人間が生み出した数々の偉業や進歩――芸術、科学、テクノ
ロジー、哲学――これらはすべて、名もなき床に横たわって汗
を流している肉のかたまりに帰するものなのだ。
   「フォーリング・エンジェル」ナンシー・A・コリンズ
















 巨人の持ち物のような錨がけたたましい音を立てながら巻き上げられた。
 甲板の上を喧騒が支配し、怒鳴り声が錯綜する。コンピュータ制御されたス
クリューがゆっくりと、しかし確実に速度を増し、八千九百トンの黒い化物が
黒い海を掻きわけ始める。
 キャルは立方体の部屋の壁面を形成する強化ガラスに手を伸ばした、震動が
増幅して掌が痺れるくらい揺れている。
「出港――」
 呟きは轟音に混じって消えてしまう。
 かくして、死神を満載した輸送艦“チェルノボグ”は外海へ解き放たれた。


 諸井霧江が大型のディスプレイに件のディスクの内容を映し出した。
「まずはこれを聞かせてもらいたいのですが」
 ディスクの中の無数とも言えるフォルダ群。それぞれの中に人工皮膚の成功
したシミュレーション結果や、成分データのようなものが収められていた。
 しかし、諸井霧江はそれを見て呆気に取られた。
 全ての成分データ及びシミュレート結果が微妙に異なっているのだ。
 例えばAというフォルダの成分データには人工皮膚の組織にある酵素を組み
込んでおり、シミュレート結果は九十九分から五分の延長を示していたが、B
というフォルダでは全く同じ成分データでありながら、九十九分から三分の減
少という失敗結果があった。
 諸井霧江はそれを見て理解した、このフォルダの中のほとんど全てのデータ
がダミーなのだ。恐らくではあるが、成功した成分データ及びシミュレート結
果を無数にコピーして、それらの内容を一つを残して全てランダムに改変した
のだ。
 正しいフォルダは三枚のMOディスクの中の恐らくどれか一つだけ、問題は
諸井霧江にはその改変されたデータからどれか一つを見つける術はない、とい
うことだ。
 全てを実際に試す訳にもいくまい、どんな改変データであれほとんどのデー
タの人工皮膚は九十九分程度保てるようにしてあるはずだ。
(それでも万が一とばかりに試してみた、作成した十の人工皮膚サンプルは九
十九分で溶解した)
 数千以上あるデータの全てを試すとすると、二十四時間やり続けたとしても、
恐らく一年はかかる。
 だが、それよりもっと恐ろしいのは、
「この中のデータに正解はあるんですか? どうなんです、教授!」
 諸井霧江が机に手を叩き付けた、プティングを崩したかのようにぐしゃりと
押し潰される。しかしダークマンは微動だにしない。
 微動だにせず、別のことを考えていた。
 例えばダークマンはキャンキャンと喚き散らす諸井霧江がたまらなく愛しい
と思った。抱き締めてゆっくりと背骨を砕きたい。
 柔らかいソファーに座り、火傷しそうなくらい熱いコーヒーを飲みながら、
諸井霧江のこのヒステリックな様子をいつまでも眺めていたいとも思った。
 しかしそんな悠長なことをしている暇はない、心の底で彼女の姿を嘲笑うの
はささやかな復讐ともいえたが、自分がここに辿り着いた時点でキャルはいつ
殺されてもおかしくない。
 もたもたしている暇はないのだ。
 もたもたといたぶっている暇はないのだ。
 ――それでは教えてあげよう。
 殺害は迅速に。


「教えるよ」


 ダークマンの低く響いた声に諸井霧江が喚くのを止めた。
「お前の想像していた通り、そこに収められているデータは全て間違っている。
 正しいデータなど存在しない」
 やはりだった、と諸井霧江は思った。
 最後のフォルダの最下層にデータ以外のものが一つだけ存在していたのだ。
 プログラムだった。起動させるとパスワードを求めてきた、一瞬妙だと思っ
たがすぐに見当をつけた。
 これは検索プログラムなのだ、正しいパスワードを入力すれば正しい成分デ
ータと正しいシミュレート結果が手に入る。正しいパスワードを入れないとい
つまで立っても堂々巡り。
 ダークマンは立ち上がり、机をぐるりと回って諸井霧江の傍にいくと、キー
ボードを叩いてプログラムを起動させた。
「検索プログラムではない」
 諸井霧江の推理にダークマンが介入した。
「抽出プログラムだ……パスワードを入力して起動させると、改変データの中
から正しい部分を抜き出し、結合する」


 パスワードを入力してください。
 パスワードを入力。
 パスワードを入力してください。
 パスワードを入力。
 パスワードを入力してください。
 パスワードを入力。


「パスワードは三つ。パスワードを間違えるとデータは破壊される。
 順番を間違えてもデータは破壊される」
 三回パスワードが求められ、ダークマンはいずれもアルファベットをランダ
ムに並べた十四文字のパスワードを三度打ち込んだ。
 殺さなくて良かった、と諸井霧江は安堵した。殺していたら彼の頭の中だけ
にあったパスワードは永久に葬り去られていただろう。ペイトンという男は彼
女が助手だった時も自分のパソコンのパスワードを一度もメモに書き止めるこ
となく打ち込み、しかもその時の気分次第でたびたびパスワードの変更を行っ
ていた。
 彼の明晰だった頭脳は全く錆びついていないようだ、期待通りだったとも言
える。しかし、諸井霧江は心の内に一つの疑念を抱いていた。
 そんな彼がどうしてのこのことこの輸送艦に乗り込んできたのかが理解でき
ない、友人の為という空々しい文句だけでやってくるほど彼はセンチメンタル
な男ではない。
 諸井霧江の思考が回転する、ダークマンことペイトン・ウェストレイク教授
がここに来た理由。救出? 復讐? どちらなんだろう、どちらに重点を置い
たんだろう。
 仮に救出として、その方法は?
 輸送艦はもうまもなく出航する。そうなれば脱出する術はない。この輸送艦
の人員は人間・吸血鬼合わせて百人は下らない。勿論その中には戦闘技術を持
たない研究員も含まれているが、大半は二人の人間と一人のダンピィルを簡単
に屠れるだけの技量は持っている。
 まして、諸井霧江の配下には彼等を凌駕する化物の一個中隊が存在する。
 “ユダの血統”総数二百匹。
 カプセルに積め込まれた百九十九匹のメスと一匹のオス。かつてゴキブリを
駆除する為の益虫として開発されたはずの虫が、今では人間を駆逐する為の害
虫と化していた。
 ユダの血統はアリとカマキリの遺伝子を組み合わせて産み出された生物だ。
 人間への擬態機能を持ち、血の臭いをかぎ当て、カマで獲物を切り刻み、強
靭な顎で人体を喰らう。だが、知能は所詮虫のレベルで、戦闘には使用できな
い出来そこないだった、敵味方区別なく襲う上に勝手に卵を産んで増殖する。
 地下に潜みたがるから一度行方を見失ってしまうと、ろくでもないことにな
る。
 ゴキブリを駆逐するために産み出された生物がゴキブリみたいに増える。
 矛盾だ。
 開発した燦月製薬の手によって卵一つに至るまで焼却処分される寸前、諸井
霧江がある提案を行った。
 メスはただ一匹のオスとの交尾によって卵を産み出す、だからメスはオスに
本能的に逆らえないようプログラムされている。逆に言うとオスはメス全てを
支配下に置くことが可能である。
 つまり、オスをコントロールすることで全てのユダの血統を統率することが
できる……諸井霧江は次のキメラヴァンプにユダの血統の遺伝子を投入するこ
とに決めた。
 それがリァノーンから得られたV酵素を使って作られた最後のキメラヴァン
プとなった。予想通り、ユダの血統はリーダーであるオスによって見事に統率
された殺人部隊となった。
 ニューヨークでの大規模な実地試験を行う為、チェルノボグに二百匹を積載
して出航させた。インフェルノのリーダーであるマグワイアはそれを使って、
ニューヨークに潜んでいた吸血鬼ハンターに対抗しようとした。
 ところがマグワイアが投入を行う前に死亡した結果、実戦の機会がないまま、
彼等――否、それらはチェルノボグへ戻ってしまった。
 そう、このチェルノボグの地下研究室の天井には今、二百匹からなるユダの
血統がその身を休めていた。
 体長一メートル七十センチから二メートルの生物が揺ら揺らと逆さに吊られ
ているその光景は悪夢そのものだ。
 そしてメスと共に眠りに就いていたただ一匹のオス――つまり、ユダの血統
のリーダーが漂い始めた血の匂いに気付いた。
 強烈に甘く、脳髄が痺れるような何ともいえない匂い。だが、あまりにも匂
いが強烈すぎた、一人二人の血が流れている程度ではこのようにはなるまい。
 ――何かが起こっている。
 彼は強い思念を放出してメス達に動かないように命令すると、羽根を広げた。


                ***


 もし、この場に他の誰かがいたとしたならば、ちりちりと空気が帯電するよ
うな圧迫感に押し潰されていただろう。
 ネロ・カオスの懐から飛び出した二匹の狗は瞬時にカインの腕で首から先を
吹き飛ばされ、ご丁寧に躰を足で踏み潰された。
 反射的にネロ・カオスは舌打ちする。カインの口が嫌らしい笑い方を見せた。
 そこから先、二つの生物は時間が凍り付いたように動かなかった。
 ネロ・カオスは最初からカインを殺すつもりなどない。最優先するべき事柄
はカインに“贄”の素質があると見込まれたダンピィルの救出だ。彼女がいな
ければ儀式が成立しない以上、当然の選択だ。
 ――ふむ、仕方あるまい。
 ネロ・カオスは無駄に獣を吐き出すことを止めて、カインがダンピィルを抱
えている腕に全神経を集中することにした。
 一方、カインもまたネロ・カオスがいかなる吸血鬼かということを瞬時に察
知した。加えてこの場でダンピィルを抱えながらでは、恐らく仕留めることが
できない、という事実も。そしてネロ・カオスの狙いもまたこのダンピィルに
ある、ということも読み切った。
 一歩だけカインが後退する、ネロ・カオスは自分の狙いが悟られたことに気
付いた。その分ネロ・カオスがカインの元へ一歩踏み出す。
 突然カインが跳躍し、ネロ・カオスの頭上を飛び越してそのまま部屋の扉を
力一杯殴り飛ばすと廊下へ抜け出した。そのまま、壁や床を蹴り上げながら逃
げていく。
 カインの片腕に神経を集中させていたせいで、彼が両脚に力を溜めていたこ
とに気付くのが数瞬遅れた。だが、ネロ・カオスはショックを受けた様子はな
い、タイムラグを取り戻すような速度で部屋から飛び出し、廊下の壁と床をジ
グザグに蹴って追跡する。
 途中、あちこちに躰が半分、あるいは三分の一に千切れた死体が転がってい
た。先ほど「外に出ていろ」と命令しておいた吸血鬼や人間達だ。殺したので
はないだろう、単にカインの走りに巻き込まれただけだ。
 血のぬめりに気をつけながら、ネロ・カオスは疾った。あっという間に彼は
カインの背中を視認する。
 ネロ・カオスの腕が変化し、黒い不定形の塊に変化する。突然それがぐい、
と伸びた。鞭のようにしなりながらその黒塊はカインの脚に絡み付く。
「――チィッ!」
 カインは脚のそれを黙殺した。そのまま疾ることを選ぶ。捕縛していた黒塊
からぷちぷちという音がして千切れそうになる。だが、カインの速度がわずか
ながら鈍った。
 ネロ・カオスはカインの背中を捕らえた。左手の拳を思い切り背中に叩き付
ける、鈍い感触が拳を痺れさせた。並の吸血鬼なら背骨が折れていただろう。
 だがカインの背骨は頑強な筋肉に護られていた。恐らく彼にとってはほんの
少し痛かった、その程度の攻撃だ。
「難儀だな」
 我知らず、ネロ・カオスが呟いた。
 研究室の廊下をついにカインが抜け出した、巡回していた見張りの女吸血鬼
が彼等二人を見て悲鳴をあげる。
「ヘリを用意しろ!」
 珍しいことにネロ・カオスが叫んだ。女吸血鬼は夢中で頷くとその場を慌て
て逃げ出した。
 次の瞬間、カインとネロ・カオスはぶううん、という羽音を聞いた。
 天井を見上げる、二百匹のユダの血統達が血の匂いで興奮して羽根を震わせ
ていたのだ。その中でも一際大きい一匹がこちらに向かって飛び込んで来る。
 オスだ、ユダの血統のボス、そしてキメラヴァンプ。
 旋回していた彼が二人の姿を目視した、空中でホバリングして何が起こって
いるのか、状況を検討している。
 カインが彼に向かって威嚇するように吼えた。
「手伝え」
 ネロ・カオスの命令をキメラヴァンプは正当な物と認識した。もっとも彼は
自分に向かって威嚇してきた化物に腹を立てていた、という理由も存在したが。
 壊れたバイオリンのように耳障りな鳴き声。
 熱誘導ミサイルのように曲がりくねりながら、ユダの血統は襲い掛かった。
 両手のツルハシのようなカマがカインの顔面と胸板に突き刺さった、心地よ
い苦痛の悲鳴を待つ――が、何も聞こえない。
「?」
 顔面に突き刺さったカマを引き抜いた、ごぼごぼとカインの顔面が泡を吹き
ながら再生していく。気付いた時にはカインの左手がユダの血統の首を掴んだ、
力が篭る。
 ユダの血統がけたたましい悲鳴をあげた。
 カインは顔面を突き刺された怒りが吹き飛んでいくのを感じて、唇を歪ませ
る、このまま首と脊髄をずるずると引きずり出し、切断面から吹き出た血を貪
ってやる。
「それでいい」
 ネロ・カオスの呟きがカインの耳に届いた時には遅かった、彼の右腕と抱え
たダンピィルに黒塊が何重にも巻き付き、腕の付け根を捻り飛ばした。
 瞬時にネロ・カオスはカインから離れる。カインが残った左腕を掴んだユダ
の血統もろとも振り回した時には、ネロ・カオスは背中を見せて逃げ出してい
た。攻守の逆転。
 追いすがろうとするカインの腰をユダの血統のカマが突き刺した、だがカイ
ンはそれを黙殺して押し進む。速度は先ほどとまるで変わりがない。
 ユダの血統は唖然としていた。
 何だこいつは、なんなんだこいつは!
 止められない、自分という生物などこの化物にとっては足に絡んだ蔦程度に
しか認識されていないのだろう。だが命令された以上、彼は死んでもこの化物
を止めなければならない。上位の吸血鬼からの命令は他系等であろうと絶対に
服従だ。
 その時彼はようやく自分には百九十九匹の眷属がいたことを思い出した、そ
して彼女達もまた、自分の命令に絶対服従であることを思い出した。


                ***


 男が唐突に「ヘイ! ヘイ!」と声をかけてきた。馴れ馴れしげに肩を叩い
て、部屋をノックする。二人は困惑した。
 返事は無い、男は肩を竦めた。
「おい、開けてくれ」
 二人はますます困惑する。
「誰も入れるなという命令だ」
「俺でもか?」
「お前は誰だ」
「あのいけすかねぇ女の遣いだ」
 二人が顔を見合わせる。諸井霧江の命令は絶対だった、これまでは。
「モーガン卿が」
「モーガンだかコーガンだか知らねぇが、それがどうした、こっちは命が賭か
ってんだ! ……なあ、頼むよ」
 そう言いながら男が見張りの懐からカードを取り出した。扉の電子ロックを
解除するICカードを。
「あ、おい、こら。止めっ――」
 慌てて押し留めようとする。
「落ち着け、ちゃんと考えがある」
 ICカードがスロットに差し込まれ、スロットのランプがレッドからグリー
ンに変わり、ロックが解除された。
 部屋は無人だった。
「……おい、誰もいないぞ」
 そう言いながら男は後ろに退がった、彼女の意図が読めたからだ。
 慌てて二人が部屋の中に乱入する。上からするすると一人の肩に脚が伸び、
太股が見張りの首に食いついた。感触を楽しむ間もなく頚椎に圧力がかかり、
負荷に耐え切れなくなったそれが音を立てて折れた。
 呆気に取られていたもう一人の見張りがアサルトライフルに手をかけた、
「シット(くそ)!」
 反射的にそう叫ぶ。背中から応じる声がした。
「“くそ”はお前だ」
 振り向くこともできなかった。
 彼の後頭部から眉間まで亜音速の鉛の塊が貫通したので、その皮肉に満ちた
台詞は耳に届くことはなかったろう、届いたとしても彼の脳が認識できたかど
うかは疑問だが。
「――セス?」
「もたもたするな」
 顎で促すその仕草で、彼が何の為にここに来たかキャルは理解した、と同時
に混乱する。
「なんで、あんたが」
「ダークマンのせいで巻き込まれちまってな」
 セスはベレッタとショットガン、二つをキャルの眼前へ差し出した。
「どっちを使う?」
 キャルは迷わずベレッタを手に取った。
「モーラを助けなきゃ」
「あのお嬢ちゃんはどこに行った?」
 キャルは首を横に振った。
「連れて行かれた、行き先は……分からない」
 ふむ、とセスは少し考えてからポツリと呟いた。
「見込まれたのかもな」
「何だって?」
「すまん、何でもない。それよりまずはダークマンと合流しよう。
 あいつも相当マズい状況だ」
「マズいってダークマンがどうしたんだよ?」
 キャルはダークマンは別行動を取っているのだとばかり思っていた。
「今頃はあの諸井霧江って女のところに居るはずだ」
 キャルは驚きの声を慌てて飲み込んだ。諸井霧江、カレンを殺した女吸血鬼。
 今、この世で一番殺したい女。
「二手に別れよう、お前はダークマンのところへ行け。俺はこいつをセットし
てくる」
 セスは手に持った黒いリュックを軽く叩いた。
「何だよ、それ」
「C4」
「ここを爆破する気?」
 驚いて目を剥いた。
「機関部をな。それまでに脱出ルートを確保しておいてくれ。
 時限式じゃないが、なるべく早くしないと……」
 ――銃声。
 セスが突然腹痛を訴えるかのように腹を抑えた。ゆっくりと床に崩れ落ちる。
 それから胎児のように丸まった。血飛沫がキャルの顔に付着した。反射的に
キャルは転がって身を隠す。
「どこに行こうと言うのかね」
 声。
 ――畜生、戻ってきやがった。
 聞き慣れた声という訳ではないが、こいつの声は嫌でも忘れない。先ほど、
自分の――キャル・ディヴェンスの所有を宣言した声だ。確かモーガンとか言
ったか。
「こちらに来たまえ」
 ふざけるな、誰が行くか、と思った。
 足が物陰から一歩飛び出した。
「そう、私の元へ来るんだ」
 殺してやる、と思った。
 ゆっくりとモーガンの元へ歩み寄る。両腕は弛緩したようにだらりと下がっ
ていた。「銃を捨てろ」と言われたのでベレッタを放り捨てた。
「首を差し出せ」
 吸われたい、と思った。
 艶笑を浮かべながら、首を傾けて白い肌を見せつける。視線を交わした瞬間、
キャルの心にはもう殺意の一欠片も残っていなかった。
「く……」
 セスがキャルに手を伸ばすが、既にその距離は手が届く範囲を越えている。
 行くな、と叫ぼうとしても口に出るのは呻き声と生臭い血液だけだ。
 それでも力一杯警告しようとしたところで、急に床に接している部分が冷た
く感じられ、猛烈な勢いで意識が遠のいていった。セスが最後に見たのは、キ
ャルの白い首筋に噛み付こうとしているモーガンと、二人に向かって忍び寄る
黒い髪の人間――らしいものだった。

 彼女が飛び込んできたのはモーガンがキャルの首筋に牙を突き立てるまであ
と一秒、あと一インチのところだった。
 躰ごとぶつかって深く銀のスイッチナイフをモーガンの背中に食い込ませる。
 瞬間、キャルの暗示が解けた。
 目の前に突然現れたいけすかない顔の男の腹部を思い切り蹴って、自分の躰
を後方へ吹き飛ばす、ごろごろと床に転がりながら先ほど放り投げたベレッタ
を掴む、右腕を突き出す、引き金を引く、モーガンの眉間に、モーガンの心臓
に、それからモーガンの股間に銀の弾丸が降り注ぐ。
 モーガンは手に持った拳銃をピクリとも動かさなかった。腹から生えた銀の
刃が彼のポカンという顔を照らしていた。
 やがて蛇がねぐらに潜り込むように彼の躰に出来た黒い穴に刃が潜り込み、
モーガンは呷きながら表皮が捲くれ上がり、剥き出しの筋肉に炎がつき、あっ
というまに骨だけになったが、それもまた灰になって消えて行った。
 空気が灰を流していく。
 灰の向こう側から、キャルはモーガン――という吸血鬼に襲い掛かった女の
姿を始めて認めた。
 逆毛だった黒い髪、黒い革のジャンパーに、やはり黒いシャツ、勿論ズボン
も黒いレザーパンツだった、黒黒黒、手袋まで黒だった。彼女のもので黒でな
いものは紅い瞳くらいのものか、しかしそれにしてもジャンパーのポケットに
突っ込んであってちらりと縁だけを覗かせているサングラスをかければ、まさ
しく全身黒尽くめだった。
 キャルは全く油断なくベレッタを構え続けている、床に寝そべりながら無理
な態勢で彼女の眉間を狙う、疲れるが躰を起こそうとして引き金を引くという
最小限の動きを邪魔したくはなかった。
 相手も銀のナイフをこちらに構えたまま、じっとキャルの目を見据える。紅
い瞳からして吸血鬼であることは疑いない、だがキャルの眼前でモーガンを殺
したのも、また彼女だ。
「名前は?」
 口火を切ったのは彼女の方だった。
「……ドライ。名前は?」
 彼女はどんな人間でも初対面の相手にはドライを名乗ることにしている。
「ソーニャ・ブルー。あなたは何をしにここへ?」
「人を救けに。アンタこそ何をしに?」
「ちょっと殺したかった相手がいただけよ」
 ソーニャはちらりとモーガンが灰燼になった床を見た。
「もう終わったけど」
 キャルは腕をゆっくりと上げて、ソーニャの眉間から狙いを外した。それか
ら関節の痛みに顔を顰めながら躰を起こす。
「ファントム」
 掠れた声だった、すぐにキャルはセスの元へ走り寄った。ソーニャがゆっく
りと後を追う。
「セス……」
 腹から黒い血液が大量に溢れ、躰に張り付いた白いシャツを汚していた。肩
を貸そうと膝を突いたキャルを押し留める。
「俺のことはいい」
「でも――」
 セスはリュックを左手で掲げた。
「これを持って行け、ダークマンの追跡装置が入ってる……大体の位置くらい
ならそれで掴めるはずだ。
 C4も持って行け、全部終わったら何もかも吹き飛ばしてしまえ」
 追いついたソーニャがズボンのポケットからくしゃくしゃになった煙草を取
り出した、セスに咥えさせて、火をつけてやる。
 有毒な煙をこれ以上ないくらい吸い込んで、セスの肺は膨れ上がった。それ
からゆっくりと吐き出す。
 そして一言。
「メンソールは好かねぇ」
 しょぼくれた情けない笑い方だった。ソーニャも笑い、キャルもわずかに笑
った。セスはうんざりした、という風に手を振った。
「もういい、行け、行っちまえ。……俺は少し疲れた」
「……ああ」
 立ち上がってベレッタを取る、後ろを振り返らないように駆け出す。背負っ
たリュックのC4が肩に食い込んで重かった。
「で、これからどうするの?」
 後を追うソーニャが尋ねる。
「アタシはアタシの仲間と合流する。そっちは?」
 階段を駆け上る、煙草を吸ってリラックスしていた見張りがこちらに気付い
た、ベレッタの弾丸が眉間に、ナイフが咽喉に突き刺さった。
 ソーニャは走って投げたナイフを空中でキャッチした、屍体は既に灰になっ
て、撃ち込んだ銀の弾丸がからんと音を立てて床に落ちた。
「ヘリを奪って逃げるつもり」
「ヘリを操作できんの?」
「伊達に長く生きてないのよ」
 四人の男女が階段を上がった先の部屋をうろつき回っていた。ソーニャが全
員の顔をちらりと見る。
「二人が吸血鬼、そこのAK−74を構えてて腰が引けてる彼と、周りをぐる
ぐると銃で威嚇している女の子が人間ね」
「分かるの?」
「そりゃ、同類だもの」
 キャルは扉の陰に隠れながら、追跡装置でダークマンの居場所を調べた。小
型のPDAのような代物で、ディスプレイに赤い光が点滅しており、此処から
どのくらいの距離のところに居るかを指し示していた。当然ながら、ダークマ
ンはチェルノボグの中に居る。
 彼の居場所はこの部屋を真っ直ぐ通り、廊下を左に曲がる、さほど距離的に
は遠く離れているようには見えない。百メートル前後だろう。しかし、この追
跡装置には高さの概念が存在しない。
 辿り着いてから、降りるのか、昇るのか見極めなければならない。
 ――その前に。
「ここを通り抜けないとヘリには辿り着けないようね」
「ここを通り抜けないとダークマンに逢えない、か」
 スイッチナイフに付着した血をTシャツの縁で拭って、もう一度彼等の様子
を窺う。五人は全くといっていいほど統率が取れない動きで雑然と物が積み上
げられた倉庫を右往左往している。
 混乱しているのだろうか。
「いい、私は吸血鬼、アンタは人間」
「逆の方が良くないかしら、私が吸血鬼であなたが人間を仕留めればいいじゃ
ない?」
「どっちでもいいさ、コインで決める?」
「そんな悠長なことやってる暇ある?」
「無いね」
「……分かった、時間をかけてる暇はないみたいね」
 ソーニャはスイッチナイフを構える、キャルは呼吸を整える。両手でベレッ
タを構える、残弾はわずかに三発。
「じゃあ、私が吸血鬼であなたが人間!」
「あ、ずる――」
 ソーニャはキャルのバイクを思わせる勢いで飛び出し、やむなくキャルも舌
打ちしながら後に続いた。
「おい、いたぞ!」
 わざわざ人間の男がこちらを指差した――なんたる無駄な動作、なんたる意
味のない所業だろう。
 伏せる必要もなかった、キャルが走りながら撃った消音器付きのベレッタの
弾丸は男の眉間の、そして女の心臓を正確に貫通した。横目で吸血鬼がこちら
にAK−74を構えるのを見て、すぐに前転しながら躰を伏せる。
 吸血鬼二人は最初、AK−74をこちらに突進してくるナイフの女に構えて
いた、しかし銃声に反応し始末するべき対象を変更する。
「素人」
 ソーニャが呟いた。彼女は普通の人間の倍の速度で突進していく。
 二人が気付いた時には、咽喉がスイッチナイフでパックリと切り裂かれ、血
が噴き出て崩れ落ちる。そして灰になる。
「ふう」
 部屋を出ると通路は二つに分かれていた。一方は更に上への階段。ソーニャ
の目にはハンドル式の扉が見える、恐らくあれが外への出口だろうと見当をつ
けた。
 もう一方は薄暗がりになっていて、先が見えない。しかしその先に彼がいる、
かつてペイトン・ウェストレイクと呼ばれた男が、ダークマンと呼ばれる男が
居るはずだ。
 吸血鬼が持っていたAK−74と弾倉を拾い上げた。ベレッタの銃弾は残り
一発。鉛弾でも無いよりはマシだ。
「私はこっち」
「アタシはこっち」
 お互いに進むべき方向を指差した、視線が交錯する、微笑む。
「生きて帰れることを祈るよ、ソーニャ」
「アンタの仲間も無事でいるといいわね、ドライ」
「ああ……じゃ」
 手を振ってドライは背中を向けて立ち去った。ソーニャは彼女の背中をじっ
と見つめる。彼女は人間である、それは間違いない。だのに吸血鬼の巣に乗り
込んで平気なツラをしている。面白い存在だ、と思う。そして今、この輸送艦
の中で何が起きているのか、それも知りたいと思う。
 呆気ないくらい簡単にモーガンを殺してしまった今、何を為そうとすればい
いのか、それを探してみたい。
 前を見る、
 後ろを振り返る。
 ――行こう。
 ソーニャ・ブルーは歩き出す。


                ***


 諸井霧江が試製した人工皮膚の腕を自分の両腕につけて嬉しそうに眺めてい
る。三十分が経過した、今のところ変化はない。張り付いたときのひんやりと
した感覚が心地よかった。
 紫外線を右腕にだけ投射してみた、火脹れも起きず、白煙も起きない、勿論
痛みも全くない。陽光に晒しても結果は同じだろう。
 この皮膚があれば、ついに陽光を克服できる。全ての吸血鬼が、力有るもの
も力無きものも、あの太陽の光を享受できるのだ。
 そうなれば人間など恐れる必要はない。陽光を一部の吸血鬼に独占させる必
要もない、半分の世界、夜の世界だけで満足する必要もないのだ。
「あはは」
 だから、笑った。
 人間にのみ恵まれていたあの陽光を好きになることはないだろうけれど、あ
の陽光を人間だけのものにしなくてもいいのだ。
「満足か」
 ポツリとダークマンが呟いた。
「ええ、勿論」
 頷いた。
「では、キャルとモーラを返してもらおうか」
「まだ六十分ありますよ。いえ、最低でも今日一日はここで待っていてもらい
ましょうか」
「そんな暇は存在しない」
「なら作って下さい……どうしたんです、人工皮膚がもうすぐ世間に認められ
るんですよ?」
「吸血鬼の為にな」
「人間は滅びます」
「……それはどうかな」
「滅びますよ、不死の命、類稀なる力、そして陽光も克服できるならば、劣性
な種族は我々に打ち勝てません」
 誇らしげな笑み、ついこの間まで人間であった、という事実を彼女は忘れて
しまっていた。
「ほお」
 ここで始めてダークマンは彼女に微笑んだ、いや、嗤った。諸井霧江が訝し
げな目をする。
「……何がおかしいんです?」
「可笑しいさ、人工皮膚程度で陽光と人間を克服できると勘違いしているお前
がな」
 ぎり、と牙が軋んだ。
「――第一、吸血鬼は創造面に置いて致命的な欠落があるのだろう?
 物を壊せるのに、創造できない」
「なぜそれを……!」
 立ち上がって怒鳴ってからしまった、と彼女は思った。誘導尋問だ。
「お前が私の力を借りに来た、ということがその答えだ。
 脳の創造面を司る新皮質だけは蘇らないのか? だが、お前は喋り、物を聞
き、計算も可能だ……つまり、吸血鬼にはそういう肉体的な面では問題がない。
 となると、後は精神的な問題だ。発展を忘れた種族には死が待つのみだ。
 果たしてお前にそれが解決できるかな?」
「解決してみせます」
「吸血鬼では解決できまい」
 ブンブンと耳鳴りがする、頭痛も酷くなる。脳細胞が騒ぎ立てる、目の前の
男を殺せと囁き続ける、理性がブッ飛ぶ、アドレナリンの大量分泌、力が漲る。
 殺す、殺す殺す殺す!
「うるさい!」
 牙を剥き出した。
 だが、ダークマンは泰然自若の姿勢を崩さなかった。今にも諸井霧江は彼に
掴みかかって心臓を掴み出すか、首を捻じ切ろうかとしているのに。
「二つお前に忠告してやろう」
 言いながら後ろに退がる、熱いコーヒーが満載されたポットが手に触った。
「一つ、あまり人間を舐めるな」
 ――ダークマン!
 キャルが叫ぶと同時にAK−74の弾丸を大量に窓ガラスに撃ち込んだ。振
り向いた諸井霧江が敵意を剥き出しにする。
 天井に吊るされた電灯のチェーンを飛びながら掴むと、今度は諸井霧江に残
りの弾丸をありったけ撃ち込んだ。
「無事!?」
 キャルが着地して駆け寄る。
「とりあえずはな」
 銃声とガラスの破壊音に驚いた二人の吸血鬼が慌てて乱入してくる、AK−
74をありったけ撃ち込んで怯んだところを、ダークマンが飛びかかった。
 一人の首を素早い動きで七百二十度回転させると、勢い良く首を脊髄ごと引
っ張り出し、血と髄液の滴る脊髄を掴んで振り回して、もう一方の男の顔面を
それでしたたかに殴り付けた。
「どいて!」
 ダークマンが脇に退くと、キャルは空いた手でベレッタを構えていた。銀の
弾丸、最後の一発。
 決め台詞が頭の中にいくつか思い浮かんだが、口に出た言葉は至って単純な
ものでしかなかった。
「死ね」
 銀の弾丸が男を灰燼にした頃、AK−74の鉛弾で躰をズタズタにされた諸
井霧江がようやく再生した頃だった。残念ながら眼鏡と汚れた白衣は元に戻る
ことはなかったが。
「よくも」
 ダークマンがポットに駆け寄る。
「まだ忠告が残ってる!」
 ポットを掴む、中には熱いコーヒー。
「それは失敗作だ」
 コーヒーを放り投げる、くるくると回転して二回転半でポットの蓋がずれて、
中身の液体が諸井霧江の全身にぶちまけられた。
 途端、諸井霧江の両腕に炎が疾った。
「何!?」
 悲鳴と混乱、一瞬の意識の喪失。
 ダークマンはキャルの腕を掴むと、見張りを踏み越えて逃げ去っていた。
「どうして逃げるのさ! アイツはカレンを――!」
「今の武器では倒せん! 奴は一山いくらの雑魚どもとは格が違う!」
「武器!? ……って言ってもここにはライフルと鉛弾しかないだろ!?」
「武器庫に行くぞ、この艦のどこかにあるはずだ!」
 当ても無く吸血鬼だらけのこの艦内を彷徨うというのか、とキャルが抗議し
ようとした時。
「武器庫ならそっちじゃないわ」
 咄嗟に二人は物陰に隠れようとして――今の台詞に動きを止めた。
「ソーニャ?」
 キャルがポカンと声を
「案内してあげるわ、こっちよ」
 手招きする。
「おい……誰だ?」
 ダークマンが肘でキャルを突付いた。
「ソーニャ・ブルー……一応、恩人」
「一応とは酷いわね」
 ソーニャは眉を顰めた。
「あなた、あのくそ野郎にもう少しで」
「分かった分かった、ごめん、謝るよ」
 キャルは手を振って慌てて彼女の言葉を誤魔化そうとした、ダークマンの前
でわざわざ恥を掻くような発言は勘弁してもらいたい。
「そ、ならいいけど」
 悪戯っぽい笑みを浮かべ、ソーニャが先頭を歩き出した。


                ***


 巨大な黒塊を手で抱えながらネロ・カオスはヘリに走って乗り込んだ。既に
ローターは回転を始めていて、出発準備は完了している。当然ながらネロ・カ
オスはモーガンを待つつもりはない。
 この後、此処がどうなろうが知ったことではない。ヘリはある、モーガンは
それで脱出するだろうし、後の吸血鬼は死ぬ気で抑えればひょっとしたら生き
残ることができるかもしれない。右腕はこの通り抑えている、わずかだがハン
ディキャップはつけておいた。
 ヘリに置いてあった携帯電話が鳴った、
「首尾は?」
「成功だ――“プロトタイプ”は彼女を認めたぞ」
「そうか! ……で、“プロトタイプ”は暴れたかね?」
「暴れている真っ最中だ……アレにもう用はあるまい。
 放っていくぞ」
「そうもいかんのだ、あのまがい物にはもう一つだけやってもらうことがある」
「……それは聞いていなかった」
「今分かったのだよ、彼には道案内をしてもらわなければならん」
「何処へ?」
「自身の失われし肉体へ、我々だけでは見つからん恐れがある。
 精神は肉体へ引き寄せられる」
「そういうことか……」
 たん、たんとネロ・カオスは携帯電話を指で叩いた。果たして本気で暴れ出
したカインを抑えることができるか、些か分の悪い賭けだと思った。
「待て、それは躰の一部でも大丈夫かね? 例えばそう――右腕だけでも?」
「どうかな……まがい物の肉体とはいえ、精神が宿っているなら――」
「ならばこのまま行く、右腕は手に入っている。
 正直、本気で動き出したあれを殺せる自信はあっても捕らえる自信はない」
「ほう、ネロ・カオスにそう言わしめたか!」
 嬉しそうに携帯越しでナハツェーラーが笑っていた。
 その笑いにいささか屈辱を感じないでもなかったが、それよりも早くダンピ
ィルを持ち込んで、儀式の行く末を見たい、という好奇心の方が強い。
「発進してよろしいですか?」
 パイロットが尋ねるとネロ・カオスはしばし沈黙して――ゆっくりと頷いた。
 ヘリがチェルノボグを離れるとほとんど同時に、ユダの血統を引き摺ったカ
インが飛び出した。
「急げ」
 ネロ・カオスがそれを見てパイロットに呟いた。パイロットはパニックに陥
りそうになるのを懸命に抑えながらさらに上昇を始める。
 瀕死のユダの血統を投げ捨てる時間も惜しいというように、カインはそのま
ま走り出した。
 ヘリに飛びかかろうとする。ネロ・カオスはやれやれ、とため息をついて右
手の携帯電話に捻りを加えて思い切り投げた。カインの顔面に携帯がめり込み、
疾走の勢いが若干相殺された。
 その隙にヘリは飛び去ってしまった、もうカインの手には届かない。
 愕然としながらも、カインは思考する。ヘリ、ヘリが必要だ。そして甲板を
見ると、もう一機のヘリが鎮座していた。カインはほくそ笑む、彼等が行こう
とする場所は既に理解している。
 あのダンピィルは私のものだ、断じて奴等に渡すものか。
 左腕で腰に突き刺さったカマを引き抜くと、ユダの血統の心臓を紙のように
貫く。
 ヘリには操縦する人間が必要だ。まずは人間を見つけなくては。
 その時、ユダの血統の断末魔の悲鳴が上がった。とてつもない耳障りな不協
和音に、思わず彼の顔を踏み潰す。
 悲鳴が止んだ。
 若干の痙攣を起こしてはいるが、最早彼が自分の障害になるとは思えない。
 甲板にはパニックになった男達がこちらに銃を向けていた、嗤う、そんな鉄
くずをいくらぶつけられても、自分の躰には傷つくまい。
 それより、誰か一人を締め上げて操縦者を探すべきだ。
 カインは一歩踏み出し、次の瞬間には彼の邪魔をしていたユダの血統の存在
を忘我しようとしていた。
 だがカインがただ一つ計算できなかったことがあった。
 最後のユダの血統の悲鳴は苦痛の為ではなく、他のメスに命令を伝えるため
のものであった。命令は血の匂いを嗅いで、嬉しそうに牙をがちゃがちゃと鳴
らしていた百九十九匹のメスに一匹残らず伝わった。


 ――“喰い殺せ”


 命令を理解したメス達はついに束縛から解き放たれた、次々に羽根を広げ、
地下から飛び去っていく。その内、オスの匂いを嗅ぎ取った何匹かのメスが外
へ飛び出した。
 オスの屍骸を見たメス達は怒りの鳴き声をあげた。呼応するかのように、次
々とメスが外へ飛び出していく。
 カインはそれを見て威嚇の雄叫びをあげた。
 だが、かろうじて知能があったオスと違い、メスに“恐怖”という余分な機
能は存在しない。カインの姿を見ても、雄叫びを聞いても恐れることはない。
 百匹以上のユダの血統達が一斉にカインに襲い掛かる。
 ――かくしてカインと、そしてユダの血統の第二ラウンドのゴングが海の真
ん中で鳴り響いた。








                           to be continued







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