「もし彼に唇があったら、ペイトンはほほえんだことだろう。
 ペイトン・ウェストレイクという名の男は確かに死んだ。
 しかしたったいま、ここにダークマンが誕生した」

            ――ランドル・ボイル「ダークマン」














 ――荒廃したビルだった。暴動でも起きたのか入り口のガラスは見るも無残
なほど破壊され、入り口にはコンクリートの破片がゴロゴロ転がっている。
 よく注意してみれば、そのビルはつい先日までは吸血鬼たちが使っていた高
級のマンションであり、ニュースで言われていた「多数の犠牲者を出した」マ
ンションであるということをダークマンは思い出しただろう。
 しかし今のダークマンはそんな情報に対してまるで無関心だった。
 ただ、このビルの屋上まで行くのにエレベーターが使えないと面倒だな、と
その程度のことをぼんやりと考えていた。
 ……とは言え、彼は諸井霧江に対しての復讐心を忘れた訳ではない。ただ、
心の底に押し込めている。
 押し込めて、南京錠をかけ、チェーンを引っ掛けて、テープを巻いている。
 感情が表に出ないように。
 感情が爆発しないように。
 灼熱の溶岩が胃の中でドロドロと溶けているような感覚。
 吐き気がする。


 うっかりすると、諸井霧江に逢った瞬間に襲い掛かってしまいそうだ。
 ――よせ、彼女のことを考えるな。
 驚愕に見開かれた瞳を抉り出す、悲鳴をあげようと大きく口を開いたと同時
に下顎に手を引っ掛けて一気に引き裂く、ごぼごぼと血を吐く彼女の欠けた下
顎から見える喉に食らいつき、肉を噛み砕いて地面に吐き捨て、ぐらぐら揺れ
る首を一回転二回転、捻じ切る、絶頂に達する。
 そんなリアリティに溢れる映像がダークマンの目に映った。
 振り払おうとする。
 それでもその映像は脳に焼き付いたかのように離れることがない、そればか
りか過去の映像であるジュリーが惨殺される姿がキャルとモーラの姿にオーバ
ーラップして、彼の脳は爆発寸前だった。
 心の底から思う、諸井霧江を殺したいと。
 心の底から思う、諸井霧江に復讐したいと。
 落ち着こうと彼は思う。だがダークマンはランゲヴェリツ・プロセスの影響
で怒りを抑えることが極めて困難になっている。
 落ち着こうなどというのは不可能に近い行為だった。
 ビルのコンクリートの壁に拳をぶつけた。
 二度、三度。
 包帯を巻いた拳に血が滲む、ぶつけた瞬間ガツンという衝撃が加わるが苦痛
は遮断されている、何も感じない。だからこれっぽっちも効果はない。
 水道を見つけた。
 蛇口がひしゃげて途中から折れ曲がっている、強引にひねると水が噴き出し
た。口に咥えて喉をたっぷりと潤す。随分と喉が渇いていたらしい。
 渇きが無くなって多少は気分が良くなると、彼の頭で誰かがドアをノックし
た、応じる。


 ――ミスター・ダークマン、君は疲れている。君が今すぐすべきことは居心
地の良いベッドで心地よい眠りにつくことだと私は思う。
 ――ドクター・ペイトン、残念ながらそうはいかない。私は大変怒っている。
 ――その怒りはランゲヴェリツ・プロセスによってもたらされた副産物だ。
 ――だからどうした、カレンを殺した、それが許せるか? 糞。カレンがど
れだけ苦しんだと思っているんだ、糞。カレンがどんな絶望的な気分で私を待
ち続けていたか分かるか、糞。しかもやった張本人は人質を取ってのうのうと
生き延びている、糞。殺してやる。
 ――分かったもういい、どの道君を止めることなどできやしない。
 ――だったら下らんことに口を出すな、ペイトン。
 ――だが、モーラとキャルは救い出せ。
 ――……。
 ――君は復讐を望み、私は彼女達の無事を願う。それだけは言いたい。
 ――分かった。
 ――もうペイトンとしての私は化学知識という存在でしかない、これから先
は君に任せるしかない、だから冷静にな。以前言ったことを繰り返せ。
 ――私は破壊しない、私は復讐する。
 ――それが分かっていればいい。では黙ろう。
 ――ありがとう。


 彼は冷静な足取りでエレベーターに向かい、最上階へのボタンを押した。
 崩壊したようなビルにも関わらず、エレベーターの電源だけは確保されてい
るようだ、中には血痕があるが彼は別段気にも留めなかった。
 ゆっくりと駆動するエレベーターの中で、彼は発信機を確認する。いくら小
型であるとはいえ、ポケットの中というのは無用心過ぎる。そこで彼は自分の
顔面の眉間に当たる部分に包帯と一緒に発信機を巻き付けていた。
 指で触って確かめる、不自然な盛り上がりはどこにも見当たらない。
 エレベーターから降りた。そこから更に屋上へと階段を昇る。
 屋上へと続く鉄製のドア。
 わずかに隙間からヘリコプターのローターの音が漏れている。
 扉を開けた。


                ***


 キャルは黙りこくっていた。
 これは普段が饒舌すぎるようなキャルにとって極めて深刻な状態だ。余程の
ショックを受けているか、あるいは余程の怒りに身を震わせているかのどちら
かである。
 今回は両方だった。
 目の前でカレンが殺されたというのに、何もできなかった自分がショックだ
った。
 目の前でカレンを殺した上に、倒れこんだ彼女を嘲笑った諸井霧江が許せな
かった。
 彼女と、それから自分を物欲しげな瞳で窺っていた周りの吸血鬼どもはガソ
リンのようなものだった。
 ガソリンは炎を燃え盛らせる。


 モーラとキャルはトラックのコンテナに載せられて運ばれている。
 扉に手をかけてみるが、案の定ビクともしない。南京錠のような類のものじ
ゃない、恐らくは電子ロックだ、とキャルは見当をつけた。
 勿論正しくその通りだった。
 道具があれば何とかなるかもしれないが、ナイフ一本とて彼女の手元にはな
い、それどころか鬱陶しい手錠と足首の枷がいちいち動くのに邪魔をする。
 モーラにしても同様だ、手錠に加えて両足首の枷。諦めたように身動き一つ
しない。ただぼんやりと虚空を見つめている。窓はない、空も見えない。
「モーラ」
「……」
 たっぷりの沈黙。諦めてキャルはモーラの隣に腰を下ろす。
「不安?」
「……キャルこそ」
 その通り、二人は不安だった。これから自分達の身に何が起きるのか、そも
そも何が起ころうとしているのか。
 キャルはある程度自分の存在価値に目星をつけていた。諸井霧江、いけすか
ない日本人(ジャパニーズ)の吸血鬼。一度だけ聞いたことがある、あの女が
ダークマンの――標的だ。
 しかし、標的になっているはずの彼女はダークマンが欲しいらしい、殺すつ
もりなら簡単だろう、あの石鹸工場で待ち伏せすればいいことだ。
 にも関わらず、彼女は自分とモーラを人質に取り、どこかへ移送しようとし
ている。カレンが殺されたのは、人質は一人で充分ということだろうか。
「……?」
 キャルは自分がおかしな結論に達していることに気付いた。今の結論だと、
隣の少女が生きているというのは不自然だ。理屈に合わない。
 モーラか、キャルのどちらかが殺されていなければいけないのだ。いや待て、
とキャルはさらに考える。思考が錯綜する。カレンはあくまで警告で、人質は
一人でも二人でも良かったのか。
 ――それも違う。
 キャルはあの時の情景を必死で思い出していた。彼女が自分達の元へやって
来た時の事だ。怒りは疑問で打ち消されている。
 プレイバックスタート。
 彼女はこちらに歩み寄ると、まずモーラを一瞥した。次に自分と、それから
最後にカレンに視線を移した。
 そこまではいい、あの時自分達の並び方は向かって右からモーラ、自分、そ
れからカレンだった。諸井霧江が右から視線を順々に向けたとしても何ら不思
議なことではない。
 だが、問題は次だ。
 カレンまで視線を移すと、諸井霧江は一旦モーラに視線を戻す。彼女を見据
える、彼女の存在を確認するような視線。
 それから諸井霧江と視線が合ったのを思い出した。
 睨みつけた、無関心に受け流される。
 カレンに視線を移す、
 視線を自分に戻す、
 もう一度カレンに移す、
 タイムラグ、
 瞳に表情が宿った。
 宿ったのは憎悪、嫉妬、わずかな憧れ、それから――殺意。あの女とカレン
の間に何があったのかは知らない、もしかしたら何も無かったのかもしれない、
ただカレンが急に憎たらしくなっただけかもしれない。
 ともかく、諸井霧江はカレンを選んだ。
 モーラのことは鼻にも引っ掛けなかった、自分とカレンのことを交互に見た
ということは、諸井霧江としてはどちらでも良かったのではないか?
 逆に言うとモーラは何があっても殺害対象から外れていた……?
 ――そうか。
 キャルは思考を深める。
 そもそもの前提として、憎い吸血鬼ハンターをインフェルノが生かしていた
理由は? 嬲り殺しにする為か? それも違う、自分が飛び込んだ時、モーラ
は少々衰弱しているだけで目立った外傷はほとんど無かった。
「モーラ」
「……何?」
「こんな時に変なこと聞くかもしれないけど、モーラはインフェルノに捕まっ
てからあたしが部屋に飛び込んでくるまでどれくらいの時間が経過していたか
覚えてる?」
 モーラがきょとんとした表情を浮かべた。場違いな疑問に絶望で呆けていた
頭脳がゆっくりと働き出す。
 ……無言で首を振った。
「よく分からない……最低でも一日以上は経っていたと思うけど……」
 それだけでも充分おかしい。
 一日あれば拷問して血を吸って放り捨てる時間としては充分だ。
「何で――モーラはあの時捕まっていたのかな」
「え?」
「モーラ、何か思い当たることなんて……あるかな?」
 キャルの問いにモーラは考え込む。自分、自分が生き延びた理由。捕虜にな
っていたということは捕虜としての価値があったということ。フリッツにはな
く、自分にあった価値。
 フリッツと、自分の違いは――。


 せいぜい、ダンピィル(混血児)ということくらいだ。


                ***


「かつて神が半ば蘇ったことがある」
 相手の存在しないチェスに没頭していたナハツェーラーが、同室で書物を紐
解いているネロ・カオスに呟いた。
「はねっかえりのフロストが起こした、あれかね?」
 書物から目を離さず、返答する。部屋は薄暗く、蝋燭の光がわずかに灯って
いるだけなのだが、ネロ・カオスもナハツェーラーも別段気にしている様子は
ない、文字は読めるし、チェスも行うことができる。
「そうだ、だが失敗した」
「儀式そのものは正しかったと聞いている」
「嘘だ」
「……根拠は何かね?」
 始めてネロ・カオスは興味を示したらしい、ページを捲る指がピタリと止ま
った。視線こそ本に向かっているものの、眼球と脳は文字を解釈しようとはし
ていない。
 ナハツェーラーはチェスを続ける、向こう側に居る筈もない相手を見据えな
がら白の歩兵(ボーン)を、黒の僧兵(ビショップ)を、白の城兵(ルーク)
を動かし続ける。
「あの書室に保管してあったものは偽物だ――私が書いたからな」
 ネロ・カオスが目を剥いた。
「それこそ嘘だろう」
 嘘のはずである。ネロ・カオスとて曲がりなりにも学者だ。ふらりとあの街
に立ち寄って、予言書に目を通したのも一度や二度ではない。
 言語学が専門ではないものの、好奇心に任せて解読に数十年以上の月日を費
やしたこともある。友人の助力も借りて、おぼろげながら予言書のおおまかな
概要は掴めた。
 もっとも、そこでネロ・カオスは予言書への興味を失ってしまっていた。中
身の大部分が「既に終わった時代」の予言へ当てられていたからかもしれない。
(的中率は高かったが)
 吸血鬼が最強の力を得る為の儀式についても勿論記されていたが、その儀式
を行うには途方もない財力と権力が必要だった。
 矛盾である。力を得るために必要な儀式を行う為に力が必要だとは。
 矛盾。
 ネロ・カオスはそれが気に入らなかったし、そもそも自分にそういう力が必
要だとは思わなかった。
 彼にとって予言書はそこまでの存在であった。だから解読についてはともか
く、それを書き記すことなど当然不可能であった。故に「偽物を作成する」と
いうのは大変な事だ。
「失われたはずの古代吸血鬼語――真祖の言葉をお前が知って、書き記したと
いうのか?」
 既にネロ・カオスは書物を読んではいない。ナハツェーラーの方を振り向く。
 蝋燭の火がナハツェーラーに影を作っていた、ネロ・カオスから彼の顔の表
情は窺い知れない。影がなかったとしても、いつもの薄笑いの表情を浮かべて
いるだけだろう。
 その通り、ナハツェーラーは薄笑いを浮かべていた。
「ああ、そうだ。知っていたとも。教えられたからな」
 ナハツェーラーは言う。
「教えられた?」
 ネロ・カオスが疑問を投じる。
「私の――“親”にな」
「お前の、親?」
 ナハツェーラーは真祖ではない、あくまで人の身から吸血鬼へ転化したもの、
即ち死徒のカテゴリに属している。つまり、彼の言う“親”とは最初に彼の血
を吸ったものということになる。
 ネロ・カオスはそれが誰なのかまでは知らなかった。吸血鬼は自分の“親”
について語ることをあまり好まない。ロアのような存在は例外中の例外だ。
 ナハツェーラーも当然自分の“親”について語ったことなどない。
「私の親は真祖でね。名をカーミラという。……知っているかね?」
「伝聞でな」

 真祖。
 人の身が転化したのではなく、生まれながらにして吸血鬼で在った者達。
 世界を統べる知識と力を持った最強無比の化者(ばけもの)達。だがしかし、
ある事件のせいでその存在は歴史から抹消された。それも同じ真祖――アルク
ェイド・ブリュンスタッドの手にかかって、である。
 ともあれ真祖は栄華を誇るのも早々に、たった一人の真祖によってほとんど
絶滅に追い込まれたのは間違いない。


 ――ほとんど。


 わずかながら生き残った真祖も存在した。
 その内の一人に、真祖でありながら死徒にもっとも近いと言われた女吸血鬼
がいた。死徒にもっとも近いというのは、その残酷さにおいて、だ。
 おおよそ考え尽く限りの邪悪な行為を躊躇なく行い、しかもそれに関して飽
きるということがない、悲鳴が長く続けばそれだけ楽しい、そういう性質だ。
 例えば彼女は処女の血を、そして肉体を好んだが偶然自分の領地内で美しい
姉妹を捕らえたことがある。
 どちらも処女だった、そこでカーミラは選択を迫った。
「選びなさい。自分か、それとも目の前の家族か。相手が貴女を選んで、貴女
も自分を選べば、なるべく痛みを与えずに殺してあげる。
 お互いに自分を選べば、このまま二人とも無傷で解放する。
 でも、お互いに相手のことを選んだら――」
 カーミラは微笑んだ。これ以上ないくらい美しく邪気のない、あどけない微
笑み。

 姉は妹を選んだ。
 妹は姉を選んだ。

 互いの視線が絶望的なまでに交錯する。
 巨大な槌を持った喰屍鬼が二人の肉体を足からじっくりと叩き潰していく間、
姉妹は激痛に身を委ねながらも、お互いを憎しみ合い、罵り合うことを決して
止めなかった。
 カーミラは悲鳴と悪罵を聞きながら穏やかに微笑み、そして執事に潰した先
からの血液をワイングラスに汲み取らせてゆっくりと味わっていた。
 アルクェイド・ブリュンスタッドはこの真祖を仕留めようとしたのは一度や
二度ではない。ヴァチカンとて同様である。
 だがカーミラの用心深さは並大抵の代物ではなかった。
 ちょっとでも異変があれば、すぐにその土地から身一つで離脱した。喰屍鬼
や部下にした吸血鬼すら捨て置いた、彼女と連れ立つのは直系の死徒である執
事一人のみ。
 その執事がナハツェーラーである。
 二人は土地から土地へと渡り歩き、時には人の世界に身を置くこともあった。
 だが、そんな栄華の日々もいずれ破綻する。
 エリザベート・バートリー伯爵夫人を名乗り、600人以上の少女を殺害し
た彼女はある日、ある吸血鬼ハンターによって仕留められた。どうやって仕留
めたのかは、最早そのハンターの伝説の一エピソードとしてしか語られず、そ
れすらもあやふやだ。
 心臓に杭を打たれたのだと語る者もいたし、結界に囲まれて“餓死”したの
だという者もいた。いずれにせよ、そのハンターが自分の手柄を吹聴するのを
好まない以上、全ては遥か彼方の出来事だ。
 事実は真祖カーミラが死んだという、ただそれだけのこと。
 ナハツェーラーがカーミラの執事だった、というのはネロ・カオスには初耳
だった。
「成る程」
 道理でナハツェーラーが暗示能力に秀でているとネロ・カオスは納得した。
 カーミラもまた、精神操作に秀でた吸血鬼であった。自らが傷つくことのな
い安全圏で、彼等が自滅する様を眺めるというのはなるほど彼女に相応しい能
力に違いない。
 そしてナハツェーラーもまた同じタイプの吸血鬼だった。
 死徒の能力というのは個人個人の資質に加えて“親”の資質に依ることも大
きい、リァノーンと惣太がそうであったように“親”のパワーはそのまま子に
受け継がれる。
 ナハツェーラーが有象無象の吸血鬼がひしめき合うイノヴェルチという組織
において、トップに君臨し続けたのも決して組織の設立者という単純な理由だ
けではないようだ。
 カーミラは真祖の中でもかなりの年月を生きてきたようだし、彼女は多数の
他の真祖達とも親交があったと聞く。
 絶えて久しいと思われていた古代文字を習得していても不思議ではない。
「だが、貴様は何故そんなことを?」
「フロストの暴走はドラゴネッティから聞いていた。多少の修正をかけておい
た預言書を信じ込んで、強引に成就させようとすると見込んだ」
 そしてナハツェーラーの読みは正しかった。
 フロストは神の一端を自身の躰に降臨させ、無様に滅んだ。
「……血の神の復活か」
「我等なら由緒正しい呼び名、“カイン”という名前を使うべきだろうな」
「カイン――」
 ネロ・カオスが呟く。
 殺人者の始原、根源の吸血鬼、神に公然と反乱した永遠に彷徨う男。人間の
使う聖書に描かれているカインとは勿論何もかもが違う。彼等の歴史では、カ
インとは即ち吸血鬼の産みの親であると同時に神である。
 そして、比類なき力を持つ究極の怪物である。
「フロストにくれてやった預言書は、儀式こそ正しい流れを汲んでいるものの、
儀式に使用するべき供物が全く正しくない。
 あれでは、神の一端に触れるのがせいぜいだろうさ」
「それが狙いだったか?」
「そうだ……正直なところ、私とてこの預言書には半信半疑だった。
 気力ある若者に先を走って行って貰わなくてはな」
 ははは、とナハツェーラーは笑った。ネロ・カオスは唇の端を吊り上げよう
とする努力すら見せない。
「それで、フロストが神の一端に触れたことが確実な今、どうするつもりかね」
 分かりきった疑問をネロ・カオスは口に出した。
 これまで復活した自分達がやってきたことは、全てにそれに直結していたの
だから。
 ナハツェーラーは既に笑ってはいない。
「神が復活すれば、人の世は地獄と直結する。
 陽光を恐れることなく、地上で栄華を謳歌できる。
 ……素晴らしいとは思わないかね?」
「興味がない」
 ネロ・カオスはそっけなくそう言ったが、すぐに付け加える。
「だが――神という存在には興味がある。何しろこう長く生きていると、不可
思議なものに逢える機会など久しく薄れるものでな」
「何とも……学者のお前らしいな」
 ワイングラスを掲げる、紅の液体がどろりと揺れた。
「我等の栄光の日々が来ることを祈って、乾杯」
 ナハツェーラーの高らかな声。
 ネロ・カオスは立ち上がった。
「生憎だが、そろそろ時間だ」
「ふむ……そうか、お迎えの時間かね」
 頷いてネロ・カオスは手元の本を見つめた。
「持って行っても構わんよ」
「感謝する、中で読むことにしよう」
 ネロ・カオスは本をコートに差し入れると、扉を開け放った。
「ん?」
 扉の前に、一人の男が立っていた。古色蒼然とした礼服を身に付けた人間で
言うならば三十代程度の男だった。
 加えるならば血統書付の貴族のような気品のある顔つき。
 見覚えのある男。見覚えのある吸血鬼。
「おや、モーガン卿か。確か君も御同行するのだったな」
 ああ。
 ネロ・カオスはようやく記憶の底から彼に関する記憶を探り出した。
 モーガン卿。人間に介入した数では先のカーミラ以上であろう古株の死徒。
「ナハツェーラー、貴様私を部下にでもしたつもりか?」
 ネロ・カオスは扉の脇に退いた。
 モーガンの怒気はそのままナハツェーラーに叩き付けられる。
 屈辱を味わっていることが、そういう感情に疎いネロ・カオスにも良く分か
った。イノヴェルチの中でもナハツェーラーと並んで古参ながら、幹部の一席
に留まっている不遇の男。
 ナハツェーラーは童子のようにあどけなく首を傾げた。
「違うのかね?」
「貴様ッ!」
 一歩進み出た、ネロ・カオスの存在をまるで無視して部屋の中へ入り込む。
「フフ……私が蘇って余程無念と見える。君が私が死んだという一報を聞いた
途端、盛んに他の幹部に自分の存在をアピールしていたことも聞いているよ」
 ぐ、とモーガンが言葉を詰まらせた。
「だが残念ながらリーダーはこの私だ、そしてこれから先も当分はな。
だから君も幹部らしく行動してもらおう。
 君のような精神操作を得意とする吸血鬼は、積極的に前に出なければ意味が
あるまい」
 言外にナハツェーラーが圧力を掛けていく。
「貴様等の妄想に我等イノヴェルチが付き合っている暇はない」
 モーガンの吐き捨てるような言い方に、ピクリとナハツェーラーの肩が動い
た、だがすぐに二度、三度と納得したように頷く。
「ではモーガン、この際だ。私と君、どちらの方が格上か試してみないかね?」
「な……んだと……」
 モーガンがナハツェーラーの台詞にわずかに後退した。
「互いの持ち駒は同じ、暴力を使う訳でもあるまい。
 私が負けた時は、私のイノヴェルチリーダーとしての全権を君に委譲しよう」
 その台詞に、モーガンの瞳に邪悪な輝きが点った。
「その言葉、後悔するまいな?」
「ネロ・カオス、今の私の台詞を聞いていたな。
 もし私が負けた時は、幹部会議で証拠としたまえ」
「うむ」
 面白い見世物だ、とばかりにネロ・カオスは開かれた扉に持たれかかった。
 お互いに精神操作の技を駆使するのだ、どこにいても直接的な被害は無いだ
ろう、と判断をつけた。
「では、始めようか」
「……うむ」
 モーガンが頷き、ナハツェーラーに近付いてから目を閉じて脱力する。
 ナハツェーラーはワイングラスを置くこともせずに目を閉じる。
 ――時間がかかるか?
 ネロ・カオスがそう思った瞬間だった。
 モーガンが自分の両腕で自身の首を締め上げていた。
「ごえっ」
 嘔吐したような息がモーガンの口から漏れた。
「ほう」
 ネロ・カオスが賛嘆した。
 勝負は一瞬で決着したらしい、モーガンの両腕をナハツェーラーは完全にコ
ントロールしていた、モーガンは物理的な苦しみのあまり、ナハツェーラーの
精神に干渉する余裕すらない。
「ぐえ、げっ……」
「ナハツェーラー、その辺で止めておけ」
「ははは、分かっているとも」
 ネロ・カオスの発言と同時にナハツェーラーが目を開き、ワイングラスの中
の血液を呷るとモーガンがぐったりと膝を突いた。
「ば……か……な……」
 取り立てて怪我をした訳ではないが、呆然とする。
「私の勝ちだ。では行きたまえ……ガッカリさせてくれるなよ、モーガン」
「では行こう」
 ネロ・カオスがそうモーガンの耳元で囁くと、モーガンはよろよろとあちこ
ちの物に掴まりながら、部屋を出て行った。
「そんな……ことが……なぜ……」
 モーガンは何度も何度も頭を振り、自分の置かれている状況を信じまいとし
ていた。
 敗北感。そして屈辱感。
 それをバネにして成長する吸血鬼もいるが、モーガンは違うだろう。
 ネロ・カオスは自分の実力を過信し、ナハツェーラーの今の力を推し量れな
かったモーガンにわずかな哀れみを覚えた。


                ***


 ヘリコプターの震動は空腹のダークマンの胃に容赦なく襲い掛かってきた。
 揺れるたびに圧迫される、痛みはなくとも腹に鉛が仕込まれたようでどうに
も気分が良くない。気分が良くないせいで神経が過敏になっていくのがよく分
かる。
「まだか?」
 ヘリコプターのパイロットに尋ねる。
「もうすぐでさぁ」
 ヘリコプターに乗っているのはパイロットに加えて、ダークマン、そして両
隣の見張り役二人だった。
 両者とも吸血鬼、吸血衝動に余り溺れそうにない軍人型。
 パイロットは人間のようだった。ドアを締めれば何とかなる乗員と違って、
パイロットは吸血鬼だからといってキャノピーを布で覆う訳にはいかない。例
え夜に飛行するにしても、どんなトラブルがあるか分からない。
 必然的にパイロットというのは吸血鬼志望の人間達が多くなっていく。
 しかし、勿論パイロットというスキルを持つ人間はそうそう多くないので、
うっかりパイロットの資格を持っているということなどがバレようものなら、
一生涯こき使われるのが常だった。


 ヘリはニューヨークの空をどこまでも飛んでいく。次第に風景が変化する。
「……海?」
 海が見えた。濁ったエメラルドのような海。
 つまりここはニューヨーク港。
 舌打ちする。
「まさか船へ乗れ、と言うんじゃないだろうな」
 呟くが、パイロットも吸血鬼も答えない。
 知らないのか、それとも喋らないように言われているのか。だが、少なくと
も否定めいた表情や仕草は窺えなかった。
 ――参った。
 こんなことならば酔い止めを持っていくべきだった、とダークマンは思った。
 腹を手で無意識に抑える。胃の調子はまだ悪い。
 不純で不要な怒りが沸いてくる。
 それを抑えるのに苦労していると、今度はこんな目に遭わされている原因で
ある諸井霧江に対しての怒りがガタガタと封印した扉を叩き壊し始める。
 くそ。
 ――ウィスキーを浴びるほど飲みたい。


                ***


 タンカーではなかった。しかし、タンカーでないとするならば巨大過ぎる。
 セス・ゲッコーは元情報屋としてのコネクションを使い、ようやくその船の
正体を突き止めた。
 元ロシア海軍の持ち物である「ガレンサンドリア」を南米の親ロシアの第三
国を経由して買い取り、徹底的な改造によって動く生物実験室となったイノヴ
ェルチ所有の輸送艦。
 今、その艦はこう呼ばれている。
「Chernobog(チェルノボグ)」
 ロシアに伝わる黒き神の名を持つその艦は、ニューヨーク港を今にも出発し
ようとしている。埠頭には黒服の男達が公然とアサルトライフルを持ってうろ
つきまわっているらしい。
 雇った見張り屋は怯えて近付こうとしなかったので、それ以上のことは不明
だった。もっともセスはそれだけ聞けば充分だったけれど。
「さて――どうするかな」
 セスは頭を捻りながら、騒動屋と呼ばれる男に電話をかける。
 コール音が三回鳴ってからぶつりと切れ、代わりに甲高い声をした男の声が
受話器から響く。
「はい毎度。こちらテキサスチェーンソーマサカー商会」
「この間はダウンオブザデッド商会じゃなかったか」
 セスが言うと、受話器の向こうで笑い声が聞こえた。
「わはははは。会社の名義変更でさぁ」
「おい、お前ちょっと命がけの仕事できるか?」
「あっしは毎度命がけですけど」
「今回は失敗したら死ぬぞ」
 セスの声色は冗談を微塵も窺えさせなかった、さすがに受話器の向こうも雰
囲気に呑まれて沈黙する。
「で、あっしは何をすればいいんで?」
「いつも通りさ、俺が指定した場所で騒いでくれ。派手に暴れろ、ただし絶対
に手を出そうとするな、なるべくなら向こうが余計な警戒を持たない騒動のや
り方でいけ」
「なるほどなるほど」
 さらさらと向こうで鉛筆が走る音がする、メモを取っているのだろう。
「終わりは?」
「無線で指示する」
「あいあいさ、料金は?」
「前払いでお前の銀行口座に振り込んでおいた」
「……用意がいいことで。では、場所について詳しくお聞かせ願いましょうか」
「ああ、それもファックスで既に地図を送っておいた。
 手書きだが、大まかな場所は分かるはずだ」
「ああ、今来ましたね……っと、ちょっと待ってください、これ――」
「何か言いたいことはあるか?」
「いや、でも旦那。これ、まさか……」
「心配するな、お前が思っているような軍隊とかじゃあない」
「……本当に?」
「ママの乳房に誓って本当だ」
「……」
「……」
「分かりやした」
「さすが」
 不承不承という感じだが、騒動屋はセスの依頼を承知した。セスは公衆電話
に残っていた25セント硬貨を指で弾きながら、どうやってあそこに潜り込む
かを算段する。
 答えは一つしかない。
 山ほどの装備品を抱えて、セスは車を走らせ始めた。


                ***


「遅いわね……」
 諸井霧江は親指の爪を噛む。人間であった頃から苛ついた時にどうしても出
てしまう癖である。
 ペイトンが来るまでに、できれば面通しは済ませておきたかった。
 そして彼が石鹸工場で起きた事態に気付いて、こちらに来るまでもう間もな
くだろう、勿論彼が二人を見捨てるなどという計算は最初から除外している。
 それまでに彼女にとっては優先順位が低いダンピィルの一件を何とかしてお
きたかった。
 既にナハツェーラーから確認の連絡が来ている。


 ダンピィルは捕らえたか。
 プロトタイプは大人しくしているか。

 はい、ダンピィルは捕らえてあります。
 はい、保管室で睡眠状態に入っています。

 ではダンピィルの資質を試しに二人をそちらに向かわせる。

 了解致しました。


 もうそろそろこちらに来てもおかしくないはずなのだが――。
 吸血鬼の聴覚がわずかなヘリコプターのローター音を聞きつけた。
 咄嗟に時計を見る、既に午前二時。おまけにこちらに向かって真っ直ぐやっ
てきている、ならばペイトンか、それともナハツェーラーの使いかのどちらか
だ。
 研究室から飛び出す。
 既に部下達がライトを持ちながら彼等のヘリを誘導していた。その内の一人
を捕まえて尋ねる。
「彼等は!?」
「我々の組織からの遣いです!」
 諸井霧江は胸を撫で下ろす。
 やれやれ、間に合った――。さっさと済ませてもらって研究を続けよう。
 正直に言うと、ダンピィルがどうなろうとあまり興味はないのだ。
 この時、諸井霧江に人間であった頃の理性的な部分があれば人工皮膚に愚か
なまでにしがみつこうとする自分に気付いたはずだが、生憎と諸井霧江はこれ
以上ないくらいに吸血鬼に染まっている。
「もう一機着陸する予定です!」
「何ですって!?」
 参った、と諸井霧江は思った。
 部下の言葉通り、反対側からヘリコプターがやってくる。此処を飛び立った
機体と同じだ。つまり彼等が連れてきたのは――。
 二機のヘリはほとんど同時に着陸した。
 一機は輸送艦前部へ、もう一機は輸送艦後部へ。
 諸井霧江はしばらく迷った末に、後部へ向かった。かつての恩師であるペイ
トン・ウェストレイクを迎え入れる為に。


 ダークマンはヘリから降りると、駆け寄ってくる女に目を留めた。
 ――大丈夫、まだ向こうは私を完全に視認できないはず。
 そう思い、ダークマンは声を出すことなく笑みを浮かべた。


 陰惨で残酷で、怖気がするような微笑。


 それは復讐が成し遂げられる時に出る、快心の嗤いだった。







                           to be continued



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