうか? そんな想いがふと頭をよ
ぎる。
 その気弱な心情がサイスにも伝わったのか、彼は再び余裕を取り戻した。既
に躰の修復は半ばまで終了している。このままでももちろん彼は玲二を嬲り尽
くすことができる。
「やられたよ、随分と」
 冷静になると、サイスは玲二に賞賛の言葉を贈っていた。
「全く、私としたことが――単純極まりないトラップに二度も引っかかるとは。
 吸血鬼となる、ということはこういう事なのだな……自重せねば」
「――」
 呼吸が緩やかになる、駄目だ、と玲二の脳が叱咤する。思い切り息を吸え、
思い切り息を吐け、両足に力を篭めろ、このままでは間違いなく肉体が殺され
る。
 駄目だ、と玲二は心が砕けそうになる。力が入らないのだ。
 ――よし、脚が駄目ならまずは喋れ。時間を稼ぐんだ。
「な……んで……」
 ようやく、ともすれば雨音に掻き消されそうなくらいの小声で玲二はそう疑
問の声を発した。
「なぜ? ……ああ、なぜ、私が生きているか、かね?」
 その通りだ、この疑問を解消しなくては。確かに、銀の弾丸で頭を貫いたは
ずなのに。サイスはああして元気に動いているのか?
「ふむ……確かに私とて、銀の弾丸をある程度受ければ――あるいは眉間なら
一発で――死ぬさ、だがな、ククッ、私は、フフフ、それを……克服したのだ
よ」
 バカな、と玲二は思う。法則は絶対だ、頭を撃ち抜かれて生きている人間は
いないように、頭を銀の弾丸で撃ち抜かれて死なない吸血鬼なんて――。
 そういう言葉を何とか紡ごうとする、だがサイスが服を脱ぎ捨てるのを見て、
顔をしかめた。上半身を剥き出しにする、一瞬、玲二はサイスがそれこそ狂っ
たのかと思った。
 雨は一層激しくなる、お陰でサイスの姿などシルエット程度にしか視ること
ができない。
 もぞり、とサイスのシルエットが動いた。
「な――」
 玲二の眠気も吹き飛んだ。あれほど重たかった瞼が、羽毛のように軽い。サ
イスの肉体が徐々に膨れ上がっていく、まるで表皮の裏側を何かが疾走し、跳
ねているように。変身? そうだ、サイスは変身している――!

 そして、哀しい歌が奏でられ始める。

 雨はますます激しくなる、サイスの姿が薄れていく。だが、玲二は見たいと
思った、サイスの変化をもっと見たいと思った。
 同時に、玲二の胸の中で赤黒いものが蘇る。どろどろとした溶岩を胃に吐く
巨大な蛇。
 果たして、サイスは玲二の願いを叶えるかのようにゆっくりと歩み寄った。
 醜く筋肉質に膨れ上がった巨躯、だがそんな事は問題ではない。
 まるで恐竜のような顔、そして鋭く唇の外から覗く牙、だがそんな事は問題
ではない。
 知性の欠片もないような紅い瞳? それも問題ではない。
 一番の、一番の問題は――。
 彼の上半身に纏わりついた“顔”の数々だった。
 多くは見知らぬ顔だ――そして人種も性別も年齢もバラバラだ。老人、少女、
赤ん坊、父親、母親、若者、しかし、共通している点がある。それらのどれも
が悲鳴をあげていた。絶叫する者、嗚咽する者、呷く者、血の涙を流す者、ど
れも、これもが。
「あ……な……ん……」
 膝を突いたまま、玲二はその光景を呆然と眺めていた。
 瞳は見開いたまま、閉じることすら忘れ。
 ただ、呆然と眺めていた。
「驚いたかね?」
 サイスがそれはもう愉快そうに、自分の躰を見せつける。
「吸血鬼となった私の特色がこれだ――私は血を吸わない、代わりに人体その
ものを吸い取る、こういう風に!」
 悲鳴が一層激しくなる。
「私は人を一体吸い尽くすごとに、力を増す。際限なく、際限なく、際限なく。
 全てはカインのお陰だ――」
「……カイン?」
「そう、我々吸血鬼の神、カイン! 彼はまもなくヴァチカンに降臨する!
 ダンピィルの少女――モーラを生贄に捧げることで」
「え――?」
 驚愕した。わずかな間、共に戦った少女の名前が、突然サイスの口から飛び
出した。
「モーラ……を…だと…………?」
 たっぷりの沈黙。
 不思議そうにサイスが問い掛ける。
「おや、ツヴァイの知り合いだったのかね? ……ふむ、運命とは何とも奇々
怪々なものだ。……ああ、ということはアインもモーラという少女と知り合い
なのか、それは――また何とも愉快」
 ドクン。
 蛇は溶岩を吐き出し続ける、腹に溜まっていた熱いものが全身に浸透する。
 既に玲二は雨の冷たさなどまるで感じなくなっていた。
 だが、その様子にサイスが気付くことはない。
「そうだ、ツヴァイ。彼女達を覚えているかね?」
 まるでゴムのようにサイスの表皮に貼り付いている顔が移動する。玲二は―
―その時、過去の亡霊(ファントム)を視た。
 彼女達は、それこそモーラ以上に短い、まさに刹那の付き合いだった。だが
彼女達のことはよく覚えている、その顔を、その表情を、その身のこなしを。
 かつて、日本で玲二やエレンと激闘を繰り広げた――。
「キャルの…次の……………………ファントム達……」
 ツァーレンシュベスタン。かつてサイスが人として創り上げた最高傑作の人
形達。だが、玲二とエレン、そしてキャルは少なくとも彼女達を人間として殺
したはずだった。だのに。
「生きてはいない、だがせっかく創り上げた人形を捨てるのは勿体無いじゃな
いか――ほら、脳は死んでいても、こういう風に鳴くことはできる。
 魂が残存しているからな、彼女達は未だ私のモノなのだよ」
 サイスはその中の一人――短髪の少女の眼球を抉った、耳を抑えたくなるよ
うな、余りにも悲痛な叫び。だのに、サイスは執拗に眼球を抉り続けた。涙に
血が混じり、地面に滴り落ちる。だがそれはあっという間に雨に濡れて消えて
いく。
「……」
 ざあ、と雨は一層激しさを増す。ふと、サイスが玲二の気配が先ほどと異な
り始めていることに気付いた。おかしい、なぜだ、そういう疑問が頭を支配す
る。もっともサイスは動じてはいない。どうせ鼠が猫に変化しても、狼に喰い
殺されることに変わりはないのだから。
 玲二がゆらりと立ち上がった。分かった、モーラの言っていることが確かに
理解できた、サイスは余りに歪みすぎている。余りに――哀れだ。哀れで、そ
して腹立たしい。
「サイス」
 優しいくらいの呼びかけ。


 その瞬間、サイスは恐らく三度殺され、躰中に白木の杭を打ちつけられた。


 は、と気付く。慌てて両手で全身をまさぐる、傷ついてない、どこも、何も
傷ついてはいない。だが、今の、余りにも鮮烈なイメージは、一体――?
「キサマ、今、ナニを――」
 雨。
 顔を伏せた玲二の表情は、サイスの目に映らない。ゆっくりと、玲二が顔を
起こす。そしてそれから、不思議そうに玲二は自分の唇を撫でた。
 ――ああ、今更ながら気付いた。もしかしたら誰でも知っているのだろうか?
 ――それともたった今、生まれて初めてのコトなのだろうか?
 できれば、エレンや、それからキャルには余り知られたくないな――と、玲
二は思う。
「殺す」
 ――俺は、本当に切れた時、嗤うらしい。


 玲二は真っ直ぐサイスに突っ込んだ、一瞬、ほんの一瞬だけサイスが怯んだ。
 スライディングで、濡れた地面を滑るようにサイスに突っ込む。足を軽く蹴
った、サイスは慌てて掴もうとする。が、それより速く、玲二はサイスの腰の
ホルスターから、トンプソン・コンテンダーを抜き取っていた。
 そればかりか、もう片方の手でベルトカートホルダーまで。
「こぉの――」
 中折れさせたトンプソン・コンテンダーに弾丸を装填。サイスに背中を向け
て、アパートの狭い路地に突っ込む。当然、サイスは後を追う。玲二はダン、
と壁に蹴りを叩きつけて、くるりと回転するとトンプソン・コンテンダーをサ
イスの眉間に命中させていた。
 ベルトカートホルダーに掌を叩きつけ、浮遊する次弾をトンプソン・コンテ
ンダーに装填。ベルトカートホルダーを肩にかけて走り出す、地面に落ちてい
た木片を拾い上げ、眉間に銃弾を撃ち込まれ、未だ上半身を仰け反らせたまま
のサイスに向けて。
 翔んだ。

 吸血鬼との近接戦闘は死を意味する。

 ――そうだ、死を意味する。ならば死を踏破しよう、今まで何度もやってき
たことじゃないか、死ぬかもしれない、ということなんて。
 ギラリ、と凶暴な光が玲二の瞳に宿る。嗤いは未だ収まらず、そのままサイ
スの上半身に組みついて、トンプソン・コンテンダーを口の中に突っ込んで躊
躇することなく、引金を引いた。
 さらに追い打つ、握り締めた木片を、咽喉へ。
 ふわり、と再び玲二が舞った。
 大地を踏み締める。肩に掛けたベルトから、弾丸を二つ引き抜く。一つは空
薬莢を放り捨てたトンプソン・コンテンダーへ。もう一つは自分の口へ。
 歯で弾丸を噛む。真鍮の感触は不快ではなかった。

 ゆっくりとトンプソン・コンテンダーで狙いをつける。静止。もがいていた
サイスが、ようやく目の修復を完成させ、玲二を睨んだ。殺意を篭める。想像
を越えるくらい残虐な方法で殺してやろうと囁く。
 だのに。玲二は全く臆さない。
 雨が、ポツリポツリと、次第に勢力を弱め始めた。にわか雨だったようだ―
―と玲二は空を見上げて思った。
 サイスの巨躯が酷くゆっくりとこちらに突撃してくる。玲二はサイスが何を
しようとするのか簡単に読み取り、躰を巨躯の死角――懐へズラすと、脇から
心臓を狙い、トンプソン・コンテンダーを撃つ。
 脇から貫通した弾丸は、心臓に辿り着く直前で吸血鬼の再生能力に押し留め
られた。肘を振り上げる、狙いを看破した玲二はギリギリで飛んだ。背中に肘
が掠り、服が裂け、表皮が削ぎ取られる。
 それでも致命傷とは言い難い。背中から血が出ているだけで、心臓は激しく
血液を循環させ、両手両足、指に至るまで全て動き、意識もクリアだ――考え
ることはただ一つ、どうやって彼を殺すか、どうやって彼の攻撃を避けるか。
 戦闘に不要な思考は片隅に追いやった、不要な躊躇いはあの男へは元から存
在しない。
 だが、


 ――どうする?


 玲二がそう考えた時。けたたましいブレーキ音が遠くから響いた。
 ブレーキ音。
 車の。鈍重そうな格好をしたあの車のブレーキ音。直感でそう理解する。
 サイスは――怒りに狂っていて、ブレーキ音に全く気付いておらず、玲二だ
けがそのブレーキ音に衝撃を受け、次に喜びを感じた。
 ――馬鹿、野郎。
 嗤いが消える。微笑が浮かぶ。それはとても嬉しくて。泣きたくなるくらい。


 エンジン音が近付くにつれ、ようやくサイスも理解した。ここに誰かが来る。
 自分への明確な殺意を抱いて、自分への明確な敵意を抱いて。
 となると。
 彼女しかいない、彼女しか存在しない。
「さあ、サイス――」
 玲二が呼びかけて言う。
「正直に言って、今の俺はお前を殺し切れない。あの時のように。どうする?」
 ツヴァイの残酷な笑み、自分は絶対に許して貰えまい。たとえ、今から来る
のが彼女だとしても、誰だとしても。
 怯えて後ずさる。莫迦な、何を怯えて――。
「何を恐がってるんだ、サイス。たかだか応援が一人増えるだけ――だろ?
 それとも……また、あの時のように逃げるのか?」
 サイスはあの港での恐怖を思い出した、屈辱を思い出した、憎悪と絶望が入
り混じった、あの時の情景を思い出した。
 だが、今のサイスにはあの時になかった力がある。
 ――そうだ、その通りだ。恐れる必要はない。


 サイスは狂笑しながら玲二に躍りかかった。
 だが、サイスの思考は間違いである。人間の数を数えれば、玲二の言う通り、
それは間違いなく一人でしかない。だが、応援に駆けつけたもの、と考えるな
らば、正確には一人ではなく、一人と一台だ。そして、玲二にとっては一人と、
一台と、そして一丁だ。
 一丁。それが、玲二とサイスの運命の鍵を握っている。


 玲二は背中を向けて逃げる、黒い塊がライトで玲二とサイスを照らす。来た、
と彼等は同時に思った。
 タイヤが地面に擦れる音。真っ直ぐこちらに光が進み寄る。玲二も真っ直ぐ
にエレンの元へ。サイスが猛烈な勢いで追跡する、そして同じく猛烈な勢いで
車も突っ走る。ライトは徐々に大きくなり、サイスの爪が再び背中を捕らえよ
うと、しかし玲二は振り向きもせず、トンプソン・コンテンダーを撃つ、サイ
スの掌に穴が開く、一瞬の激痛、一瞬の怯み。

 エレンはブレーキを踏まなかった、玲二はエレンがブレーキを踏むことはな
いと信じていた。タイミングよく玲二が飛ぶ、背中をリムジンの鋼鉄製の天井
に強かに打ちつける、そのままごろごろと転がり、リムジンの後方から滑り落
ちた。
 サイスも真似するべきだったし、できるはずだったろう。だが、銃で撃たれ
た一瞬の驚愕が、タイミングを遅らせた。
 エレンの操るリムジンに、今までにない衝撃が疾った――足が車の下部に引
っかかったのか、転がってフロントガラスに叩きつけられるでもなく、サイス
の躰はそのまま車の前に押し出された。
 ハンドルを切る。
 壁に向かう。そのままアクセルを踏み込み、エレンは腕を交差させて顔面を
護った。車は見事に壁との間にサイスを挟んで激突した。最大級の衝撃――。
 バン、という音と共にハンドルからエアバッグが飛び出していた。

 エレンはエアバッグの圧力から何とか逃れると、少し曲がったドアを蹴破っ
て、何とか外に飛び出した。
「エレン!」
 玲二が駆け寄る。
 頭をぶつけた拍子に切ったらしく、こめかみから血が滴る。が、深手という
訳ではないようだ、頭を抑え、顔をほんの少ししかめているが、玲二の声と姿
を認めたらしく、すぐに走り出す。
 玲二の躰にエレンが絡みついた。背中に手を回し、力一杯抱き締める。玲二
はエレンの頭を、軽くぽん、と叩いた。
「……ありがとう、エレン」
「いいの」
 玲二はそっとエレンを躰から引き離す、そして車のトランクから運命の一丁
を取り出した。
 全てを終わらせるもの、全てに決着をつけるもの、全てに始まりをもたらす
もの。バーレットM82A1アンチマテリアルライフル。
 だが、これを使う前にやらなければならないことがある。
「エレン、コルトパイソンを貸してくれ。弾は銀だよな?」
 頷いて、コルトパイソンをエレンは玲二に手渡した。玲二は受け取るとサイ
スにゆっくりと近づいていく。エレンは、困惑した。なぜ近付こうとするのだ
ろう、吸血鬼の危険さは知っているだろうに。

 サイスは車と衝突したショックで背骨が真っ二つに折れ、背中から突き出し
ていた。さすがにこれでは治癒するまでに時間がかかるだろう。重さ一トンを
越える車体とコンクリートの壁にサンドイッチにされているのだ。おまけに、
コンクリートの中の鉄筋が、サイスの肉体に突き刺さっていた。
 普通は動けない――たとえ吸血鬼と言えども。
 しかし、サイスもまた普通の吸血鬼ではない。並外れた治癒能力、並外れた
筋力、そういうものが確かにある。だが――。
「サイス」
「キ……サマ………………」
 声に反応し、サイスが無理矢理躰を捻った。相対する。未だサイスの肉体の
“顔”たちは苦悶の声を止めようとしない。
 コルトパイソンを突きつけながら、玲二は――胸板に位置する少女達に優し
く語りかけた。
「今は――弾丸があまりないんだ、だから君達だけでも。
 ……ごめんな」
 コルトパイソンの弾丸は短髪の少女の顔の眉間にあたる部分に命中した。撃
たれた瞬間、途方もなく安らいだ顔をして、少女の顔は肉体から消えていく。
「ば……貴様! 止めろ…! ナ、ニを――」
 また一発。
「お前は命を弄びすぎだ」
 少女達は次々と安らいだ顔をして消えていく。
 コルトパイソンの弾丸を撃ち尽くす、六発の弾丸は六人の少女の眉間に命中、
彼女達を今度こそ安らかな世界へ連れて行ったらしい。
 もちろん、その弾丸はサイスの肉体にもダメージを与えていた。それでも彼
は死なない。ゴキブリのようにしぶとい、と玲二は思った。
 玲二は、エレンにコルトパイソンを返却するとゆっくりと車とサイスから遠
ざかる。エレンは後を追った。
 五十メートルほど離れただろうか。玲二はサイスと車の方向を向いた。
 車がもぞり、と動いた。まだサイスは生きている。必死に生にしがみつこう
としている。弾倉を一旦外して弾丸を確認、エレンがわずかに焦るほどその動
作はのんびりしていた。
 だが、エレンは口を出すようなことはしない。玲二を信頼している。それで
もその行動には疑問を抱いたけれど。
 弾倉を装填、安全装置を解除、それから――。

 サイスは必死だった。背骨はくっつきつつある、腕も動くようになってきた。
 態勢が苦しい。鉄筋に刺さった痛みも収まらない、だが、もたもたしている
と、間違いなく自分は止めを刺される。ばたばたと滑稽なほど腕をばたつかせ
る、後ろ手に車をわずかにずらした。躰を何とか捻って――また、激痛――捻
って、捻って、捻って――よし、車の正面にきた。背骨も大部分治癒しつつあ
る。鉄筋は鬱陶しいが、今すぐ死ぬわけではない。
 後は、この車を持ち上げ、放り捨てるだけだ。両腕に最大の力を篭める、車
がズレる、ゆっくりと前輪が浮いた。そのまま腕を前に押し出す。重さ一トン
の車が、後方にどんどんズレていく。
 そして自分の肉体のスペースが充分に空いたのを見計らい、肩や脇腹に刺さ
った鉄筋を引き抜く。痛かった、が、抜きさえすればそれはただの傷口だ。い
ずれは治癒されるだろう。
 安堵の息をつく。

 そんなサイスに12.7mmの弾丸を避ける術など、あろうはずもない。右
肩に激痛、右腕に激痛、顔面に、脇腹に、太腿に。
「ガッ! ……げ、ぐ、ぇ!」
 絶叫した、先ほどサイスが嘲笑った少女達のように、苦悶の悲鳴をあげた。
 馬鹿な、と思考が混乱する。じたばたと手足をばたつかせようとする、しか
し千切れていてはそれもままならず、やがてその思考も脳味噌を吹き飛ばされ
たところで停止した。
 そして、ライフルの最後の一発は心臓を完全にズタズタにした。今やサイス
はただの肉塊と成り果てている。しかし、肉塊ならば、いずれは再び元に戻る
だろう。
 ――やるしかない。心臓がずたずたになっている、今しかない。
 玲二は看板に目を留めた、正確に言うと、看板を地面に刺すために使われて
いる杭。看板を引っこ抜いて杭だけを外し、サイスの元へ向かう。
 エレンは、サイスの変化を見て息を呑んだ。頭を吹き飛ばされ、右腕を引き
千切られ、太腿は弾丸で抉られている、そして胸板には黒い孔。しかし、それ
でもまだ顎は動き、咽喉からは空気を吸う音が聞こえる。
 生きているのだ。必死に、哀れになるくらい。
 玲二はエレンに見ないように言おうとして、止めた。彼女も、俺も、そして
できればキャルも――見なければならなかったのだ、この光景は。
 もう、サイスを憎んではいない。止めを刺すのは、憎しみからではなく、哀
れみからだ、玲二は大きく杭を振りかぶる。
 何か言おうと思ったが、言う前に勝手に躰が動いた。ずぶり、頑強で杭など
ヘシ折られそうだった胸板は弾丸で抉られていた、だから杭は簡単に心臓を貫
いた。
 サイスは瞬時に灰になる。呆気ないほどだった、呆気ないくらい終わってし
まった。玲二は両膝を突いたまま、ふと気付いて天を見上げる。







 雨は――既に止んでいた。











                           to be continued






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