何者も騒がすなかれ……この四壁の内にて、ヤハウェのしも
べ、ヘブライの戦士にして王たるダヴィデの剣によりたおされ
たるネシャマーを。
     「殺戮者カイン」ジェイムズ・バイロン・ハギンズ















 今や輸送艦チェルノボグは混乱の絶頂を迎えようとしていた。怒号、悲鳴、
絶叫、呻き、狂笑が入り混じり一つに溶け合おうとしている。死滅――恐らく
はそう呼ばれるものに。
 武器庫までの道のりをひた走る。オスの死によって全ての束縛から解き放た
れ、ただ本能のみでもって動くユダの血統が一匹、三人の元へ飛来した。
 しんがりのキャルがAK−74をフルオートで撃った。頭と腹に大量に弾丸
を咥え込んだユダの血統は、たちまち飛行能力を失って落下していく。
 だが銃声を聞き付けた兇暴な表情を剥き出しにした新手が二匹、彼等を追跡
し始めた。
「くそ!」
 牽制のために弾幕を張った、あっという間に弾を撃ち尽くす。二匹は弾丸が
当たった衝撃にもがいているが、致命傷ではない。立ち直ってまた襲ってくる
のは時間の問題だ。
 キャルは先頭のソーニャに叫んだ。
「武器庫はまだ!? こんなんじゃ対処しきれない!」
「もうすぐよ! 伊達にここに二日も潜んでいた訳じゃないんだからね!
 このまま真っ直ぐ行って左!」
 更に新手が一匹、ソーニャの前に現れた。
「どけ!」
 ソーニャを突き飛ばすように脇に退かせると、拾った鉄パイプで思い切り頭
部を殴りつける、しかしユダの血統は怯まず両手のカマを振り回す。
 ダークマンの鉄パイプとユダの血統のカマが激突した。火花が散る。しかし、
ユダの血統のカマはもう一本ある。ユダの血統が無防備になった背中にカマを
突き立てようとした。それをソーニャがギリギリのところでナイフで防ぐ。
「このっ!」
 ダークマンは腹を勢い良く蹴り飛ばし、仰向けになったユダの血統に鉄パイ
プを突きたてた。鉄網の床の隙間に滑り込んだ鉄パイプが完全にユダの血統を
固定した。
「行くぞ!」
 ダークマンがソーニャとキャルを急かす。仰向けのユダの血統がもがくが、
突き立てられた鉄パイプは早々抜けはしない。
 走った。
 突然目の前に一際大きなユダの血統が出現した、狂ったように通路を回転し
ながら悲鳴をあげる。よく見るとユダの血統に食い付かれた人間だった。
「助けて! 助けて!」
 彼を無視する、しばらくすると後方で悲鳴の音量が上がった。
「ヒ、ヒ、ヒーッ! ひひひははは、ははっひひい」
 先ほど食いつかれた男が大笑いしていた、しんがりを努めていたキャルは男
の躰にさらに二匹のユダの血統が――さっきからしつこく自分達を追いかけて
いた奴等――食い付くのを見た。
 笑いながら、男は躰を少しずつ切り刻まれていった。
「うひゃあ」
 情けない声をあげてしまう、まるきりB級パニック映画の世界が、阿鼻叫喚
の地獄が眼前で展開されていた。
「……追ってこないな」
 ダークマンが呟く。
「あの男を解体するのに忙しいみたいよ」
 通路を抜けて階段を降りると、だだっ広いコンテナ倉庫に辿り着いた。コン
テナが邪魔をしているが、向こう側に先ほどまで自分達が居たはずだ。
「随分と遠回りをしたもんだな」
「こんな馬鹿デカいコンテナを乗り越える訳にはいかなかったでしょ」
 壁に沿って歩くと、扉があった。研究室と同じく電子ロックがかかっている。
 相変わらず錆びて古びた鉄の扉のくせに、
「IDカードがないと……」
 キャルが呟く。ソーニャがポケットからIDカードを取り出した。
「備え有れば憂い無しね」
 スロットにカードを差し込んで扉を開く。まず、AK−74を構えたキャル
が部屋の中へ踏み込んだ。続いてソーニャ。
「人と化物の気配はないわね」
 ダークマンが最後に武器庫に入り、扉を内側から閉めた。ライトを点灯させ
ると、そこには無数のアサルトライフルが、ショットガンが、ピストルが、ボ
ウガンが、ナイフが、その他色々な兇器が――中には人間の手ではとても扱え
そうにない巨大なものまで――所狭しとひしめき合っていた。
「こりゃ凄い」
 ダークマンが感嘆して呟き、キャルは嬉しそうに口笛を吹いた。
「選り好みしている暇はない……できるだけ威力のあるやつをな」
 全員が頷き、
 しばらくしてキャルが何気なく愛用のライフルであるステアーAUGを手に
取って、まじまじと見つめる、おかしい、このライフルどこかで見た事が――。
 銃尾についた吸血鬼の爪痕、三日月の形、よく覚えている、間違いない。
「これ、アタシのだ」
「……どうやら我等が石鹸工場に置いてあった武器を残らずこの倉庫に持ち込
んだらしいな」
 ダークマンが巨大な槌を掲げた、モーラが使用していたハンマーだ。
「使う気?」
 呆れたようにソーニャが訊いた、キャルも同意見だ。
「コツはこの間掴んだ」
 それから彼は以前も使ったショットガン、ストライカー12を腰のベルトに
差し込む、それから散弾とスラッグ弾を交互に差し込んだガンベルトを躰に巻
き付けた。
「私はこれでいい」
 ダークマンは少し満足げな様子だった。
「これじゃない、これじゃない、これでもない……」
 しゃがみこんだキャルは一つ一つ弾倉をチェックしてはぶつぶつ呟いて放り
投げる、がちゃがちゃと後ろの床に積み上げられる弾倉。その内の一つがソー
ニャの脚にぶつかり、彼女の眉が吊り上がった。
「危ないでしょ、何してんのよ」
 キャルは振り向こうともしない。
「ちょっと待って……これがもしかして……あった!」
 キャルが握り締めた弾倉を掲げた。
「まさか、それ……」
 先端の輝きで悟ったらしいソーニャの吊り上がっていた眉が反対方向に下が
った。
「銀の弾丸! はっ、こんなものまで持ってきちゃったのか、馬鹿だねぇ」
 キャルは呆れたと言わんばかりに肩を竦めた。
「普通の人間には普通の弾丸にしか見えんからな、きっと奴隷の連中が手当た
り次第ここに持ち込んだのだろう」
 ダークマンが身につけたガンベルトの散弾やスラッグ弾も銀と鉛の比率が半
々だ。
「もしかしたら吸血鬼のことを潜在的に恐れていたからかもしれないわね」
「それも有るかもな」
 もっとも実際には彼等の洞察は事実とは少し異なっており、神の名を持つ圧
倒的暴力に対して対抗するために揃えられた装備であるが。
「ようし、アタシもオッケー!」
 結局キャルは愛用のステアーAUGと、強力無比な爆発力を持つM79グレ
ネードランチャーを、それから威力は無いも同然だが御守り代わりにベレッタ
M92Fを一丁。
 ベレッタの銀の弾倉も揃っていた。
「ソーニャ、アンタは何を持って行くのさ」
「あのセスって人間が背負ってたC4と、スイッチナイフ。それに手榴弾を持
てるだけ」
「それだけでいいの?」
「いいえ、これも持っていくわ」
 ソーニャが鞘に収まっていた日本刀を実に優雅な仕草で引き抜いた。黒尽く
めの彼女が、日本刀の輝きを受けて光を放つ。
 キャルがほぅ、と感嘆の溜息をついた。
「使えるの?」
「まあね、日本にしばらく居たことがあるから」
 へぇ、とキャルは声を出して驚いた。日本と吸血鬼という組み合わせは映画
とカートゥーンで育ったキャルにとって、少々不可思議な取り合わせに思えた。
 彼女があの日本に居る風景を想像する。
「スキンヘッドのブッダ相手にばったばったと血を吸ったの?」
「……アンタはもう少し勉強するべきね」
 ソーニャはキャルの脳内でどういうイメージが創生されたかを考えてやれや
れ、と頭を振った。キャルが笑う。そしてダークマンがパン、と手を鳴らした。
「お喋りはそこまでだ」
 二人の顔が引き締まる、
「モーラは彼等にとって必要な人間だ。この状況なら、彼女をまず第一に逃そ
うとするだろう、キャル! モーラを連れて行った男の名はネロ・カオスとい
ったな?」
 キャルが頷くと、ソーニャが叫んだ。
「ネロ・カオスですって!? 吸血鬼の中でも最古の部類に入る死徒の一人、
化物じゃない!」
 モーガンの隣に居たあの吸血鬼――モーガンも彼も背中しか見えなかったの
で気付かなかった――がそんな大物だったとは。ソーニャもさすがに顔から血
の気が引いた。
「最古って……何年くらい?」
「私の情報が正しいなら、一千年は下らないわね」
 キャルは視界が一瞬眩むくらいの衝撃を覚えた、一千年? 果たしてどれほ
どの年月なのか、剣と騎士が存在したファンタジーの時代と考えても実感があ
まりにも沸かない。
「私も存在だけは聞いている。このゴキブリどもなぞ、アレの前では塵に等し
いだろう……だがアレがモーラを連れて行ったのなら逆に言うと安心とも言え
るな、恐らくモーラは無事のはずだ」
 キャルはなんとも言えない複雑な表情を浮かべた。
 皮肉なことにモーラを殺そうとする彼等が、今のこの事態の前では彼女を完
璧なまでに保護してくれているのだ。
「なんであいつ等……モーラを狙うんだろ」
 キャルがポツリと呟いた。
「その理由は判った、後で話す。
 今はまず、ヘリだ。ヘリが無ければ話にならん」
「甲板に二機、貴方が乗って来たやつと、モーガンが乗ってきたやつね」
「一機は恐らくネロとモーラを載せたはずだ、この状況下でモタモタしている
とは思えん、もしかするとこの事態になる前に飛び去ったという可能性もある。
 二機の内、一機は期待しない方がいいだろう」
「となると残りの一機を戴くわけだね」
「さもないと、この艦のゴキブリと吸血鬼と人間を残らず始末してから漂流し
なければならない、それは最悪の状況だ」
「つまり、甲板に全力で向かうってことね」
「そうだ、パニックになった奴等がヘリを操縦して墜落するなんて事も考えら
れる」
「考えたくないものだね」
「という訳だ、いいか、開けたら全員全力で突っ走るぞ」
「私も?」
「……ソーニャは私とキャルに合わせて走れ。
 後ろを振り返っている暇はない。転倒したら置いていくし、置いていけ。
 まず、ヘリを確保することが先決だ。
 ヘリを操縦するのは……」
「私ができるわ」
 ソーニャが手を挙げる。
「任せる、では……準備はいいな?」
 二人が頷いた。
 ダークマンが扉の中央でモーラのハンマーを構える、その右後方でキャルが
ステアーAUGを扉に向かって突きつける、ソーニャがスロットにIDカード
を差し込んだ。
 電子音。
 信号はレッドからグリーンへ。
 誰かがごくりと唾を呑んだ。
 扉のロックが外れる。
「行くぞ!」
 扉を開けた途端、ユダの血統に襲われて悲鳴をあげる人間が目に入った。
 恐らく武器庫に立て篭もろうとでも考えたのだろう、彼のAK−74の銃身
はぐにゃりと曲がって使い物にならなくなっていた。
 ダークマンが左手のストライカー12で纏めて吹き飛ばす、顔面が千切れた
人間は即死し、ユダの血統も散弾をまともに食らった衝撃で昏倒した。間髪入
れずに右手のハンマーで躰を叩き潰す。
「8時に新手!」
 叫びながらキャルがステアーAUGを構えた、フルオートではなくセミオー
トで、照星を睨みつけ、飛来する二匹のユダの血統を見据える。
 引金を立て続けに二度引いた、一発目の弾丸はユダの血統の眉間に撃突し、
そのまま躰の内部をズタズタにしてから、天井にめり込んだ。
 だが二発目の弾丸は大きく広げた羽根をわずかに引き裂いただけに留まり、
そのままユダの血統は三人の元へ襲いかかる。
 ソーニャが一歩前へ踏み込んで大きく飛んだ、腰のベルトに縛り付けた日本
刀を鞘から引き抜く。振りかぶってユダの血統に叩きつける。刀は滑らかにユ
ダの血統の躰に侵入する。まるで何もない空間を裂いたかのような無抵抗の感
覚、そのまま着地して刀を鞘に収めた。
 一瞬遅れて頭から真っ二つになったユダの血統の屍体が、ソーニャの背後に
落下した。
「ふぅ」
 ソーニャは先ほどまで停止していた呼吸を解放した。断ち割られたユダの血
統はそれぞれの躰がしぶとくもがいているが、既に無害だ。
「よし、行くぞ」
 言うなりダークマンが階段を駆け上がる、だがその速度はキャルやソーニャ
に比較するといかにものろい。長年の運動不足による結果がここに発揮されて
いた。
 勿論、彼の背負ったハンマーが極めて化物じみた重たさということも、鈍足
の一因ではあるのだが。
「やれやれ」
 ダークマンは溜息をつく。理不尽にペイトンに対して怒る、苦痛はなくとも、
疲労は蓄積される。
 先行するソーニャとキャルに次々とユダの血統が襲い掛かる。加えてパニッ
クになって逃げ回る吸血鬼の奴隷達や、ユダの血統を殲滅せんとあちこちを走
り回る吸血鬼達が、二人に攻撃を仕掛けてきた。
 キャルのステアーAUGが銀の弾丸を撒き散らして吸血鬼を灰の世界に戻し、
ユダの血統をソーニャの日本刀が切斬する、二人のグレネードランチャーと手
榴弾が人間やユダの血統や吸血鬼をただの肉片と変えていた。
 彼女達が走り去った後は、必ず血と硝煙の匂いが空気にこびりつき、それが
一層ユダの血統を興奮させ、攻撃的にさせる。
 ダークマンが背後から襲い掛かるユダの血統をハンマーで叩き潰し、ストラ
イカー12ショットガンで吹き飛ばす、だがそれが為にダークマンは一層の遅
れを取った。
 ふと気付くとダークマンの視界からはキャルとソーニャが消えていた。
「ええい、くそ」
 頭を叩き潰されてもなお、生命行動を止めないユダの血統を無視して、ダー
クマンは遅れを取り戻そうと全力で走り出した。
 キャルは角を曲がろうとした途端、ソーニャに肩を掴まれて引っ張られた。
 一瞬遅れてAK−74の弾丸が雨のようにキャルの影に撃ち込まれる。
「――くそ!」
「待っていたみたいね」
「フッ飛ばしてやる!」
 キャルがランチャーにグレネードを装填した。
「待った!」
 再びキャルの肩をソーニャが掴む、
「痛たたた、痛いって」
「いい? 向こうには確実に吸血鬼がいるわ、馬鹿だったらいいけど、悪賢い
タイプならグレネードランチャーのことを読んでいて、発射されたグレネード
を掴んでこちらに投げ返すくらいのことはできるのよ」
「……本当?」
「ええ、やったことがあるもの」
 ソーニャは平然と答えた。
「じゃあ、どうすんのさ、こんなとこでモタモタしてる暇はないだろ」
「そうね……ドライ、貴女命を賭ける勇気は?」
「アタシはいつも命張ってるよ!」
「そ、じゃそのジャケット脱いで」
「って、へ?」
 たっぷり沈黙した後、その言葉の意味を図りかねてキャルは首を傾げた。


「弾倉を取り替えろ! 早く! 早く早く早く!」
 AK−74に再びたっぷりの弾丸を詰め込んだ六人の男――全員吸血鬼――
たちが床に躰を伏せて一斉に先ほどわずかに見えた影に構えた。
「さあ来い、鉛弾をたらふく食わせてやる」
 一人が呟く。
 しばしの沈黙。
 ――相手は何をしてくるだろうか、グレネードでもロケットでもマシンガン
でも持って来い。吸血鬼の力を思い知らせてやる。
「降参! 降参だよ! 今から出て行く!」
 ぽかん、と口がだらしなく弛緩した。
「いい? 撃たないで、撃っちゃやだからね!」
 ぎり、と牙が軋んだ。
「ふざけろ! 出て来い、ブチ殺してやる!」
「アタシの武器はもう弾切れなんだよ、アンタ達に逆らおうなんて思ってない!
 本当だって! 信じて!」
「ふざけ」
「待て」
 一人の男が五人を押し留めた。あからさまな不満を表す彼等にニヤリと笑い
かける。
「あの声は女だ、若いぞ。しかもこの血の匂いは人間だ」
 瞬間、五人の目が爛々と輝き出した。
 ――若い女! 若い血!
 先ほどから、アドレナリンの分泌で全く感じなかった飢餓感が、急速に疼き
出した。血を啜りたい、という欲望に歯止めがかからない。
「よし、出てこい! 武器は投げ捨てて手を挙げろ!」
 角からベレッタとステアーAUGが投げられ、床でくるくると回転した。
「いい? 出ていくよ……だから撃たないで……」
 女の哀願する声に、彼等の嗜虐性が刺激される。
「ああ、撃たないぜ。だから出てこい」
 まるで人間がペットに語り掛ける時のような甘く、優しい声。
 やがてすらりとした女の脚が角から飛び出した、それから腕が、胴体が、顔
が、ゆっくりと出てくる。
 六人は狂喜乱舞した。
 女、美人、しかもとびっきりのスタイルを持っている。
 輝くような金髪と真っ白い肩、そしてむしゃぶりつきたくなる首筋が否応無
しに目に入る、黒のビスチェからは豊かな双丘が零れ出しそうだ。両手を頭の
部分で組み、恐怖に顔を引き攣らせながら一歩一歩、吸血鬼達へ歩み寄る。
「ね、ほら、武器は持ってないだろ?」
 媚びた表情を見せる、欲望に火がついた。既にズボンの下が盛り上がる気の
早い吸血鬼もいる。
「いや、まだだ……その胸ん中になんか仕込んでるかもしれねぇ。なぁ?」
 男が同意を求めると、彼等は一も二もなく賛同した。
「………………判った、脱ぐわ」
 半泣きになりながらも殊勝な態度で、彼女はライダースーツのジッパーに手
をかけた。既に全員が牙と歯の隙間から遠慮なく涎を垂らしている、だが、半
分までいったところで彼女が手を止めた。
「ところで話は変わるけど、さ」
 声の変化に気付いた敏感な吸血鬼は六人の内、何人だっただろう、知性の欠
片もない瞳の輝きから察するに誰も何も気付かなかったに違いない。
「手榴弾を吸血鬼が全力で投げたら、アンタ達は上手くキャッチできる?」
 気付くと、女の背後に吸血鬼女(ドラキュリーナ)が立っていた。
 男達の笑顔が凍り付く。

「ドライ!」
 ソーニャが叫んだが早いか、キャルはしゃがんで耳を抑えた。
 振りかぶって手榴弾を放り投げる。弾丸のように投げ出されたそれを吸血鬼
達は反射的に手に捕らえようとした。一人が反射的に突き出した手で、手榴弾
を受け止めた――だが、手榴弾の勢いは止まらず、彼の指をヘシ折り、その背
後にいた吸血鬼の顔面に直撃した。
「ファック!」
 吸血鬼は激痛にむせび泣いた。一瞬、彼は自分の置かれた状況を忘我する。
 床に手榴弾がコロコロと転がる、肉体が反射する、しゃがんで拾い上げよう
とする、手榴弾を掴む、一瞬手が膨れ上がるような感覚、スローモーションで
自分の手が少しずつ黒い爆発に巻き込まれていく、その過程で手が少しずつバ
ラバラに切り刻まれる、猛烈な圧力を感じて躰が吹っ飛ぶ、激痛、脳が状況を
理解する、手足のコントロールが遮断される、血が流出する、エネルギーが失
われていく、喪失、脳に爆発の衝撃が叩き込まれる、痛みはない、死んだから。

 キャルが立ち上がる、ソーニャがベレッタを拾い上げて彼女に手渡す。遊底
を引いてチャンバーに弾丸を送り込む、生き残りが苦痛の呻きをあげた。
 銃を脳天に突きつける、零距離射程から放つその弾丸を避ける術は彼は持っ
ていない。死の恐怖に精神が食い尽くされる。
「死ぬ前にちょっとはいい思いをしたんだから」
 引き金を引いた。
 銀の弾丸が脳天を貫く。激痛を感じる間もなく灰になった。
「感謝してもらわないとね」
 ふ、とキャルは銃口に息を吹いた。消音器付きの銃ではいまいち格好がつか
ない、と残念に思った。
 二人はべっとりと血がついたハンドルに閉口しながら、扉を開く。天井から
断続的な爆発音や銃声が聞こえてくる。
 それに伴ってキャルの歩行速度が次第に鈍っていき、ついに立ち止まった。
「ドライ? もうすぐ甲板よ」
 ソーニャが不信な顔をして、彼女に言った。
「あのさ」
 もじもじと足を踏み鳴らす、ははあ、とソーニャは見当をつけた。
「ダークマン、探しに行きたいんだけど」
「あら、そ」
「まあ、心配している訳じゃないけど。念の為ね、念の為」
 際限なく言い訳しようとするキャルの口を、もういい、という風に手を出し
て押し留めた。
「いいわよ、ヘリの確保は任せといて」
「ありがと、すぐ戻るよ」
 言うなり、踵を返してキャルは駆け出した。何だかんだ言って置いていくこ
とはできないのだろう、多分あの男が先にここに辿り着いていても同じことを
したことは間違いない。
「人間って、本当面白いわ」
 そう呟いて、甲板へ続く扉を開いた。
 ――さてさて、この甲板で一体何が起こっているのやら。


                ***


 ダークマンは置いてきぼりにされても、あまり気にしなかった。むしろ感謝
の方が大きかった。まだ一匹、どうしてもこの場に捨てられない奴がいる。
 こんなところでただ死ぬには勿体無さ過ぎる女がいる。
 包帯と消毒液の香りがする彼の匂いを嗅ぎつけるのは、吸血鬼の彼女にはそ
う困難な仕事でもあるまい。キャルとソーニャを巻き込むのは忍びない、とい
うより踏み込んで欲しくはなかった、あくまでこれは自分と諸井霧江の問題だ。
 ユダの血統はいつしか彼の前から姿を消していた。後に残っているのはソー
ニャとキャルが撃ち殺した、あるいは斬り殺した人間の死体とかつて吸血鬼の
肉体を構成していた灰燼だけだ。
 ゆっくりと歩き続ける。それにつれて、次第に部屋の唸りが高まっていく。
 唐突に「来る」と予感した。
 それは恐らく最愛の恋人と最良の友人を殺された彼と、最愛の恋人と最良の
友人を殺した彼女にしか分かり合えない感覚だったかもしれない。
 ダークマンの目の前に扉があった、“第五機関室”と鉄のプレートに刻印さ
れている。
 震動がある、ここに唸りの元がある。
 ――ここだ。
 確実に、この扉の向こうに、諸井霧江が在る。
 絶対的な予感。
 ハンドルを握る、ゆっくりと回して扉のロックを外す。
 同時にダークマンの脳内に巣食っていた獣の扉もゆっくりと開き始めていた。
 壊れかけている南京錠、壊れかけた理性。
 ロックが外れ、扉が開いた。

 ごお――――――。
 踏み込むとチェルノボグの鼓動が耳をつんざく。中央で動く機関を回り込む
ようにして歩く、ハンマーを両手で構えた。
 しかし見渡しても、何処にも諸井霧江の姿は見えない。
 予感が外れたのだろうか? だとするならば、自分の勘もあまり褒められた
ものではないようだ。
 溜息をついて、通路へと続く階段を見上げた。


 ――居た。


 白衣の吸血鬼が天井を蹴るなり、羽根を広げてダークマンに襲い掛かった。
 ナイフのような爪と、振り上げたハンマーが激突する。
 ダークマンはここで改めて諸井霧江の顔を見た。
 右側のレンズが完全に破損し、フレームが捻じ曲がった眼鏡を律儀にかけた
顔は半分以上が焼け爛れている、あまりに激しく燃焼したので再生速度が鈍い
のだろう。
 牙は普通の吸血鬼の倍くらいあるだろうか、しかも上顎に加え、下顎にも牙
が二本生えている。
 モーラのハンマーに孔を穿つことも可能なくらいの鋭く硬い爪は、肉体に直
に触れれば、皮と肉と血管を楽に断ち切ることも可能だろう。
 おまけに、
「教授――どうしました? 押されてますよ? こんな小娘に」
 ダークマンの筋肉はランゲヴェリツ・プロセスの影響でフル活動している、
人間が限界まで出せる力を遥かに越えているはずだ、にも関わらず彼女の爪と
ダークマンのハンマーの鍔迫り合いは、次第に彼女が優勢になり出した。
「くそっ!」
 苦痛を感じない、そして無限とも思える剛力を持つ躰とアドレナリンとエン
ドルフィンの大量分泌をもってしても、素質が有る吸血鬼には力不足だ。
 だが、人間は吸血鬼よりほんの少し悪賢い。
 ダークマンが突然力を抜いて後退する、全力を出していた諸井霧江はバラン
スを崩し、前のめりになった。
 素早く左手のみで持ったハンマーで彼女の視界を覆い隠し、余った右手でベ
ルトのストライカー12ショットガンを引き抜き、スラッグ弾と散弾を立て続
けに腹と左腕に向かって三発撃ち込んだ。
 諸井霧江が絶叫する。
 ――どうだ!?
 ダークマンが確認の為に動きを止めた瞬間、攻守が交替した。
「効くかァ!」
 銀の散弾で開いた腹から血と腸を滴らせながら、諸井霧江がダークマンの元
へ突っ込む。ダークマンがハンマーを振り上げようとした瞬間、彼女の右手が
叩き落とした。
 舌打ちして今度はストライカー12ショットガンを振り上げる、振り上げよ
うとした。
 既に八割が修復した諸井霧江の左掌がストライカー12ショットガンを握り
潰す。
「オウテ!」
 諸井霧江が日本語で叫んだ、ダークマンは忙しく思考する彼女への対抗手段
の裏で、その意味を思い出した。
 詰まれた。
 諸井霧江がダークマンの首に噛みついた。
「―――――!」
 声にならない悲鳴をあげて、もがく。吸血鬼のウィルスが彼の血に混ざり、
爆発的に増大する。
「がっ……こ……く……」
 じたばたとダークマンの手足が諸井霧江の躰を引き剥がそうとするが、身に
宿ったエネルギーが物凄い勢いで吸い尽くされていく。
「!?」
 突然諸井霧江が牙を首から引き剥がした、ダークマンの視界がぐるぐると揺
れる、寸断なく嘔吐の感覚が襲い掛かる。だが、理性は、彼女を倒そうとする
思考能力だけはまだほんの少しだけ残っていた。
「教授、人工皮膚は完成――!」
「離れろォ!」
 キャルが放ったステアーAUGの弾丸が諸井霧江の首筋を貫通した。
 我に返ったように諸井霧江は間合いを取る。後退しながらチェルノボグの機
関に跳び乗った。
「ダークマン! 大丈夫――!?」
 キャルが階段を飛び降りて駆け寄る。
 ダークマンは力無く頷き、震える手で諸井霧江を指差した。
「キャル! そいつを殺せ!」
 ステアーAUGの狙いを諸井霧江に定める。
「あはははは! そう、そうなんだ……意地悪ですね、ペイトン教授。
 まさか、ちゃんとした“本物”が、完成していたとはね!」
「貴様………………貴様も、私の記憶を!?」
 ダークマンは血を吸われた瞬間、わずかに流入した彼女の血液と唾液から彼
女の記憶を脳に読み込んでいた、もっとも今の彼に役立つ情報はほとんど無か
った。
 しかし、逆に諸井霧江が自分の記憶を読み取ったとなると、話は大ごとだ。
「記憶? 本物? ダークマン、一体なんなのさ!」
 諸井霧江の背中から仕舞いこまれていた羽根が再び広がった。巨大な蝙蝠の
羽根が彼女の躰を浮き上がらせる。
「通信機器は生きてるわね……悪いけど、貴方達は後でゆっくり殺してあげる。
 今は“ディ・ウォーク”が優先する!」
 だん、と機関を蹴って彼女が飛び立った。
「――疾い!」
 必死に彼女の姿を目で追いながら、ステアーAUGをフルオートで連射した。
 彼女は哄笑しながら、部屋の外へ飛び出して行った。
「…………殺ったか?」
 キャルは首を横に振った。
「手応えはあったけど、仕留めたって感覚はなかった……」
 悔しそうに床を蹴る。
「そうか……」
 ダークマンは気が遠くなるのを、踏ん張って何とか堪えた。
「! しっかりして!」
 手すりによりかかる彼の肩をキャルが抱いた。
 あまりにも彼の躰は重い、死体を担ぐとこんな重さになるだろうか。
「置いていかなければ――!」
 歯噛みする。が、ダークマンは笑った。
「馬鹿か、置いていけと言ったのは私だ。だから、私のことはいい。
 ヘリへ行け、私を待つな。チャンスがあれば、すぐに逃げろ」
「……うるさい! 指図するんじゃない! ヘリへ行こうが、アンタを引き摺
ろうが……アタシの勝手だ!」
 ステアーAUGを背中のホルスターのベルトと腰のベルトの間に差込み、彼
の肩を引っ張る。
「頑固者め……安心しろ、大分楽になった、自分で歩ける」
 言うなり、ダークマンはキャルの肩から抜け出すとよろよろとハンマーを手
に取った。
「大丈夫なの?」
「ああ……急性の貧血みたいなものだ、すぐ収まる」
「そ」
 あからさまホッと安堵の息を吐くキャル。
 だが、ダークマンが諸井霧江が飛び出した方へ向かうのを見て呆然とする。
「ちょ、アンタ……そんな躰で行く気!?」
「当たり前だ」
 荒れていた呼吸が早くも収まってきている。
「どうやら私は――」
 両手を見る、手に持ったハンマーをひょいと背中に担ぎ上げた。
「吸血鬼になりかけているらしい」
 反射的にキャルが後ずさった。
 そんな彼女を見て、ダークマンはわずかに唇を歪ませる。
「気にするな、なるべくしてなったことだ。私はもういい、あれを殺さない限
り躰は元に戻らんし、そんな悠長な時間を待って貰いたいなどと言うつもりは
ない、行け。モーラがお前の救けを待っている」
「……」
 キャルは両手の拳を握り締め、ダークマンに背中を向けた。
「そうだ、それでいい。後ろは振り返るなよ」
 満足気にそう言うと、ダークマンは諸井霧江の後を追うために再び来た道を
戻り出した。
 これでいい、とダークマンは妙にスッキリした気分で通路を歩き出した、背
後でキャルと別れた機関室の扉が閉まる。
 ――なぜ、開け放したはずの扉が閉まったのだろう?
 人の気配を感じ、がっくりと両肩を落とす。
「行かねぇ」
 ハンドルを回してきっちりドアをロックし、キャルは宣言した。
「あの女吸血鬼をブチ殺す、アンタが元に戻る、アンタとアタシ、ソーニャで
揃って脱出する。アンタとアタシでモーラを追う。それだけのこと」
「……後悔しても知らんぞ」
 キャルは首を横に振る。
「私はお前の血を吸うかもしれんぞ」
「その前に殺してやるよ」
「そうか、殺してくれるか」
「ああ、殺してやるよ」
 もし、だ。
 もしキャルが素早く正面に回れば、ダークマンが微笑むというおよそ珍しい
光景を目にすることができただろう。
 同時に、彼の目尻に確かに液体が滲んでいたことも分かったに違いない。
「通信施設は、確か二股に分かれた道を違う方へ曲がり、そのまま階段を駆け
上がれば良かったはずだな」
「ああ」
「よし、行くぞ……ついてこい、キャル」
 二人は並んで歩き出した。


「行きながら、お前に教えておきたいことがある。
 もし、私が死んでお前が生き残ったら絶対に何処かへ伝えることだ」
 小走りに走りながら、ダークマンがキャルに語り掛ける。
「何処かって、何処へさ」
「吸血鬼退治の専門家みたいな連中がいい、王立国教騎士団、ヴァチカン第十
三課、有象無象の吸血鬼ハンター達にな」
「う、うん」
 突然話が大きくなり出した事に、キャルは思わず返事が萎縮した。
「大抵の吸血鬼は、夜しか出歩くことはない。昼を歩くことができる吸血鬼も
いるが、それはせいぜい吸血鬼一千人に一人か二人程度の割合だ。
 これは知ってるな?」
「知ってる」
 何を当たり前のことを、とキャルは顔をしかめた。
「人間は昼間も夜も関係ない、これも知ってるな?」
「当たり前だろ」
 階段を駆け上がる、キャルはまるで自分がハイスクールの授業を受けている
気分だった。
「人工皮膚というのは、元々火傷患者の皮膚移植や外見の変化をもたらす為に
研究を進めていたものだ。火傷で焦げ付いた皮膚をこそぎ取り、その人間自身
のデータを取り込んだ皮膚を移植する。他人の皮膚移植とは訳が違う。
 拒絶反応を起こすこともなく、皮膚の色の違いが生じることもない。
 どんな重傷でも、死んでさえいなければ元の姿に戻ることができる。
 私の追い求めていた理想はそれだ」
 扉を開く、ユダの血統が痙攣を起こしていた。躰がバラバラに引き裂かれて
いる、恐らく諸井霧江に襲い掛かって返り討ちにあったのだろう。
「それを、どうしてアイツ等が狙うのさ」
 二人はそれを無視して突き進む、ひたすら通信室を目指す。
「諸井霧江は、かつて私の助手兼教え子だった。だから燦月製薬で吸血鬼とい
う存在を知って、私の人工皮膚のことを思い出したのだろう」
「昼を歩けない吸血鬼……人工皮膚……ダークマン、まさか」
 先ほどから与えられた点が、一本の線に結びつく。
「そうだ。私の人工皮膚はとんでもない副作用があった、いや、本来なら歓迎
すべき副作用なのだろうがな。
 ……陽光を受け止めることができるんだ、私の創り出した人工皮膚の細胞は
吸血鬼の皮膚と違って“生きている”からかもしれん。
 いずれにしろ、人工皮膚は吸血鬼の本来の皮膚、陽光を受けると焼け焦げる
それを紫外線から護ることができる。
 すると、どうなる? ……街にはサングラスをかけた吸血鬼達が大挙して出
回る羽目になるだろうな」
「それは――」
 悪夢だ、とキャルは思った。
「そればかりじゃあない、応用すればキメラヴァンプにすら人工皮膚を使うこ
とが可能かもしれん。
 私の血を吸った時、諸井霧江は完成した人工皮膚と、MOディスクの本当の
パスワードの記憶を盗み取った……つまり、あの女が私のデータを組織に送れ
ば、こちらの負けということだ」
「なんだ」
 突然キャルがそう呟き、ダークマンの腕を肘で突っつく。
「結局さ、アタシがいないと難しかったんじゃない」
「……まあ、そうだろうな。
 頼りにしている、相棒」
「頼りにしてくれ、相棒」
 キャルは屈託のない笑みを浮かべ、親指をぐっと立てた。


                ***


 突然、静寂が辺りを支配した。
 ――なんて静かなのかしら。
 ハンドルをそっと回し、甲板の様子を窺った。
 そして無数に積み重ねられたユダの血統を視た。
「なっ……に……」
 多すぎる、余りにもその数は膨大すぎた。誰だ? ネロ・カオスだろうか。
 扉の隙間から外に出た、まだ夜だがライトが昼間を思わせる眩しさで甲板を
照らし出している。
 かすかにギチギチというユダの血統の顎が鳴る音がした。
 物陰に隠れて、そっと音の方向の様子を窺う。
 三匹のユダの血統がホバリングしながら、甲板の中央に佇む巨大な生物の周
りを飛び回っている。
(――キメラヴァンプ?)
 だが、あれは果たして動物といえるのかどうか、今まで彼女が資料、あるい
は実際に仕留めたキメラヴァンプはいずれもわずかながら元の生物の要素が残
存していた。
 蜘蛛・蝙蝠・亀・犀……だが、眼前に佇むアレはなんだ。
 紛れもない人型だ、羽根もなければ尻尾もない、完璧なまでの人の型。
 だが、その筋肉の膨張は異常だ。
 ゴリラか? だが、そのキメラヴァンプの顔はまるで狼のようで猿らしいと
ころが一つもない。何より彼女の目を引くのは、サーベルタイガーのような長
い牙、そしてそんな外見の特徴すら遥かに凌駕する威圧感。
 ――勝てない。
 ユダの血統は、そして自分は、あるいはこの場にいないダークマンや、キャ
ルも間違いなく勝てない、そう確信ができた。
 三匹がホバリングを止めて一気に襲い掛かる、一匹がしがみつき二匹がその
カマを躰に突き立てた。
 ずぶり、とカマがキメラヴァンプの臓に食い込んだ。それでもソーニャは彼
の勝利を疑ってはいなかった。
 そしてそれは事実となった。
 無造作にしがみついたユダの血統の頭を掌で握り潰し、まるで蚊を追い払う
ように腕を振り回す。
 べちゃ、という音を立てて二匹のユダの血統の躰が吹き飛んだ。
 カマが抜けると同時に、臓の傷が修復した。
 キメラヴァンプは満足気な笑みを浮かべると、真っ直ぐダークマンが乗って
きたヘリに向かって歩き出す、そのヘリの傍で呆然とへたり込んでいた男が、
慌てて逃げ出そうとするが、腰が抜けているらしく、上手く歩くことはできな
いようだった。
 あれも殺されるのか、と思ったがキメラヴァンプは彼の服の襟を掴むと、ヘ
リの扉を開けて放り込み、自分は後部の座席へ腰を下ろした。
 ――どうやら、ヘリを使用して脱出しようという腹らしい。いくら強くとも、
この輸送艦で漂流するという事態は避けたいようだ。
「そうはいかないわ」
 距離にして約三十メートル、銀のスイッチナイフを構える。以前サーカス団
で、ナイフ投げの男女にコツを教えて貰った経験が役に立つ時が来たらしい。
 だが、これをやるということは。
 自分の存在をあのキメラヴァンプに知らせるということになる。
 ――やれやれ。モーガンも殺したし、別に未練がある訳じゃないけどさ。
 だが、一難を倒して間髪入れずにもう一難が襲い掛かるとは、自分の人生な
がら波瀾に満ちているものだ、とソーニャは思った。
 ナイフの柄の一番下の部分を親指と中指で掴み、人差し指でバランスを取る。
 そして、物陰から威風堂々と姿を現わす。
 キメラヴァンプがこちらを見て、目を剥いた。
「慌てないで。あなたと殺し合うつもりなんてないから」
 そう呟くと、彼女は笑ってスイッチナイフを全力で投擲した。
 寸分違わず、ヘリの操縦席に乗った――ドアを閉めていなかったのが致命的
だった――パイロットになる予定だった男のこめかみを貫通し、脳を破壊した。
 呆然としたまま、男は操縦席からずるずると崩れ落ちる。
 キメラヴァンプがドアから甲板へ飛び出した。
 何も言葉に出すことはないが、憤怒の表情を浮かべているのは三十メートル
先からでも見て取れる。
 ソーニャの背中から冷や汗が流れた。
「これはどうも……私達が生き残るのは難しいかもね」
 最後の希望の前に立ちはだかる最終ハードル。
 それはソーニャにとって、キャルにとって、ダークマンにとってはあまりに
高すぎる代物だった。










                           to be continued






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