それだからだれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。
                   ――創世記4・15















 諸井霧江は研究室に飛び込むと、再び抽出・統合プログラムを起動させた。
 ――パスワードを入力してください。
「ええ、入力するわよ」
 逸る気持ちを抑えつつ、一文字一文字確実に入力する。
 十四文字のランダムに形成されたパスワードを二回入力。そして最後のパス
ワード。最後のそれは人間の時の諸井霧江なら、いささかセンチメンタリズム
を感じずにはいられなかっただろう。
「J−u−l−i−e。ジュリー」
 ジュリー。
 かつてのペイトンの恋人であり、かつてのペイトンが最初に殺した喰屍鬼。
 ダークマンが生まれた原因でもある。
 だが、諸井霧江はそんな遠い遠い過去のことは既に忘却している。彼女の名
前はパスワードという概念でしかない。
 最後のパスワードを入力すると、パスワード認証が行われ、データの抽出が
始まった。何万ものデータからわずかな式とグラフだけが取り出され、結合さ
れていく。
 正しいデータはシミュレータプログラムで確認するまでもない、ペイトンの
血が、ペイトンの記憶が、この人工皮膚は間違いなく完全なものであると認識
している。
 データをヨーロッパの燦月製薬本社へ転送しようと、送受信プログラムを起
動させた。

 接続できません。回線エラーです

 エラー表示。
「回線使用不可?」
 舌打ち。どうやらこの研究室はネットワークから切断されたらしい。ダーク
マンか、あるいはファントムが通信室を破壊したのだろうか? いや、それに
しては時間が早すぎる……。むしろ、ユダの血統の騒動でこの研究室一帯の通
信回線が切断された、という可能性の方が高いはず、と諸井霧江は見当をつけ
た。
 ――ではどうするべきか。
 別の部屋のネットワークが切断されていないかどうか確認するという方法も
考慮できる、その部屋の通信が切断されていたならば致命的なタイムロスにな
る。
 ――通信室はこの輸送艦全ての回線の源流であり、衛星を通じて燦月製薬の
専用ネットワークへ接続する。そこに直接向かってデータを転送する方が……
早い!
 データを保存したMOディスクを引っ掴むと諸井霧江は研究室を飛び出し、
甲板へ向かった。甲板にさえ出ることができれば絶対的にダークマンより早く
通信室に辿り着くことができる。
 無論、ダークマンが来るとは限らない。だがあの吸血で死ななかった以上、
這いずってでもやってくる可能性は高いし、ファントムが力を貸そうとするか
もしれない。
 だが。
 彼女には羽根がある。
 蝙蝠の羽根だ、産み出されたキメラヴァンプから予め抜き取っていた彼等の
遺伝子によって、可能な限り蝙蝠の本能を組み込むのを抑えつつ特質である羽
根という特徴のみをマスターである人体に組み込む。
 姿形の変化、あるいは吸血衝動をできるだけ少なくする為に兼ねてから行わ
れていた実験であり、諸井霧江はその最初の実戦投入体であった。
 ただ、実験では成功率が高かったはずなのに、諸井霧江がいくら望んでも蝙
蝠の羽根や虎の爪が彼女の躰から生えることはなく、失敗に終わったと思われ
ていた。が、どうやらダークマンとの戦闘によって、彼女の体内に潜んでいた
蝙蝠や虎の遺伝子が覚醒したようだ。
 そう言えば、実験でもモルモットとなった人間はすぐに模擬戦闘に参加させ
られていた、恐らくそういう戦闘が、殺戮こそが彼等の遺伝子を呼び覚ますの
だろう。
 勝てる、と思う。
(生きているならば)吸血鬼の成りそこないと、たかだか人間の小娘一人。片
手であしらえる自信がある。
 だがそれも通信室に間に合わなければ元も子もない。通信室にどちらが先に
辿り着くかで、勝負が決まる。諸井霧江はさらに脚に力を篭め、速度を上げた。
 今や諸井霧江は――本人はこれっぽっちも自覚がなかったが――「人の頭を
持った化物」に過ぎなかった。人間であった時の妄念だけで動き続ける哀れな
幽霊に過ぎなかった。


                ***


 ソーニャはキメラヴァンプが一歩こちらを足を踏み出すのを見るやいなや、
全力で逃げ出した。一瞬遅れて咆哮、そして鋼鉄の甲板を踏み鳴らす音。
 振り向きざま、ピンを抜いた手榴弾を投擲した。キメラヴァンプは左腕で受
け止める、その瞬間に手榴弾が爆裂したが彼はまるで意に介さない。
 鍛え上げられた鋼のような腕には、傷一つつかなかった。強いて効果があっ
たとするならば、煙で顔をしかめたくらいのものか。
「爆竹投げてるんじゃないわよ、こっちは!」
 悲鳴混じりにソーニャは呟いた。キメラヴァンプが追跡を再開する。自分の
持っている手榴弾と日本刀では、分が悪すぎる。手榴弾は見ての通り、日本刀
は全力で叩きつけても、刀がヘシ折れるか跳ね返るかのどちらかだろう。
 キメラヴァンプの足音が一際大きいものになった、思わずソーニャが背後を
振り返る、しかしそこにそいつの姿はない。
 ソーニャは一瞬戸惑った、吸血鬼としての戦闘本能が咄嗟に全ての状況を判
断、最適な行動を選択する。即ち、彼女は視線を元に戻すなり、眼前のキメラ
ヴァンプに向かって飛び上がり、柔らかく蹴りを放ったのだ。
 当然、キメラヴァンプの胸板に蹴りが弾かれる、だが頑強な筋肉を反射して、
ソーニャはかなりの距離をバックステップして稼ぐことができた。
 距離にして、約五メートル。その間合いで彼女とキメラヴァンプは対峙する。
 鞘から日本刀を引き抜いた、鬼ごっこはこちらの負けだ。目の前のアレは、
恐らくいつでもこちらに追いつける。
 ――殺るしかない。
(待て)
 突然脳に声が響いた。
 反射的に構えを崩して片耳を抑える、しかし声は彼女の脳に叩き込まれる。
「念話!?」
 ソーニャが念話を行えたのは、彼女を吸血鬼に引き摺り込んだモーガンと、
同じくモーガンの直系の吸血鬼くらいのものだ。おまけに、彼等とは比較にな
らないほど感じる声が大きい。この声の大きさは、このキメラヴァンプの力が
如何に強烈なものかを物語っている。
(貴様は生きたいか?)
 唐突に質問が投げかけられる。ソーニャは混乱する、慈悲の心を見せてくれ
ているとは思えない。……だが、すぐに彼が自分を追いかける寸前何をしよう
としていたかを思い出す。
 ニヤリと笑ってやった。これと念話を交わす気は毛頭ないので、ソーニャは
わざわざ声を出して言った。
「生きたかったらどうしろって云うの?」
(あの乗物を操縦できるか?)
 彼が指した方向は、狙い違わずヘリコプターが鎮座していた。今のソーニャ
には分からないことだが燃料もたっぷり。操縦席に若干の血痕がついているこ
とを除けば新品そのものだ。
 彼女は迷う振りをして、すかさず周りを探査する。一つ、興味深いものを見
つけた。ニコリと笑って胸を張る。
「操縦できるわよ、勿論」
(もう少し命を永らえたいのならば、あれに乗って私を連れて行け)
「連れて行く? どこへ? 貴方はどこへ行きたいの?」
(……私は)
 瞬間、ソーニャは意外な答えを聞いた。多分、どんな吸血鬼やキメラヴァン
プも、絶対にあそこに行こうとは思わないだろう。自分だってそうだ、絶対に
あの土地だけには行きたくない。まだ死にたくはない。
「……本当に?」
(贄がなくては本来の力を取り戻すことができない)
 彼はほんの少しいらついているようだった。本来の力、それはもしかすると
右肩からスクリューに巻き込まれたように捻じ曲がって消失している右腕のこ
とだろうか?
 それとも、それ以外の何かだろうか。
「オーケー、判ったわ。そこまで連れて行けばいいのね?
 でも燃料が」
(途中で乗り換えればいい)
 ほんの少し、キメラヴァンプが騙そうとしたことを理解したように唸った。
 心の中で舌打ちする。
(神を欺こうとするのか? 私は全ての吸血鬼の神であり、父にあたる。
 無礼な子め)
「神――。よろしければお名前を教えていただけます? 神様」
 ソーニャがわざとらしく丁寧に言った。
 彼は答える。
(カイン)
 一瞬、このキメラヴァンプは発狂しているのではないかと考えた。人間が神
という概念を理解して以来、果たして何人が「神」を自称しただろうか。この
キメラヴァンプもその類かもしれない。
 ……だが、同時に不安にかられる。少なくとも自称だけで何らの力を持たな
かった人間達とはレベルが違う、彼が神だと自称するならば大抵の人間が――
あるいは吸血鬼といえども――頷かざるを得ない、それほどの力の持ち主だ。
 だが、一方で狂ったキメラヴァンプだという考えも捨て切れない。むしろそ
の可能性の方が大きいとソーニャは考えていた。神なんてものはもう少し荘厳
で、ありがたいものだ、嬉々としてあの巨大ゴキブリを殺していた彼はとても
神様とは思えない。
 彼はカインと名乗った。
 ソーニャは聖書に出てくるカインという存在しか知らない。弟殺し、史上最
初の殺人者、神を欺き、神に見捨てられ、永遠にさまよい続ける不死の男。
 だが一方で吸血鬼ハンター達は吸血鬼――つまり、ソーニャ達のことをこう
蔑んで殺そうとする。
「汝、カインの末裔」と。
 ならば、目の前のこの化物が自分達の――モーガンや、ネロ・カオスや、そ
の他世界中に存在する吸血鬼の始祖なのか。
 ――冗談じゃないわね。
 断じて否だ、真実であってたまるものか。
「了解しました、カイン様。すぐにお連れいたします」
 まがい物の言葉がすらすらと口から突いて出た。頷くカイン。だが、所詮そ
の顔は狼や虎のような獣の顔であり、神の重々しさは存在しない。
 ソーニャは背中を向けて歩き出す。ふと疑問に思う。もしかしたら、これま
でで一番の難問かもしれない。ネロ・カオスはモーラというダンピィルを連れ
て行った、これは恐らく間違いない。
 では、何故カインは置いていかれたのだろう。そもそもカインはネロ・カオ
スの上位に当たる吸血鬼なのか? それとも下位なのか。さらに言うなら、そ
もそもカインはイノヴェルチに所属しているのだろうか? “神様”なのに?
 だが、疑問を口に出すことを神様は喜ばれないに違いない。第一、それで現
状の危機が解消されるはずもなかった。
 疑問を頭の脇に置いて、ソーニャはいかにしてカインを騙くらかすか、それ
に全思考を集中させ始めた。使えそうなものはベルトに吊り下げた手榴弾、そ
して日本刀くらいのものだ。愛用のスイッチナイフはヘリの操縦席、そこまで
歩いてしまえば終わりだ。なんとかして後十秒位でヘリの斜め横、つまり今ソ
ーニャとカインが連れ立って歩いている右横数メートルのところにある代物ま
で走って、それを取らないと終わりだ。
 一か八か、ソーニャは自分の健脚に賭けることにした。
 何気なく腰のベルトに手をやって手榴弾のピンを外す、カインはヘリの方を
向いて歩いているせいで気付かない。ソーニャは普通に歩きながら後ろの手で
カインの足元へ放り投げた。
 甲板に手榴弾が転がる音で、始めてカインは自分の足元を見た。
 ――今だ!
 ソーニャは全力で走り出した。わずか二十メートルかそこらの距離、辿り着
くまでには二秒か? 三秒か?
 手榴弾が後ろで爆発する、追いかけようと足を踏み出していたカインが爆発
に巻き込まれる、そのせいでほんのわずかだが彼の目は眩んだ。
 カインが甲板を踏みしめて、先ほどのように跳んだ。二十メートルなら、一
足でソーニャの元に辿り着くはずだ。
 だが、カインは彼女がなぜ走り出したか、死体が抱えていた何を掴んだのか、
それを理解していなかった。
 携帯式四連装ロケットランチャー。使う間もなく、この男はカインに首を刎
ねられたのだろう。躰の痙攣は既にない。
 ソーニャは言った。
「私が代わりに使ってあげるわ」
 死体からひったくり、転がりながら狙いをつける。予想違わずカインは跳躍
していた。
 ――ありがとう神様、アンタ本当に単純だわ。
 引金を引くと四つの発射穴の一つから、風を切る音と共にロケットが飛び出
した。無防備なカインの胸板に直撃する。沈黙、それから爆発。ソーニャが爆
風をまともに受けて顔をしかめた。
 カインはもんどりうって墜落する。
 立て続けに残り三つのロケットを撃ち込む、一発撃ち込むたびにカインの躰
が転がり、跳ねた。炎熱がソーニャの黒髪を焦がす。
 空になったロケットランチャーを放り捨て、ソーニャは走って物陰に飛び込
んだ、あんなものでカインが死ぬとは到底思えない。
 次に使えそうな武器を探査しながら、ソーニャはやれやれとため息をついた。
 生き抜くには余りにも困難が多すぎる。


                ***


 のろまな亀のようだったダークマンの走行速度が徐々に元に戻り出した。
 最初こそ時折肩を貸していたキャルだが、今では彼に追いつくのが精一杯と
いうくらいだ。
 だが、一方でキャルの表情は暗かった。彼が元気を取り戻し始めた、という
ことはその分吸血鬼に近付きつつある、ということだ。
 ダークマンの背中に追いすがりながら、キャルは次第に不安を感じ始めてい
た。果たして次に振りかえった時、彼が自分を襲わないという保証はあるのか。
 次に掛けてくれる言葉が、「お前の血を吸いたい」というものである確率は
高いのか、それともまだ低いのか。
 そんな事を考えながら走る内に、いつしか二人は通信室前の通路まで辿り着
いていた。次の角を曲がった右壁面にある扉が通信室だ。
 さて。
 諸井霧江は脚力に関してはこの二人を遥かに凌駕している。おまけに彼女に
は羽根があり、もたもたと二本の足で階段を昇り、廊下を歩く必要がない。一
方で、ダークマンとキャルは寄り道をして、無駄な思考時間を費やした諸井霧
江より、目的地へ歩き出した時間が幾分早い。
 このお互いの微妙なハンディキャップが、恐らくこの偶然を産み出したのだ
ろう。角を曲がった瞬間、諸井霧江とダークマン、そしてキャルは扉を挟んで
対峙した。
 お互いの足が止まる。
 お互いの視線が錯綜する。
 キャルはライフルを構える、ダークマンはハンマーを構える。諸井霧江は腕
組みをしてニヤニヤと笑う。
 その笑みが無性にダークマンとキャルの癪に障った。
 迷わずキャルはステアーAUGの引金を引く。だが、吸血鬼にとって予め想
定されている行動であるならば、弾丸といえども避わすことは不可能ではない。
 諸井霧江は素早く脇に退いた、壁に弾丸が埋め込まれる。
「随分と乱暴ですね、教授の教え子にしては低脳すぎるんじゃありません?」
「教え子じゃない、それに低脳というなら貴様の方だろうさ」
 諸井霧江の眉がわずかに吊り上がった。
「悪いがこちらも急いでいるんでね。二人がかりで殺させてもらうぞ」
 じり、とダークマンが諸井霧江に一歩歩み寄った。
 彼女はしばらくダークマンをきょとんと見つめていたが、唐突に笑い出した。
 おかしくておかしくて仕方がない、というように。
「何がおかしい?」
「教授、二人がかりで殺すと言いましたね?」
「……」
 彼女の言葉の真意を図りかねて、ダークマンは押し黙る。
「いいでしょう、殺そうじゃありませんか――」
 諸井霧江がキャルを指差し、ダークマンにこう言った。
「“ペイトン”、“彼女を殺せ”」
 ダークマンの脳髄に電撃が叩き込まれた。また一歩諸井霧江に歩み寄ろうと
した足を止め、くるりとキャルの方を振り向く。
「あ――」
 瞬間、キャルはダークマンの瞳をまともに覗き込む形となった。彼の目に生
きていた知的な光は失われ、野獣のように獰猛な瞳が彼女を射抜いた。
 キャルは本能的に後ずさった、ダークマンの唇が震えている。口を開き、牙
を剥き出そうとするのを必死に抑えているのだ、それでも口の端から零れる涎
は抑えられそうにない。
 呻いた。哀しそうに、悔しそうに。
「あら、二人でかかるまでもないわね、じゃ、私はゆっくりこのデータを送ら
せてもらうことにするわ」
 手を振って諸井霧江が通信室の扉を開く。キャルはその姿を目で追うことす
らできなかった。ダークマンから目を離すことができなかった。
 ダークマンの足が浮いた、一歩、確実にキャルに近付く。どん、と叩きつけ
るような足音。キャルはもう一歩、後ろへさがる。
「ダークマン……」
 突然、ダークマンが半身を屈めた。片腕を廊下の壁に叩きつける。
「コ……ロセ……」
 その苦悶の声に、キャルは思わずダークマンに近付こうとする。その雰囲気
を感じ取ったのか、ダークマンはもう一度片腕を廊下の壁に叩き付けた。がす
ん、という音にキャルの動きが止まる。
「ワタシヲ……コロセ!」
 キャルは頭が混乱して何も考えられなかった、両腕で頭を抱えて蹲りたかっ
た。かつて誓った殺す、という決意が何処かへ吹き飛んでしまっていた。
「コロセナイ……ナラ……ニ……ゲロ!」
 逃げる、という言葉はキャルに劇的な効果があった。キャルは夢中で今来た
道を戻り始めた。ダークマンは彼女への殺意を必死で抑え込む、目の前から彼
女が居なくなると、ようやく御しやすくなった。
 理性が吹き飛んでいく中、ダークマンはあれだけ執心していた人工皮膚のこ
とはどうでも良くなっていた。ただ、キャルの命を永らえさせたことに少しだ
け安堵していた。
「あら、逃げたの。まあいいわ、ペイトン教授、いらっしゃいな」
 吸血鬼は迷わずその言葉に従った。


 キャルは無我夢中で走り続けた、手近な扉を見つけると迷わずそこに入り、
手動でロックした。部屋はどうやら休憩室の類らしく、様々な酒が置かれたバ
ーや、ビリヤード台が鎮座していた。勿論、一連の騒ぎでこんな場所で休憩し
ている人間や吸血鬼は一人もいない。
 自分が安全な場所に居る、と理解すると彼女はずるずると床にへたり込んだ。
 片膝に顔を押し付ける、目をつむるとダークマンの獰猛な表情が思い起こさ
れる。目尻が熱くなる、抑えようと思っても脳は自分勝手に様々な場面を彼女
の眼前に映し出す。
 目の前で無残に殺されたカレン、吸血鬼達に連れ去られたモーラ、煙草を咥
えて死んで行ったセス、そして自分を襲うまいと必死に堪えていたダークマン
の狂気の表情。
 むせび泣いた。
 枯れ果てたとばかり思っていた涙が後から後から溢れてきた。
 ――くそったれ。
 心の底で全てのものに毒づいた。自分を、ダークマンを、モーラを、諸井霧
江を、ソーニャを。
 何もかも忘れて眠りに就きたかった。躰を床に横たわらせ、胎児のように蹲
る、このまま餓死するのもいいし、ダークマンがやってくるなら彼に殺されて
もいいと思った、それより手っ取り早いのは、しっかり握り締めてきたステア
ーAUGか、腰のベレッタを口に咥えて引金を引くことだろう。
 派手に死ぬのなら、グレネードランチャーをぶっ放してもいい。
 ただ、今のキャルはそういう能動的な行動は全てがうんざりだった。自殺す
ら行おうとする気力がない。
 疲れた、とキャルは久しぶりに思った。
 全身に力が入らない、指一本動かない。
 何処かで手榴弾の爆発音が聞こえた、ほとんど条件反射のように身を起こし、
周りを警戒する。そして苦笑した。自分にはもう関係ない、と考えたのだ。
 それでも完璧に身につけた習慣というのは絶対に離れない。それが本能に根
ざすものならば尚更だ。それに逆らうということはきっと、凄いことだ。
 そう、例えば――さっきのダークマンみたいに。
 ダークマンのように。
 ほとんど無意識に立ち上がっていた、つい先ほどまでは指一本動かすことす
ら億劫だったというのに。そしてこれもまたほとんど無意識に彼女はベレッタ
とステアーAUGの弾倉をスライドして弾数を確認し、空のものを放り投げて
新しい弾倉に交換した。
 キャルは自分でも何をやっているのか、良く判らなかった。ただ、吸血鬼の
本能に抗ったダークマンをこのままにしておけない、と考える。
 そう考えると徐々にだが力が沸いてきた、モーラのことを考える。彼女を救
うと決意したはずではないか、ソーニャのことを考える、今も彼女はヘリを確
保して必死で待ってくれているかもしれない。
 自分を待つ人間がいる、かつてキャルはある男に二年待たされた。待つのは
辛い、希望が残っているのならば尚更だ。二人に自分のような思いをさせてた
まるものか。
 扉のロックを外し、深呼吸する。
 自分は人を待たせない。
 キャルは扉を開き、再び通信室へ向かって走り出した。今度は迷わない、ダ
ークマンがどうしても戻れないと言うならば。
 ――この銀の弾丸でアイツを救うだけ。


 もう一度通信室の角を曲がる、今度は誰とも相対することはなかった。つま
り、既にデータの通信を終えて外に出たか、あるいは――。
 通信室の扉の前に立つ、わずかに物音が聞こえる。耳を澄ますまでもない。
 確実に気配がある。
 通信室の扉は電子ロックで、外側からはIDカードを持っていないと開かな
い。だが、キャルは人間の屍体からIDカードをくすねていた。
 迷わずスロットに差し込む、扉の電子ロックが解除される。
 もう一度深呼吸。
 ――よし。
 扉を開けた。
 たん、たん、たん――と軽快にキーが叩かれる。
 諸井霧江は扉を開いたキャルを見向きもしない、傍にはダークマンが立ち尽
くしていた。
 彼は拳を握り締め、顔を伏せていて同じくキャルに見向きもしない。
「あら」
 今頃気付いたかのように諸井霧江がこちらを向いた。キーを叩く手だけがか
つての人間のものに戻っている、だが手首から上は相変わらず醜い筋肉に覆わ
れていた、破れた白衣の部分部分からそれが垣間見える。
「必死の思いで教授が助けてくれたって言うのに、わざわざ死にに来た訳ね」
 心底楽しそうに諸井霧江が笑った。キャルの視線は冷たい。
「怖い顔ね」
 そう呟いてから諸井霧江はぱちん、と指を鳴らした。それに反応してダーク
マンが一歩前へ進み出る。
「あの娘の躰をバラバラに捌いてくれないかしら」
 苦しそうにしながらも、彼女の命令に頷いたダークマンはまた一歩進み出る。
「違う」
 キャルの台詞に諸井霧江が怪訝そうな表情を浮かべた。
「何が違うって言うの」
「名前が違う。そいつはペイトンなんて名前じゃない……ダークマンだよ」
 ゆっくりと歩を進めていたダークマンの足がピタリと止まった。
「違うわ、彼の名はペイトン・ウェストレイク。かつての天才よ」
「違う、そいつの名はダークマン。アンタを殺しに地獄から蘇った復讐鬼だ」
 復讐、という言葉にダークマンは低く呻いた。諸井霧江はそんな彼を見て舌
打ちする。
「何やってるの! さっさと顎を引き裂いて黙らせなさい!」
 諸井霧江の命令を抑えつけるかのように、キャルは叫んだ。
「聞けよダークマン! アンタはなんで“ペイトン”でなくなってまで生き永
らえてきたんだ! そいつに復讐するためだろ!? ジュリーの仇を討つ為だ
ろう!? 今、目の前にいるのがアンタの蘇った目的そのものだ! カレンだ
って、セスだってみんなみんなそいつに殺されたんだ!」
「黙れって言ってんのよ!」
「闘え! 闘うんだよ! アンタの心は吸血鬼程度に負けるようなヤワな心じ
ゃない! アタシはアンタを信じる!」
「茶番はもういい! ……“ペイトン”、命令を変えるわ。“その女を犯しな
さい”! 犯しながら臓を抉ってやれ!」
 ヒステリックな諸井霧江の声に、ダークマンがわずかに頷いたように見えた。
 だが。
「そうはいかん」
 瞬間、叫んでいたキャルも、激昂していた諸井霧江も全てが凍りついた。
 この地底から響くようなくぐもった声。
 ダークマンの首が傾き、彼女を見る。
 自分の人生を台無しにした女を。
 諸井霧江は咄嗟にダークマンから離れようとした――が、一瞬早く彼女の手
首をダークマンが掴んだ。
「貴様が私を二度と“ペイトン”などと呼ぶな」
 そう耳元で囁いた。諸井霧江の動きは既に停止している。
 ごぼ、と彼女の口から血が噴き出た。
「命令通りだ、我が主人(マイマスター)。命令通り臓を抉ってやったぞ」
 腕を引き抜くと、今の彼女の不要なものでしかない臓の一部と大量の血液が
同時に引っ張り出された。
「ダークマン!」
 キャルの喜びに満ちた声に、ダークマンは一瞬気を取られた――。
「うぁぁぁあ!」
 諸井霧江が怒りに任せて振り上げた右腕は、手首を掴んでいたダークマンご
と扉まで吹き飛ばした。スチール製の扉がダークマンが投げられた勢いでぐに
ゃりとヘシ曲がる。
「よぐもぉ!」
 口の中に溢れた血で、彼女の叫びは溺れた獣の悲鳴さながらだ。
 拭うことも忘れ、諸井霧江は扉に叩きつけられてぐったりしているダークマ
ンに突進した。スチール製の扉は彼女の激突に耐えかねてダークマンもろとも
通路に飛び出した。
 ここに至ってキャルの躰がようやく反応した、つい先ほどまで扉があった穴
へ飛び込んで、ステアーAUGを構える。
 が、キャルが茫然自失した一瞬で諸井霧江とダークマンの二人の姿は闇に消
えていた。
 ――ちくしょう、どこへ……。
 キャルは床に零れた血痕を見つけた、勿論諸井霧江のものだ。あれだけの深
手はそうやすやすと再生できるものではない。迷わずキャルは走り出した。

 わずか数秒の間に彼等二人は外へ飛び出しており、通信室のさらに上、巨大
な通信アンテナの下で激闘を繰り広げていた。
 ダークマンは通信室の通路前に放り投げていたモーラのハンマーを何時の間
にか手にしており、それで諸井霧江の力任せに振るう拳を上手く捌いていた。
 ――凄い。
 キャルはそう思った。つい先ほど半死半生だった男が今では吸血鬼と互角に
闘いを繰り広げている。
 先ほどまで重たそうに抱えていたハンマーを、まるでサムライの刀(ブレイ
ド)のように素晴らしく操っている。
 動きが疾すぎて、迂闊に銃弾を撃ち込めない、下手をすると外れるどころか、
ダークマンに当たる可能性すら有る。
 ――いや、慎重になれ。
 自分は銃のプロだ、スコープを覗け、見極めろ、何千回と繰り返してきたい
つもの作業を行うだけだ。
 キャルは二人から少し離れた場所でステアーAUGを構えた。
 セミオートマティックに切替える、空気を深くゆっくりと吸って確保する。
 ――動きを止めるその瞬間を待つ
 キャルはまるで彫像のように動かなくなった。

 ダークマンのハンマーに攻めあぐねていた諸井霧江は、闘争本能に従って自
然に動かしていた躰の制御を切り替えた。
 拳を突き出す、ハンマーと激突する。爪をハンマーの表面に引っ掛けて、ぐ
いと引っ張る。
 ダークマンは柄を勢い良く引いて、それに対抗しようとする。
 一瞬、彼の注意がハンマーに注がれた。次に動いたのは、諸井霧江の右足だ
った。
 数十メートルからの落下にも耐えられる強靭な筋肉が、柄を握り締めたダー
クマンの両手を襲う。
 衝撃で柄からダークマンの両手が解けた。
 ――もらった!
 ハンマーを奪い去ろうとしたその時。
 轟音。
 彼女の両の眼球に激痛が走った。
「があああ!?」
 視界を覆われる、自分がどう動いていたか、何をしていたのかすら頭の中か
ら吹っ飛ぶ。
 ダークマンは落としかけていたハンマーを再びしっかりと握り締めた。
 柄の上部にあるスイッチに気付いた。咄嗟にそのスイッチを押す。ハンマー
の鎚から白木の杭が飛び出した。
 ギミックの意味を一瞬で看破したダークマンは思いきり諸井霧江の腹を押し
出すように蹴った。通信アンテナを囲む手すりが曲がるほどの勢いで彼女は激
突する。
 諸井霧江は唸り声とも悲鳴ともつかない声をあげる、苦しさのあまり瞬間的
に仰け反った。その顎に向かってハンマーを勢い良くスイングする。ギミック
の白木の杭が真っ直ぐ下顎に叩き込まれ、首から先が千切れた。
 諸井霧江の口が開く。
 悲鳴も上がらない。
 彼女の首は海に投げ出された。
 血を首の断面から噴き出す諸井霧江の躰が後に残される。
「さようなら、諸井君。しばらくは安らかに眠ることはできないな」
 そう言うと、ダークマンは彼女の両足を掴んでやはり手すり越しに海へ放り
投げた。ざぶん、という音と共に彼女の躰は闇の海に消えた。

 終わった、とダークマンは思った。
 腰が砕けたようにへなへなと座り込む。
 ジュリーのことを思った、
 カレンのことを思った、
 セスのことを思った、
 モーラのことを思った、
 たった今殺した諸井霧江のことを思った、
 殺されたペイトンのことを思った、
 生きているダークマンのことを思った、
 死んだ人間達を思った、死んだ吸血鬼達を思った。
 唐突にダークマンは泣き喚きたいと思った。トイレの下水のような味のウィ
スキーを死ぬほど呑んで酔っ払い、明くる朝は再起不能なくらいの頭痛で目覚
めるのだ。
「ダークマン……アイツは死んだ?」
 キャルが手すりに腕を絡ませてしゃがみこむダークマンの肩に手を置いた。
 ダークマンは気を取り直して立ち上がる。
「いや……まだ死んでない、だがもうまもなく死ぬ」
 キャルがきょとんとした。
「どうして分かるのさ」
「通信室に居た時に現在位置を確認した、この海域はホオジロザメがウヨウヨ
いる」
 キャルが息を呑んだ。
「あの女の首から流れた血液をサメは見逃さない。見逃されたとしても、もう
すぐくる夜明けになれば生き抜けるはずがない。
 自業自得とはいえ――」
 ダークマンは立ち上がって海を見た。吸血鬼でもこの闇の海から諸井霧江を
見つけ出すことは不可能だろう。
「憐れだな」
 ダークマンの呟きの通り、諸井霧江の死に様はとてつもなく悲惨だった。
 首が千切れても、まだ彼女には意識があった、知性があった、何よりもまだ
希望を捨てきれないでいた。だからこそ一層悲惨だった。
 ――夜明けまでに……あの船に追いつけることができれば……躰と融合する
ことができれば……。
 だが、彼女の躰から流れた血液はこの海域の獰猛な捕食者達を存分に刺激さ
せた。
 海の中の捕食者たちは彼女の躰を、彼女の頭をその鋭い歯でこそげ取り、食
い千切り、胃の中にたらふく納めるのだ。しかも胃の中に納まった後ですら、
諸井霧江には意識があった。
 ――ダレカ、タスケテ。
 何をできるでもなく、ただ自分がサメの胃液に少しずつ溶かされなければな
らないという恐怖。大量の失血のための飢餓感、胃液を浴びる痛み、そしてサ
メの胃の中という絶望。
 もう一度念の為に言っておく、諸井霧江は彼女がこれまで成した事のツケを
払ってお釣りが来るほど、悲惨な死に様だった。

 正直言ってキャルはもう少し休みたかった……が、そうも言ってられない。
今か今かとソーニャが彼等の戻りを待っているはずなのだ。
「ダークマン、立って」
「……」
 だが、ダークマンは動かない。諸井霧江という目標を失い、彼の意識は空白
だった。
「立て! アンタにはまだやることがあるだろ!?」
 キャルは強引に彼の肩を引っ張って立たせる。両の頬を張った、わずかな痛
みが彼の意識を奥底から引っ張り上げる、冷静な理性が取り戻される。
 今やダークマンの意識の奥底に潜むのは、善良な化学者であったペイトン・
ウェストレイクではない。ダークマンは、あくまでダークマンだ。
 吸血鬼を憎むことができ、人を愛することができる闇の男。
 ――だが。
 胸の奥底でチリチリと焔が立っている。バケツ一杯の水を浴びせても、消え
やしない。それは怒りの炎だ、全てのものに対する理不尽なまでの怒り。
 たとえ諸井霧江が死んで吸血鬼から人間に戻れたとしても、やはり自分は人
とはかけ離れた存在なのだ。そのことをダークマンは嫌というほど自覚した。

 だけど、
 それでも、
「そうだな、急がなければ」
 次に取った行動はキャルにとって人生のベストファイブにランクインするほ
どの出来事だったに違いない。
 即ち――ダークマンは包帯だらけの手で彼女の頭を優しく撫でたのである。
「……いきなり急に何やるんだよ、馬鹿」
 照れたようにその手を振り払うと、キャルは通信室へ戻るための梯子に手を
かけ、唐突に起きた爆発音に硬直した。
「ちょ……何!?」
 ダークマンが手すりに飛びついて下を覗き込む、もし顔面に皮膚と発汗機能
が残っていたら顔を真っ青にして、だらだらと汗を流していただろう。
「なんだ、あれは――」
 ダークマンはソーニャがソレに向かって、グレネードランチャーらしいもの
(実際にはロケットランチャーだった)を叩き込んだのを見た。
 さらに三発立て続けに撃ち込んだところも見た。
 だが、次の光景はさすがに信じがたいものだった。ロケットランチャーを放
り投げて脱兎のようにソーニャが逃げ出したきっかり十秒後、何事もなかった
かのようにソレが動き出し、ソーニャを追いかけ始めたのだ。
「ソーニャ……っ」
 ダークマンの隣に駆け寄ったキャルも同じものを見ていた。そしてどんなに
彼女がマズい状況に追い込まれているか理解する。
「早く戻らないと!」
「待て!」
 駆け出したキャルをダークマンが押し留める。
「待てって、何? まさかソーニャを見捨てる気!?」
「ここからいちいち曲がりくねった内部を戻って間に合うと思うか?」
 ダークマンの指摘にキャルは低く呻いた。彼の言うことは理解できる。
「でも、だからって」
 ダークマンがハンマーを構えた。
「見捨てるとは言ってない、どの道ヘリを操れる彼女がいなければ、この艦を
脱出できんのだからな」
 ダークマンはゆっくりと空を見る、ライトに照らし出された艦の頂上に存在
するアンテナにはクリスマスツリーの飾りのようにあちこちにワイヤーがくく
りつけられている。
 キャルは嫌な予感がした。
「近道するぞ」
 言うなり、ダークマンは手近なアンテナの一部――キャルの予想通り、下か
らワイヤーで縛られている――に向かってハンマーを振るい始めた。
「ああ、やっぱり! アンタの考えそうなことだと思ったんだ!」
 キャルは天を仰いだ。


                ***


 ソーニャはカインが自分に危害を加えないであろうことは解かっている。
 ……ただしそれは、彼女が死なない程度に、彼女がヘリを操る気力と体力が
ある程度に、ということだろうが。
(見つけたぞ、小娘)
 三十年以上生きている自分に小娘もないものだ、と思う。
(お前を殺して、別に操る者を探してもいいのだぞ?)
 ソーニャは即座にハッタリだと看破した。
「おあいにくさま、もうこの艦で生きている人間や吸血鬼は少ないわ。
 いたとしてもヘリが操縦できるかどうかは分からない。
 アンタだってそれが分かっているんでしょ?」
 カインの鼻息が荒くなった、あまりにも自分にとって不遜な態度である
彼女の心臓を握り潰すような咆哮をあげる。
(今なら、ヘリから降りた時に腕を一本食い千切るだけで済ませてやる)
「あなたみたいに?」
 ソーニャはこの上なく嫌味ったらしい笑みを浮かべてやった。カインの反応
は劇的だった。
 何しろ彼の右腕を握り潰したのは、他でもない彼女のような自分の眷属の一
つなのだから。
「神様にすがる時代はとうに終わってんのよ、時代遅れ!」
 そうソーニャは叫ぶと手榴弾を思いきり投げた、ピンを抜かずに。
 爆発するものとカインはたかをくくっていた、その顔面に鉄と火薬の塊が直
撃する。
 ほんの一瞬、カインの目が眩んだ。ソーニャは勢い良く跳躍しながら、日本
刀を抜いた、狙うはただ一点、彼の唯一の傷痕。
 右腕の切断面に水流加工されたチタン合金の刃がずぶり、と侵入した。カイ
ンは激痛に悲鳴をあげた、左腕を振りまわすがソーニャは間一髪しゃがみこん
で難を逃れた。
 その低い体勢からソーニャはさらに追い討ちをかける、半ばまで突き刺さっ
ていた日本刀の柄に前転しながら踵を叩き込んだ。
 ついに日本刀はカインの右腕に鍔の部分まで埋め込まれた。カインの両目か
ら涙が流れた。日本刀は腕は勿論のこと、肩の部分やそして首筋の部分までを
貫いているだろう。切断面からみるみる赤黒い血が溢れだし、甲板に血溜まり
を作った。
 泣き喚きながら、カインは左腕を振り回す。カインの絶叫が、苦痛が、憎悪
がダイレクトにソーニャの脳に打ち込まれる。耳元でガンズ・アンド・ローゼ
スの「ライト・ネクスト・ドア・トゥ・ヘル」を大音量でかき鳴らされるよう
な衝撃が思考を瞬間的に分断した。
 先に苦痛から立ち直ったのはカインだった、左手でしっかりとソーニャのほ
っそりとした首を握った。
「ちくしょう!」
 叫んで暴れる、だが岩のような腕は彼女が両の拳で殴っても、牙で噛みつい
てもどうにも反応しなかった。
(あれを……操縦してもらおう……か)
「誰がするもんですか」
(……そうか、ならばその前に貴様の脳を弄らせてもらおう)
 カインの口から爬虫類のような舌が伸びた、頬をざらついた舌で二、三度な
ぶった後、耳孔にゆっくりと侵入する。ぬめった唾液がたまらなく気持ち悪い。
 彼女には具体的に何をする気かまでは分からなかったが、とてつもなく最悪
の所業であることだけは理解した。
「ソーニャ、頭を伏せろ!」
 頭上の声に咄嗟に首を傾けた。カインは逆に声のした方向を見上げる。彼が
視たのは、ワイヤーをつたって降りてくる二人の男女。男の方は何やら普通の
人間とは明らかに異質な風体で、おまけに彼からは人間とは違う血の匂い――
つまり吸血鬼なのは明らかだ。
 吸血鬼が二人になる、その事実にカインは少しうんざりした――彼には鬱陶
しいネズミが一匹から二匹になった、という程度の認識でしかない。
 もう一人は、彼の首に腕を回してしがみついている人間の女だ。カインは男
の奴隷だろうと見当をつけ、害はないだろうと考える。女が片腕を解き、あの
火を放つ飛び道具で自分を狙うまでは。
「ソーニャ!」
 女が叫んだ。
 カインはそれでも彼女の攻撃が自分に何らかの効果を及ぼすなど、考えもし
なかった、火の出る飛び道具は彼にとって石をぶつけられる行為となんら変わ
りのないものである、と考えていた。
 避ける、という選択肢はカインの頭の中に思い浮かばなかっただろう。彼は
自分の力を誇示するのが好きだったし、人間が飛び道具が効かないと理解した
瞬間の恐怖の表情も好きだった。
 女の飛び道具から火が迸った。銀の塊が音を越える速度で飛びこんでくる、
しかしカインの頑強な筋肉は弾丸が食い込むことすらない、はずだった。
 カインの肉体は筋肉だけで攻撃を受け止めているのではない、むしろ弾力性
に富み、弾丸の直撃などを滑らかに受け流す表皮が今までカインの内臓器官を
保護していたのだ。
 だからキャルの放った5.56mmの銀の弾丸がカインの耳孔を直撃した時、
彼はこれまでなかった衝撃に思わず左手で耳を塞いだ。

 ソーニャはむせるほど大きく息を吐き出しながら、背中を向けて逃げ出す。
 ダークマンとキャルが彼女と合流した、遠巻きにカインが耳を抑えて呷いて
いる様を観察する。
「……で、あれ何よ」
 疲れ果てた顔でキャルが指差した。
「ああ……紹介するわ、彼の名はカイン。吸血鬼の“自称”神様よ」
「神様ぁ?」
「正確に言うと、“プロトタイプ”だがな」
 ダークマンの呟きに、ソーニャが顔をしかめた。
「あなた、知ってるの?」
「生きていたら、後で教えるよ。さて」
 ハンマーを構える、それからギミックのスイッチを入れると、白木の杭が鎚
から飛び出す。
「私、あのヘリにナイフを置きっぱなしなのよ」
 ソーニャはゆっくりと二人から間合いを取り、ヘリの方へ近付く。
「今の内に取りに行け、私が抑えておく。キャル、此処から少し離れろ。
 援護を頼むぞ」
「了解」
 キャルはステアーAUGをしっかりと肩に固定し、カインに狙いを定める。
 カインの呷きが収まった、蹲っていた躰が伸び、ギロリとキャルを睨んだ。
 剥き出しの憎悪、プライドを傷つけられたことに対する怒り、ライオンがウ
サギに疵を与えられた時も、こういう表情を見せるに違いない。
「どうやらお前さんが大層気に入らないらしいな」
「……アタシの傍に、あれ近づけないでくれる?」
 少しずつ後退りながら、キャルが心底嫌そうな表情を浮かべた。
「努力しよう」
 そう言ってダークマンはキャルの前へ進み出る。カインがソーニャをちらり
と見た、が、すぐに視線をキャルに戻す。彼女への憎しみが、自身の強大さ故
の奢りが彼の理性を吹き飛ばしている。
 カインは跳躍すると、二人纏めて一撃で屠ろうと左腕を振りかぶった。対し
てダークマンも同じように跳躍する。
 激突した。両腕で思いきり振り下ろしたダークマンのハンマーと、カインの
左腕の一撃はほぼ互角、ダークマンは両手が衝撃で痺れ、ハンマーを落として
しまいそうになるのを必死で抑える。
 カインの方も自分の全力の一撃が見事に防がれたことに驚愕していた、標的
を目の前の吸血鬼に変更する。誰も彼もが不遜すぎる、どうして子が親に逆ら
おうとするのだろう、カインは少し哀しくなった。
 ソーニャはヘリの操縦席に駆け込んで死体の頭からスイッチナイフを引き抜
いた、血と脳味噌の滓がこびりついているのを、死体のシャツで拭う。
 日本刀はチタン合金製で概念武装の類ではない、銀の弾丸は効果があるよう
だが、それも表皮と筋肉が厳重に護りを固めている。となると、カインを倒す
方法は一つ。この銀のスイッチナイフで心臓を貫くことだ。
 今、ダークマンがハンマーでカインと戦い、キャルが距離を取ってライフル
で援護する。怒り狂っているらしいカインは自分のことを一時的に忘却してい
るに違いない、先程自分がヘリに駆け寄ったとき黙殺したのが良い証拠だ。
 何故なら、あの状況で一番考えられる自分の行動はこのヘリに乗ってさっさ
と逃げ出すというものだからだ、それが分からなくなるほど前後を見失ってい
るのだろう。ひょっとすると、先ほどまで好き放題嬲ってくれていた彼女の存
在すら忘却しているかもしれない。
 気配を殺す、ギリギリのところまで殺意を押さえ込み、今はひたすら走るこ
とだけを考える、カインの背中にナイフを突き立てることは考えない、気付か
れずに、気付かれたとしてもその時には既に遅いくらいの速度で走ることを考
える。
 ハイスクールの頃の陸上で学んだクラウチングスタートのポーズ。ナイフを
口に咥える、目標を定める。最初が肝心だ、最初のダッシュで気付かれなけれ
ば必ずこのナイフで心臓を貫いてみせる。
 キャルのステアーAUGがセミオートで的確に人体の急所を狙い撃ちする。
 カインの左腕との鍔迫り合いで押されていたダークマンが、カインが怯んだ
ところを力で押し込む。カインの動きが止まった。
 ――今だ!
 鋼鉄の床を足で蹴り、溜めに溜めていたパワーを一気に解放する。カインは
ハンマーをあしらうことに神経を集中させている、彼女に気付いた様子はない。
 背中を見る、しなやかな筋肉の線が走った芸術的な躰に果たしてこのナイフ
は通じるのか。ふと疑問に思う、すぐさまそれを打ち消す、余計なことは頭の
中から追い出す。
 右手を振りながら、口に咥えていたナイフの柄を握り締めた。
 ソーニャの足音にカインが気付いた、こちらを振り向こうとする。察知した
ソーニャは一足飛びに目標まで辿り着ける距離に迫ると、跳躍した。
 カインが一瞬見えた影につられて上を向く。だが、動かしたのは首だけで、
背中は無防備だった。跳躍しながらソーニャはナイフの柄頭を左手で押さえ込
む。突き立てたときに最高の力で押し込む為に。
 躰ごとぶつかった瞬間、狙い違わずナイフは表皮に食い込み、筋肉を貫き、
そして心臓を突き立てた、はずだった。
「――!」
 ハンマーと鍔迫り合いをしていた左腕を勢い良く振り回す、カインの肘がソ
ーニャの胸骨にまともにぶち当たった。内臓器官が破壊され、圧迫された心臓
から激痛が走る。
 胸を抑えて、ソーニャは甲板を転げ回る。車にまともに追突されたかと思う
くらいの衝撃だった。彼女は気付いてないかもしれないが、ソーニャは先ほど
走ってきた距離の半分以上まで彼の肘打ちで戻らされていたのだ。
 ダークマンはソーニャに一瞬目を奪われた。その隙をカインは見逃さず、左
拳で正面に居るダークマンを突いた。ソーニャと違って、ダークマンは咄嗟に
ハンマーを手から離して両腕で顔面を護ったせいで、それほどのダメージは受
けなかった。だが、それでもダークマンは甲板左端の部分まで追い込まれた。
 一方でソーニャは立ち直りつつあった、胸骨が再生し、圧迫していた心臓が
緩やかに鼓動を行い出す。そしてなぜナイフが心臓に到達する直前で止まった
のか、それを考える。
 ――金属。
 そう、ナイフは確かに表皮に食い込んだ、筋肉を裂いて内部まで到達してい
たから、心臓を貫くその直前までは追い込めたのだ。だがしかし、心臓を貫く
直前に嫌な感触があった。
 金属。
 金属に金属が叩き付けられる、あの感触。恐らく心臓付近を金属製のプレー
トか何かで覆っているのだろう。吸血鬼に必然ともいえる弱点をそれで解消し
たのだ。
 心臓をプレートが保護している以上、そのプレートを突き破るような武器で
ないと、カインは倒せない。
 そんな武器が果たしてこの世に、この艦内にあるものかどうか。
 考える、ひたすら考える、そしてソーニャは武器庫のあの光景を思い出した。
 ――待て、あの武器庫に何かなかったか? とてつもなく強力な代物が。
 あったはずだ、と思う。
 ゆっくり思い出す、扉を開いて飛び込んでぐるりと部屋の様子を観察した。
 ――あの時あったものは、
 突然強い力で引っ張り上げられた、キャルが彼女を引き起こしたのだ。
「生きてる?」
「元々死んでるようなものだけど、なんとかね。カインは?」
 そう言いながらカインを見る、彼は背中に突き刺さったナイフを引き抜こう
とするものの、ダークマンが素早く拾い上げたハンマーでの連撃でなかなか行
動に移せない。
 ダークマンと間合いを取り、ようやくカインはナイフを背中から抜いて放り
捨てた。
「ナイフは、ダメだった訳?」
「ダメ、心臓を金属製のプレートで覆ってるわ」
 ソーニャは首を振った。
 キャルが絶望的な表情を一瞬浮かべる。ソーニャは苦笑して首を横に振った。
「馬鹿ね、アンタにそんな顔は似合わないわよ。
 ……ドライ、あなたと私であれ相手に五分、耐えられると思う?」
 最初、キャルはソーニャが何を言っているのか理解できなかった。
「五分? アタシとソーニャで?」
「その五分でダークマンには武器庫に行って、引き返してもらうのよ。
 カインに対抗できる武器を持って、ね」
「武器? ……そんなのあった?」
「あったわ、確かに。―――――――が」
 キャルはさすがに唖然とした。
「……正気?」
「まだ肋骨が完全に再生できてない私じゃ持てないわね、当然ドライも。
 となると、吸血鬼になりたての彼しかいないわ」
 ソーニャはダークマンがワイヤーを伝ってこちらに降りてきた時に、彼が吸
血鬼化していることを看破していた。あの重たげなハンマーを軽々と扱ってい
ることからも、それが窺える。
「私が前面で、あの日本刀を引き抜いて戦う。
 ドライは私とカインが接近している時はライフル、離れたら背中のグレネー
ドランチャー、いい?」
「……あー、もう! 分かったよ!」
 空になった弾倉を捨てて新しい弾倉を装填し、構える。
「ダークマンには私から言うわ」
 言うなり、ソーニャは走り出した。足が甲板を踏むたびに肋骨がバラバラに
なりそうな苦痛が走る。だがいい、苦痛を感じているということは、まだまだ
生きているということだ。吸血鬼であっても。
 ダークマンがわずかに間合いを取ったのを見て、ソーニャは右腕に飛びつい
た。刀の柄を握り締め、一気に引っ張る。
「ガアッ!」
 右肩から先に寄生したソーニャを振り払う、同時に深く突き刺さっていた日
本刀が彼女の手に戻る。
 ソーニャはカインを牽制しながら、ダークマンに近付いた。
「勝てる見込みあると思う?」
「分からん」
 即答する。
 じりじりとカインが間合いを詰める。
「実は、一つプランがあるんだけど」
「そのプランでいこう」
 これもまたダークマンは即答した。
「内容も聞かないで、いいの?」
「無策よりは数段マシだ。
 で、どうすればいい?」
「今から五分で、地下の武器庫まで往復してちょうだい」
「……何だと?」
「武器庫に行ったら、取ってきて欲しいものがあるの」
 ソーニャはその武器の名前――分かりやすい方を口にした、ダークマンは顔
を包帯で覆っているため、表情が掴みにくいのだがそれでも見開かれた瞳が、
彼の大きな驚きを表していた。
「……正気か?」
「ドライにも言われたけど、私は正気。
 いい? 合図したら一目散に走る!」
「……分かったよ、くそっ!」
 ダークマンの返答に、ソーニャは日本刀を右手に持ち替え、左手の指でそっ
と合図する。
 三。
「安心して、貴方の娘さんは護ってみせるから」
「あんな大きい娘が私の歳でいてたまるか」
「貴方がいくつか分からないのよ」
 二。
「この間三十になったばかりだ、私は」
 少しずつ後退る、カインが二人を睨む。何を企んでいるのか、推測を張り巡
らせるようにソーニャとダークマンを交互に観察する。
 一。
「だったら……十三のときに産んだ子供だって思えば?」
 零。
 ダークマンが両手で持ったハンマーを躰ごと回転させて、カインの脚に投げ
た。ハンマーはくるくると回転しながら、カインの膝に激突する。
 カインがそのハンマーに目が奪われたと同時に、キャルがステアーAUGの
引金を立て続けに三度引いた。
 全ての弾丸が胸板に直撃する、だがまるで痛みを感じた様子もなく、カイン
がキャルの方を睨んだ。
 ――頑丈にもほどがあるよ、まったく……!
 だが別方向を向いたカインの頬をソーニャが日本刀で斬りつけた。頬に一筋
の傷跡が浮かび上がり、瞬時に消えた。多分、耳を削ぎ落としても再生の時間
は同じくらいしかかからないだろう。
 吸血鬼の回復力を超える壮絶な回復能力。これもまた自称神様ならではの厄
介な能力だった。
 ――という訳で早く来てよ、ダークマン。こっちは五分もつかどうかも怪し
そうなんだから。






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