「よく女や子供を殺せるな」
「簡単だ、動きがのろい」
             ―― 「フルメタルジャケット」















 ――さて。
 先進国に食物が溢れていても、後進国に回ってこないのと同様、立ちて待つ
のみなる者が皆、恵まれるとは限らない。
 彼女はそのことを良く知っている、なればこそ率先してよく調査した。
 勿論、配下となった連中が極めてロクでもない莫迦ぞろいだった、という事
も理由の一つ――というよりは主な理由だろう。
 こんな奴等にうっかり探索を任せようものなら、死体(もしくは喰屍鬼か)
を嬉々として引き摺って“ご褒美”を貰おうとしかねない。
 よって、諸井霧江は自らが動くことを余儀なくされていた。
 ペイトン・ウェストレイクを吸血鬼にしない、それが絶対的に必要だった。
 鏡を見る。
 吸血鬼となった人間の多くは鏡に映らないらしい、彼女とて例外ではない。
 だから、彼女の姿を映し出すはずのその鏡では背後の風景だけしか視認でき
ない。
 ――不条理。
 諸井霧江は自分の知識を総動員し、自分が姿身に映らない原因を考える。
 ――原因を知れば対策が分かる。
 五分経って諸井霧江は頭を横に振った。
 駄目だった。何も思い浮かばない、最近は殊の他酷くなってきている。
 吸血鬼になった時、諸井霧江は人体というものが如何に知識を得るに相応し
くない肉体か、よく理解できた。
 たった一日程度酷使しただけで、肉体の疲労に伴って思考能力は極度に低下
し、危険のシグナルとして余計な苦痛を肉体に与え続ける。
 そういう肉体が、諸井霧江は産まれた頃から嫌いだった。


 五歳の誕生日、諸井霧江は両親を見限った。


 普通の家庭に産まれた、両親も普通の人間だった。
 温かい家庭だった、どこにでもあるような家族形態の一つだった。
 ただ一つだけ違うところがあるとすれば、諸井霧江は天才だった。
 三歳のとき、加算と減算、乗算と除法を覚えた。
 両親は酷く喜んだ。
 大騒ぎだ。
 四歳のとき覚えたのは、二次関数・根号計算・対偶証明法……エトセトラ、
エトセトラ、エトセトラ。
 両親は彼女を不気味がり始めた、四歳の誕生日を迎える頃には彼女は無言で
両親を軽蔑し始めていた。


 小学生になる頃には、人間そのものを憎悪し始めた。


 近所の野良猫や野良犬をこっそり解剖し出したのは小学校高学年の頃だった、
屍体は近所の空き地にこっそり埋めた。
 そして中学生になる頃、彼女はようやく他者に、即ち権力に迎合することを
覚えた。
 人間――というよりは、肉体への憎悪、あるいは周りの連中への侮蔑を抑え
ることができるようになった。
 両親とも、不快にならない一定の距離を保てたし、作り笑顔も上手になった。
 阿呆面した連中――先生も含む――と言葉を交わすたび、心の一部がささく
れ立つほど淀んだ、その分野良猫と野良犬の屍骸が増えた。
 ペイトン・ウェイトレイク教授と出会ったのは海外留学の時だ。
 火傷患者の為の人工皮膚の開発。
 火傷患者の為のという前振りは彼女にとってはどうでもよかったが、人工の
皮膚という存在には実に魅せられた。
 彼女が助手として、人工皮膚に携わったのは短い期間だったが、それでも彼
女は彼の才能を認めていた。
 それはペイトンも同様だったに違いない。彼女の尽力で従来、10分と経た
ずに溶解していた人工皮膚が、99分まで耐えるようになったのだから。
 諸井霧江は、今でも費用と時間さえあれば99分の壁を乗り越えられたと思
っている、しかし現実は予算もなく、時間もない。
 失意の内に彼女は帰国し――燦月製薬に就職した。
 製薬会社に就職したのは、ひょっとしたら人工皮膚の失敗が尾を引いていた
のかもしれない、それとも子供の頃から子猫よりも放射能で突然変異を起こし
た畸形の生物を見る方が好きだった事が理由なのかもしれない。
 両親は彼女の就職を喜び、新しい眼鏡をプレゼントした。


 いずれにせよ、燦月製薬の日々は充実したものだった。


 充実した設備、互いの領域を決して侵そうとしないビジネスライクな同僚達。
 目障りな存在といえば、動物実験を虐待だとのたまってデモ行進を繰り広げ
る動物愛護団体くらいのものか。
 それすら、せいぜい外壁の周りをぐるぐるとうろつく程度のものだ。
 彼女は自分の過去も思い出せないほど、実験に次ぐ実験を繰り返した。動物
実験も無論行ったし、金で雇ったホームレス相手にレベル4のウィルスとその
抗体を投入したことも二度三度とあった。
 残念ながら、その実験はいずれも失敗だったが。
 ちなみにホームレスを使用した人体実験について彼女は何とも思わなかった。
 彼はお金を貰ったではないか、命と引き換えに。なら等価条件だろう。
 諸井霧江は実験が失敗に終わり苦悩する同僚にそう言った。
 慰めようと思ったのではなく、彼女は彼女なりの事実を述べただけに過ぎな
かった。
 

 数年が過ぎ、同僚の中でもメキメキと頭角を表していた諸井霧江は、燦月製
薬内部にすら存在を知るものが少ない特殊プロジェクトチームへの編入を許さ
れた。
 プロジェクトチーム名“キメラ”。
 表向きは今だ決め手が見つからないインフルエンザウィルスの特効薬の開発
チーム。
 彼女はヨーロッパへ飛ばされた。
 そこに居たのは背後思想から親戚に至るまで徹底的に調べ上げられ、厳重な
審査を潜り抜けた極めて優秀かつ、実験体をいじることに何ら疑問を持たない
素晴らしく道徳的な学者達と、


 “女王”が在った。


 ――そうして、そこで彼女達は世界の真実を知った。
 知った事を後悔する者もいた。
 賛嘆する者もいた。
 勿論、彼女は賛嘆する側だった。


 そんな風にして、合理主義の塊のような諸井霧江は完成した。


 日本でのリァノーン脱走から始まった一連の騒動――通称”ヴェドゴニア事
件”によって、優秀なスタッフ達のほとんどが死体袋に詰め込まれていた。
 諸井霧江もその際にナハツェーラーに首を刎ね飛ばされている。――いや、
果たして本当にあれはナハツェーラーだったのか。彼女には確証がなかった、
殺されたのもナハツェーラーなら、自分を生かしたのもナハツェーラーだった。
 もしかしたら影武者だったのかもしれない。
 もしかしたら本物だったのかもしれない。
 ――訳が分からない。
 ただ、彼女が処女だったという事実が彼女を蘇らせる運命の気まぐれに加担
していたことは間違いない。
 目が醒めたら飛行機の貨物室に屍体と共に積まれていた。しばらくは自分の
状態に戸惑っていたが、その内それを考える事もできないくらいの強烈な渇き
を覚え始めたので思わず目の前の屍体の首筋に牙を突きたてた。
 カラカラの木乃伊になるほど血を吸い続けた。
 吸い終わるとよく眠れた。
 やがて飛行機の振動が止まり、屈強な兵士に引き摺り下ろされてよろよろと
歩き、やがて自分がヨーロッパに戻ってきたこと、自分が死んだこと、自分が
吸血鬼になったことを理解した。


                ***


 吸血鬼になると、まず身体能力は極度に上昇する。視覚・聴覚・触覚・嗅覚
……味覚も変化する、当然新鮮な血液を好むようになるが、中には血液と同じ
位新鮮な肉や腸を好む吸血鬼もいる。
 性格も変化する、血液の衝動は人間の餓えに対する衝動や性衝動などとは比
較にならないほど強烈だ。必死に生前の自我を保とうとしても、どこかで歪み
が生じるのが常だった。
 諸井霧江は、それは平気だったろう、元々彼女の倫理観も吸血鬼の倫理観も
さほど変わらない。
 諸井霧江にとって問題だったのは、創造力が極めて退化していたことだった。
 新しいウィルスを考えようとしたり、人工皮膚に対する新しいアプローチを
試みようとしても、何も考えられなかった。慌てた彼女は自分の知能が退化し
たのかと自身で頭脳テストを繰り返した。
 彼女の知能は正常だった。子供の頃から記憶し続けてきた膨大な知識は残ら
ず脳に存在し続けていた。だのに、何かを創造する段階になると頭が真っ白に
なってしまっていた。
 それは恐ろしい奇妙な感覚だった。
 愕然とした。
 吸血鬼への憧れなど完全に吹き飛んでいた。同時にロックシンガーであった
ジグムンド・ウピエルがなぜ作曲をしないのか、それも理解できた。
 諸井霧江は、科学者としての地位を完全に失った。代償として得た力と、残
った知能を有効利用するしかイノヴェルチに残る道はなかった。
 その知能が囁き掛ける。


 ――ペイトン・ウェストレイク教授を探し出せ。


 吸血鬼になりたての頃、諸井霧江は日光に手をかざしてみたことがあった。
 瞬時に皮膚が焼け爛れ、全身にたたみ針が刺さったような激痛が疾った。慌
てて手を引っ込めたが、その後も苦痛に何時間も悶え、輸血用血液をがぶ飲み
して皮膚が再生すると、ようやく落ち着いた。
 そして吸血鬼の人工皮膚にかける執着が並々ならぬものだった理由を思い知
った。うっかり野原で朝を迎える恐怖に比べれば、真祖の姫君など物の数に入
らないだろう。
 彼女は吸血鬼用の人工皮膚の創造を決意した。

 くそ。
 畜生。
 ――何で私はこんな躰になっている!
 何度となく呪詛を吐いた。
 かつて整然と並べられていた資料はどれもこれも役立たずとして屑箱に叩き
込まれ、あるいは床に放り投げられて部屋の混沌の一部を担っていた。
 鏡面のようだった机は何度も何度も拳を振り上げたせいで酷い凹凸ができて
いて、書類仕事をすることもできそうになかった(する必要もなかったが)。
 激情に身を任せて人間を引き裂き、生血を啜ると気分が楽になった。
 気分を楽にして、落ち着いて思考すると――。
 やはりペイトン・ウェストレイクをこちらの仲間に引き入れるしか、この皮
膚を完成させる方法はなかった。


 ペイトン教授を吹き飛ばし、彼の恋人を喰屍鬼化させて研究データを奪った
時、諸井霧江はまだ人間だった。
 潤沢な資産と膨大な設備、それを自分が使えば彼の研究など一夜で完成でき
る、そう信じていた。
 しかし今の彼女には不可能だ。
 悔しいがそれは事実だ。
 だからこそ、ペイトンを仲間に引き入らねばならない。彼をうっかり吸血鬼
にしたりしてはならない。
 クロウディアが吾妻玲二に執着を見せたように、諸井霧江はペイトン・ウェ
ストレイクに執着していた。
 クロウディアと違っているのは、彼女は余計な恋愛感情など持っていない為、
ペイトンが執念深く自分を恨んでいる事と、それでも彼を手に入れる為には彼
の周りに居る者達を利用すればいいと知っていた。
 カレン・ジョンソン。
 ファントム・ドライことキャル・ディヴェンス。
 この二人を利用すれば、あの男は簡単に屈すると知っていた。


                ***


 後からそれを喩えたとするならば、台風の目に入ったように落ち着いた凪の
日々だった。
 手を繋いでキャルと階段を降りてきた後、モーラはスープを飲んだ。
 かぼちゃを裏ごししたポタージュスープ、無論母親の作ってくれたそれとは
全く別の味だが、それも彼女は悪くないと思えた。
 カレンはキャルにスープのレシピを要求した。
 ダークマンは引き篭もってディスクの解析に勤しんでいた、ドアの外にスー
プを置いておくと空になって戻っていた。
 キャルは三人が自分のスープを大層お気に召した(ダークマンのみ何も言わ
なかったが)事に大変満足気だった。
 カチャカチャと食器を洗う。
 カレンが何気なくラジオのスイッチを入れた。硬質的なアナウンサーの声で
ニュースをやっていると分かった。
 ラジオから流れるニュースは大抵が殺人か猟奇行為で(テレビもラジオも吸
血行為をあいまいにぼかすためか、猟奇行為と呼んでいた)、徐々に吸血鬼と
人間の共生関係が崩れつつあることを示していた。
 ダークマンはニュースを聞くたびに首を傾げ、何かをメモに書き殴っていた。
 カレンも疑問を感じていた。
 このニューヨークの吸血鬼の親が死んだのだ、なぜ子達はパニックになって
一度に共生関係が崩れないのだろうか?


 そんな中、一晩でマンションの人間全員が消失したというニュースも流れた。
 ふうん、とカレンか、あるいはキャルが呟いた。
 それでそのニュースに対する認識は終わった、ダークマンもカレンも今更そ
んなニュースに注目することは無かった。
 最近のニューヨークでは非常によくあることだ――アパートの人間が消える、
死体が見つかる、あるいは見つからない、もしくは夜に限ってホームレスのよ
うにあたりをうろつく行方不明者の群。
 三人が無関心になるのも無理はない。
 唯一モーラが哀しそうに顔を歪ませ、朝食の前に祈りを捧げた程度だ。
 だがしかし、もしとある事実を聞かせられていればもっと注目していたかも
しれない。


 そのマンションは吸血鬼だらけだった。


 三日後。
 ディスクを取り出しパソコンの電源を落として、コートのポケットにディス
クを突っ込むとダークマンは机に顔を突っ伏して少し眠った。
 夢は見ない。躰を限界まで酷使して疲労の極地に達した躰を一気に睡眠へ逃
避させる、だからダークマンは夢をあまり見ることがなかった。
 三時間して起き上がると、疲労の極みに達していた躰が少しだけ回復してい
た。背を伸ばすと骨がこきりと鳴ったが、別段気持ち良くもなかった。
 彼の躰は苦痛も伝えられない代わりに、こういうちょっとした快楽も味わう
ことができない。
 もっともダークマンには現在抱えている諸々雑多の問題があったので、そん
な自己の躰のささいな悩みなど気にも留めなかった。
 時計を見る、朝の五時。そろそろ太陽が姿を見せ始める頃だった。
 一階に降りると他の連中は全員自分のベッドに潜り込んだようで(キャルは
モーラとベッドを共にしていた)、ひっそりとしていた。電気スタンドの灯り
の下でメモを書いて、台所のテーブルに置いた。
 大きく息を吐いてわずかによろめきながら、工場の扉を音を立てないよう注
意して開く。
 キャルのバイクにまたがり、こっそり作っておいた合鍵でエンジンをスター
トさせる。エンジンの音と排気音がやたらと静かな通りに響くので慌てて発進
した。
 キャルは漏れ聞こえる音に反応してわずかに目を開けたが、眠気にあっさり
と屈してすぐに目を閉じた。
 ともかく、メフィストに尋ねることが必要だった。直感でこのディスクが持
っているだけでも相当危険な代物であると分かっていても、どうしても中身が
知りたくなっていた。
 メフィストはニューヨークの地下鉄廃駅に君臨している。
 指定された場所から、地下へ降りることが必要だった。


                ***


 部下がデジタルカメラで撮影、送信されてきたマンションの画像を見て諸井
霧江は苦渋に顔を歪ませた。
 傲岸不遜たる破壊と陵辱だった、マンションの上半ばが爆弾で破壊されたか
のように吹っ飛んでいる、ガス管から漏れたガスが引火したらしい。

 それはいい。

 窓ガラスが叩き破られ、周辺にガラスのシャワーを降らせたせいで近所の住
人から警察署へ通報のついでに苦情が届いていた。

 それはいい。

 問題は、マンションの前に積み重ねられた“死体”だった。
 全て吸血鬼だった、おまけに瀕死の状態とはいえまだ意識があった。
 女吸血鬼が苦痛に泣きながら呻いた。腕を千切られ、心臓を注意深く避けた
部分に鉄の杭が突き刺さっていた。
 その上に子供の吸血鬼がいた、やはり心臓を避けて杭に躰を貫かれている。
 いかにも子供らしい甲高い声で喚いていた。
 首だけになった吸血鬼は、眼窩から後頭部へ無理矢理杭を押し込まれていた。
 切断面から滴る血に蝿が吸い寄せられ、手で追っ払うことのできないその男
はとても悔しそうだった。
 画像にはそのように積み重なって杭に突き刺さった吸血鬼達がマンションの
前に立ち並んでいた。
 まるで、あの狂気に支配された串刺し公のように。
「ヴラド公気取り、ね……化物め」
 当の破壊者は既にその場を立ち去っていた、どこかお気に入りのねぐらを見
つけたらしい。
 朝陽が昇り始めた、救出はもう間に合わないだろう。
 悲鳴をあげながら次々と灰になる、男も、女も、子供も、老人も、平等に。


 ――彼にとって全てが敵なのだ。


 諸井霧江は画像を消した、あれにはもううんざりだ。好き勝手にさせておけ
ばいい、どうせ我々には逆らえないのだから。
 彼女は分厚い窓のカーテンをしっかり降ろすと、棺桶ではなく馴染んだベッ
ドの上で眠ることにした。
 居場所は突き止めた、散り散りになっていたマグワイアの部下達も掻き集め、
誰がリーダーか理解させた、後は襲い掛かるだけ。
 襲って、手に入れるだけ。
 吸血鬼は夢を見ることができないが、薄ぼんやりとした意識の中で諸井霧江
は夢見るように微笑んだ。


                ***


 キャルは自分のバイクがかっぱらわれたことを知らされて、朝はずっと不機
嫌だった。
「黙って出てくなんて!」
 カレンがまあまあ、と彼女を押し留める。モーラもそれに加わり、キャルは
お昼頃にようやく機嫌を直しかけていた。
 キャルは自分のバイクが勝手に使われたことに加え、ダークマンが自分達に
隠れるように出て行ったのが許せなかった。
「なるべく早く戻る」
 と、メモには確かに記入されていたが、いつになるか分かったものではない。
 否応なしにかつての生活を思い出す。
 やっと地獄から抜け出せたと思った矢先、小さな城を一切合財蹂躙させられ
たあの事件を、あの爆発を思い出す。
 そしてそのあと、自分が取った最悪の選択も。
「キャル?」
 モーラが心配そうに呼びかけた。
 キャルの傾いでいた首が、痙攣するような反応を見せた。
 苦笑いの表情を無理矢理作る。
「何でもない」
 ふと横を見るとカレンが微笑んでいた、まるであなたの心はお見通しとばか
りの笑み。
 ――ちぇ。何だっていうんだよ。
 心の中で舌打ちしながら、ふと横を向くと口に手を当ててモーラも笑ってい
た。
 ――ちぇ。
 キャルはますます不貞腐れた。


                ***


 トイレにペットのワニを流したら、下水道に棲み付いていたそれが数年後に
成人のワニになって復讐しに来る。
 そういう都市伝説がある。
 ニューヨーク以外に住んでいる人間は誰も信じていないだろう。
 ニューヨークに住んでいて、なおかつ地下を知っているものならば「さもあ
りなん」と頷くだろう。
 コンクリートと土と汚水とゴミが入り混じったトラッシュジャングル。
 それほどニューヨークの地下は複雑怪奇に入り組んでいて、地上とは全く別
の世界を形成していた。ニューヨーク市警すらここにはロクに入りたがらない。
 例え犯罪者がここに逃げ込んでいたとしても、だ。
 もっともメフィストは地上の犯罪者が地下に逃げ込むことを許さない。
 一日で彼の手下に見つけ出され、両脚を綺麗に折られた犯人が警察署の前へ
ゴミと共に投げ捨てられるなんて事は良くある事だった。


 とにかく地下は薄汚いのだ。
 汚水の吐瀉物の饐えた臭いと生ゴミが腐った臭いに加え、猫の小便と犬の糞
の悪臭が混合され、空気をベタベタする別の気体へ変えている。
 気分が悪くなると、酸素吸入器で時々肺の中身を入れ換えたが臭いだけはど
うしようもない。
 ダークマンは此処に来る度に嗅覚を失わなかったことを後悔していた。くそ、
神様の野郎、余計な機能を残しておいてくれたものだ。
 しかし一方で、24時間闇に包まれている地下は心地よかった。誰からも注
目を浴びることなく、ひっそりと生きていける。
 吸血鬼騒動が終わったら、ひっそりとここで暮らすのもいい……とダークマ
ンは考えた。それならば、ついでに耳鼻科に行って永久に鼻を詰める方法を教
えてもらいたいところだが。

 メフィストは最近自分の帝国に化物が居座ったとぼやいていた。
「私を差し置いてだぞ、くそ」
 ダークマンは辛抱強く彼の愚痴を聞いていた、ともすれば苛々する心を抑え
つつ彼の話を促す。
 メフィストはくどくどと話し続ける。無数にある地下駅の一つにそいつが寝
っ転がっていた、最初は動物かと思った、次に大柄な人間ではないかと、最後
に大柄な吸血鬼だと見当をつけた、縄張りを荒らされたと憤慨したホームレス
達が手に手に杭だの斧だの、銀の弾丸を装填した古臭いライフルだのを持って
居眠り中の吸血鬼に押しかけ、彼に余計な刺激を与えてしまった。

 一瞬で七人の首が刎ね飛ばされ、五人の臓物が吹っ飛んだ。

 第一次攻撃に参加せず、たまたま生き残ったホームレス達はしばらく茫然自
失状態だった。やがて臓物と血が彼等の頭に降りかかると、ようやく逃げ出す
ことを思いついた。
 吸血鬼はそれ以上追いかけてこなかった。
 吸血鬼……否、一瞬とはいえ動いた姿を見た彼等は一様にあれは吸血鬼では
ないと言った。
 もっと単純明快な形容、もっと分かりやすい比喩、彼等はこう叫んだ。
「Ogre(鬼)!」
 彼等は二度とそこへ近づこうとしなかった。
 三十年被り続けた毛布も、大切なガラクタも、何もかもをうっちゃって。
 それは、ホームレスにとっては死ぬより辛いことなのに。


 メフィストの愚痴に思えたそれは、次第次第にダークマンの興味を惹いてい
った。Ogre(鬼)と呼ばれたその生物に。
 だがしかし、今はそんな物を追っている場合ではないだろう。
 ディスクを手渡し、こう言った。
「このディスクのプロテクトを打ち破ることができる人間を探している」
「ハッカーか? ……ふむ、人間以外でもいいかね」
「協力してくれるなら、誰でも構わんさ」
「一人心当たりがあるが、協力してくれるかどうかは解らん」
 メフィストは肩を竦めた。
「なら、殴る」
 即答した。
「もしかするとくたばっているかもしれん」
「どこに居るんだ?」
「そいつは、お前の後ろに佇んでいる男に尋ねるといいだろう」
 ダークマンは振り返った。
 そこには。
「ハロー、兄弟(ブラザー)!」
 にんまりとした笑みを浮かべたセス・ゲッコーがいた。驚くダークマンの肩
を馴れ馴れしく叩く。
「用事は終わりだ」
 振り返ると、メフィストの姿は消えていた。
「神出鬼没だな」
「全くだ」
「貴様もだ」
 ダークマンが睨み付けた。
「じゃ、案内するぜ。心配すんな、メフィストからそれなりの金は貰ってる」
 ダークマンに背中を向けて歩き出した。
 しばしの逡巡の後、ダークマンは彼についていくことにした。どの道この男
を信じるしか道は開けないのだ。
 ぬめった黴でよく滑る床に注意を払いながらダークマンは歩き出した。
「――で、その男の名は?」
「そいつはお前がこの間ブッ潰した例の館に住んでいてな」
 セスが言うには、館が爆破された後すぐにそこへ向かったのらしい。いわゆ
る火事場泥棒の為だった。
「今でもか?」
「……動けないんだとさ、お前さんがあの館を爆破したせいで地下室に閉じ込
められていてな」
 口笛をピュウッと吹いて、セスは笑った。
「名前は?」
「ええと、そう、なんだったけか……」
 頭を掻きながら必死にセスは顔を思い出そうとした。
 青白く象のようにゴツい肌、つるつるの頭、歯槽膿漏のような臭いを全身に
漂わせ、何をしてようがおかまいなしに屁をこく糞デブ野郎。
 ――そしてようやく彼(?)がどう名乗ったかをセスは思い出した。





「バールだ」
 あの吸血鬼はそう名乗っていた。



                            to be continued



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