おまえ達みたいなクソガキがな、好き勝手絶頂に暴れられる
と困るんだよ。
 倍々ゲームで人間なんぞすぐ絶滅して共倒れだぞ
                   ――「ヘルシング」











 まず、セス・ゲッコーとダークマンはそれを探し出すのに苦労した。
 館の捻じ曲がった鉄の柵を乗り越えてしばし愕然とする。
 二人はプラスチック爆弾で見事に倒壊したその館の瓦礫をどうやって取り除
くか悩み、最終的に近くの工事現場にあったブルドーザーを使うことにした。
 セスがブルドーザーの操作を知っていたのは幸いだった。以前弟を刑務所か
ら脱獄させる時に、これを使って刑務所の壁を破壊したことがあったらしい。
 瓦礫にブルドーザーを突っ込み、ゆっくりと瓦礫を取り除いていく。全部取
り除く必要はなかった、二人はどこにそれが有るか、大体の場所は承知してい
たからだ。
 早朝から始まったその作業は途中途中に休憩を挟みながら、昼頃にようやく
終了した。
 ダークマンはほとんど口を利かなかった、代わりにセスは作業の間中ダーク
マンに喋り続けた。愚痴、軽口、猥談、噂話、彼の話題は多岐に渡った。
 ダークマンは「ああ」とか「そうか」などと生返事を繰り返していた。セス
の話題がモーラに移ったときのみ、口数がほんの少し多くなった。
「彼女は信用できる」
「どうして分かる?」
「キャ……ドライが信用したからな」
「同情で目が曇っているのかもしれないぞ」
「かもしれん」
 セスの指摘にダークマンはあっさりと同意した。
 ダークマンはブルドーザーが大方片付けた後の瓦礫を始末していた。
 疲れているにも関わらず、その腕は一刻も休まることがない。一方セスの方
は口数の方が手を動かすより多かった。
「だが同情でも構わないさ。あの娘がそういう心を表に出すのはいいことだ」
「いいことか?」
「実にいいことだ」
 セスはキャルの殺し屋としての天賦の才を評価していたので、それには異議
を唱えたいところだった。もっともこんな事でダークマンと言い争うつもりも
なかったので仕方なくそれには口を噤んだ。
 代わりに彼の愛情溢れる台詞の揚げ足を取ろうとする。
「親のつもりか?」
「親なんて柄じゃない」
 素っ気無くダークマンはそう結論した。セスは肩を竦めて瓦礫を除ける作業
を再開した。気付いたら喋っている間、ずっと手が止まってしまっていた。
 ダークマンは文句一つ言わない。
 瓦礫を持ち上げる、放り投げる、機械のように二つの動作を繰り返し続ける。
 セスも次第に無口になり一言も口を利かなくなった頃、それが姿を現した。
 埋もれた瓦礫の下から現れた赤錆びた鉄の扉には、今にも外れそうな南京錠
が引っ掛かっていた。
「これか?」
「これだ」
 ダークマンとセスは互いに頷いて南京錠をゆっくりと取り外し、二人で扉の
把手を掴んでゆっくりと持ち上げる。
 日光が扉の隙間から針のように射し込んだ瞬間、針のように甲高い声が辺り
一帯に響き渡った。


                ***


 モーラが工場にやってきて三日後、ダークマンが工場を抜け出した十時間後
には、遺伝子治療薬を完成させていた。


 ペイトン・ウェストレイク、そして諸井霧江は間違いなく天才だが、血液学
に関して言うならばカレン・ジョンソンもまた傑出した学者だった。
 特に吸血鬼と、即ちブレイドやウィスラーと関わり始めてからの彼女は吸血
鬼血液学(そんなものが学問のカテゴリに存在するとするならばだが)では世
界随一の存在であろう。
 モーラから採取した血液をまず顕微鏡で調べ、ブレイドのそれと比較した。
 思った通り、ブレイドと比較して日光に当たった際に血液を防護する役割を
果たす成分が圧倒的に少なかった。というよりも、これが恐らく平均的なダン
ピィルの血液成分なのだろう。あくまでブレイドの方が異端なのだ。
 ――彼女を治療することができるのならば、世界中にいるダンピィルを救え
るかもしれない。
 使命感を心に握り締めたカレンは食事と睡眠以外の時間を、遺伝子を書き換
えるワクチンの作成に継ぎ込んだ。
 正義感と同時に存在する好奇心、ダークマンが人の皮膚に魅せられたように
カレンもまた顕微鏡から覗くことができる血液の世界に魅せられていた。


 心臓に直接アドレナリンを注射する際に使用される燦月製薬製注射銃のカー
トリッジにその治療薬を注入。
 後はカートリッジを注射銃にセッティングし、それを彼女の首に射つだけ。
 念の為抜き取った血液でのテストを三度実施。
 姉のキャルに「そうたびたび血を抜いてはモーラが可哀想だ」と叱られる。
 反省。
 仮想シミュレーションにてトライ&エラーを繰り返す。
 成・否・成・成・否・否・否……。
 成功率78%……バランス調整を行う。


 キャルはパソコンに向かって何度も仮想シミュレーションを繰り返すカレン
を見て溜息をついた。
 こうなってしまっては止まるまい、ダークマンもカレンも学者という連中は
どうしてこうなのか。キャルはそっとドアの外にトレイを置き、モーラと二人
で夕食を食べた。
「仕方ないわね」
 カレンの様子をキャルから訊いたモーラが呟いた。
「……やっぱ学者の考えることは分かんないや、アタシ」
「だけどハーバート・ウェストよりはマシよ、多分」
 キャルが誰それと尋ねようとした時、台所にふらふらとカレンがやってきた。
 驚く二人を尻目に冷蔵庫からオレンジジュースを取りだし、ラッパ飲みする
と、テーブルに崩れ落ちた。
 朝のテーブルは冷たく、火照った頬との寒暖差が心地よかった。
「大丈夫?」
「できたわ」
「できたって何がさ」
「治療薬」
 モーラが立ち上がった。
「か、完成したの!?」
 興奮していたせいで上手く呂律が回らなかった。全身の震えが止まらず、拳
をぎゅっと握り締めた。あまりにも唐突な贈り物に上手く思考が回らない。
 テーブルに顔を押し付けながら、ポケットから注射銃を取り出した。
「仮想シミュレーターでテスト済。ただ動物実験をする訳にはいかなかったか
ら、もしかしたらということがあるかも」
 カレンは注射銃をテーブルに置いた、少し頭を起こしてモーラの瞳を覗く。
「信用するかどうかは貴女に任せるわ」
 そう言うなり、テーブルに再び頬を押し付けてぐぅぐぅと眠り始めた。
 やれやれ、とキャルはかぶりを振ってカレンを肩に担いだ。
「ちょっと待ってて」
 彼女の細い躰のどこにそんな力が隠されているのか、キャルはカレンを軽々
と持ち上げて台所にモーラを残し、寝室へ向かった。
 まるで死人のように眠り続けるカレンをベッドに横たえると、
「お疲れさん」
 とキャルは頬にキスをした。ぴくりとも動かない彼女を見て死人のように安
らかだ、とキャルは実に不謹慎なことを思った。


 キャルが戻ると、モーラが凍り付いていた。
 テーブルの上には注射銃、それと遺伝子治療薬が注入されたマガジン型試験
管が一つ。試験管の横にはマジックで「Mora」と殴り書きされている。
 手はスカートの裾を握り締め、瞳は二つのアイテムを凝視し続ける。
 ――解答なんて、出るはずがないのに。
 心の奥底で誰かが囁いた、その通りだ、十年以上悩み続けた問題に今から答
えが出せるはずもない。
 それでもフリッツが居たときはまだ良かった、彼の復讐の念に引き摺られる
ようにして生きていけば良かったのだから。
 フリッツが死んだ、そうかといって仇を討つ気力もない。延々と繰り返され
る終わりのない日々。
 疲れた――。
 スカートの裾を握り締めていた指を一本一本引き剥がす、ゆっくりと注射銃
を掴む、それだけで心臓の鼓動が跳ね上がった。
 試験管を装填する、カチリと音がして中身の液体が一瞬揺れた。
 安全装置を外す、跳ね上がった心音がドラムのようにモーラの頭蓋を叩いた。
 ――五月蝿い。
 首筋に銃口を当てる、引き金にそっと指をかける。
 心音。
 もう少し力を篭めれば、暗い世界から抜け出せる。そのせいで興奮している
から、とモーラは自分の心音を理由付けた。
 だから恐れることはないと指に力を篭める。それで全てが変わる……世界が、
自分が、何もかもが。
 ――それが怖いのか。
 大きく息を吸って、ゆっくりと注射銃を置く。とりあえず――保留するべき
だ、まだ何が起きるか分からない、こんな状況下で不用意に自分の身を危うく
させるべきではない。
 ため息。
 臆病なのだと思う、結論が先送りに先送りになることを祈り続けている。
 そうかと言って自らの命を絶って終わらせる度胸すらない、人間になりたい、
吸血鬼を倒したい、それは決して両立し得ないもの……二律背反だ。
「違う……」
 弱々しく心の声に反論する、自分はただ大局的に自分も含めた現在の状況を
見て、そう判断しただけだ。
 そう判断しただけに過ぎない。
 自分に言い聞かせる一方、彼女の心の奥底に潜む冷徹な視線がこう言い返す。
 それでもお前はいつか選ばなければならない。
 人か、人でないものか、
 いずれかの道を。
 モーラは立ち上がると、注射銃と試験管を再び保冷室に戻す。
 保冷室と言っても要するにどこにでもある冷蔵庫のようなものだった、中に
は低温で保存するべき様々な薬品が収められていて、きちんとラベルが貼られ、
分類して保管されている。
 全ての薬品が硝子製の試験管に入っている中で、一本だけ金属製の試験管が
あり、それには「Mora」と書かれたものと同じようにマジックでこう記されて
いる。
「Blade」と。
 彼はギリギリまでダンピィルとして踏み止まることを選んだという。
 明確な意思を持って「変わらない」ことを選んだのだ。
 そこがモーラとは少し、そして決定的に違う点だ。
 モーラは彼の試験管の隣に自分のそれを置いて、保冷室の扉を閉めた。
 とりあえず何も変わらないのだ。モーラはダンピィルのままだし、キャルは
殺し屋で通称ファントム、ダークマンは復讐の権化でカレンは吸血鬼を憎む化
学者のまま、何も変わらない。
 だが、そんなあやふやな状態はいつまでも続かない。
 何かが媒介となることによって、状況は劇的に変化する。
 例えば、諸井霧江がダークマンの留守を知らずに突如石鹸工場を訪問し、彼
女達三人の内二人を拉致し、一人を殺害したように。


                ***


「何なのよ」
 と軋り声をあげるデカブツの鼻に渾身の一撃を見舞った。
「痛いじゃないの」
 と抗議するとさらに追い討ちに頭を蹴り飛ばす。
 それでようやくぎゃあぎゃあ喚いていた吸血鬼が大人しくなった。
 バールという名前である。
 正確に言うと吸血鬼ではないのかもしれない、彼は高い知能を持っているし、
上位である吸血鬼達の命令に従う訳でもない。
 ただ、彼は血よりも屍体を貪る方が遥かに好みだった。特に赤ん坊を好んだ
彼は臨月直前の妊婦が館を訪れるたびに狂喜していた。
 そうして血を吸われて死んだ妊婦の子宮に手を突っ込んで、羊水もろとも赤
ん坊の屍体を啜るのが非常に好きだった――もっとも、妊婦なんてそうそう当
たりはしなかったけれど。
 元々の体格がそうであったのか、それとも吸血鬼になってからそうなったの
か定かではないが、彼は途方もない肥満体と化していた。
 ところかまわず屁をこき、躰中から腐った魚の匂いを漂わせる彼が居る場所
に近づくと、血の匂いが大好きな吸血鬼でさえ鼻を摘んだ。
 そいつを見るだけで不快になる、とマグワイアは彼を地下室に押し込めた。
 どのみち既に彼は外へ出ることができるような体格ではなかった、歩くこと
すらおぼつかない状態であったので、地下室への軟禁はバールにとっても願っ
たり叶ったりであった。
 そしてインフェルノ崩壊後、館が綺麗さっぱり爆破された後でもバールは大
量に保存してあった屍体を糧にしぶとく生き延びていた。
 彼を掘り当てたのは、セスだった。
 ダークマンは彼の躰全体から漂う死臭に不快感と、それから無性に怒りを感
じていた。ポケットからディスクを取り出し、彼の顔面へ突き付ける。
「何だい?」
「この暗号鍵を解いてもらおう」
「どうして私がそんなこ」
 歯のあちこちに屍体の髪の毛が挟まった不潔極まりない口の中に、セスが拳
銃を突っ込んだ。
 突っ込んでから後悔したセスはこの拳銃は後で処分しようと決めた。
「喋るな、黙って頷いてろ。ここでくたばるか、さもなきゃ暗号鍵を解け。
 ちなみに言うまでもないが、この弾倉には銀の弾丸が篭められている。手前
の小さい脳味噌吹っ飛ばすことくらい朝飯前だ」
「んーーっ!」
 パニックに陥ったバールは何度も何度も肥満でロクに動かない首を上下に動
かした、銀の弾丸がどれほど痛いのかなんて、バールでも理解できる。
 バールは差し出されたディスクを受け取って、しげしげと観察する。
 ニンマリ。
「残念、アタシのところにゃMOドライブが――」
 セスがバールの右膝を撃ち抜いた。怒涛に襲い掛かる銀の弾丸の痛みにバー
ルは両腕を振り回した。
 セスは後ろに下がる、怒りの篭った瞳でバールはセスを引き裂こうとするが、
彼の鈍重な図体は最早一歩たりとも動かない。
 痛みが引き始めると、バールは嗚咽した。
「酷いじゃないのさ……アンタ達、何だってこんな酷いこと……」
 軋る声。
 ダークマンの怒りはふつふつと湧き上がり続ける。
 セスも苛々しながら、
「おい、もう二度と言わんぞ。このディスクの暗号鍵を解け」
 そう言った。
 啜り泣きが止まるまでたっぷり五分はかかった。
「……分ったよ、チキショウ」
 バールは薄汚い黄色の瞳に薄汚い塩水を溜めながら、不承不承という感じで
頷いた。
 両手に鋭く尖った爪のようなものを嵌め込む。
「アタシゃ、見ての通りぶきっちょでね。これがないと、キーも叩けない」
 何が可笑しいのか、バールはまたもや軋り声で笑った。
 それがかえって二人のいらつきを増幅させる。
「五月蝿い、さっさとやってくれ」
「あいよ」
 どこから持ち出してきたのか、外付けのMOドライブにディスクを挿入する
と、カタカタとキーを打ち始める。
 現在、セスとダークマンはバールと向かい合う位置に立っている、という事
はバールの傍に立たなくては、ノートパソコンの画面が見えない。
 二人ともそれは勘弁して欲しいと思う。
 だが、このほほえみデブが余計な智恵を巡らせて、こちらに嘘の情報を流さ
ないとも限らない。
 ダークマンとセスは二人して視線を交わし、頷く。
 セスがコインを弾いた、それを宙空でさっと掴む。
「表」
「裏」
 そして掌を広げる。


 ダークマンはこのところツキに恵まれない。


 鼻を摘みながら、そろそろとバールの脇に寄る。彼が細長い鉄の爪を優美な
手付きで使いながら、コマンドを片っ端から打ち込んでセキュリティを強引に
打ち破ろうとしているのを見た。
 ――見事だ。
 この物体の性根がどうあれ、一つだけ確実なのは彼が非常に優秀なハッカー
であった、ということだ。
 ディスクの防御壁への総攻撃、一見不必要とも思えるコマンドを打ち込んで
それに対する反応から防御の種類を即時に判断、セオリー通りなら空いている
はずのホールに攻撃、エラー、その反応から更にどのようなアレンジが加えら
れているか、自分ならどのようにアレンジを加えるか推理、鍵穴へありったけ
の魔法の呪文をそそぎ込む。
 鍵穴は塞がった、バールは強引にそれを捻った。
 天使のラッパと共に、ディスクのデータがどんどんバールのパソコンに流出
していく。データの山、テキスト・画像・動画・グラフ……。
 やがて小さいウィンドウが表示された。


「Complete」


 バールがダークマンとセスを交互に見て、どうだ、と誇らしげにほほえみデ
ブらしい顔を浮かべた。
 糞のようなにんまり顔。
 二人は非常に気分を害した。
 セスはダークマンを見た、彼は無言で頷く。
「行こう」
 セスはつかつかと歩み寄ってバールの手からノートパソコンとMOドライブ
を奪い取り、ダークマンを促して歩き出した。
「お、おい待っておくれ」
 軋んだ声が二人を呼び止める。
 同時に振り返り、同時に問い質す。
「何だ」
 バールはポン引きや麻薬の売人がお得意先に向ける、あのもじもじした薄汚
い笑顔を見せる。
「約束したじゃないか、セス。屍体を持ってきてくれたんだろう?」
 セスはおっと、と呟いて
「少し待ってろ」
 とバールに言って、外へ飛び出した。


「よし、バール。これをやろう」
 セスはバッグを放り投げた、バールはそのバッグを覗き込んで悲鳴をあげた。
 ――爆弾だ!
「じゃ、行こうぜ」
「ちょ、ちょっと待って、違う、違」
「いや」
 振り返ったセスの瞳は残忍で、悪戯っぽい輝きに彩られていた。
「違わない、それでいいんだ」
「待っ、」
 ダークマンとセスは扉を開いて外へ出た。バールの悲鳴がサイレンのように
鳴り響く。
 バッグの中のプラスチック爆弾は既にカウントダウンを始めていた。デジタ
ル時計はアナログのような音を出すこともなく、赤く輝く数字は次第に零に近
付いていく。
「お前、そんな約束してたのか?」
「ああ、そうだ。嘘はついてないさ……今から屍体が一体できるんだから」
「けれどお前はあの吸血鬼に屍体をやろう、と約束したのだろう?」
 ダークマンはさらに追求し、笑った。
「やっぱりお前は嘘つきだ」
「違いない」
 セスも笑い出した。


 二人が館から離れて三十秒後、館の地下室はデジタル時計のカウントダウン
が終わったプラスチック爆弾によってバールもろとも吹き飛び、半トンの腐っ
た肉塊が雨のように降り注いだ。
 多くは降り注ぐと同時に日光によって霧散していたが、館の瓦礫に上手く潜
り込んだ肉塊はその後も腐臭を漂わせ、館を漁りに訪れた有象無象を辟易させ
ることになる。
 肉体と精神が腐っていた吸血鬼に相応しい爽快な結末。
 さようなら、永遠にさようならバール。セスとダークマンは彼に心から感謝
していた。
 心から。



                ***


 夕食の時間帯だった。
 キャルはジャケットを脱ぎ捨てて、エプロンをつけてスープを作っていたし、
カレンは中途半端に眠ったせいで痛む頭を酒で誤魔化そうとしていた、モーラ
は部屋に篭ってハンマーにセットする白木の杭を削っている。
 各人の心情まで表記する必要はないだろうが、キャルはスープを味見して思
う通りの味ができたことに喜び、カレンは痛む頭が億劫であり、モーラは新し
い白木の杭を手に入れる方法がないかどうかを削りながら考えていた。
 無論、三人ともこの時間が永遠に続くはずはないと知っていただろうが、そ
れでも今この一刻の平和な時間はなぜだか長く続くと思っていたのだ。


 静寂は鳴り響くベルの音で破られた。


 最初に動いたのはキャルだった、エプロンを脱ぎ捨ててスープを入れた皿を
床に引っ繰り返し、ジャケットを掴んでホルスターから拳銃を引き抜き、遊底
を引いて弾丸を装填する。
「モーラ! カレン!」
 頭の痛みがアドレナリンの大量分泌で掻き消えた、研究室に無造作に置いて
あったショットガン(昔彼女の前任者が使っていたものだ)を構えて、キャル
の背後に立つ。
 モーラはハンマーを握り締めて二階から転がるように飛び出した。
「今の!」
 叫んだ。
「モーラ、こっちに! 早く!」
 カレンが外の監視カメラの画像を、ディスプレイに映し出そうとした。だが、
一瞬画面が映ったかと思うと何かがカメラに激突した。
 ぶつん。
 一面の砂嵐。
 慌ててカレンが別のカメラに切り換えていくが、結果は同じだった。
 うおん
 うおん――うおん
 ううんうん うおんうん
 多方向から反響して聞こえてくるファンのような音に三人は慄然とする。
「逃げるよ」
 キャルは油断なく周りを窺いながら、モーラの手をしっかり握り締めた。
 モーラとカレンは頷く。
 気配を悟られないようゆっくり、ゆっくりと入り口から遠ざかり始める。
 後三メートル後方、下らない方程式のメモやら必要なのか不必要なのか定か
でない膨大な資料やらが山積みされている机の下に下水道へ通じる抜け道があ
った。
 下水道は膨大な広さを誇り、尚且つ血管のように張り巡らされた出鱈目で複
雑な道、そしてそのあちこちの道に仕掛けられたトラップは逃亡に最適な場所
といえた。
 潜り込めばそうそう追ってはこれない、連中が入り口を見つける頃には時既
に遅し、安全な場所へ潜り込んでいるという寸法だ。
 ――上手くいけばね。
 相変わらずあちこちから漏れ聞こえてくくすくす笑いのような物音に微かな
恐怖を覚えながら、三人は抜け道への扉を開いた。
 モーラが最初にハンマーを片手にするすると梯子を降りる、次にカレン、最
後にキャルが蓋を閉じ、梯子を降りようとして再び昇り出したカレンの頭に尻
を強かに打ちつけられた。
「何すんだよ!」
「黙って、いいから昇って!」
 その恐怖に満ちたカレンの表情に慌ててキャルが蓋を開く。彼女を追い越す
ような勢いで、カレンは地下道への入り口から飛び出した。
 キャルが「なんなんだよ、もう……」と呟き、何気なく後ろを振り返ると、
今度はモーラが降りた時と同じようにするすると梯子を昇っていく。
「何が」
「いいから、昇って!」
 モーラが始めて慌てた表情を見せた、梯子の中途半端な位置で茫然としてい
たキャルもその言葉に気圧されたように昇り出した。
 うわん。
 羽音が聞こえた。
「何、今の音?」
 思わずキャルは立ち止まる。
「いいから早く! 速く! 疾く!」
 モーラが叫んだ、羽音はうわんうわんとますます大きく、そして反響でもし
ているのか次第に複雑化していく。
 キャルは急いで梯子を昇った。そしてモーラとほとんど同時に入り口に転が
り込む。
 モーラが蓋を閉め、ハンドルを回して完全に密閉した。
「ふぅ」
 安堵の息をつく。
 キャルは結局何が起きたのか分らずじまいだった。
「何があったってんだよ、もう!」
「多分、ゴキブリよ」
 ……カレンの呟きにキャルはたっぷりと沈黙した。
「は?」
「だから、ゴキブリみたいな生き物が立ってたのよ」
 キャルはカミツキガメが噛みつくような顔をした。
「そんなので――」
「あら、もう戻ってきたの?」
 その時カレンとキャルとモーラは同時に声の方向へ振り返り、そして見た。


 無数のファンの音は羽音が重なっていたから。
 羽の生えた化物だから。
 机に座り、冷徹な表情にどこか悪戯っぽいものを含ませてこちらを見つめる
女が在る。
 彼女を取り巻く薄ら笑いを浮かべた吸血鬼ども。
 彼女を取り巻く薄ら笑いを浮かべた人間ども。


 そして。
 天井・壁・机。
「私とモーラがみたゴキブリが、あれよ」
 ありとあらゆる部分に貼り付いた人型の生物。黒光りする羽、髪のように頭
に垂れた触角。カレンが梯子を降りた時、懐中電灯で照らし出したのもあれと
同じものだった。
「ゴキブリとは失礼ね」
 諸井霧江が手を振った、吸血鬼たちが一瞬の間も置かず飛びかかる。
 疾かった。
 反応する間もなかった。
 キャルとモーラ、そしてカレンは両腕をがっちり吸血鬼達に抑えられた。
 さらに人間達が油断なくAK−74を構え、三人に突きつける。
 諸井霧江が椅子から立ち上がった。
「“ユダの血統”――ま、アリとカマキリの遺伝子合成で産まれたれっきとし
た生物よ。ほんの少し改良したけどね」
「改良――?」
「メスを統率するオスを――あら失礼! こんな与太話している暇はなかった
のよね」
 諸井霧江は実験動物(モルモット)を観察するような目で、三人を順々に見
る。何も三人全員を生かす必要はない。
 一人――ダンピィルの少女は触媒に必要であるから、枠から外れた。
 となると後はカレン・ジョンソンかキャル・ディヴェンスのどちらかである。
 ここで、諸井霧江の人間から吸血鬼になった時に纏わり付いた負の感情が二
人の生死を分けた。
 彼女の元へゆっくりと近付く。
 気丈に睨み付けていたその女は諸井霧江の殺意にわずかに怯えた。
 ――私が失ったものを、この女は持っている。
 たまらない劣等感。
 たまらない敗北感。
 殺意に転化した。
 諸井霧江の右腕が、カレン・ジョンソンの臓を紙を破るように貫いた。


                ***


 ダークマンは石鹸工場を見てすぐに何が起こったのか理解した。
 粉々に割れた窓ガラス、こっぴどく破壊された扉。いつもなら、路地裏をう
ろちょろしているはずのホームレスの姿も見当たらない。
 バイクから降りる、鍵を取ることも忘れていた。
 扉の残骸を踏み越え、かつての我が家の惨状を見渡す。
 立ち篭める煙・燃える資料・あちこちに転がる割れたグラス。ただし、そん
なものはダークマンの視界には映らなかった。
 彼が見ていたのは、ぐったりと石鹸工場の真ん中にある鉄柱に持たれかかる
カレンだった。
 歩いた。
 コホン、とカレンが弱々しく咳をした。唇から血が滴り落ち、それが腹部の
血に混ざった。
 カレンが足音に気付いてダークマンを見る。
「ペイトン……」
 微笑んだ。
「喋るな」
 ダークマンが人差し指を口に当てた。だがカレンは首を横に振った。
「ムリよ。助からないわ……肝臓を……丸ごと持ってかれたから……」
 それから、
「貴方が間に合って良かった」
 と言った。
 ――くそ!
 ダークマンは立ち上がって救急キットを開けると、中からモルヒネを取り出
し、走って戻るとカレンの腕に突き刺した。
 彼にはこれだけしか対処のしようがなかった。
 それから、カレンを看る。
 まるでこそげ取られたように腹部が欠けていた。ダークマンの目からはどう
見ても致命傷だった。
 自分が辿り着くまでに死ななかったのが不思議なくらいだった。
「何があった?」
「襲われた……吸血鬼達に……“頭”は……貴方のことを知っていた……」
「女か」
 自分のことを知っている人間と言えば一人しか見当たらない。
「そう……眼鏡をかけた……アジア系の……」
 キリエ・モロイ。
 名前を聞いた瞬間だった。
 灼熱の怒りが内臓から湧き上がり、とめどない熱が脳髄を支配しそうになる。
 躰に力が漲ってくるのが分かる、今なら吸血鬼の両腕を引き千切り、泣き喚
く舌を引っこ抜いて首を捻じ切るくらいのことはできそうな気がする。
 ――やれる。
 カレンが袖を引っ張った。
「いい? ペイトン、これから言うことをよく聞いてちょうだい」
 怒りが雲散霧消した。
「ああ」
 頷くと、カレンは満足げな笑みを見せた。
「まず一つ。モーラとキャルは連れ去られたけど、生きている。
 場所は……机の上にメモを置いていくって……」
 カレンが指差した机を見ると、一体何時の間に入り込んでいたのかセスがメ
モを掲げていた。
「こいつかい?」
「ええ……」
 セスの問いにカレンは頷いた。
「ペイトン……彼女は貴方の知恵が欲しいらしいの。
 人工……皮膚の」
「馬鹿な」
 あまりにも突拍子もない願いに顔をしかめた。
「キャルは……その為の人質……モーラは……違う……みたい……だけど」
 モーラを求める理由。
「それは彼女がダンピィルだからだ」
 ダークマンは呟いた。
「え?」
「すまん、何でもない」
 カレンは再び血を吐いた。先ほど咳き込んだときに吐いた量を遥かに上回っ
ていた、顔には既に血の気がなかった。
 カレンの腕を握り締める、脈は余りにも小さく弱々しい。
「あと一つだけ……。冷蔵庫に……モーラと、それからブレイドの治療薬があ
るから……お願い、あの二人に渡してやって……」
 ダークマンは言葉に詰まった。
 今から助けに向かうモーラはともかく、世界各地を回っているブレイドに血
清を渡すことができるのかどうか、正直言ってダークマンには自信がなかった。
 だがしかし。
 今ようやくダークマンは理解した。
 諸井霧江はメモを残している、という事はカレンがこうやって伝言を伝えよ
うとすることは予想外だったに違いない。
 カレンは耐えたのだ、ともすれば囁きかける死神と腹部の激痛に屈せず、ダ
ークマンにモーラとブレイドの事を託する為にひたすら耐え続けたのだ。
 一体どれくらいの間、耐え続けたのか?
 きっと一分が一時間にも感じられたに違いない。
「分かった、必ず渡す」
 だからこそ彼はそう約束した。
 カレンの魂が救われる為なら、嘘でも何でもついてやるつもりだった。
「ありがとう、ペイトン……」
 カレンは泣いていた、悲しみ・悔しさ・怒り・恐怖、そういったものが混じ
りあって自然と涙が零れていた。
「大丈夫」
 ダークマンはゆっくりと彼女の頭を胸に抱いた。
「怖いことはなにもない」
 カレンは笑った。
「そうさ……怖くはないんだ」
「そうね、じゃあ、後は――」
 よろしく、と言ってカレンは眠りについた。
 モルヒネはよく効いていたので、たとえ肝臓と腸が抉られ、大量の出血をし
ていたとしても最後は苦しまなかったに違いない。
 きっと。


 ダークマンは立ち上がった。
 セスの元へ歩み寄る、彼はメモをダークマンに渡す。
「場所は?」
「ビルの屋上、ヘリが迎えに来るそうだ」
「そうか」
「どうする?」
「決まってる」
「……これを付けろ」
 セスはダークマンにボタンのようなものを手渡した、精密なチップで構成さ
れたそれは一目でどんな目的に使用するものか理解できた。
「発信機か」
「ヘリじゃあ、俺がこっそり忍び込むって訳にはいかないだろ」
「……」
 ダークマンは一瞬彼が何を言っているのか理解できなかった。
「ついてくるのか?」
 セスは両肩を竦める。
「おふくろが教えてくれた諺にこうある――『毒を喰ったら皿も喰え』」
「……そうか」
「それにだ、俺達の見たアレが事実だとするならばだ。
 ――どこへ逃げても世界は破滅だ」
 ダークマンは頷いた。
「確かにな」
 バールが解いて見せたディスクの中身。
 笑い飛ばすにはあまりに真剣で膨大で完璧に構築された作戦。そしてそれが
指し示す内容は一つしかなかった。
 それは人類の敗北であり吸血鬼の勝利、そして朝の消滅と夜の繁栄。
 それでもダークマンも、セスも未だ信じられなかった。
 なぜならそれは吸血鬼の最も重要な本能を裏切る行為だから。


 ――そう、吸血鬼による人類消滅計画など絶対にあり得ないはずなのだ。


「世界を救おうぜ、俺達でな」
 セスはまるで子供のような表情を見せた。世界を救う、という行為に英雄め
いたものを見出していたからだ。
 幼い頃弟と語りあった夢をセスは思い出している。
(ようし、見てろよリチャード。お前の兄貴は世界を救うぞ)
 ダークマンは違う。
 彼は世界なぞどうでも良かった。
 ただ、臓が沸騰しそうなくらいの怒りを諸井霧江にぶつけることができれば、
そしてキャル・ディヴェンスとモーラ・ディヴェンスを救うことさえできれば
どうでも良かった。


「どっちみちビルまでついていく必要はないな。
 俺は準備をしてくる」
「ああ」
「幸運を」
 セスはダークマンの肩を叩いた。
「――お前の行く手に、茜と山査子の棘がありますように」
 ダークマンはそう言うと背中を向けた、倒れたバイクを持ち上げてキーを回
す。傷だらけのバイクは再び轟音を吐き出し始めた。
「よぉ! 今の言葉はどういう意味だ!?」
 彼にはまるっきり意味不明の言葉だった。
 ダークマンは片手を掲げる。
「お前に幸運を……ってことだ」
 セスが「なるほど」と頷く。
 砂埃が舞い、バイクが道路へ飛び出したかと思うと彼の姿は闇に消えた。


                           to be continued



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