「深海か幽界のようにほの暗いグリーンに輝く森は、
もうたくさんだ」
――アーロン・エルキンズ「暗い森」
――南米ジャブロー 通称“豹の巣”(パンテルシャンツエ)
――その椅子に座ったでっぷりとした男は、おそらく産まれてこの方、笑顔
以外の表情を見せたことがない。
ここに居る誰もがそう思っている。そしてそれは多分真実なのだろう。
男自身も――笑顔以外の表情をまるで忘れかけている。
この世の中はそれほどまでに楽しいことが多すぎる、特に最近は楽しいこと
だらけで幸福の絶頂だ。
傍らで立ち尽くすのは――半裸に近いシャツの上に血染めのコートを着て三
枚のレンズが嵌め込まれた畸形の眼鏡を掛けている男。
ただ、レンズはその内の二枚をフレームの上にセットしていたから普通の眼
鏡と変わらない。
「どうなさいますか?」
まずその傍らの男――上官にはただ博士と呼ばれている――が尋ねた。
「ふん、どうするかな」
つい先ほどまでそこに居た吸血鬼の姿を思い出しながら、男は呟いた。
彼の名は定かではない、誰もが彼の名を忘れかけている。
しかし、誰もが彼の役職だけは絶対に忘れることはないだろう。
大隊指揮官少佐。
そしてもう一つ。
「しかし、意外でしたな、総統代行」
博士は両肩を竦めて、彼等を嘲笑った。
彼等は自らのことをミレニアムと呼んでいる。
ミレニアム・オブ・エンパイア。
即ち、彼等ミレニアムとは――吸血鬼の一個大隊“最後の大隊(Letzt
Batallion)”を主力とするドイツ第三帝国最後の敗残兵である。
「そうだな。意外というより他はない、まさに衝撃だ。
――あの裏切り者どもが、のこのここちらに交渉を仕掛けてくるとはな」
裏切り者。
彼等の組織を裏切った吸血鬼組織。
「イノヴェルチ。連中何を考えているのやら、ですな」
「我々を踊らせるつもりだよ、面白い、実に面白い」
「それでは、踊りますかな?」
「宴にはまだ早い。早いが――晴れ舞台に間に合わないというのもなんとも悔
しいね、電車に乗り遅れるなどという事態になってみろ。
我々の存在は闇から無に還るものでしかない」
かつてミレニアム――正確に言うとナチス、ドイツ第三帝国とイノヴェルチ
は蜜月の刻にあった。
不死者の軍勢を構築し、世界を支配しようとするナチス。
人の世界を蹂躙し、人ならざる者の世界を構築しようとするイノヴェルチ。
イノヴェルチが切欠と情報を提供し、ナチスが人材と資金と実験材料を提供
する。彼等の共闘関係は一時ではあったが、確かに存在したのである。
だが、王立国教騎士団(ヘルシング)が彼等を木っ端微塵に粉砕し、押し潰
し、崩壊させた。
成果がようやく出つつあった研究所は完全破壊され、貴重な人材はほとんど
残らず縊り殺され、わずかに生き残った連中はほうほうのていで南米に逃げ出
した。
イノヴェルチは、この時点で彼等を見限った。
資金・情報・その他一切の提供の遮断――それが、ナチスにとってどれほど
致命的な打撃になったかは想像に難くない。
それを、ミレニアムは裏切りと呼ぶ。
***
「手を貸して欲しい」
こう言ったとき、否、そもそも彼等が自分達の前にやってきたときから、ほ
とんどの者が唖然としていた。
少佐と准尉だけが天真爛漫といってもいい笑みを浮かべている。
「手を貸して欲しいだって? お前達が? 私達にか?」
「その通りだ。近頃は色々と厄介事を抱えていてね。
――昔の確執を忘れて、再び手を組もうじゃないか、そう言いに来た訳だ」
「ふふふ、そうかそうか。今までのことを“何もかも”忘れて?」
「ああ」
「ははは、それはいいな」
男たちは笑い合った。
笑いながら、一方の男――つまり、少佐が右手をすっと掲げた。
カチャカチャと音がしたかと思うと、真横から無数の銃口がその男に向けら
れた、ライフルの安全装置は既に解除され、少佐が振り上げた手を振り下ろせ
ば吸血鬼といえども、微塵に粉砕されるだろう。
何事にも記録が大切だと思っている博士がいそいそとビデオカメラの準備を
始めた。
しかし、銃口を向けられたその男――イノヴェルチのリーダーであるナハツ
ェーラーは不敵に微笑む。
「ははは、過激だな」
そんな風に余裕を持った科白まで言いながら。
「そうだとも、私が君と笑いながら握手するとでも思ったのかね?」
少佐も応じて笑い、手を振り下ろそうとした――瞬間。
ナハツェーラーが軽く指を弾くとずるりと床から腕が飛び出し、一人の兵士
の脚を掴んだ。
「ひぃっ!?」
さすがに悲鳴をあげて、その男が飛び退く。
しっかりと足首を握って、それを足がかりにし、腕以外の部分が姿を現した。
「――!」
博士が驚いて、ビデオカメラを覗くのを止めて、肉眼でその存在を確認した。
「ほう」
少佐は興味深げに、彼を見た。
「おおー」
准尉はただ無邪気に驚き、彼の芸に賛嘆を表した。
「……」
大尉は驚きも戸惑いもせず、ただ這い出てきた彼を見つめている。
「私が何の保険もなしに、こんなところへ潜り込むと思ったか?」
保険と呼ばれたそれは顔を顰めた――それが果たして彼の言動に不快な気分
を持ったのかどうかは定かではないが。
「ネロ・カオス……」
兵士とは少し離れたところにいた複数の男女――周りの兵士達とは些か不釣
合いな奇妙な服装をした(中には半身を顔面に至るまで呪印を刻み付けた女性
もいた)彼等の内の一人が呟いた。
ネロは声に反応するように、彼らの方を向いた、しかしその目はまるで子供
が無関心な玩具を見つめるそれだ。
だからネロは見ているようで、実は何も見ていない。
少佐は手をぞんざいに横に振った、同時に構えられていたライフルが銃火を
吹く事もなく、無言のまま下ろされる。
「おお、おお、かのご高名な混沌のネロ・カオスじゃないか。
まさか、お前までイノヴェルチに?」
少佐がニヤニヤと笑う。
「そうだ。些か事情があってな」
相変わらずネロは泰然自若としている。
「ふむ――! 事情か、それは聞いてみたいな、実に興味深いな」
「私事だ。語るには及ばん」
「そうか、なら」
少佐はネロからナハツェーラーに向き直った。
「貴様から事情を聞かせてもらおうか。
――お前たちは、何をしようというのだ?」
「ふむ、興味を持っていただけたようで何よりだ」
ナハツェーラーは自分の計画の一端を語り始めた。
計画。
遠大な計画、とてつもない計画、神をも恐れぬ計画。
しかし、それもナハツェーラーにとっては更なる計画の足がかりにしか過ぎ
ないものであったが、その事はネロやウピエルにも話していない。
否。彼ら二人であろうが誰であろうが決して漏らしてはなるまい。
ナハツェーラーはそう思う、この壮大で遠大で途方もない――茶番劇の舞台
裏を誰にも漏らしてはなるまい、と。
「ですが――喰屍鬼どもならともかく、ヴェアヴォルフまでも貸し与えろです
と? 増長も過ぎませぬか?」
「確かにな、確かに奴らは増長している。
だが……くっ、くくくっ」
少佐は難しい顔をしたかと思うと、一転笑い出した。
彼等がのたまった図々しい希望を回想したのである。
日本で起きたリァノーン強奪事件に伴って多数のキメラヴァンプが失われた。
お陰で少々弾数が揃わない、お前達の兵士――ヴェアヴォルフを貸してくれ。
それが、ナハツェーラーの希望だった。
見返りはなし。
資金供与も情報提供もナハツェーラーは提示しなかった。
だが、ただ一言の言葉が激しくミレニアムを揺さ振った。
「殲争だ」
ナハツェーラーが兵士を集めている理由を述べ終わり、最後にそう言った。
ミレニアムの一同は唖然として言葉も出ない。
特に博士に至っては、普段の冷静沈着な仮面がどこにいったのやら、だらし
なく下がった手からビデオカメラが床に落ちた。
そんな中、ただ一人嗤う男がいる。
「ふっ、ふふふ、ふははははっ、ふっ、ふっ、ナハツェーラー……。
お前は、正気か?」
ナハツェーラーはとぼけたように首を捻る。
「さあな、どうだろう。
お前と一緒で――狂っているのかもしれんな」
少佐はひたすら嗤い続けながら、言葉を時々挟み込む。
「ふっ、ふふふ、そうか、成程。
それは兵が必要だな! ははっ。
沢山要るな! 沢山! 沢山! 山程! 山積の吸血鬼が要るな!
ははははは!」
「そうだろう?」
「調子に乗るな――と本来は言わなくてはならんのだろうが、貴様の提示した
案は魅力的過ぎる。
今すぐに返事はせん。
こちらから誰か使いを出す、お前たちは今どこに居る?」
「ヨーロッパさ……我々は既に状況を開始している。
それでは連絡を待つことにするよ」
ナハツェーラーはネロを促し、堂々とミレニアム本拠地を去って行った。
それが数日前のことである。
「いいじゃないか。
増長するなら、したいようにさせればいい。
世界を踏みにじりたいのならば好きなようにやらせればいい。
またも我々を踊らせたいなら、何度でも踊ってやるさ。
だってなあ……考えてもみたまえ」
少佐は天を――と言ってもここは地下で、太陽の光など射しはしないのだが
――見上げて両手を突き出した。
けれども、少佐の狂喜の瞳には空が映っている。
ゴミ溜めのような灰色の雲、毒々しい紅色の雨、そして金色の月を黒で覆い
尽くす無数の吸血鬼達。
「殲争だよ! 素敵じゃないか、殲争、殲争、血みどろの殲争だよ。
まさに――吸血大殲だ!」
***
ぱんぱんぱん、という乾いた音がしたかと思うと、アンデルセンの銃剣が無
数の銃弾で破壊された。
「!」
彼は驚いて、ぎょろりと銃弾がやってきた方を睨んだ。
がさがさと草を掻き分けながら、迷彩服を着た屈強の男たちがアサルトライ
フルを乱射する。
無論、彼にとっては痛くも痒くもない攻撃だが、結界を張り巡らせたこの森
に一体どうやって彼らが侵入したのか。
それを呆と考えた間に、銃弾の嵐が彼を強引に押し戻した。
「――確保!」
誰かがそう叫び、地面に転がっていた二つのハリネズミ――言うまでもなく、
伊藤惣太とリァノーン――の両手を引きずって、ジープに押し込んだ。
アンデルセンが驚きからようやく立ち直り、跳ねるように起き上がると、新
たに握り締めた銃剣で六人からいた謎の兵士たちの首を“なにはともあれ”、
斬り飛ばした。
あっと驚いたジープの上の彼らは猛スピードで、道――というにはあまりに、
悪路なそれを走り出した。
切断された頚動脈から噴水のように血が噴き出て、地面を赤黒く染めた。
――ふむ、他愛ない。
アンデルセンはその手応えがあまりに軽く、サクサクとしたものだったので、
彼らはとりあえず人間だったのだろうと判断した。
――吸血鬼信奉者か。
ならば、結界を張り巡らせたこの森へ易々と侵入したことも合点がいく。
合点がいくと同時に怒りを覚えた。
永久の誘惑にうまうまと乗り、悪魔に魂を売った異端者どもめ、異教徒ども
め、化物どもめ。
彼――アンデルセンは走り出した。
知らぬ人間が見れば、何事かと思うに違いない。
滑ればどこまでも転がっていきそうな斜面の悪路を、猿(ましら)のような
生物が跳躍疾走しているのだから。
――もっとも、猿ならば銃剣を両手に持っていたりはしないし、本能のまま
に生きているから、これほど憎悪と狂喜に満ちた瞳をしたりしないだろうが。
悪戦苦闘しながら森の木々を左右に揺れ動いて、ジープがのたのたと走りま
わる。
ドクン! ドクン! ドクン!
彼等の心臓は緊張のあまり、喉からせり出しそうだった。
目を閉じると、あの血しぶきに染まった狂喜が思い出されるので、恐怖のあ
まり目もつむれなかった。
「だらしがない!」
隊長らしき男が自分の恐怖を必死に抑え込んで、叱咤する。
「俺達は! 俺達はこれから吸血鬼になろうとしているんだぞ、こんな、こん
なことで死んでたまるかっ……死んでたまるか!」
最後の台詞はほとんど悲鳴に近いものだった。
彼等は興奮しており、極度の恐怖から視野狭窄に陥っており、それが為に。
――運び込んだそれが動き出したことに気付かなかった。
――痛くて痛くてたまらない。躰中を鳥に啄ばまれたってこれほどの激痛に
なることはあるまい。
彼は呻き声をあげようとしたが、すぐに止めた、なぜって目の前にちらりと
アーミールックの男たちが見えたからだ。
敵か味方か、その判断はすぐにつく。
なぜって、この世界の中、伊藤惣太の味方は傍らの彼女だけだったから。
だから、ひっそりと動かない、呻き声もあげないし、痛くてたまらない銃剣
を引き抜くことも考えない。
問題は多量の出血だった。
遠野志貴に切断された右腕、
リァノーンを追いかけての過剰な疾走、
そして何よりもまず全身に穿たれた銃剣。
だが自分は死なないだろうという感覚はある、漠然と生き残れるだろうとい
う感覚は存在する。
けれど、それは代償に――。
ギリギリギリと口蓋で軋む音がした。
押さえようとしても無駄だろう、尖りつつあるそれ――平たく言えば牙なの
だが――の先端の神経が剥き出しになったように乾いて、痛い。
乾いて。
そうだ、と惣太は思った。
――何かで湿らせなければ。
――せめて、何かに浸さなければ。
――乾いて痛いのだから、乾きを癒せばいい。
――たとえば、そこに“たっぷり”ある……水みたいなもので。
勢いよくジープが縦に揺れて、惣太ははっとした。
――いかん、抑えろ!
呼吸が荒くなる……惣太は気付かれやしないかと狼狽した。
そして誰も自分達を省みないことにホッと胸を撫で下ろす。
だが、彼らはそれどころではなかった。
後ろから猛スピードで、化物が追跡してきていた。
***
突っ込んだ拍子にしなった若枝が彼の首筋に深い傷跡をつけた。
次の瞬間、かさぶたとなったその傷が剥がれて元通りになった。
……先ほどから、彼はそればかりを繰り返して、なおも追跡を続けていた。
辿るのは簡単だった、何しろあんな煩い音を出す生物はこの森には居ないだ
ろう。あんな音を出すのはニューヨークか東京にうじゃうじゃいる代物だ。
アンデルセン神父は疾かった。
あちこちに木の根っこが晒されており、足を引っ掛ければもしかしたら大怪
我をするかもしれない、いや、そもそも先もあったようにあちこちに突き出た
しなった枝が視界を遮り、走ることなどとても常人には不可能だっただろう。
それでも、アンデルセン神父は疾い。
人が何故転ぶことを怖がるかと言えば、それは怪我をするという恐怖からだ。
怪我をして、痛い目に遭いたくないという本能が人間を踏み止まらせる。
彼にはそれがない。自分の躰が痛みにこれ以上ないくらい鈍感で、怪我をす
る、つまり躰に損傷が加えられるということだが――それがあっても、即座に
自然治癒する自分の躰を良く理解しているからだ。
だから、彼は疾り続ける。
勿論、だだっぴろい道路での追いかけっこなら、いかなアンデルセンと言え
ども相手がジープでは話にならなかっただろう。
しかし、ジープは狭い道をジグザグに走って悪戦苦闘していた。
ならば互角、むしろ優勢かもしれない――そうアンデルセンが判断したのは
正しかった。
ぱらぱらとジープから弾丸が撃ち出されるが、アンデルセンは苦もなくそれ
を退ける。
彼がかつて食らった454カスール弾に比べれば、ポップコーンが顔に当た
るようなもので、アンデルセンはくすぐったいくらいに感じた。
疾りながら、立て続けに銃剣を投擲した。
ジープの後部座席の男二人の頭にずぶりと銃剣が食い込み、奇妙なオブジェ
と変わり果てた。
残り三人、運転席の男も含めて四人。
彼等はパニックに陥りながら、ライフルを乱射する。
獣のような動きを見せるアンデルセンには、それらをたやすく避けることす
ら可能だったであろう。
しかし、アンデルセンは彼等のジープに追いつくことを最優先とした、既に
彼の耳はぱらぱらというヘリコプターのローター音を逃さず聴き取っている。
――こんなところでヘリコプターを使う理由はただ一つ。
恐らく連中――イノヴェルチか、もしくは“奴等”はあの雄と雌を空輸する
つもりなのだろうとアンデルセンは判断した。
もっとも、彼も今更あの二人に何の用があるのかまでは予測すら不可能だっ
たが。
「――ヘリだ!」
運転席の男の顔が喜びに輝いた。
間違いなく、約束の場所にヘリがあった。
地獄に垂らされた蜘蛛の糸、空中から差し出された神の御手、希望に満ち溢
れたノアの箱舟。
彼等にはどれくらい賞賛し尽くしても足りないくらい有り難い乗物だろう。
――ああ、見えた!
ヘリコプターが辺りの草むらを吹き飛ばして、森にぽっかり開いた空間で待
機していた。
今すぐにでも飛び出せるように、ローターはその回転を止めていない。
ヘリコプターのドアが開いて、誰か――暗くてよく分からないが手招きをし
ている。
ジープから転がるように飛び出すと、彼等はヘリコプターのドアに疾走する。
「おい、お前等!」
だが、ヘリからわずかに顔を覗かせた男――ジグムンド・ウピエルが彼等を
叱咤する。
「馬鹿、リァノーンだ! リァノーンを運んでこい!」
彼の言葉に、四人はハッとして慌てて二人の屍体になりかかっているものを
運び出した。
二人一組で両手と両足を持って、えっちらおっちらとリァノーンと伊藤惣太
を運び始めた。
――なんだ、こいつも在ったのか。
ウピエルは銃剣を躰中に突き立てたまま、わずかに痙攣している惣太を見て
顔を顰めた。
少し逡巡した、だがウピエルは別段少年に関心はなかった、別に彼を連れて
来いとは言われてないし、連れて行っても邪魔なだけだろう。
ただ、かつて自分を一瞬で断ち切ったギーラッハを倒し尽くした男として、
わずかばかりの興味があったが――。
ウピエルは惣太を地面に蹴り転がした。
その内あの神父がこいつを殺すか、さもなくばその内朽ち果てるだろう――。
いや、それとも。
彼がこの姫様を救いに駆けつける白馬の騎士となるのかもしれない。
その時は――。
「そん時は、お前をブッ殺してやるからな、あばよ」
そう言ってウピエルはヘリに乗り込んだ。
リァノーンを運び終えた四人が後に続こうとする。
「おい、お前等何図々しく乗ろうとしてんだよ。降りな」
「え?」
ようやくこの場から脱出できる喜びに輝いていた四人の顔が強張る。
「だから、お前達を乗せる余裕は無ぇんだよ。
ちゃっちゃと消え失せろ」
既にヘリコプターのドアを掴んでいた男をウピエルが軽く蹴った、もっとも
蹴られた方はアバラを折り内臓破裂を起こしながら、樹の幹に叩きつけられて
即死したが。
慌てて残り三人がヘリから遠のいた。
「じゃあお前等、せいぜい時間を稼ぐんだな」
そう言ってウピエルが手を振った――三人は呆然としたまま、空へ舞い上が
るヘリを見送っていた。
それから悲痛な呻き声をあげる、もう自分達には最後の希望もない、蜘蛛の
糸は断ち切れてしまった。
三人の男は恐怖で身震いし、力なく座り込んだ。
――ああ、聞こえる。
地面を踏み締めるガサガサという音が、否応なしに耳に届く。
来た! 死神が来た!
最早吸血鬼になることも、頭の中から消えて、彼等は腰を抜かしたまま、あ
たふたとあたりに隠れようとする。
だが、わずかに遅すぎた。
茂みから猛獣の如く、アンデルセンが飛び出した。
声にならない悲鳴をあげ、三人は無様に地面を転がる、既に三人は半ば生き
ることを諦めていた、単に条件反射的に躰が動いただけであった。
しかし、幸運の神は彼等に微笑んだ。
彼等三人が震えながら、現れたアンデルセンを見ると、彼は三人を一瞥した
だけで黙殺したのだ。
ヘリは既に空高く舞いあがろうとしている、しかしアンデルセンは未だ諦め
てなどいない。
そそり立つ木々に銃剣を差し込んで、それを蹴る。明け方の光が差し込みつ
つある夜空へ、アレクサンド・アンデルセンは翔んだ。
銃剣をさらにもう一本、ヘリコプターの側面に突き立てる。
金属が軋み、破壊される音がした。
「何ィッ!?」
慌ててウピエルはヘリコプターのドアを開けた。
猛烈な風が顔に叩きつけられ、思わず下を向く。
はたしてそこには、絶対にこんなところに居ないはずの――。
「よぅ、神父様。そんなところで何やってんだい」
ウピエルは二ィッと笑った。
その笑顔に呼応するかのように、神父が憎悪の目で真上のウピエルを睨みつ
ける。
宙空にぶらついていた左腕を懐に入れ、そこから銃剣を三本取り出すと、強
引に投擲した。
――だが、あまりにも不安定すぎる。
「おっと!」
ウピエルが頭を後ろに仰け反らせると、ヘリコプターの天井にカカカッと銃
剣が突き刺さった。
「神父様よぅ、ちょっとは大人しくしてくれねぇのかよ!」
ウピエルがステアーAUGが取り付けられたギター、通称“スクリーミング
・バンシー”を構え、ドアの外から真下へ撃ち捲くった。
だが、アンデルセンは弾丸を食らいつつ、ヘリコプターの足に手を掛け、ド
アにしがみ付く。
顔に弾丸の孔ができたが、無論アンデルセンには気にならなかった、気にし
ていたのは弾丸の衝撃で自分が手を離してしまうことだった。
ガチン、という音がして弾丸が切れた、ウピエルは慌てて次の弾倉を装填し
ようとする、その隙にアンデルセンは懸垂の要領で自分の躰を起こし、開きっ
放しのドアに足をかけた。
「させるかよッ!」
装填し終わった弾丸を撃ち捲くりながら、ウピエルが突進する。
銃剣を投擲するいとまも、斬りかかるいとまもなく、アンデルセンはウピエ
ルのタックルをまともに食らう羽目となった。
アンデルセンは吹き飛んだが、ウピエルも自身のタックルの威力に押されて
開いたドアから飛び出した。
ウピエルの手からギターが離れ、床に転がる。
「クッ……」
咄嗟にウピエルはヘリコプターの足を掴もうとする――手が届いた。
ギターを離したのは賢明な判断だった、後生大事にそれを持っていれば、今
頃アンデルセン神父と仲良く落下していたことだろう。
だが、ウピエルは自分の足をもぐいと引っ張られる感触があって、蒼ざめた。
アンデルセンは、落ちてなどいなかった。足掻くように、ウピエルの足に手
を掛けていた、化物じみた握力で彼はウピエルの足を潰そうとする。
吸血鬼の自分の脚が、たかだか人間に潰されようとしている屈辱に、ウピエ
ルは吼えた。
ふと、目の前を見ると、ヘリの床にスクリーミング・バンシーが転がってい
る、しかしギターは目の前に在るのに彼の手はヘリの足を掴むのに全力を尽く
している。
――ゆえに、救いの道具はあと一歩で届かない。
メリメリという音が聞こえる、筋肉が彼の握力に悲鳴をあげ、骨が軋んでい
る音だ。
――脚が千切れる痛みとは、こういうものなのか。
妙に冷静に、ウピエルはそんなことを考え、再びヘリの床のギターに目を落
とす。
――クソ、あともう一歩なのに。
ギターをじっと見る、ギターはヘリがぐらりと揺れるたびにウピエルから遠
のいたり近づいたりする。まるで振り子(ペンデュラム)のようだ。
――あと、もう、いっぽ。
ウピエルは我知らず、右手を離して手を差し伸べていた。
――来い、俺のギター!
不可視の糸に吊られたように、するするとギターが動き、彼の手元へ寄って
くる、離した右掌に正確にグリップが握り締められ、人差し指に引金が掛かる。
ウピエルは、自分の行為に驚愕し、次の瞬間、自分の脚を握り締めているア
ンデルセンに銃口を向けた。
「!」
咄嗟にアンデルセンは、自分の躰を揺らし、相手の足の関節部を痛めつけな
がら左右に動いた。
勿論、弾丸の何発かは当たったが、その程度でウピエルから手を離してしま
うようなアンデルセンではない。
――そうか、ならば、これならばどうだ?
ウピエルは握り締められた足首を見て、ニヤリと笑った。
「あばよ、おっさん」
そうして銃剣で自分の足首、即ちアンデルセンが握り締めていた命綱を断ち
切った。
「――ッ!」
断ち切られた足首を握り締めたまま、アンデルセンは堕ちていった。
「フゥッ!」
ウピエルはどっかとヘリコプターに腰を下ろすと、無くなった足首上部をキ
ツく布で縛り付けた。
足首に痛みはあまりない、このまま放っておけばその内再生するだろう、そ
れよりも若干木漏れ陽のような日光を浴びたせいか、
「おい、シガレットくれ」
運転席に声を掛けると、ライターと一緒に紙ケースが投げ入れられた、そこ
から一本取り出して、煙を肺に充満させる。
それから携帯電話を取り出して、プッシュした。
「ナハツェーラー、こっちは確保したぜ。姫さんは虫の息だ」
「――まだ、死んではいまい」
「多分な」
ぐい、と突き刺さった銃剣を残った足で彼女の躰に押し込んだ。
「っ! あぁっ、くっ……」
ウピエルは携帯を彼女の口元に当てて、向こうに呻き声を聞かせた。
「な、生きてるだろ」
「フム。よかろう、こちらもあのじゃじゃ馬の姫君を何とか御しようとしてい
るところだ」
ハン――とウピエルは鼻で笑った。
「あの化物が大人しくアンタに捕まるのかね?」
「捕まるさ――その為に苦労して餌も手に入れたのだぞ」
ナハツェーラーは傍らで椅子に座り、ぼんやりと虚空を見る少年を見やると、
まるで父親が成長した子供を見るように微笑んだ。
「お前はあの姫を打ち倒す唯一無二の白木の杭だ。
期待しているぞ。
遠野志貴君」
「え? あ、はい……」
ぼんやりとしたまま、志貴はその言葉に頷いた。
胡乱な状況の中で、その言葉だけが現実への一本の糸だ、これを切り離せば
遠野志貴という意識が根こそぎ失われてしまう気がする。
この男の言う通りにしなければならない、という気がする。
「そうだ、君にはこれが必要だな」
ナハツェーラーが投げたそれが床に突き刺さる、志貴はのろのろとそれを拾
い上げた。
「七つ夜――」
まじまじとそれを見る、刃を掲げ、ゆらゆらと動かす。
志貴はナイフの名は理解できた、
出自も使い道も理解できた、
だがしかし、このナイフを何に使えばいいのか、それが分からなかった。
「使い方はすぐに理解できるさ」
ナハツェーラーは優しく微笑んで、志貴の頭を撫でた。
志貴は二人が去った後、ふらふらと外に出た。
此処は夢に在った景色。
かつての彼女と出会った場所。
しかし、それは今の志貴の記憶には存在しない。
わずかにこびりついた記憶の残滓が既視感だけを与えている。
胡乱な瞳で空を見上げる。
――嗚呼。
今夜は、なんで、こんなにも。
月が、朱いのか――。
志貴は月を見ていると気分が悪くなったので、中に戻り、ぼんやりと虚空を
視る。
何かをしなければならない。
何かをやらなければならない。
それは、酷く、大切な、ことで。
「ダメだ……」
そこから先の思考がどうしてもまとまらない。志貴は頭を振って、考えるの
は止めにした。
***
ヘリが遠くへ去り、アンデルセン神父が掴んだ足首を切り離された頃。
ジープに乗ってリァノーンを運んだ生き残りの三人は、途方に暮れていた。
「これから、俺達、どうすりゃいいんだ?」
「知らねぇよ……」
彼等は街でいきがっていたチンピラに過ぎなかった、運良くイノヴェルチに
拾われ、究極の力と永遠の命に憧れて魂を売っただけの人間に過ぎなかった。
だから見捨てられた今、どうすればいいのか全く分からない。
そもそも、此処がどんな状況下にある場所かすら分かってなかったろう。
へたり込んでいた男の頭が突然破裂した。
一瞬後に鼓膜を突き破るような音がして、それで二人は彼の頭が銃弾で吹き
飛んだんだな、と理解した。
理解した後にパニックになった。
叫びもせず、銃を取ることもせず、腰を抜かしたまま無様に逃げ惑う。
そして「これからどうすればいいのか?」という問いへの解答が姿を現した。
「お前達に一つ質問があるんだが、いいか?」
「ひっ……」
血のように赤黒いコート、時代遅れでおよそ深い森という場所に不釣合いな
紳士服、片手に携えた巨大な拳銃。
「お前の仲間は百人くらいか? ついさっき百人ばかり殺したんだが、まだ森
に潜んでいるのか? 生き残っているのはお前等だけか?」
――知らない! そんなこと知らない!
恐怖で喉の筋肉が引き攣って彼が望む答えを叫ぶことができない。
「そうか、知らないか」
――ごめんなさい、知りません、助けてください、お願いします。
しかし、唇からその言葉が紡ぎ出されることはなく。
――銃声が二回響いた。
「……さて」
撃った男は、周りを窺い、痙攣している一つの物体を見咎める。
「生き残りか」
痙攣したそれからは血がゆっくりと、しかし確実に流れ出し、人間では既に
死んでいる、吸血鬼ならば喉の渇きが致死量の限界ギリギリまで達している事
だろう。
生きているということは吸血鬼か。
イノヴェルチか? それとも違う吸血鬼か?
「さて、どうしたものか」
その男――王立国教騎士団所属の吸血殲鬼、アーカードはそう呟いて、自分
の拳銃を宙空に泳がせた。
to be continued
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