フィー、ファイ、フォー、フォン
 イギリス人の血が匂う
 生きていようが、死んでいようが
 骨を粉にひいて、パンに焼いてくれようぞ
          ――「マザー・グース」

















「いたぞ奴だ撃て撃ち殺せそうだその調子だあれ?なんで死なないんだよくそ
怯むな撃て撃て撃て撃ち殺すんだ対戦車バズーカがあっただろそれを使うんだ
馬鹿味方がいるからって躊躇っている場合かそうだ撃てやった今度こそくそっ
たれなんで殺せないんだなんで殺せないんだ化物めバケモノめバケモノめバケ
モノ誰かいないのか誰か撃て俺はもう弾切れなんだだから一時撤退するくそ離
せお前等でなんとかすればいいじゃないかあっ畜生俺の右足が無い痛い痛い痛
い痛い痛い痛い血が止まらない血が止まれ止まれああ助けて俺はただの人間な
んですごめんなさいごめんなさい俺は何も知らないんですただ指令を受けただ
けなんですだから助けてください助けてください痛いんだ右足が無いんだアン
タが吹き飛ばしたのか畜生痛い気持ち悪い吐き気がする頭が痛い眩暈がするだ
からたすけてたすけてたすけてたすけていたいいたいいたいいたいいたいたす」



「ひ、ど、い」



 銃声、沈黙、静寂。














 セラス・ヴィクトリアには闇が視える。
 これは、人間が太陽の光が射す昼を歩くが如く、暗く神聖な夜を歩くことが
できる、そういう事だ。
 もっとも、やはり太陽という明かりに照らし出されるのと、吸血鬼となった
ための異常視覚に頼って夜を歩くのは、やはり勝手が違うものだ。
 闇が視えるというのは、一口に説明辛い感覚である。
 吸血鬼の眼に視えているのは、やはり闇である、その闇を闇と認識しながら
その闇にあるあらゆる物を視認することができる。
 ――あの傭兵隊長にセラスはこう言ったが、自身があまりよく理解してない
ものを他人に説明することができるはずもなく、彼は首を傾げただけだった。
 恐らくインテグラも、そしてウォルターといえども、こればかりは理解でき
ないだろう、同じ吸血鬼であるアーカードのみが彼女と同じ認識をしているの
だろう。
 闇が視えるという行為は吸血鬼同士にしか理解不可能なのかもしれない――
そうセラスは思った。
 さて、いくら闇が視えるようになったと言っても、物理法則を超越できる訳
ではない(一部にそれすら凌駕する吸血鬼がいるとはいえ)――特に、元人間
であれば尚更だ。
 さらに言うと、彼女は未だに師匠である吸血鬼に名前すら呼んでもらえない
半人前のさらに半人前の吸血鬼だ。
 吸血鬼と化してからの年月も一年にすら満たない。


 ――だから、わたしが転んだってしょうがないじゃない。


 地べたに顔をしたたかに打ち付けたセラスはそう心の中で抗弁した。
 闇が視えようが視えまいが、樹の根に足を引っ掛ければ生物はすっ転ぶもの
である――もっとも転ぶ吸血鬼なぞ、あまり存在しないだろうが。
 しかし、次の瞬間彼女がある物を認識してとった行動は、やはり吸血鬼に相
応しい所業ではなかっただろう。

 たかが、目の前に、人間らしき右腕が切断口から血を滴らせながら転がって
いて、それがほんのわずか痙攣しながら動いていただけで。

(マ、ママ、マ……マスター!)
 セラスは息を呑み、それから小さく悲鳴をあげた。
 誰だか知らないが、ここには敵が居るということを思い出さなければ絶叫し
ていただろう。
 だが、彼女の混乱した思考はよりによってそのまま師匠であるアーカードに
ダイレクトに伝わった。
(どうした? 婦警)
 セラスの頭の中で声が響いた。
「え? えっと、あー、なんでもないです、なんでも、あはははは」
 普段のセラスは人と会話するように、喋りながらでなければ念話を交わすこ
とができない。
(その割には悲鳴をあげていたようだな。何があった?)
 アーカードの問いに、セラスは自身の気の弱さに恥じ入りながら、
「えっと、その……右腕があったんです、人間の」
 仕方なくそう答えた。
(――ほぅ……どんな右腕だ?)
 セラスは自分の師匠がこのような些事に拘るような男ではないと思っていた
だけに、右腕の追及にしばし戸惑った。
 だが、彼の命令は絶対だ――セラスは恐る恐る右腕を手に取った、黒いコー
トを着ていたらしく、それが腕ごと切り取られている。
 手の甲の感じから、年齢は恐らく十代か二十代、少々節くれだっているから
多分男――だろう。
 しかし何よりもセラスは、その異常なほど鮮やかな切断部分に目を奪われた。
 切断面の血を拭うと、さらにその鮮やかな部分が際立つ。
 表皮・筋肉・血管・神経……それら全てが残らず、躊躇することなく、一度
に切断――いや、完全に絶断されている。
「すごい……」
 我知らず、セラスは呟いていた。
 猟奇趣味を持っていない人間ですら、その鮮やかな切り口に溜息をついてし
まうほど、それは神秘的な芸術作品であった。
 さらにセラスにとって不思議だったのは、これほど鮮やかなのにその切断面
そのものは一刀両断に叩き切ったという訳ではなく、むしろジグザグに切られ
ていることだ。
 ――レーザーか何かで焼き切ったのだろうか?
「えと、男の人の右腕みたいです。
 黒のコートを着ていたらしいですね――服ごと斬られてます。
 それから、切断面がすごく鮮やかです、レーザーみたいなので焼き切ったみ
たいな……」
(なるほど、ではそれを持って来い)
「……はい?」
 思わずセラスは彼に尋ね返した。
(その右腕が欲しいと言っているんだ、さっさと持ってこっちに来い、場所は
解るな?)
「そ、それは、あの……マジですか?」
(ごちゃごちゃ言ってないで――さっさと、来い)
「は、はいぃ〜」
 セラスはおっかなびっくり死体の右腕を拾い上げると、吸血鬼の本能に従っ
て自分の主人の元へ向かった。

 アーカードは念話を断ち切ると、その針鼠のような吸血鬼を見下ろした。
 それから、痛みに震えるそれに近づくと、一本、また一本とアンデルセンの
銃剣を引き抜いていく。
 銃剣を握った途端に、神の祝福の力がアーカードの手に火脹れを起こす、し
かし彼はまるで気にせず、無言でその作業を続けた。
 穿たれた穴からとろとろと赤黒い血液が流れ出していく、流出した血液はそ
の吸血鬼をさらに死の淵へ追いやっているのだろう。
 しかし、アーカードは躊躇わずに最後の一本を引き抜いた。
 最早吸血鬼は呻き声すらあげず、ただ躰を断続的に痙攣させるだけ。
 もっとも逆にそれはその吸血鬼が未だ命を永らえているという証でもあるの
だろう――苦痛を味わいながら、なおも彼は生にしがみつく。
 アーカードはその死体となりかかった吸血鬼を軽々と抱え上げて、肩に載せ
ると、自分の下僕である半人前の吸血鬼と合流する為に歩き出した。


                ***


 ――嫌な風だ。
 アルクェイドは久方ぶりに見る自分の生まれ故郷である千年城が酷く朽ち果
てているのを見ても、何の感慨も起きなかった。
 もう間もなく朝が来るだろう。別に死ぬ訳ではないが、それまでに彼を見つ
けておきたい、とアルクェイドは思った。
 肌に纏わりつく生ぬるい風が妙に気に障る、正直見た目ほど彼女は冷静では
なかった、厳しい表情とは裏腹に心は焦燥に駆られていた。
 勿論、彼女は自分のことなどこれっぽっちも心配していない、自分が負ける
ことや殺されることなど想像の範囲外だ。
 つまり彼女の焦燥は、遠野志貴の安否のみに向けられていた。

 ――殺されてはいないだろうか?
 ――逃げ出そうとしてないだろうか?(これは少々希望的観測すぎる)
 ――吸血鬼となってはいないだろうか?
 ――わたしの、敵、となってはいないだろうか。

 想像を積み上げればその分だけ、焦燥が増す。
 アルクェイドは想像するのを止めて、今この場の状況に集中することにした。
 今、もたもたと考えている時間も惜しい――。
 彼女はまっしぐらに駆け出した、勝手知ったる自分の城だ、わずかだが漂う
志貴の気配を辿れば、すぐに彼に追い付けるだろう。
 無数の瓦礫、枯れた花、朽ちた樹木、淀んだ水で濁った噴水、想い出に耽る
事もなく、過去の残骸を突っ切っていく。
 血の濃厚な香りを胸に吸い込んだ、アルクェイドは言い知れぬ怖気を感じる。
 なぜこんなところで血の匂いがするのか――アルクェイドは、あまりそれに
ついては考えたくはなかった。
 ――考えた瞬間、気が狂いそう。
 階段を駆け下りた、血の匂いは未だアルクェイドの嗅覚を刺激する、彼女は
苛立たしげに頭を振って、その魅力から逃れようとする。
 先ほどのリァノーンとの戦闘、次いで使用した空想具現化の力は否が応もな
く、アルクェイドに一つの欲求を産み出していた。
 即ち、吸血衝動だ。
 それにあてつけるかのように、周りからたちこめる血の匂い。
 かつて志貴の首に手をかけたことを思い出す。あの時の絶望と歓喜は二度と
味わいたくない。
 ――嫌なことを思い出させてくれたわね。
 アルクェイドは、血液衝動を振り払うように憤慨していた。全くもって手の
込んだ皮肉たっぷりの嫌がらせだ。
 ――どこぞのカレー女より陰険なことをしてくれるじゃない、ネロ・カオス!
 アルクェイドは先ほど怒りと本能に任せて行動したことによって、酷い目に
あったことを既に綺麗さっぱりと忘れている。
 ネロ・カオスは自身の探求しか頭になく、このような陰険なやり方は彼にま
るで似つかわしくないという厳然たる事実を、彼女はもう少し考慮に入れてお
くべきであった。


                ***


 およそ玉座に相応しいとは言い辛い座り方だった。彼は所在なさげに、玉座
の端に身を寄せている。
 たまらなく心細い。
 なぜか知らないが頭が割れるように痛い、その痛みがあまりに強烈なので、
意識が急速に遠のいたり覚醒したりを繰り返す。
「うあっ……ああぅっ……あああ……」
 それはまさに拷問だった、玉座を握り締めてこの生き地獄から何とかして抜
け出せることだけを祈り続ける。
 なぜ自分がここにいるかとか、
 どうして自分がこんな目にあっているかとか、
 そんなこと、最早どうでもよかった。
 
 しかし、それはいつまで経っても叶うことのない望み。
 頭に閃光が疾って目が眩む、そうかと思えば意識を闇に覆われて周りの景色
がぐらりと揺れる、瞼の上を燃える蟲が這いずり回り、息をするごとに既に吐
くものもないのに、胃液を吐瀉し続けた――それは、まさに無間地獄だ。
 玉座に人の温もりはない、しかし玉座という物体そのものがかつて人がいた
という証になる。
 だから、遠野志貴はそこに必死にしがみついた。
 狂った痛みの奔流は遠野志貴の思考を攪拌し、やがてそこに在るのは遠野志
貴という人間ではなく、遠野志貴という名の一個の物体となりつつあった。


                ***


 まるで地獄を護る門のように固く閉ざされた鉄扉。
 アルクェイドが片手を掲げると、待ちうけていたかのように滑らかに扉は開
かれた。
 ――人の気配がする、死徒の気配はしない。
 人の気配に注意を向ける。敵意はない、悪意もない、というよりも堂々と入
り込んだ自分に目もくれない。
 呻き声がかすかに聞こえる、苦悶している――そして、彼女にとっては聞き
慣れた声だ。
「志貴……?」
 まだ、油断はできない。
 アルクェイドは逡巡して立ち止まる、あまりにも此処まで上手くいきすぎる。
 ネロ・カオスが志貴を攫ったことには、それ相応の理由があるはずだ。
 だのに、死徒の気配――要するに、ネロ・カオスの気配は窺えない、それど
ころか使い魔の姿さえ見受けられない。

 ――おかしすぎる。

 アルクェイドの吸血殲鬼としての本能が、そう囁く。
 だから彼女は逸る心を必死に抑えながら慎重に動こうとする。
 苦悶の声はますます大きくなる。
「た……すけ…………て」
 そんな声が聞こえる、アルクェイドは反射的に叫んだ。
「志貴!」
 言ってから、思わず口を抑える。
 ――だが、特に何も起こらない。
 アルクェイドは思い切って玉座に近寄った。
「志貴…ねえ…志貴……しっかりして、起きて! 起きてってば!」
 志貴が唸りながら起き上がり、彼女を見た。
 彼の瞳は驚きで大きく見開かれ――。

 七つ夜を握り締めて飛び掛ってきた。


                ***


 ――誰だ?
 志貴は久しぶりに割れそうな頭痛以外に見るべきものを見つけた。

 ソレは人間の形をしていた。
 ソレはメスの匂いが漂っていた。
 だが、ソレは人ではない。

 なぜそんな事が分かるのか、理由は定かではなかったが。
 ともあれ、遠野志貴――いや、今では彼は自分の名前すら思い出せない――
は彼女を注視した。
 ドクン! と心臓が跳ね上がったのは、

 ――彼女が綺麗だから?

 ――彼女が化物だから?

 一体どちらなんだろうな、と覚めやらない頭痛を抱えたまま、志貴は考える。
 ――よく、わからないや。
 志貴は考えることを止めた。
 考えることを止めて、今の自分がしたいようにさせることにした。
 ふと気付くと、懐から七つ夜――はて、それがこのナイフの名前だっけ――
を取り出し、握り締めている。
 ――俺は何がやりたいんだろう?
 瞬間、脳に直接電流を叩き込まれたような衝撃が疾った。
 先ほどの疑問に対する、膨大な答えが志貴の脳のシナプスを走り回る。
 ――なんて、単純な、こたえ。


 だから、遠野志貴は、目の前のヒトでないものを、殺害する必要があった。


                ***


「志貴!」
 アルクェイドの叫びを無視して、志貴は玉座を蹴って飛び掛った。
 反射的に背後に跳んだアルクェイドの耳に、七つ夜が石床に叩きつけられる
斬鋼の音が響いた。
「そういうこと! つくづく……やってくれるじゃない!」
 アルクェイドはもう理解していた。
 魔眼だ。
 ネロが魔眼で志貴を操っている――あれ?
 アルクェイドは闇雲に突っかかってくる志貴をあしらいながら、混乱する思
考を纏めようとする。
(ネロの魔眼に、それほどまでの威力があったっけ……?)
 彼が魔眼を使うことが滅多にないのは、その必要がないほど強大な力を持っ
ているからであると共に、その魔眼自体が大した威力を持ってないという理由
がある。
 使い魔が在ればネロの魔眼など、取るに足らない代物なのだ。
 それが何時の間に、遠野志貴の意思を支配下に置けるレベルにまで発達して
いたのだろう。
 成長? ――その可能性は低い。
 ネロはそれこそ何百年と生きてきた死徒だ。それが何故いまさらになって不
必要な能力の成長傾向が見られるのか。
 無論、一度志貴に殺害され、復活を遂げてから何かが変化した、というのは
ありえないことではないだろう。しかし、それにしても――。

 アルクェイドは襲い掛かる志貴を見た。
 その表情は苦痛と憎悪で完全に歪み、眼から涙、鼻から鼻水、口から涎をた
らしている有様は見るに堪えない。
「ウおぁぁああぁァアァァァあぁあィィィッッッ!!!」
 けだもののような唸り声をあげて、志貴が突っかかる。
 かつてアルクェイドが見た芸術的な挙動・斬道・初速はどこかへ置き去りに
したらしく、チンピラが棒切れを振り回すように――そう、まるで線も見えな
いような斬り方――。
「志貴、線が見えないの?」
 志貴は彼女に何を言われようと意に介さない。
 というよりも意に介す余裕などない。

 閃光と爆音のような頭痛が高らかに戦闘開始を布告する。
 まるで、その痛みに動かされているよう。
 何処に、誰が、どういう風に、居るかなど分からない。
 ただ、垣間見える人影に向かって握り締めたナイフを闇雲に振り回す。
 それが、現時点で遠野志貴の取れる最良で最高の攻撃手段であった。

 ――最低ね。
 素人でも避けることができそうなほど、見え見えの軌道を描くナイフ。
 力を入れすぎた状態で無理に振り回すので、彼の態勢は崩れっぱなしだ。
 崩れた状態の彼にそっと掌を押し当てれば、無様に転ぶだろう――とは言え、
彼女は万が一でも、志貴が頭を打ちつけて酷いことになることを考えると、と
てもそんな真似はできなかった。
 だから、とりあえずナイフを持った側の手首を掴んだ。
「ぎっ……ぐっ……」
 じたばたと志貴がもがく。今にも手首が千切れそうなくらい痛い。彼女の柔
らかそうな腹部に蹴りを入れ、空いた手で必死に掴まれた手を離れさせようと
する、躰全体を必死に動かして無駄な足掻きを続けた。
 志貴は恐怖と苦痛で悲鳴をあげた。此処から逃げたいという感情が繋がった
手を通してアルクェイドに伝わってくるようだ。
 ――それはとても苦しいと彼女は思った。
 これでも、手加減しているつもりでいる。なるべく優しく手首を握っている
――つもりだ。
 しかし、溢れる力は自分に「ちょうどよい」力を与えてくれない。
 気を抜くと彼の手首を捻り潰してしまいそうだ。
「――皮肉ね」
 普通の人間なら、必死で彼の手首を握り締めなければならないのに、わたし
ときたら――。
 皮肉だ。
 自分は手首を必死に潰さないように努力しなければならない、なんて。
「あああああああああああああっ!」
 志貴の甲高い悲鳴にアルクェイドが思わず手を緩める、するりと彼女の手か
ら彼の腕が抜けた。
 ニヤリ、と遠野志貴は厭らしい笑みを見せた――アルクェイドは、その表情
がたまらなく不快だ。
 志貴じゃないくせに。
 わたしの、志貴じゃないくせに。
 志貴の顔をして、
 志貴に似合わない笑いを浮かべさせるな。
 志貴の笑顔は、そんなものじゃない。
 不快だ、たまらない、不快。
 不快で、彼をバラバラに引き裂いて血を啜る妄想にかられる――奇妙な位に
その妄想はリアリティを持っていた。
 そしてアルクェイドがそのリアリティに愕然としたその時は既に。


 彼女の腹には志貴の七つ夜が
              アルクェイドは志貴を抱き締める
 崩落した壁から射し込む陽光
              ああ、わたしは本当に貴方が好きだ
 古びた短刀は彼女の胸で輝く
              吸わないよ、志貴の、血、なん、か


 点も線も突かれてなければ、祝福儀礼すら為されてないナイフの一本や二本、
最強の真祖である彼女にとっては物の数ではない。
 けれど一瞬ぐらりと世界が揺れた。
 彼女は彼女が思っている以上にダメージを受けていた――空想具現化の多用、
リァノーンとの戦闘での死にかけるほどの負傷――それでもアルクェイドは、
微笑を浮かべることができた。
 それは、腹に突き立てられたナイフなど問題にならないほど重要なこと――
志貴に対する吸血衝動を抑えられたという喜びから来る笑みだった。
 志貴は呆然と彼女を、彼女の瞳を視る。


 ア


 そのアの発音は、彼女が聞き慣れたものだった。
「アルク、アルクェイド……!」
 遠野志貴は、慌てて七つ夜を引き抜いて、彼女の両肩を掴んだ。
「大丈夫か!?」
 その言葉を述べたと同時に、志貴は自分の所業に気付き、愕然とする。
「あ、志貴? へへー、平気平気。別に死の線を裂かれた訳じゃないから」
 しかし、その声には明らかに無理があった。
「ばかっ……この、ばかっ」
 志貴は言葉を忘れたようにそう言い続けると、七つ夜で突いた腹を、そっと
撫でた。
「ばかっ、俺なんかのためにこんなっ、ばかっ……ばかっ」
「ぶー、志貴、ひどいぞー、誰のためにこんな苦労したと……」
「それがばかだって言ってるんだよ、ばかっ」
 志貴は、あまりにも申し訳なかった。
 頭痛はほとんど消えかかっていたが、頭が混乱してぐるぐるする。
 けれど一つだけ理解できるのは、遠野志貴はまたもや彼女を傷つけてしまっ
たということ。
「……ごめん、なんか、俺、むちゃくちゃ言ってる」
 こてん、と志貴はアルクェイドの肩に額をつけた。
「ごめんな、本当に」
「いいよ、もう……さあ」
 アルクェイドがニッコリと笑って、遠野志貴に手を差し出す。
「帰ろ」
 遠野志貴は、ほんのわずかばかり躊躇して、
「ああ、そうだな」
 彼女の手をしっかりと握り締めた。


                ***


 その樹木に、神父は突き刺さっていた。
 まるで、百舌のハヤニエのような自身の姿に苦笑する。
 ――何とまあみっともない。
 とりあえず、持っていた足首を放り投げ、手に持った銃剣で突き刺さった枝
を背中から切り落とした。
 当然、樹木から引き離された枝は物理法則に従って落下する。
 着地して、その枝も引き抜いた。

「フ、フフフ」
 彼は掌に顔を埋めた。
「フフフ、フフフフフ、ヒヒヒ、ヒヒヒヒヒ、ヒャハハハハハハハハ!!」
 掌に力がこもり、顔に血の筋がいくつも走る。
 彼の笑いは、まさしく狂喜と怒気が入り混じった狂笑だった。
 ――あの、バケモノ。
 ――あの、バケモノどもめ。
「ヒヒヒ、ハハハハハ」
 ――この屈辱、神に対する侮辱、忘れるものか。
 だが、アンデルセンは狂信者であると同時に、冷静冷徹そのものの戦闘者で
もある。
 だから、彼は今の装備では殺しきれないし、追いすがることができないこと
も理解している。
 ――今の、装備では、な。
 アンデルセンはようやく笑いを止めた。
 既に胸に空いた傷は塞がりつつある。歩行にも支障はない。
「次は、鏖だ」
 ――神罰の味、じっくりと噛み締めるがいい。
 アレクサンド・アンデルセン神父は携帯で第十三課へ連絡を取った後、やが
て森から人知れず消えていった――。


                ***


 夜の闇がうっすらと消えていく。
 あれほど立ち込めていた霧は、するりとどこかに昇ったかと思うとあっとい
う間に消えていく。
 つまり、朝が来る。
「遅いぞ、婦警」
「は、はいっ、遅れましたっ」
「こいつは、お前が運べ」
「ヤッ、ヤーッ」
 アーカードは合流したセラスに惣太を担がせると、帰投するために連れ立っ
て歩き出した。
 合流地点はもう間もなく、森を外れたそこにヘリが待機しているはずだ。
(何だったんだろう、今日の任務……)
 セラスは回想する。
 自分のしたことといえば、森をさまよって、右腕(仕方ないので、それはバ
ックパックに差し込んでおいた)を見つけただけ。
 どうやら人間がいたらしく、銃撃戦があったが――今はもう静寂の中だ。
 銃撃戦は人間達と――誰がしたのか。
 大方の予想はついていたが、セラスは首をぶるぶると振ってそれ以上彼らの
行く末について考えることを止めた。
 セラスが背中に担いだその年若い吸血鬼は、ぐったりとして、既に意識は途
絶えている。
 先ほどまでうわ言のように、彼女の名前を繰り返し呼んでいたのが、今では
それすらない。
 セラスは不安になって、彼女の主である男に呼びかける。
「マスター! この人、じゃなくてこの吸血鬼……」
「死にかけだ」
 平然とアーカードは事実を述べた。
「死にかけですよ、本部までもつんですか?」
「もたないだろうな」
 セラス・ヴィクトリアの言葉に、またもやアーカードは事実を述べた。
「じゃ、じゃ、どーするんですか!?」
 背中に担いだその吸血鬼の躰は、血が抜けきっているせいか、哀れなくらい
軽い。わずかばかり肩にかかる息とそれに伴い発せられる意味不明の呟きだけ
が、彼の生きている証ともいえた。
 くるり、とアーカードは振り返った。
「そこだ、婦警」
「もう間もなく朝だ。最早夜の力といえどもそれの体力を回復させることはで
きん。輸血用血液のようなシロモノでは、恐らく駄目だ」
 セラスは厭な予感がした、ああいう笑いを浮かべている時のマスターは大体
においてロクなことを考えてない――。
「そうかといって、今この場に生きている人間の血は存在しない」
 アーカードは両手を広げてまるで指揮者のように掲げる。
「では、どうするべきかな?」
 セラスはしばし考える。
 ――彼には血が必要。
 ――輸血用血液では駄目。
 ――生血は存在しない。
 ――この場にある生血でも輸血用血液でもない血は?

「あ」
 厭な、予感が大当たりだ。
「も、ももももしかして、わたしが」
「正解だ」
 アーカードは我が意を得たとばかりに、肉皮を歪ませて笑った。
 先ほど惣太の腰から引き抜いた奇妙な形のナイフを、セラスに手渡す。
「ちょうどいい具合に、こいつがナイフを持っていた。
 さあ、やれ」
「でっ、でも……マスターが……あ、いや、何でもありません」
 マスターが血を飲ませれば、と言いかけたところでセラスは発言を止めた。
 そんな提案をするのは、何だか判らないが物凄くマズい気がする。
 受け取ったナイフは、些か――というか、かなり奇怪な形をしたナイフだ。
 まじまじと見る、あまりにも奇妙な形のそれに不快を覚えると同時にまるで
新しい玩具を見せられた時のように、妙に興奮する。
 不思議と、そのナイフをどうやって持つのか理解できた。
(こ、これはアレよね。世間一般でいう輸血ってやつ。
 人命救助よ、人命救助。
 ……吸血鬼救助か、どっちかというと)
 ――仕方、ないか。
 セラスは決意したように頷くと、ナイフを自分の手首に押し当てた。
 そして、地面に横たえた吸血鬼の口に、ナイフと手首を近づける。
 アーカードは興味深そうにその光景を見守る。
 一度の深呼吸――そして、えいっとわずかに声に出して、ナイフを引いた。
「うあっ……」
 物凄く鋭い刃だ、痛みより先にスッパリと手首の皮膚が切れた感覚の方が激
しい。
 開かせた口に、その手首の傷口を押し当てる。
 数瞬の後、そこから血が滴り落ち、吸血鬼の喉にゆっくりと流れていく。
 しばらくそうしている間に、彼女は自分の変化に気付いた。
「はぁっ……」
 セラスの頬が赤く上気する、躰がむず痒く、全身に電流が疾る。
(やだっ……わたしってば、興奮してるのっ!?)
 愕然として、彼女は自分の呪われた躰を嘆いた。
 最初、血が喉に流れ込んでもピクリとも動かなかったその吸血鬼にも次第に
変化が現れ始めた。
 セラスがふと気付くと、ぺちゃぺちゃと手首を舐める音がする。
「ううっ……くそっ……ちくしょうっ……」
 吸血鬼の呻き声は呪詛にも似ていた。
 瞑った瞳から、わずかに涙が零れている。
 セラスは理解した。
 きっとそれは、呪われた宿命への慟哭――。
 ――ああ、この吸血鬼もなんだ。この、吸血鬼も。
 一つ違いがあるとすれば、彼は「終わってしまった」側であり、自分は未だ
人間を引きずりながらも「終わっていない」側であるということ。
 セラスはその吸血鬼に、わずかな哀れみと強い共感を覚えた――。

「そのへんにしておけ。お前が死ぬぞ」
「えっ、は、はいっ……」
 アーカードの言葉に、セラスは押し当てていた手首を引き離して、包帯を巻
いた。
 未だ吸血鬼は意識を取り戻さないが、断末魔のような痙攣も治まり、静かな
呼吸を行い続けている。
「――迎えだ」
 アーカードが空を見上げると、ぱらぱらというヘリのローター音が間近まで
迫っていた。
「この吸血鬼――どうするんですか?」
「尋問する、この森で何が起こったか、ついさっきまで何が起こっていたのか、
それが知りたい」
「答えて――くれますかね?」
 不安になって、地面に横たわる惣太を見る。
 ――なんとなく、頑固で強情な吸血鬼のような気がする。日本人だし、きっ
と意思も強いだろう。
「こういうのにおあつらえ向きの“人間”がいるだろ?」
「へ、誰ですかそれ」
「王立国教騎士団の――死神だ」
 ――うわあ、ひどそう。
 セラスは、今度こそ目の前の吸血鬼に哀れみを覚えた。

「旦那ー! 嬢ちゃーん! 迎えに来ましたぜー、早く乗ってくれーっ」
 森を抜けたところにある、広い空間にヘリがあたりの草を吹き飛ばしながら
待機していた。
 アーカードが乗り込み、セラスが惣太を押し込み、最後に自分が乗り込んで
ドアを閉める。
 確認が終わってからヘリは、浮上を始めた。



 ――わずかばかりの胎動・それに伴う予兆認識・轟殺されるべき人間達・打
ち棄てられた吸血鬼・共にあるはずの女王の不在・あの狂信的神父の事実上敗
北・千年城で何が起こったか・真祖の姫とその従者の行方・連中の陰謀・踊る
吸血鬼・踊らされる吸血鬼・誰が踊り・誰が踊らされる・王立国教騎士団への
挑戦・ヴァチカン第十三課への挑戦・もう一つのナニカ・ナニカは誰か――。



 アーカードは思考を止めた。
 あまりにも考えることが多すぎる、謎が多すぎる。
 けれども、一つだけ確実なことが。
 確実なことが一つだけ有る。

「殲争だ」
「? マスター、何か言いました?」
「何でもない」
 そう言って、シェードを降ろして何も見えないはずの窓を覗き込む。
「――殲争だ」
 アーカードはもう一度そう呟き、二ィッと笑った。
 かくしてヘリは、王立国教騎士団本部へと翔んでいく――。






                            to be continued



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