I saw that was a way to hell, even from the gates of heaven.
(私は、地獄に至る道があるのを見た。それは天国の門からず
っと続いていた)
                ジョンバニアン「天路歴程」
















 ――式が始まろうとしている。
 ――宴が始まろうとしている。
 ――祭が始まろうとしている。
 ――終が始まろうとしている。





 つまり、結末が迫っている。





 ナハツェーラーの過度なまでに大袈裟な衣装を見て、ウピエルは思わず噴き
出していた。呼吸困難になるほど笑い転げる、おまけに涙まで流していた。
「似合うじゃねぇか、ナハツェーラー!」
 これにはさすがのナハツェーラーも気分を悪くしたようで、ウピエルを睨み
付ける。神を降臨させる儀式の長を務める役割を果たさなければならない彼は、
普段の貴族のような服ではなく、カトリックの儀礼式用の服のような――ただ
し、色は全て黒で統一されているが――司祭の服だ。
「言うな。これも神に仕える司祭の務め、というやつさ。馬鹿馬鹿しいとは思
わないこともないがな、万が一服装が違うから、ということで儀式が失敗に終
わっては笑い話にもならんでな」
「その胡散臭ェ予言書とやらに、そこまで書いてあったのかい?」
 ナハツェーラーはため息をついた。
「書いてあったのだよ、全く――。
 だがウピエル、胡散臭いとはなかなか酷いな、我々が蘇ったのもこの予言書
あればこそなのだぞ?」
「頼んだ覚えはないね」
「だが蘇ろうとする“意志”はあっただろう?」
 ウピエルは、ぷいとそっぽを向いた。痛いところを突かれたのだ。その通り、
彼にはまだまだやりたいことが山ほどあり、この現世に蘇ったのは、まさに幸
運と呼べるものだった。
「まあな。その点に関しちゃそれなりに感謝しているぜ」
「私に感謝はしないのかね? 君を蘇生させるのを決定したのは――」
「ケッ」
 この図々しい言葉には、さすがにウピエルも唾を吐いた。恩着せがましくそ
うほざいているが、この男がただの善意で自分を蘇生させるとは間違っても思
っていない。
 体の良い手駒として使うために間違いあるまい。そして彼の期待通り、それ
なりに働いてやったのだから、こちらが感謝する筋合いなどどこにもない。
「まあいい、好きにやれよ。どうせ俺の役目はここまでだ。違うか?」
 肩を竦めてなげやりに言う。
「いや、お前の役割はもう一つあるさ。そしてそれはお前の願望に即したもの
だよ」
 ナハツェーラーは笑いながら近寄ると、ウピエルの肩を叩いた。
「暴れろ。存分に思い切り、な」
 ウピエルはナハツェーラーの真意を測ろうと瞳を覗き込む。
「……相手は?」
「誰でもいいさ。王立国教騎士団のアーカード、第十三課のアレクサンド・ア
ンデルセン、同じく第十三課のシエル、君の友人を打ち滅ぼしたディウォーカ
ーのブレイド……誰と殺し合っても構わん、好きにしたまえ」
 ウピエルが応じようとした瞬間、耳に当てていた小型無線機から雑音混じり
の声が入り込んだ。ナハツェーラーの耳にもわずかにその声が聞き取れた。
「――アレクサンド・アンデルセン」
 ああ、とナハツェーラーは嘆息した。もうウピエルは自分の言うことなどま
るで聞いてはないだろう、アンデルセンの名を聞いた瞬間から、彼の意識は途
方も無く素晴らしくなるであろう殺し合いに意識が向いている。
 蘇生してからはその傾向がますます強くなった。戦い、殺し合い、相手を凌
辱し尽くす、そのためだけにウピエルは生きているようだ。
 無線が切られる。だが、ウピエルはしばらく呆けたように虚空を見つめてい
た。ナハツェーラーが声をかけると、ウピエルはぼんやりとした様子で彼の方
を向いた。
「ん? ……ナハツェーラー、何の話をしていたっけ?」
 淡白な瞳――まるで肉食鮫が獲物を見て、どうやって食おうか――逃がすこ
となどまるで考えてない――そんな瞳だ。
 ぞわり、とナハツェーラーの背筋に冷たいものが疾った。と同時に嬉しくも
ある、やはりこの吸血鬼は別格だ――ネロ・カオスと同じ、あるいは自分と同
じ側の化物だ。
「いや、大したことではないさ。行きたまえ、ウピエル。
 ――アンデルセンと、殺し合いたいのだろう?」
「ああ、まあ、アンデルセンじゃなくても――」
 誰でもいいんだがな、そう言ってウピエルは部屋を出て行った。もしこの時
の彼を真正面から視る機会のあった者は、恐怖に凍りついただろう。血に染ま
った瞳、長く鋭く尖る牙、そして顔に貼りついてそのまま離れなくなったよう
な、残酷な嗤い。


「む」
「……ん?」
 ウピエルはナハツェーラーを一人残して部屋を出た途端、この間からどうも
やたらと関わり合ってしまっているネロ・カオスとすれ違った。
「……無線を聞いたのかね?」
 ネロが尋ねる。ウピエルは頷いた後、はっとネロを睨んだ。睨まれる覚えの
ないネロは当然困惑する。
「何か――」
「ネロ・カオス。手を出すんじゃねぇぞ」
 なるほど、とネロは苦笑いを浮かべた。どうやら相当昂ぶっているようだ。
 下手な口出しは彼への害としかなるまい……彼は笑うのを止めて、頷いた。
「そうしよう」
 ウピエルはそのままネロの横を通り過ぎようとして――止まった。
 獲物を取られない、と知った安心感からか思考が正常に動いたようだ。
「学者さんよ、アンタはこれからどうするんだい?」
「……そうだな、一度逢ってみたかった吸血鬼がいるのでね。
 ソレに逢いに行くことにする」
「敵かい?」
 ウピエルの問いに、ネロは無言で頷いた。
「ソレと邂逅する刻こそ、我が一生涯の問いに解答が見つかるのかもしれぬ。
いずれにせよ、私はソレを見てみたい――好奇心というやつさ」
 ああ、とウピエルは唐突に理解した。恐らくソレが何であるか、ウピエルは
分かった。もちろんそれも彼の獲物の一人ではあったが――眼前の厳しい修道
者のような禁欲的な表情には、それこそ自分も一歩足りとも引かぬ、という決
意が見てとれた。
 嘆息。
 自分はもう一方で我慢するべきなのだ、と悟った。
「いいぜ、そっちは譲ってやるよ」
「元より君のモノではあるまいに」
「違いねェ」
 視線が交わされる、ウピエルは嗤い、ネロは相変わらず無表情だ。だがしか
し、今この瞬間こそ二人がもっとも理解し合った瞬間だとも言えた。
「“私”は死ぬ」
 突然、ネロはそんなことを言った。ウピエルは頷いた――どういう意味だか
は分からないが、彼がそう言うのならば、きっと真実なのだろう。
 ネロは今から間違いなく世界最強の吸血殲鬼と殺し合う。もし彼を首尾よく
殺し、食い尽くすことができたならば“問い”に対する“解答”がきっと見つ
かるはずだ。そして恐らく同時に、表面張力でギリギリもっているコップの水
のようだったネロの人格は完全に決壊し、ただの混沌(カオス)と成り果てる
だろう。
 そうなれば次に出会ったとき、ネロ・カオス――という名であった混沌は、
ウピエルをただの栄養分としてしか認識できないだろう。
 また、運悪く――どうやるのかは彼自身にも分からないが――自分が敗北を
喫した場合も、当然死ぬことになる。つまり、いずれにせよアーカードと殺し
合うという考えを捨て去らない限り、自身が死ぬという事実は止めようがない
真実だった。
 しかし、いまさらそれを説明する気にもならない。説明したとて止められる
訳でもなく、何より止めることはないだろう。
「だからこれが今生の別れという訳だ」
 ネロは拳を突き出した。きょとんと差し出された腕を見つめていたウピエル
もニヤリと嗤い、軽く拳同士を突き合わせた。
「学者さんよ、アンタ割と気に入ったぜ……まあせいぜい食い殺されないよう
に気をつけな」
「君もだ。せいぜい銃剣に全身を貫かれんようにな」


                ***


 ウピエルは新しく造られたデスモドゥスに乗った。前のものとほぼデザイン
は変わらない――いや、ほんの少しだけ変化があるとすれば前輪を覆う“爪”
のデザインがより複雑化していることだろうか。
 スクリーミング・バンシーを背負い、デスモドゥスのエンジンをかける。エ
ンジンの調子はどうやら良好――いや、最高と言うべきだろう。デスモドゥス
の振動がたまらない快感だ、ギラギラとした兇悪な光がウピエルの瞳に灯る。
 ふと目の前でうろちょろ歩く吸血鬼達が、お誂え向きの実験体に見えた。
「――ククッ」
 含み嗤う、その笑いを聞いた吸血鬼が何人いただろうか? もっともいたと
しても、これからウピエルが何をしようか、ということまでは予想がつかなか
っただろう。
 ウピエルはクラッチを繋ぐと、デスモドゥスを弾丸のように発進させた。
 タイヤの擦れる金切り声とエンジンの咆哮音が、政府宮殿周辺に響き渡る。
 そのとき、たまたま一番近くにいた吸血鬼は何が起きたのかも分からない内
に、右脚を切断された。
 絶叫を響かせながら、その犠牲者は脚を抑えて転がった。
「あー……ア、アー!?」
 血飛沫が上がる、その濃厚な香りに即座に気付いた周りの吸血鬼が涎を垂ら
しかねない勢いで彼を見た。が、何が起きたかにもすぐに気付き、大慌てでそ
の場を逃げ出そうとする。
 だが、逃げ出そうとする吸血鬼を追い立てるように、縦横無尽にウピエルは
デスモドゥスを走らせた。ロックが聞こえる、ウピエルの頭の中でのみ虐殺と
殺戮の無上の喜びを現したような荘厳で過激な音楽が鳴り響いている。
 タイヤが擦れるたびに起こる焦げ臭さ、それに混じってデスモドゥスの爪か
らはこびりついた血の匂い。充実した一時をしばらく堪能した後、彼は吸血鬼
を追いまわすのを止めて、本来の目的に専念することにした。
 ウピエルの全身にはアドレナリンが駆け巡り、脳内で大量に生成されるエン
ドルフィンが彼の能力を限界まで引き出している。だがそれでもウピエルは絶
頂に達するまでにはいかなかった。絶頂に達するにはもっと素晴らしい体験が
必要だ。
 例えば比類なき力を持つ化物とギリギリの一線まで殺し合うとか。そいつの
首をもぎ取って滴る血液を啜る瞬間、それこそがウピエルが今まで経験したこ
とのないエクスタシーに達することができるのだろう。
 少なくともそうウピエルは信じている。そして恐らく、己の美学――醜悪な
までに美しい闘争――を追及することを自身の存在価値としている彼にとって、
それは紛れもなく正しいはずだ。
 デスモドゥスをローマに向けて走らせながら、ウピエルは新しいデスモドゥ
スの“仕掛”を試してみることにした。
 デスモドゥスを再び作り出す際に注文した唯一の事項。
 ――もっと凶悪で、苛烈な武器を。
 デスモドゥスの五本の爪が更に大きく広がった。重ねられたチタンブレード
がスプリング仕掛によって可変したのだ。その様子は、肉食獣がその大きな顎
を開いた光景に似ていた。
 最早前面のこれを爪(クロー)とは呼べないだろう、これは既に牙(ファン
グ)といってもよかった。愛すべきデスモドゥス、今度はもう少し大事に扱っ
てやるぜ。
 ウピエルはニヤリと笑いながら、ポンと車体を叩き、さらにデスモドゥスの
速度を上げた。
 目指す目的は今のところは――他に何か良い標的が見つかればいつでも鞍替
えするつもりだったが――アレクサンド・アンデルセン神父。
「待っていてくれよ、首斬判事。すぐ、追いつくからなァ!!」
 絶叫がローマにこだまする、それに呼応するかのように何処かの誰かが咆哮
した。


                ***


 ネロはウピエルと入れ違いに部屋に入った、ナハツェーラーは椅子に座り、
片肘を突いてニヤニヤ笑っている。
「なかなか感動的なシーンだったな」
 ナハツェーラーがそう言ってからかったが、ネロはその質問には黙殺した、
別段どうにも思わないし、伝えなければならないことの方が優先だった。
「ナハツェーラー、私は抜けるぞ」
 素っ気無い別れの一言。
 ナハツェーラーは意外に思っている、という風には全く感じさせずにさらり
と言った。
「……儀式は見ないのかね?」
「どうでもいい」
 ネロは本当に心の底からそう思っているようだった。ナハツェーラーは哀し
くてたまらない、という表情を浮かべた。
 ネロはふと思う、果たしてこの表情のどこまでがナハツェーラーの真実なの
だろうか。全部嘘なのか、一部は真実なのか。あるいはもしかしたら、それは
ナハツェーラー自身にも解けない問なのかもしれない。
「往くのか」
「うむ」
 ネロは背中を向けて歩き出そうとし――。
「ああ、そうだ。言い忘れるところだった」
 ともう一度ナハツェーラーの方に向き直った。
「長らく封印されていた禁断の書物、『吸血鬼展開法』……知っているかね?」
「いや、名前しか聞いたことがない。確か……ああ、あれは確か……」
 ナハツェーラーが首を傾げ、目を瞑り思考に耽る。ざらついた記憶の引出を
適当に引っ張り出す。
「そうか……確か大層性質の悪い吸血鬼が封印されているとか」
「ああ、調べてみたが確かに性質が悪い」
 ここに至って、今までのネロ・カオスの話にさして興味を示そうとしなかっ
たナハツェーラーが、初めて好奇心に満ちた表情を見せた。
「どんな吸血鬼だったのかね?」
「窓の外を見たまえ」
 ネロの言葉に、ナハツェーラーはまさか、と思いつつ窓の外を覗き込んだ。
「――ほぅ」
 そこには巨大な柩が七つ、そびえ立っていた。二階から下を見るナハツェー
ラーにすら感じられる妖気、恐らくあの柩を見張っていると思われるあの吸血
鬼達には大層堪えるものだろう。
 柩からあふれ出る気に当てられてよろよろと見張りの交替を懇願する吸血鬼
を見ながら、ナハツェーラーは肝心の中身を知りたいと思った。
「開かないのかね?」
「刻が来れば開くさ」
「刻?」
「刻、それから場、後は幾ばくかの血と争い。そうすれば自然に彼等も長い眠
りから覚醒するだろう。……シュラとはそういうものらしい」
 修羅――。
「それで結局、あの柩の中には、誰が眠っているのかね?」
「テンプル騎士団」
 さすがにナハツェーラーも笑うこともせず、本当に驚いた。少なくともそう
いう表情をネロに見せた。まあ、ネロとて吸血鬼展開法に封印されていた彼等
を発見した時はきっと似たような表情、似たような想いを抱いたのだと思う。
 テンプル騎士団。
 どの世界のどんな宗教にも存在する闇。
 中でもテンプル騎士団は十字軍の闇の結晶とでも言うべき存在だった。黒魔
術を信仰し、神もキリストも崇めず、それどころか十字架を踏みつける。
 彼等が唯一、神の如く慕っていたのは、他でもないバフォメットと呼ばれる
魔神だ。
 赤子を“使用”して黒ミサを行い、凌辱した村娘を切り刻み、聖職者に唾を
吐いて嘲り笑うという暴挙に継ぐ暴挙の末に第十三課によって完全に粛清。当
時テンプル騎士団のリーダー格であった七人の聖堂騎士は眼球を抉られた上で
生きたまま、火刑に処せられた。
 
 だが、ネロが解読した『吸血鬼展開法』には少々史実と異なる事実が記され
ていた。それによると件の七人の聖堂騎士は昼間でも常に鉄仮面と全身鎧に身
を包み、決して肌を晒そうとはしなかったらしい。そして、黒ミサに使ったと
いわれる赤子は常に血を吸われて死んでいたという。
「既にテンプル騎士団の長を務めていた頃から、七人は常にそういう習癖だっ
たらしい、つまり――」
「吸血鬼か……」
 ナハツェーラーは信じられない、という様子で首を横に振った。
「仮にも十字軍の騎士が、吸血鬼……今となっては信じられん話だな」
「当時のあの混乱を考えれば、あながち嘘だとも言えまい」
 なるほど、とナハツェーラーは呟いて再び窓の外を見た。外の柩は相変わら
ず周囲に異様な気を撒き散らしながら、不気味にそびえ立つ。
「好きに使うがいい、思い通りに動いてくれるという保証はないが、少なくと
も自分達を封印した第十三課を、カトリックについては確実に恨んでいるだろ
うから、な」
「礼を言っておくよ、ネロ・カオス。そして君、猛き混沌よ、先に君はこれか
ら『往く』と言っていたが、果たして何処に行くのかね?」
「何処、か――」
 ネロはしばらく考えあぐねた末、結論を告げた。
「混沌の闇、果つる先を視ることができる処まで――」
 ネロは部屋を出る、彼は二度と背後を振り返ることがなかった。混沌に過去
はなく、未来もない。否、一つだけ未来があるとすれば――。
「果つる先、か」
 ネロ・カオスは部屋を出る。彼の瞳に迷いは見受けられなかった。割れた窓
から冷たい風が吹き、黒のコートがはためく。外を見れば満月、青白いはずの
光が、ネロの目には何処となく赤黒いように思えた。
 しかしそれでも月は美しい。きっと同じ月を見ているあの化物もそう思って
いることだろう。あのアーカードも、月を陶然と見上げているのかもしれない。
 ネロは月を見るのを止めた。
 ――さあ、逢いに行こうではないか。私の“解”に。
 ネロ・カオスは二度と月を見ることもなく、背後を振り返ることもなかった。


 ナハツェーラーは再び椅子に座り、儀式の刻をじっと待つ。
 ウピエルも去った、ネロ・カオスも去った。別段この作戦完了までの支障に
は成り得ないが、一抹の寂しさが胸中をよぎる。寂しさ、というよりは虚しさ
に近いものがあった。恐らく今彼は、吸血鬼達の中で最高の権力を誇っている。
 アルクェイド・ブリュンスタッドと夜魔の森の女王すら彼の前に屈したのだ。
 だが最高の権力とは即ち孤高と同義。
 故に、ナハツェーラーはこの権力というものを疎んでいた。孤高など要らな
い、彼は誰かに服従していたかった。服従の下で権力を誇りたかった。
 そう、彼の親である真祖カーミラの下で。


 だがしかし、そんなことを考えるナハツェーラーの耳に、彼女――カーミラ
の声はついぞ届くことがなかった。
 ひところは一日置かずに届いていた声が、このところぱったりと途絶えつつ
ある、もしかしたらパワーが残り少ないのかもしれない。しかし焦る必要はな
いだろう、もうまもなく、力などいくらでも手に入るのだから。


                ***


 古めかしい置時計が針を左右に振り回しながら刻を進めていく。儀式の刻ま
で、ゆっくりと。
 ナハツェーラーは待つ。今更待つことなど苦にはならない、と思っていたが、
遅々としか動かない針の歩みを見ていると、時間という概念がこの世に存在し
ていたことを思い知らされた。
「――む?」
 足音。
 こちらに向かってゆっくりと、だが脚を引きずるように誰かがやってくる。
 儀式の刻まではまだまだ猶予がある、だがもしかしたら気が逸った吸血鬼が
自分をさっさと儀式の場所へ連れて行こうとしているのかもしれない。
 ドアがノックされる。
「ナハツェーラー……さ……ま……」
 ――おや、この声は。
 ナハツェーラーが入室を許可するよりも前にその男――七夜志貴が部屋に転
がりこんできた。
 その異形の姿を見て、ナハツェーラーは顔をしかめる。
「……どうしたのかね」
 彼は恐らくはベッドのシーツであろうものをズタズタに切り裂いて顔面をき
つく縛りつけ、眼鏡は外していた。腕からは血が滴っている、傷口から察する
にナイフのようなものでつけられた傷のようだ。恐らくは、腰のベルトに差し
ている木で拵えた鞘に収められた短刀によるものだろう。
 ――自傷?
 吸血鬼ならば自傷行為など珍しくもないものだが、彼はナハツェーラーの暗
示によって、とは言え人間である。ましてやナハツェーラーは自傷行為などと
いうような不要で危険なものを好む要素を彼の人格に与えてなどいない。
「儀式…の刻……が近付いている…のなら……オレ……もその、儀式に――出
して……下さい……」
 ところどころで言葉を発するのも苦しそうに口を抑える。蒼い瞳が憎悪に燃
えていた、と言ってもナハツェーラーを憎んでいる訳ではなさそうだ。
「なぜだね?」
 もちろん、彼は理由を尋ねる。別段儀式を見物させるくらいなら、いくらで
も構わないが、七夜志貴がここまで必死な理由は知っておきたいところだった。
「オレの頭の……中にいる…遠野…………志貴……、に…………トドメを……
刺して………………ヤル…………」
「ふむ」
 ナハツェーラーはしばし考えた後で頷いた。
「いいだろう、それで君の気が済むのならば、そうすればいい」
 七夜志貴の唇が歪んだ。笑っているのだろう。
「あり……が……とう……ございます……」
 頭を下げ、部屋から出て行った。
「狂ったか……まあ、既に用は無い。だが、直死の魔眼は惜しいな」
 彼を殺すのは簡単だろう、だが殺す必要は何処にも見受けられない。万が一
暴れ出したらその時はその時だ。
 ナハツェーラーはそう決定すると、七夜志貴の存在を頭から追い出した。

 部屋を出た途端、躰が一層重たくなった。頭痛は治まらず、自分で傷つけた
右腕はじくじくと痛む。だが、七夜志貴はそれでも嗤いが止まらなかった。
「ドウだ………遠野……お前は――もう、何も……できやシナイ……アルクェ
イドが……生贄に捧げられるのを……オレの眼を通して、視るシカナイ……。
 ハハハハハ! ……お前の……遠野のどうにもならない悔しさが手に取るよ
うに分かるぞ……! クヤシイだろう……? 歯ガユイだろう……? だが、
お前にはドウスルコトモ――」
 遠野志貴は、大声で嗤う七夜志貴を静かに見つめていた。
 冷然と。超然と。拳を握ることもなければ、歯軋りすることもない。
 遠野志貴が言う、ぼそぼそと、何でもないような顔をして。
 ――いいさ、好きにしろよ。ただこれだけは言っておく。お前があと、ほん
のちょっとでもこの縛りを緩めたらお前の最後だ。オレはお前を滅して、アル
クェイドを救いに行く。
 さらりと、そう遠野志貴は言った。
「できる……ものか!」
 七夜志貴は激昂する、それを見て遠野志貴が初めて表情を作った。
 それは、先の七夜志貴と同じ嗤い。
 嘲りと憎悪、侮蔑と哀れみ。
 ――できるよ、お前の今の自我はこの上なく不安定だ。サーカスの芸人が綱
渡りをしている時に余計なことを考えていちゃあ、墜ちるに決まってるだろ?
「うるさい! うるさいうるさいうるさい! この躰は――」
 ――オレのものだ。ついでに言うと、アルクェイドもオレの女だ。お前やナ
ハツェーラー、イノヴェルチに好き勝手には絶対にさせない、絶対にだ!
 今や形勢は逆転していた、躰を支配しているはずの七夜志貴は心の内に封じ
られた遠野志貴に完全に追い詰められていた。遠野志貴は尚も口汚く罵る七夜
志貴を完全に黙殺して、牢獄のベッドに座り直した。そして待つ、ひたすら待
つ。
 牢獄の鍵が緩む瞬間を。

「おいお前、こんなところで何をしているんだ?」
 不審そうに吸血鬼が声をかけた。七夜志貴は血走った瞳で彼を睨みつける。
「ん? お前……人間!? ああ、そうか。お前があの――ええと、トオノ?」
 一瞬ライフルに手をかけた吸血鬼だが、すぐにナハツェーラーによって作ら
れたという魔人を思い出し、安堵する。こんなところに人間が入り込んでいた
などと知れようものなら、大騒ぎだ。
 だが、七夜志貴はトオノという単語を聞いた瞬間、頭の中で理性のようなも
のが弾けた。もっとも、彼の理性のたがなど、元々緩みきった状態だったが。
「アイツの名を呼ぶなッ!!」
 ベルトに差してあった七夜を引き抜く、突然怒鳴りつけられた吸血鬼は呆気
に取られて口を開き、呆気に取られたまま二十二の肉片に解体された。

 ――取らせん。この躰は絶対に取らせん。遠野志貴など、終生まで絶対に封
じ続けてやる……ッ! アルクェイドの次は遠野秋葉。それから翡翠と琥珀、
シエル、乾有彦、有馬都古、遠野志貴に関わった連中全てを殺し尽くしてやる!

 肉片となり、それから灰になりつつある吸血鬼を無視して、七夜志貴は自室
に駆け込んだ。たらふく水を飲み、血が止まらない右腕をシーツの残片で縛り
つける。
 遠野志貴は待っている。
 七夜志貴も、ひたすら待つしかなかった。





 ――そして、儀式の刻が訪れた。














                           to be continued






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