Man is a tool-using animal. Without tools he is nothing, 
with tools he is all.
(人間は道具を使う動物である。道具なしでは無であり、道具
があると全てである)
           Thomas Carlyle(トマス・カーライル)















 リップバーン・ウィンクルは臆病者、という訳ではない。だが、自分でもよ
く自覚しているのだが――自分が絶対的なまでに支配していた状態が、突然崩
壊すると、パニックになる癖があった。
 冷静なる対応、冷静なる対策、それができれば彼女は今ごろ大隊指揮官の長
に収まっていたかもしれない。まあ、それができないが故に彼女は中尉に留ま
っていたのだろうが。
 そんな彼女が手に入れた魔弾の射手としての能力。自分は決して相手と接近
せず、相手を自由自在に打ち倒す無敵不敗の力。相手が三人いようが四人いよ
うが、まとめて打ち倒すことのできる魔弾に敵はいない。
 ――ただし、距離を置くという前提で。
 言うまでもないことだが、魔弾は接近戦においては不利に陥る危険性が残さ
れている。そう、例えば。例えばだが彼女の魔弾のダメージを物ともせず、彼
女に極限まで近付くことのできるような、そんな恐ろしい化物。


 そして、世の中は広く。そういう化物も、極稀に存在し、極稀に彼女に牙を
剥く。そう、例えば今のように。
 伊藤惣太がリップバーンの処へ猛烈な勢いで辿り着こうとしているように。


                ***


 ひ、と唇が勝手に開いて声をあげそうになるのを牙で封じる。必死に歯を噛
む、そうすれば歯の震えは収まるだろう。だが、全身の震えはそうたやすく取
れはしない。
 幸いにも、此処には彼女以外誰もいなかった。こんなみっともない姿を同僚
や、部下達には余り見せたくない、とリップバーンは思う。そう、みっともな
いのだ、今の自分は。
 それを克服しろ。今度こそ克服しろ。さもなくば死ぬ。もう一度死ぬ。死ん
でたまるものか、殺されて、滅ばされてたまるものか、死ぬのは向こうだ、殺
されるのは向こうだ、殺すのは――私だ!
「魔弾よ!」
 魔弾は蛇のように曲がりくねりながら、低空で這い進む。惣太の脚を捉える
ために。屋根の上を飛翔する伊藤惣太が魔弾の視界に映った。
 魔弾もそれに合わせて一気に浮き上がった、狙うは脚。脚を狙って動きを止
め、それから落ち着いて嬲り殺す――それがリップバーンの計画(プラン)。
 実にシンプルな計画で、同時に妥当な作戦だとも言える。脚を狙い、動きを
止め、仕留める。
 一方、惣太の方はもっともっと単純だ。
 魔弾がきたらイージスで叩き落とす。後は疾(つ)っ走る。そしてあの恐る
べき狙撃手の懐に飛びこみ、心臓に杭を穿つ。それだけだ。
 もちろん、この作戦――作戦と言うのも恥ずかしい気がしたが――には大き
な穴、ぽっかり開いた空洞が存在する。即ち。
 伊藤惣太は前後左右上下ありとあらゆるところから自由自在に飛来し、亜音
速で動く、小さい化物を何度叩き落すことができるのか、という点だ。
 空気の流れが激しくなった、音を聞くまでもなく惣太の全感覚が魔弾の飛来
を教えてくれている。対応策を講じよう。その為にはまず、弾丸が何処から来
るのかを確認しなければならない。
 惣太は――視覚に頼るのを止めるために、目を閉じることにした。まだ、こ
れにはなかなか慣れない――リァノーンから色々と教えてもらってはいるが、
実戦で使うのは――初、だろうか。
 視覚を完全にシャットアウトする、視覚では魔弾を捉えることができない―
―盲点というものが存在し、目が前についていて範囲が限定されている以上、
あらゆる方向から襲いかかってくる魔弾の敵ではない。その替わりに嗅覚・聴
覚・触覚を最大限に活用する。
 魔弾の焦げる臭いで大まかな場所を探知、触覚で空気の流れを読み、更にそ
の範囲を限定させる、そして最後に聴覚。
 亜音速の弾丸、音よりほんの少しだけ遅れて魔弾が――来る!
 突き出た煙突に、足を叩きつけた。煙突に魔弾が絡み、ぴしっとひび割れた
かと思うと粉々に弾け飛んだ。
「クソッ!」
 舌打ち、焦りがどんどん膨らんで行く。既にリップバーン自身の目でも、彼
の姿は捉えられる距離にまで到達している。だが、パニックになるのだけは何
とか耐えることができた、そう、まだ余裕はあるのだ。まだ、魔弾は生きて動
いているのだ。背後から襲うのが駄目ならば――。
 ――逆に、正面から。

 魔弾が自分の真正面に移動した、と感じることができる。う、と走る速度が
若干鈍った。右、左、上、下、どの方向に避けるにせよ、タイムロスは否めな
い。だが、ふと惣太は自分の右手を見た。
 真正面から突撃する、という手だってあるじゃないか。
 右腕を振りかざす、人工筋肉がぎりぎりと音を立てる。だが、その音はいか
にも筋肉に力が入ったときのそれを思わせた。
 魔弾も惣太に真正面から襲い掛かる。イージスなら、一発で魔弾を潰せるこ
とは証明済だ。だが同時に、あの時のことを狙撃手は当然知っているだろう。
 そしてイージスの恐ろしさを知っているだろう、ならば当然あの吸血鬼とて、
右腕には極力注意するはずだ。
 にも関わらず、魔弾は真っ直ぐ進む、ひたすら――おかしい、空気の流れが
弱まりつつある、音が魔弾から距離を取りつつある、金属の臭いが薄れる、い
や待て、今地上で何かの音がしたぞ、今の音は――弾が落ちる音、か?
 弾丸が落ち――まさか。

 音と共に二発目の魔弾が惣太に襲いかかった。慌てて惣太は避けようとする
が、二発同時に魔弾を――もう一方はとても実戦では使えないような動きに陥
るとはいえ――操る神業に敗北した。
 右太腿を魔弾が貫通する。軋む痛みが全身に行き渡る。動きが鈍り、それは
当然の如く魔弾のいい餌食となる。
 左足首に魔弾が牙を突き立てた、さらに右腰骨を粉砕し、左脇腹から肋骨を
三本は粉々にした。惣太は苦悶の呷きをあげながら、空から地上に叩き落とさ
れる。
 だが、それでも彼は起き上がり、よろよろとリップバーンの元へ向かう。そ
れだけが今の状況の解決策だと信じて。
 無論。
 魔弾は、リップバーン・ウィンクルはそれを許すはずもない。

 這いずり回る惣太の後頭部に魔弾が狙いを定める。避ける術がなく、覚悟す
る暇もあらず、痛みを感じたのは刹那、後は真っ暗闇。魔弾は伊藤惣太の脳味
噌を目茶目茶に破壊した。
 意識が遮断される。言葉も発せられず、考えることもできない――と、惣太
は考えている。そこで惣太はようやく気付いた。自分が今思考していることに。
 そればかりか、声も聞こえる。この声は――リァノーン……ではないだろう。
 彼女にしては、少々声が慌てすぎだった。
 ――惣太サン生きてますか生きてますか生きてマスカ!?
 ああ、とようやく惣太は思い出した。なるほど、婦警さんの声だ。……ちょ
っと待て、セラス? 自分の置かれた状況を思い出し、ないはずの頭を捻る。
 ともかく生きてるみたいだよ、と返事をした。
 すると白い靄に包まれているようだった風景が徐々に暗闇を取り戻して行く。
 彼の脳味噌がゆっくりと再生していくにつれ、外界の情報を会得しているの
だ――などということは、もちろん惣太には分からない。
「今、何とかしますから!」
 セラスの声が、直接頭に響く。耳から聞いているのではない、とようやく理
解した、つまりそれはセラスの言葉を惣太は耳以外のもので受け取っていると
いうことになる。
 そうか。
 ――念波……で、俺達は話しているのか?
「そうです、ほら、最初のときに私が血を供与したじゃないですか。
 多分、それが原因なんじゃないかと――」
 視覚が完全に復活した。魔弾の射手は、もちろん自分への警戒を怠ってはい
ない、要するに一歩でも動けばまたもや魔弾が襲い来ることは眼に見えている。
 いや、今動かずとも屍体が残っているのならばいずれあの吸血鬼は、自分に
止めを刺すだろう、ここで見逃すような輩ではないことは、今までの戦いで充
分理解できた。
 だが、セラスがサポートすれば助かるか、というかと言うと、そうでもない。
 ――セラス、今、何処らへんにいる?
「ようやく追いつける距離まで着きました。ここからなら、ハルコンネンで惣
太さんをフォローできます!」
 ――駄目だ。絶対に止めろ!
 びくり、とセラスの躰が動いた――のだと思う。
「ど、どうしてデスか!?」
 ――分かってるだろ、この魔弾。そんなハルコンネンで何とかできるような
シロモノじゃない。速度、力、反射能力、全てにおいて魔弾が上回ってやがる!
「じゃ、じゃあこのまま尻尾を巻いて逃げ出せって言うんですか!」
 ――違う、俺に考えがある。
 咄嗟に閃いた作戦だった。否、作戦などというものではないだろう。これは
ただの引っ掛け(フェイク)だ。
 だが、それ故に効果はありそうだった。まがい物の魔弾。今から惣太は魔弾
の射手にならなければならないのだ。


                ***


 リップバーン・ウィンクルはしばし伊藤惣太の様子を窺っていたが、あの男
はピクリとも動かない。呼吸音もせず、心音もなし。
 しかし、リップバーンは気に入らなかった。まず、灰になるべき屍体が残っ
ている。もちろん、希少種で死んでも灰にならない吸血鬼もいるかもしれない。
 あるいは信じられないことだが、あの男は人間だったのかもしれない。まあ、
それは――いくら何でも有り得ないとは思うが。
 そして、一番妥当な線はあの吸血鬼がまだ生きていて、こちらの隙を窺って
いるというものだろう。ああ、それしか考えられない。
 二発目の魔弾を、空に向けて撃った。
 魔弾はゆっくりと浮かび上がる、どこまでもどこまでも、空高く、雲を突き
抜けんばかりに。今度はどこを狙えばいいものか。どこでもいいか、とリップ
バーンは考える。要はアレが滅びれば問題ない、アレの全身を再生不可能なほ
ど刻み尽くせば問題ない。
 下降せよ。
 銃口を降ろすと同時に魔弾が地上へ向けて垂直に墜ちていく。光を纏い、地
上に向けて進み行くその様は、さながら雷帝の鉄槌(ミョルニル)を思わせた。
 いつものことだが、笑いが止まらない。引き金を引いた瞬間、魔弾を放った
瞬間、魔弾を当てた瞬間、獲物を仕留めた瞬間、そういう時にどうしても笑み
が零れてしまう。どうやらこれは自身の上官の影響らしい――悪い上官を持っ
たものだ、とまたもや笑みが零れた。
 ――さあ、魔弾よ。あの男に、人に力貸す吸血鬼に裁きを下せ。不死者の鉄
槌で塵と散れ。


 一呼吸、狙いをつける。弾種は劣化ウラン弾。惣太は「当てようなんて思う
な」と言ったけど、でも、しかし――。
 当てなきゃ、いけないだろう。あの心優しい――ミレニアムの吸血鬼や、自
分の主とはまた違ったタイプ――の吸血鬼を助けるためには!
 集中。あの魔弾の射手のはらわたをこの弾丸で根こそぎ吹っ飛ばしてやる。
 そう考えてセラスは30mm対化物用砲ハルコンネンの引金を引いた。しか
し引いた瞬間、彼女は見てしまった。――セラスに向かって手を振る、魔弾の
射手の晴れやかな笑顔を。
 劣化ウラン弾は、リップバーンのすぐ脇を掠めて、傍のコンクリートの建物
の壁を数枚ほど粉々に破壊した。
「あら、まだあのお仲間は逃げていなかったのね」
 やはり、と惣太は思った。狙撃手だけあって、彼女――声でようやく女性だ
と確信できた――は、自分に向けられた殺気に酷く敏感だった。一旦目をつけ
られた以上、セラスがどれだけハルコンネンを撃とうが、所詮単発である弾丸
を、魔弾の射手は楽に避けてしまうだろう。
 だが、それこそこちらの思い通りだった。
 それこそが彼の狙いだった。そう、大事なことはセラスの放つ弾丸を、脅威
と感じないことなのだ。餌は撒くことには成功した、次は釣りだ。

 セラスは惣太に言われた通り、数発無駄に劣化ウラン弾を消費したところで、
爆裂鉄鋼焼夷弾に切り替えた。なるほど彼の言う通り、自分の撃った弾は完全
に弾道を予測され、あっさりと避けられていた。おまけに、手に持った日傘を
くるくるとこちらに回すものだから、余計に狙いがつけにくい。
 このままでは、惣太も死に、自分も魔弾に標的として定められ、こちらは当
然避ける術など持たないのだから、全身を蜂の巣のようにされて死ぬ。ならば、
惣太の言う「一か八か」の作戦に賭けてみようとセラスは思った。
 狙いを定める。


 引金を引く。


 日傘をくるくると廻しながら、リップバーンは次弾の弾道を予測する。左に
避けるがいいか、右に躱すがいいか、あるいは上半身を伏せるのがいいのか、
 まあ何にせよ、自分が致命傷を食らうことは有り得ない。
 既に向こうの無様な大砲の射撃間隔は看破した。
 次だ。
 次の弾丸を避けたら、彼女は魔弾で惣太の首を楽に引き千切りやすいくらい
に切り裂いて、その後にこちらの神経をささくれ立たせるあの狙撃手をゆっく
りと料理することにしよう、魔弾で両目を抉り、咽喉を潰し、両手両足を撃ち
抜いてから、喰屍鬼の餌にしてやろう。

 そんなことを考えている間にも、弾道の予測が完了する。一瞬、その結果を
考えて、リップバーンは自分の思考が混乱したのかと思った。
 だが、間違いない。弾丸は間違いなく、このままだとあの地に伏した吸血鬼
の頭に直撃する。気が抜ける、これほどまであの狙撃手は射撃が下手糞なのか?
 いや、あるいはあの吸血鬼がそれを望んだのかも――いっそ、楽にさせてく
れ、というやつで。どちらにせよ、確実に言えることはあの馬鹿みたいに巨大
な弾頭は間違いなく、あの吸血鬼の頭を直撃する。
 魔弾を使うまでもない。
 では、自分の魔弾は待機しておこう。鉄槌を下すのは、無様な射撃でこちら
をいらつかせるあの狙撃手だ。


                ***


 自分が誰であるか、それがバレてないのがこの戦いの中で一番幸運なことで
あったのかもしれない、と伊藤惣太は考える。分かる、目を瞑っていても、い
や、目を瞑っているが故に、ハルコンネンの弾丸が見る見るうちにこちらに近
付いてくるという事実を躰で実感できる。
 そう、実感することが大切なのだ。弾丸を視る暇はない。弾丸を感じなけれ
ば意味がない。弾丸を感じ、それと一体化する――。だが、悟られてはマズい。
 弾丸を操作してカーブを描く、というのならば恐らくは楽だろう。それなら
かつてミサイルを誘導してぶっ壊したことがある身としては自信がある。しか
し、今回に限って言えば、恐らくは最初に或るであろう微妙な軌道のズレすら
魔弾の射手ならば看破するに違いない。そうなれば終わりだ、二度とこんなチ
ャンスを掴ませてくれそうにない。
 だから一瞬だ。刹那の刻が勝負の分かれ目になる。
 弾丸と一体化し、同時に盾のイメージを浮かび上がらせる。自分の頭、間違
いなく直撃するであろう部分へ、不可視の盾のイメージ。

 弾丸をどんどん惣太の頭の傍に近づけていく。既に弾丸は彼の支配下に入っ
た、後は不可視の盾のイメージを完全に形作るだけだ。間に合うか? 間に合
わなければ死ぬだろう、それだけのこと。雑念を祓う、後頭部に疼きのような、
あるいは痒みのようなものが感じられ始めた。
 ――これだ、これを待っていたんだ。よし、落ち着け。イメージしろ。
 惣太は歓喜する。一歩も動かず、目も開かず、しかし惣太の神経はこれ以上
ないほど研ぎ澄まされている。弾丸が、ゆっくりと、そして回転しながら惣太
の頭に直撃しようとして――。
 キィン――実際にこういう音が鳴った訳ではないだろう、所詮不可視の盾は
空想の産物、イメージの投影に過ぎないのだ、重要なのはそのイメージそのも
のである。
 吸血鬼の膨大なエネルギーが作り出すイメージ、真祖の姫君――アルクェイ
ド・ブリュンスタッドならば、こんな事は造作もないに違いない。その点から
言うと、伊藤惣太の実力はまだまだであろう。
 だがいずれにせよ、形作られた視えない盾は最高の効果を発揮した。弾丸は
奇妙な甲高い音のイメージを伴いながら、跳弾し、方向を真っ直ぐ彼女の方へ
向ける。
 即ち、リップバーン・ウィンクルへと。

 リップバーンがその意図を悟った時には既に遅かった、弾丸は何か目に見え
ない力で反射し、真っ直ぐ自分の元へ、しかも自分の心臓に直撃する軌道、混
乱、咄嗟に浮かぶ一ダース以上の対策、却下、却下、不可、却下、不可、不可、
不可、不可、不可、却下、不可、不可、却下――不可避。
 避けられない。
 だが、例え不可避でも身体へのダメージを軽減することだけはできる。咄嗟
に防弾繊維の日傘を突き出した、もちろんこの巨弾には紙同然だろう。やすや
すと切り裂かれる。だが、ほんのわずかな抵抗とその一連の行動の過程におい
て躰を捻りきる暇(いとま)が創り上げられた。
 そのままならば、心臓に直撃するところをコンマ以下の動きで何とか、肩に
までダメージ箇所を移動させる。
 そして、直撃。
 焼夷榴弾はリップバーンの肩を抉り、炎を発し、爆散する。破片が彼女の肩、
目、耳を焼き尽くす。喚いた、眼鏡が吹き飛ぶ、そばかすだらけの顔に血がこ
びりつく。
 眼鏡を慌てて探す、やっとの思いで探し出したそれはつるがひしゃげ、まと
もに掛けられそうにない。くそったれ、と彼女は全ての存在に毒づいた。だが、
まだ生きている。少なくとも吸血鬼として論理的な思考と圧倒的な力を使役す
ることは、まだできる。
 おのれ――怒りを篭めた瞳で、彼女は地に伏していた吸血鬼の姿を捉える。
 驚愕。
 姿が、地に伏していたはずのあの男が――。
「ここだ」
 心臓が一際大きく跳ね上がった、あの吸血鬼がずるずると両腕で這いずり回
って、魔弾の射手の元へゆっくりと近付いてくる!
「ひっ……あ、ああ!」
 パニックになる。近付かないで、と乞い願う。だが、彼はゆっくりと、そし
て着実にリップバーンの元へ進んで行く。どうすればいい? 彼女は慌てて宙
空に待機していた魔弾を叩きつけようとした。
「喰らえッ!」 
 吼える。真っ直ぐ空から地に墜ち、彼の脳天を狙う。既にその頃には、よろ
よろと伊藤惣太は両足で大地を踏み締めていた。ふらつくその躰に、果たして
どれほどの力が残されているというのだろう。
 しかし、伊藤惣太は魔弾にとうに気付いていた。そしてリップバーンはパニ
ックになっている、ならばこれを打ち破るのは簡単だ。蟲は蟲であるが故に、
ランダムに軌道を変更するが故に手に捉えるのは難しいが、これが単なる落下
物である場合、その難易度は激変する。
 真っ直ぐ脳天に向かって墜ちてくる魔弾を、
「うっ……らぁッ!」
 吼えて、右腕の一振りで見事に叩き落した。
 リップバーンは、さらに自失する。絶対の自信が崩れる。魔弾を一度ならず
二度も防がれたという事実に慄然としていた。さらに惣太が歩み寄る、立ち上
がって逃げようとしたが、ショック状態のせいか、それとも回復が遅れている
のか、立ち上がることができない。
 背中を向ける、逃避行動の一種だ、背中を向けるのは駄目だと自分でも分か
っている、だがそれは止まらない。無様に、それこそ先ほどのあの男のように
地を這ってでも逃げたい。
 だが、堅い腕で右肩を掴まれ、強制的に向こう側を振り向かされた。追いつ
かれてしまったのだ。歯が鳴る、厭だ、厭だ厭だ厭――!
「やっと…逢えたぞ……魔弾の……射手………………!」
 呼吸が荒い、右太腿と左足首の回復に全力を投入しただけあって(それでも
まだ最高速度では走ったりできない)、リップバーンの倍は速かった。
 伊藤惣太は彼女の顔を見て驚いた、忌々しげに、恐怖に震えながら、憎悪に
身を焦がしながらこちらを見る彼女の姿。スーツを着ているとはいえ、射手の
あどけない顔は、まるで田舎娘のような素朴さを持っている。絶世の美少女と
は言い難いが、間違いなく可愛いと言える女の子だ。
 だが、それでも彼女は魔弾の射手だ。パイロットを殺し、今までも多数殺し
てきたであろう、最強の狙撃手だ。見た目に惑わされてはなるまい、断じて。
「お前と違って――俺は射撃が得意な方じゃない」
 むしろ下手な部類に入るだろう、ウピエルのレベルが吸血鬼の最高の狙撃レ
ベルだと思っていたが、彼などより明らかにこの魔弾は上に位置する。世の中
は広い、まだまだ自分の知らない強さを誇る吸血鬼が存在するのだ。
 両足に限界が来たらしい、がくん、と膝を突く。自然に目線がリップバーン
と同位置になる。惣太はぞっとするような猛禽類の目つきでリップバーンを見
た。
「だが、この距離ならば」
 右腕を大きく振りかざす、ウォルターに教えてもらったギミックを自分の意
志でリモート発動。握った拳の甲の部分に穴が開く、その黒い穴から白木の杭
が飛び出した。対吸血鬼概念武装、最弱にして最強の武器。
「絶対に」
 リップバーンは息を呑んだ。
 深々と白木の杭が心臓に突き立てられる、そこから血が溢れ出す。白木の杭
で打ちつけられた吸血鬼の肉体は再生ができない。ただただ、塵に還るのみ。
「外さん――」
 思わずリップバーンは、心臓に突き立てられた白木の杭を、惣太の右拳を両
手で抜こうとした、が、先ほどまで溢れていた力はみるみる内に失われ、まる
で突き立てられた逸物をいとおしむかのように、血で濡れた手で白木の杭を扱
くだけだ。
 ひ、とリップバーンは恐怖の篭った瞳で惣太を見つめた。惣太は哀しい顔で
彼女を見つめた。
 ――あばよ、魔弾の射手。魔弾の射手が罰を受けなければ、歌劇は永遠に終
わらないんだぜ。
 リップバーンは、恐怖と憎悪、悲哀と絶望を全身に感じながら――灰になっ
た。


 ――惣太さん!
 セラスの呼びかけ。
「ああ、俺だよ――ありがとう、片がついた」
 ――いえっ! 私は、ただ……。
「じゃあ、すまないが行って来る」
 セラスが唐突に沈黙した。不思議に思った惣太が問う。
「どうした、セラスさん」
 ――何でもありません。では、私はこのままマスターのフォローに向かうこ
とにしますッ!
「そうか、俺はじゃあ、勝手にやらせてもらうよ」
 ――了解。あの、惣太サン?
「何?」
 ――いえ、その……リ、リァノーンって方、生きてると良いですね。
「ありがとう、俺もそれを祈ってるよ。あと、セラスさんもお元気で」
 リァノーンと共に逃げるにせよ、リァノーンと共に滅ぶにせよ(片方だけが
生き残るなどという選択肢は存在しないように思われた――リァノーンを残し
て死ぬことなどできず、リァノーンを失うことにも耐えられそうにない)恐ら
く二度と彼女に逢うことはあるまい、それがほんの少しだけ惣太には寂しい。
 随分と彼女には元気付けられたから。吸血鬼でありながら別のものになれる
という可能性を見せてくれたから。
「さようなら、セラス・ヴィクトリア」
 ――さようなら、ソウタ・イトウ。

 念話は断ち切られてしまった。だがもういい、彼女には彼女がやるべき、そ
してやれるべきことが沢山ある。自分は自分のやるべきことをするだけだ。
 惣太は歩き出した。
 まず自分がやるべきことは――。
「足を見つけることだな」
 痛む足を堪えながら、のたのたと歩く自分を客観的に考えて、惣太はため息
をついた。デスモドゥスが欲しい、と思った。あのモンスターバイクで、此処
を縦横無尽に駆け巡るというのは、かなりの部分で魅力的な提案だった。
 だが、ないものねだりをしても仕方がない。
 惣太はもう一度だけため息をついてから、ゆっくりと歩き出した。痛みに負
けまいと歯を食いしばりながら。
「見事」
 声。
 反射的に振り返りながら白木の杭を射出した。スプリングで強烈な反動をつ
けて打ち出された杭は、まるで銃弾のような勢いで声の方へ襲いかかる。
 しかし、白木の杭は彼の左手にあっさりと受け止められた。
 馬が嘶いた。

 一瞬、そこに惣太は幻影を視た。
 あの紅の騎士、リァノーンの忠実なる僕。あの男がいたように思われたから。
 しかし、馬上に存在するのは一人の吸血鬼ハンターだった。冷徹な瞳、酷薄
な表情、全身黒尽くめの服装、鍔広の帽子、端正な顔立ち、そして何よりも背
に負った長刀――外見は二十を越えた程度にしか見えないにも関わらず、彼は
まさに正真正銘、伝説の吸血鬼ハンターだった。
 本来ならば親が子供に話して聞かすお話、残酷な御伽噺の中でのみ生きてい
るはずの男。だが、彼は紛れもなくこの現世に存在し、時折――まるで気紛れ
のように剣を振るって、数百年の間中、吸血鬼を打ち倒している。
 


 そして、この実に馬鹿馬鹿しい戦争交響楽の元凶であり、始まりでもある。


「誰……だ?」
 惣太が問う。
 男は、逡巡するかのように沈黙したがほんのわずか、吸血鬼にしか聞こえな
い程度の声で呟いた。
「D――」














                           to be continued






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