何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたし
 に向かって叫んでいる。
 今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口
 を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、
 土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は
 地上をさまよい、さすらう者となる。
                   ――創世記4・12



















 ――決して、そんなつもりではなかった。
 ――躰が勝手に動いた? 否、それは違う。
 ――俺は、自分の意志でやった、それは間違いない。
 ――けれど、どうしてだろう?
 ――ああ、俺には、何も、わからない。


 “スイッチが入った”


 強いて言うならば。
 それが、彼の問いに対する、唯一無二の答え。


                ***


 千年城を二人で歩いていたときから、彼はずっと違和感を感じ続けていた。
 ――果てしない胸騒ぎ、どことない身持ちの悪さ、何かが気持ち悪い。
(気のせいだ、気のせい、何もかも気のせい、気のせい!)
 志貴は、先ほどの頭痛の後遺症だろうと判断し、むしろ当初の目的であった
千年城の見物に神経を回した。
 勿論、アルクェイドは一刻も早くここから出たがっている(最初此処に来よ
うと言っていたのは彼女のくせに)ので、崩壊した石の回廊をどこまでも歩い
ていくだけであるが。
 ――それでも見物には違いない。
 痛みが消えて、冷えた頭で石の回廊を見渡す。
 一面の石。床も石、壁も石、天井も石、少しざらついてはいるが、明らかに
加工された平面の石。
 ――まあ、少なくとも日本にはこんな場所は存在しないだろうな。
 志貴が最後に見た石の回廊以外のものはあの玉座と鋼鉄の扉だけだった。
(勿論先頭を行く彼女は除いている)
 回廊はどこまでも続く。真っ直ぐ、無間に。
 違う意味で頭がくらくらしてくる。

 それにしても長い。
 あまりにも途方もなく長いので、志貴はこの石の回廊が長いのか、それとも
歩いている時間が長いのか、あるいは時間も回廊も大した長さではないのに、
ただ単に自分の(余計なものを視せてくれる大変忌々しい)脳がそう認識させ
ているのか、それすら図りかねていたが。
 歩く、ひたすら歩き続ける。
 カツンカツンという足音が耳に心地よく響く。
 不意にこの回廊が永遠に続いてくれたら、という妄想に志貴は囚われた。
 彼女に手を引っ張られて、喉が渇いても腹が減ってもくたびれ果てても、ひ
たすら歩き続ける。
 ある意味で地獄のようなものだが――志貴にとっては、不思議とそれは悪く
ない考えのように思われた。

 ――おかしいよ、それ。
 志貴の中のもう一人の自分――この場合は、単に妄想に耽る自分よりはマシ
な冷静な判断能力を有している自分というだけだが――が囁いた。
 ――おかしい、絶対におかしい、何かが狂っている。
 狂っている? 誰が?
 ――勿論、俺だ。アルクェイドじゃない。
 いいや、俺はまとも……というほどでもないが、今は落ち着いている。
 ――そうだな、言い過ぎた。ではこう言えばどうかな?
「お前は普段のお前ではない」
 それはそうかもしれない、と志貴は思った。

「志貴? どうしたの?」
 気付くと志貴は、引っ張られる手に抵抗するかのように棒立ちになっていた。
 アルクェイドの不信そうな瞳は、まだ彼が洗脳から抜けきってないのではな
いかというわずかな疑惑を覗かせている。
「ああ、いや……何でも……ない」
 この千年城から離れたくないという強烈な欲求にかられる。
 その欲求はまるで灼熱の火球のように、志貴の胃袋を焦がした。
 ――くそ、俺はまだ操られているのか。

「そうだ、何でもない。行こう」
 ハッキリそう言い切ると志貴は火球に冷や水をぶっかけるように、大きく息
を吸い込んだ。
 かびの臭いは意外と不快ではなく、むしろその淀んだ空気が新鮮ですらあっ
た。どうやら、息をするのも忘れて考え込んでいたようだ。

「――そ? じゃ、行こうか」
 アルクェイドは志貴の瞳を見て、本当に嬉しそうな声を出した。
 どうやら志貴は洗脳から脱したものと彼女は判断したらしい――。
 それはある意味で合っていたし、ある意味では間違っていた。
 そして付け加えるならば、「あの時ああしておけば良かった」というもしも
の話は今回に限って言えば、それは有り得ないことだった。
 崩壊した千年城で吸血鬼と人間が幾年月を過ごす訳にもいくまい。
 そして悲劇を回避する選択肢がそれだけしか無いのだから、必然的にこの罠
からは逃れられないというロジックが成立する。


                ***


 つまり、アルクェイドと志貴は千年城から脱しなければならなかった。
 だから、アルクェイド・ブリュンスタッドが切り刻まれたのも止むを得ない
出来事であった。


                ***


 千年城を抜け出す直前に彼が見たものは、やはり蛍光灯のような輝きを帯び
た白い太陽光、それを反射することなく闇に吸収する黒い森だった。
 そして、それからもう一つ。

 千年城の外へ、二人は一歩踏み出す。
「――!」
「……え?」

 それからもう一つ。
 その黒い森に潜んでいた――混沌の吸血鬼が二人の前に立ちはだかった。
 アルクェイドが身構えた。
「ネロ・カオス――!」
「ふむ、どうやら予定通りというところか」
 ネロ・カオスは志貴とアルクェイドを交互に見て、そう呟いた。
「何が予定通りなんだか!」
 ネロの心得顔が無性にアルクェイドの癪に障る。それは、漠然と心に描いて
いた厭な妄想を読み当てられたように感じたせいだ。
 つまり――全て、誰かの掌で踊らされていたということ。
「アルクェイド……」
 背後の志貴がひどく心配気な声を出す、顔を見なくともその顔が眼に浮かぶ
ようだ。
「志貴、あなたは今酷く消耗しているわ。
 ここはわたしに任せて」
 だが、志貴はそれどころではない。
 呼吸が荒い、胸が苦しい、眩暈の連発でブッ倒れそうなのに、躰はピンピン
している。
「逃げろ、アルクェイド。でないと」
「大丈夫、いくら消耗しているからってあんな奴に遅れは取らないわ」
 だが、それが強がりだというのは明らかだ。
 昼日中ということを計算に入れても、体調が万全であろうネロ・カオスと比
べてダメージを負い過ぎている。
 だが、問題はそれとは別に有る。
「そういうことじゃないんだ、アルクェイド!」
 志貴の必死ともいえる叫びに、ようやくアルクェイドが振り向いた――そし
てその表情に驚愕と恐怖と疑念が入り混じる。
「どうし……たの? 志貴」
 志貴はその問いに答えず、直線的な動作でアルクェイドの腹部に七つ夜を突
き刺した、それから――それから、アルクェイドが奇妙な表情を浮かべた理由
である邪悪な笑みをもう一度見せた。
 それは遠野志貴の笑みではない。
 そして志貴はそれが当然であるかのように眼鏡を外した。
「悪いな、アルクェイド。遠野志貴はお眠りの真っ最中だ」
 腹部に突き立てた七つ夜をゆっくりと線に沿って動かしていく。

 ――よく視える。

 腹部から胃下部に向かって、それから転じて肝臓へ。
 脇腹から第五肋骨にするりと抜けて、心臓を左右に分割。
 次いで首の大動脈を断ち切ってそのまま喉仏を左右に分割した後下へ裂いて
左鎖骨及び肩を剥離。
 ごくり、という音がして首が外れ、血が噴き出た。
 志貴は三流スプラッタ映画のような光景に、にんまりする。
 顔面にべっとりと血が付着し、服を赤黒く染め上げることすら気にもならな
かった。

 志貴は彼女の髪を掴み、著しく軽くなったそれをネロ・カオスに放り投げた。
 あまりにもぞんざいに無造作に投げたため、見当違いの方向へ首は投げ出さ
れ、ごろごろと地面に転がった。
「ふむ、こうなってはさしもの姫君とて抵抗は不可能か」
 ネロ・カオスは草むらに打ち棄てられたような彼女の首に近づくと、血の気
を失った唇にそっと指で触れた。
 普段のアルクェイドだったら噛み千切るくらいのことはしかねないだろうが、
さすがに今はショック状態から抜けきっていないらしい、ただかつての遠野志
貴だった少年が何とも楽しげに彼女の残りの躰を解体していくのを否応なしに
目視し続ける。
 それは彼女にとって拷問より辛い瞬間だった。
「慰めにもならんだろうが、今この場では誰も死なない。
 それではしばし、我の肉体に篭るがいい」
 久方ぶり――あの日本での激闘以来、久方ぶりにネロ・カオスが嗤った。
「……そ、れ、どういう――!?」
 最後の最後、彼の不可思議な言葉にアルクェイドは疑問を発しようとした。
 だがそれより幾分早く、アルクェイド・ブリュンスタッドはネロ・カオスの
内包する獣たちおよそ五百体で練り上げられた“創世の土”に捕縛された。


                ***


 ――瞼を開くと目についたのは、真っ白い天井。
(見知らぬ天井……か)
 そういう決り文句がまず頭に浮かんだ。
 どうやらこういう下らないことを考えられるということは、とりあえず天国
で安穏と過ごしている訳ではないらしい――と思う。
 瞬きを一度すると、真っ白い天井だと思っていたのが、古めかしい天井に切
り替わった。あちらこちらに走ったひびが、まるで紋様のように美しい。
 痛み――痛みはない。
 むしろ餓えの方が先走る、血がたっぷり滴ったレアステーキなら五人前はい
けそうだ。
 ――肉よりも、血か。
 無意識に右手で唇から突き出しているであろう牙を触ろうとして、右腕の感
覚がゼロに近いことに気付いた。
「……」
 ――ああ、やはりそうか。
 右腕は切断されたままだった、当然あの森の戦闘も夢幻ではないだろう。
 ならば、これも夢ではない。
 だから立ち上がらなければ。
 半身を起き上がらせる、
「……ってうわっ!」
 トレイに載った俺の右腕が、ナイトテーブルに放り出されていた。
 見慣れているはずの自分の右手に驚いたことに、少々恥ずかしく感じる。
 ――それにしても。
「ここ、何処なんだ……?」
 伊藤惣太は、どことなく雰囲気のある寝室を見回した。
 よく見るとナイトテーブルの上には、自分の右腕の他にランプが暖かい光を
灯している、天井に蛍光灯のようなものは見当たらず、この部屋の明かりはつ
まりそれのみということだ。
 ――まあ、別に支障はないけれど。

「お目覚めでございますか」
 不意に声が響いて、惣太は文字通り飛び上がった。
 慌てて声の方を向くと、優雅な仕草で音もなくお辞儀をする老人がドアの側
に立っていた。
 白髪混じりの長髪を後頭部で縛り上げ、見事なくらい執事服を着こなし、片
眼鏡から覗く表情は穏やかな中にも妙な無関心さと冷淡さが在った。
(――気付かなかった)
 伊藤惣太は、自分の吸血鬼としての本能がかなり弱っているのだろうと見当
をつけた。
 しかしそれは正解ではない。
 正解はもっと単純で、その老人が気配を発さなかっただけだ。

「インテグラ様がお呼びでございます。
 申し訳ありませんが、今すぐにおいでくださるよう」
 ……と、唐突に言われても、さすがに伊藤惣太には何のことか判らない。
「すいません、ここってどこ……? っていうか、どなたですか?」
 ああ、と執事服の男は頷いた。
「これは申し遅れました。わたくしの名はウォルター・クム・ドルネーズ。
 ヘルシング家の執事をやっております。よろしく」
「ヘルシング――王立国教騎士団!? じゃあ、ここは……」
 俄かに惣太の表情が蒼ざめた。
「左様でございます、ここは王立国教騎士団の本部です」
 伊藤惣太は吸血鬼と成って一年にも満たない新参者である。
 だが、彼とてリァノーンやモーラ、それにフリッツといった面々から吸血鬼
の世界の最低限の知識は身に付けている。
 その中でももっとも重要であろう知識、すなわち吸血鬼の敵対組織として、
ヴァチカン第十三課と並んで常に挙げられる組織――。
 それが、イギリス国教会の守護者「王立国教騎士団(ヘルシング)」である。


「あそこには怪物(モンスター)が居るのです」
 かつてリァノーンは惣太にそう言ったことがある。
「吸血鬼を越える吸血殲鬼――私の知る限り、あれと唯一互角に渡り合えるの
は真祖の姫、アルクェイド・ブリュンスタッドのみでしょう……」
「そいつはどんな奴なんだい?」
 伊藤惣太は好奇心にかられてリァノーンに尋ねた。
 リァノーンは苦笑いを浮かべて惣太を見る。
「あまり、気持ちいい思い出話とは言えませんから――」
 とにかく、何があっても彼には絶対に手出しをしないでくれ、ということを
最後に惣太に言ってリァノーンはその会話を打ち切った。


(無理矢理にでも話を聞いておけばよかったか――)
 ウォルターの後を追いながら、伊藤惣太はリァノーンとのそんな会話を回想
していた。
 ――リァノーン。
 リァノーンは何処へ行ったのだろう、自分と同じく此処に繋がれているので
あろうか、自分のような新米と違って彼女は望もうと望むまいとトップクラス
の吸血鬼だ、別のところで厳重に捕獲されている可能性がある。
 ――ただし、それは生きていればの話だ。
 惣太は首を横に振った、そこから先の想像だけは何があろうが絶対にしたく
ないものだ。
(大丈夫だ、俺とリァノーンは繋がっている。
 彼女に何かあれば、俺にも何かしらの変化が訪れるはずだ――)
 ――だが、もしそうならば。
 残った腕の拳を握り締めた。
(殺した奴を俺は断じて許せない――刺し違えても、仇は取ってやる)
 噛み締めた唇から、わずかばかり血が滴った。


                ***


 まず、豪奢な机と椅子、そしてそこに座る金髪のやや色黒の美女が惣太の目
に止まった。
 葉巻を咥え、冷淡な瞳で惣太を睨みつける。
 次に、壁に掛けてある大きな人物画――風格を持った壮年男性が描かれた物
が若干の興味を引いた。
 恐らく、この館の主人だろう。もしくは「だった」男か。
 それ以外にとりたてて目につくところはなかった。ウォルターと、その美女
のみが惣太を注視している。
「アンタがアーカードって……訳じゃなさそうだな」
 言った瞬間、鳩尾にとんでもない衝撃が疾った。
 ウォルターが彼の鳩尾を強かに蹴り上げたのだ、その表情は先ほどの温和な
仮面をかなぐり捨てている。
「口を慎め、小僧」
 凍てつくような声で、ウォルターはうずくまる惣太の手を踏みにじった。
「ウォルター」
 ――静かな声で、その――恐らく、インテグラという名の女性が嗜めた。
 瞬間、ウォルターは無言で引き下がる。
 惣太はむくりと起き上がった、常人ならば先ほどの蹴りで半日は悶絶し続け
るところだろう。
「まず、名前を聞かせてもらおうか?」
 インテグラが惣太に問うた。別段答えられない質問ではないので、惣太はあ
っさりと答える――またぞろ余計なことを言うと、鳩尾に殴りかかられそうだ
ったし、こちらにも問い質したいことがあるので。
「伊藤惣太。――日本人だ」
「人ではあるまい」
 インテグラが惣太の痛いところを突いてきた。
 少々顔をしかめる。
「……そうだな。“元”日本人だ」
「よろしい。では、次の質問だ」
「待ってくれ! その前に聞きたいことがある」
「……ウォルター」
 インテグラが指をパチンと鳴らした瞬間、ウォルターに頬を強烈な勢いで張
り倒された。
「自分の立場が理解してないようだな、お前。
 質問をするのはこちら側だ、お前はただ答えればいい。
 ――簡単ではないか?」
 彼女の容赦ない声が部屋に響く。
(やれやれ! 吸血鬼にゃ容赦なさそうだ。
 ……当たり前か、それが仕事だろうからな)
 惣太は衝撃で滲んだ血をぺロリと舐めた。
「次の質問だ。“お前達はあそこで何をしていた?”」
 これに関する答えも簡単だった。素直に言えばいい。
「――鎮魂の儀式だ」
 惣太はなるべく掻い摘んで自分とリァノーンがあの教会の鐘を鳴らすに至っ
た理由を話した。
「それはまた感動的な話だな」
 インテグラが心動かされた様子はない。彼女はそんな事を聞きたい訳ではな
い。
「では、次。――お前達は誰と戦っていたのだ?」
 ……さて、この質問はどうするべきか。
 惣太はしばし――怪しまれない程度にほんの2、3秒考え込む。
「アルクェイド・ブリュンスタッドに――」
「そうか」
 そう言っただけで、あっさりとインテグラは納得した。
 遠野志貴の名はあえて出さなかった。
 まあ、吸血鬼の腕を容易く切断する人間の少年という話を信じて貰えたかど
うか怪しいものだから、アルクェイドに切断されたという方がまだ説得力があ
ったのは確かだろう。
(感謝しろよ、志貴……)
 惣太は心の中でそう呟いた。
「次の質問。アルクェイドはその後どこへ行った?」
「それは……知らない」
「フン。まあ、お前の様子はアーカードから聞いているからそうだと思ったが」
(アーカード! 俺を此処へ連れてきたのはアーカードなのか。
 確かに、誰かが俺を森から連れ出し、躰に突き刺さっていた銃剣を引き抜い
たはずなのだ。それがアーカードか)
 惣太は、背筋がゾクリとした。


「では、最後の質問――」
 彼女のその最後の問いは、伊藤惣太が一番聞きたかったことでもあった。
「“夜魔の森の女王”は何処に消えた?」
「……それは、俺が聞きたかったことだ! 俺はてっきりアンタ等が……」
「小僧! 口を慎めと……」
 ウォルターがまた惣太を殴ろうとして――。
「ウォルター!」
 インテグラに押し留められた。
「もういい」
「はっ……」
 大人しく、ウォルターは彼女の傍らに控えた。
「お前にとっては残念なことに、我々は彼女を捕獲していない」
「……」
 嘘ではなさそうだった、王立国教騎士団がそんな嘘をつく理由が見当たらな
い、だから彼女は本当のことを言っている――惣太はそう判断した。
「……本当に知らんようだな。もういい。ウォルター、こいつをあの部屋へ戻
してやれ」
「はっ……それでは来たまえ、新米吸血鬼君」
 ウォルターは惣太を促して、部屋から退出した。
 退出する際、惣太はチラリと彼女の様子を窺ったが、彼女は闇濃い窓の外を
睨みつけていて、こちらには目もくれずにいた。


                ***


 窓の外を見ながら、女は壁をずるりと通り抜けてきた吸血鬼に尋ねる。
「聞いていたか」
「おおまかはな、インテグラ」
「あれは本当のことを喋っていると思うか?」
「一つだけ嘘を言っている。あの男の腕を切断したのは、真祖の姫君ではない」
 インテグラと呼ばれた女は二本目の葉巻に火をつけた。
「では、誰が?」
「恐らく、直死の魔眼を持つ者だ。
 人間か吸血鬼までは解らぬがな」
「直死……?」
「単純に言えばその魔眼を持つ者には、人間非人間生物非生物問わず全ての存
在を“殺す”線と点が視えるのだ。
 線に沿って切れば、その存在は例え鋼鉄でも切断され、点を突けば存在その
ものが死滅する。
 ……一種の概念武装だな、もっともこの場合、武装はナイフであろうが剣で
あろうが関係なく、眼さえ有ればいいという便利なシロモノだが」
 なるほど、とインテグラは何も見えない窓を見るのを止めて、アーカードの
方を向いて頷いた。
「相変わらず話の飲み込みが早くて大変結構」
「ハン、バケモノじみた能力だな。
 ――お前もその魔眼の例外ではないのか?」
「無論だ。私でも点を突かれれば死滅は間違いあるまい。
 もっとも、突かれる前にそいつの脳みそを吹き飛ばせばいいだけの話だ」
「奴が嘘をついた理由は何だ?」
「そこまでは知らん。
 そもそもこの話は今我々が知るべき事柄とは無関係だろう」
 じり、と葉巻の煙が二人の間を幕のように覆う。
 煙でけぶって、インテグラの方からはアーカードの表情が見えない。
「“夜魔の森の女王”――第十三課(イスカリオテ)が始末したと思うか?」
「否だ。連中が始末したというのならば――始末できるのは、アンデルセンし
かおらず、そして奴は敗北した」
「では、結論を」
「イノヴェルチだ。連中未だ彼女のことにご執心だったとみえる」
「あの吸血鬼でありながら人間社会に溶け込もうとしている馬鹿者どもか」
「そう馬鹿にしたものでもないさ。奴等は賢い、思ったより小ずるい」
「そうか。では、連中は何を企んでいると思う?」
 アーカードがにんまりした。
 この邪悪な笑みを見るたびに、インテグラは背筋がぞくりとするのを抑える
ことができない。
「少なくともロクなことを考えてはいまい」
 アーカードはそう呟いた。

「――雨か」
 たん、と窓ガラスに水滴が叩きつけられた。あっという間に雨粒が窓ガラス
の外の世界をひたひたと闇に濡らす。
 もうすぐ雷が来そうだな――と彼女は空を見て嘆息する。
「……ん」
 インテグラがふと気付くと、アーカードは何処かへ消えていた。
 そしてアーカードの最後の表情が、確実に高揚していたのを見て、もう一度
嘆息した。
 恐らく、自分が想像している以上に事は悪化している。
 鍵を握っているのは夜魔の森の女王と、アルクェイド・ブリュンスタッド。
 こちらには鬼札として、アーカードが在るが――。
(あの惣太とかいう吸血鬼は? あれは今、この状況下においてどこに配置さ
れるべき存在か?)
 インテグラが考え込んでいると、電話が鳴った。
(……外線――直通回線だと?)
 内線ではなく、外線からだ。
 この電話を直通で鳴らすことができるのは、アーカードの他にただ一人くら
いのもの。
 アーカードではない、となると“彼女”しか居ない。
 インテグラはわずかに震える手を抑えて、受話器を取った。
「――はい」


 それから数時間後、インテグラは英国最高の権力者に召喚されることになる。
 想像を絶する事実を聞かされる為に。


                ***


 携帯電話での連絡に気を取られていると、いつのまにか助手席にドイツ兵の
格好をした誰かが座っていた。
「お前は――ああ」
 ナハツェーラーは一瞬訝しげな眼をしたが、すぐに彼の格好を認めて顔をほ
ころばせる。
 獣の耳を持っている時点で、彼が人間以外の何かであることは疑いようがな
かった。
「あれ? 驚かないんですか。もう! つまんないなあ」
「驚いた表情が見たいのならば、隣の運転手の顔を見るがいい」
 ただの吸血鬼信奉者である運転手は、いつのまにか自分の車に乗り込んでい
た少年に慄然していた。
「そうそう、こういう風に驚いてくれないと」
「用は何だね、ミレニアムの少年兵君」
「少年兵じゃありませんよ、僕はミレニアム特使、シュレディンガー准尉です。
 以後、よろしくー」
 シュレディンガーがいささかしまりのない敬礼をした。
「解った、では准尉。用件は何かね?」
「はい! えっとぉ……」
 シュレディンガーはポケットを探り出した、なかなか見つからないようで、
左右のズボンのポケット、胸ポケットをがさごそとして、ようやくくしゃくし
ゃになった紙を引っ張り出す。
「では、我らが大隊指揮官からのご伝言であります。
 “こちらも状況開始準備ができた。決行の日時を教えられたし”」
 大隊少佐の伝言はシンプルで、そして全てを伝えていた。
 ナハツェーラーはニヤリと笑い、こちらの準備も万全であることを伝えた。
 シュレディンガーがちょっと驚いた顔をする。
「へ〜……本当に準備は万全なんですか?
 材料の吸血鬼は?」
「たった今、ネロ・カオスが捕獲したところだ。
 もう一体もウピエルによって搬送されている」
 へ〜、とシュレディンガーは感心した。
 少佐の予想では彼女達の捕獲にはもうしばらく時間がかかるものだとしてあ
り、それが為に急かそうとしてこんな伝言を述べたのだが。
「では、貴殿達も準備は万全なのだな? では、決行は――」
 携帯が鳴り出した。
 手でシュレディンガーを制すと、ナハツェーラーが通話を始める。
「……そうか、解った」
 シュレディンガーはこっそりと耳を澄ませた、電話からはひたすら謝罪の声
が聞こえてくる。
 それから「なかなか見つからない」という言葉も。
 ――ははぁ、どちらかに逃げられたんだな。
 彼はにんまりした。
「一刻も早くな。……では、切る」
 通話が終わったので、慌ててシュレディンガーは耳を立てるのを止めた。
 だが、ナハツェーラーはその一瞬の表情を見逃さない。
 苦い顔で彼に言う。
「お前、聞いていたな」
「え? いや、あの……あはは、すいません」
 とりあえずシュレディンガーは笑って誤魔化すことにした。
「フン、まあいいさ。逃げたのは扉の方ではない、鍵の方だ」
 苦虫を噛み潰したようなナハツェーラーの表情、シュレディンガーはこれを
報告したら少佐が手を叩いて喜ぶだろうと思った。
「油断していたよ。たかが小娘が……と侮っていたのと、プロの犯罪者の癖に
小娘一匹捉えられん馬鹿共の能力を過信しすぎたせいだ」
「へえ〜……で、作戦は?」
「ダンピィルの娘一匹で、進行を止められるような状態ではあるまい。
 作戦は決行する。予定通りにな。
 少佐にはそう伝えておけ、私の失敗も面白可笑しくな」
 そう言ってナハツェーラーは笑った。
 ――唯一の例外を除いて、おおまか予想通りに事が運んでいる。
 後は最大の難所をクリアするだけ。
「了解しました。Auf Wiedersehen!」
 シュレディンガーはこれまたしまりのない敬礼を返して、一瞬で姿を消した。
 運転手は低速で車を走らせていなかったら、事故を起こしていたに違いない。
「あの小娘め……どこまでも儂に、あの方に逆らいおるか……」
(貴様の油断が招いたことであろう?)
 頭に声が響いた、ナハツェーラーは思わず畏まる。
(――それは、そうですが)
(些細な綻びから全てが崩壊する、御主がその程度のことを知らん訳ではある
まいて)
(……申し訳ありませぬ。――カミーラ様)
(もう良い、二度と油断するな。さっさとあの娘を捕獲せよ。
 なあに、人間に力を貸すダンピィルなど、燻り出す方法はいくらでもあるで
はないか)
(……と、申されますと)
(例えば――)


 運転手は吸血鬼信奉者の中でも並外れて強烈な信仰心を持っていたが、それ
でも背後のナハツェーラーを見て不信感を抑えることができなかった。
 ――なんで、あの方は一人で“会話をしているように”呟いているのだろう。


                ***


 伊藤惣太の部屋には窓がない。
 だが、感覚的に今は夜だと感じる。
 外を見たかったが、残念ながら軟禁されている部屋に窓はなかった。
 まあ、吸血鬼なのだから、窓があると返ってマズいのは確かなのだが。
 呆としていると、焦燥感に駆られる。
 厭な想像だけがぐるぐると頭を横切り、再び戻り、行きつ戻りつの繰り返し。
 リァノーン。
 ――ああ、畜生、彼女に逢いたくて逢いたくてしょうがない。
 彼女の笑顔を、あんなに護りたかったのに――。
 ダン! と惣太は足を踏み鳴らした。
 先ほど、ドアのノブを触った瞬間の痺れは未だに左腕に残っている。
(結界を張られているな、畜生! こんなことしてる暇はないってのに!)
 恐らくドアだけでなく、壁にも結界が組まれているだろう。
 ドアを触った瞬間、部屋を包むような結界の感覚があったからだ。
 夜族は、決して結界を越えられない。
 それは厳然たる事実である、リァノーンといえどもその例外ではない。
 だが、結界を向こうが破ってきた場合は別だ。


 あの老人が、再びこちらにやってきた時が絶好の機会。
 だから、今惣太はドアのすぐ前に立って、じっと彼が来るのを待っている。
 たとえ何時間でも何日でも待つつもりだったが――。
(……来た!)
 老人の来訪は意外に早かった。コツコツという足音が聞こえる。
 ただ、一人ではなく、二人の足音が聞こえてきたが。
(……構うものか。たとえ一緒にいるのがアーカードだろうが、あの女だろう
が、絶対に此処から脱出して、リァノーンを探し出す!)
 筋肉が引き締まる音がする、左腕に極限まで力を篭める。
 こんこんこん、という礼儀正しいノックの音がした。
 惣太は緊張しながら、ドアの様子をうかがう。
 かすかに軋む音がして、ドアがゆっくりと――惣太の眼にはスローモーショ
ンのように開いていく。
 そして、ドアが完全に――。
 ――ドアが開いた!
 惣太は勢い良く拳を突き出そうとして――。
「こんにちはー」
 無様に転んだ。


「……あの、大丈夫ですか?」
 警官とも軍人ともつかない制服を着た英国人らしい金髪の少女が、しゃがん
でこちらを見つめる。
 後ろには、呆れ返ったという表情を浮かべたカウボーイハットの男性が居る。
 黒い眼帯と、引き締まった肉体(加えて鼻のバンソウコウ)はまさに熟練し
た歴戦の勇士を惣太に思い起こさせた。
「大丈夫……です」
 さすがに少々恥ずかしかった。
「お食事をお持ちしたんですけど、要ります?」
 そう言って少女が輸血用血液パックを差し出した。
「ありがとう」
 手に取ると、それはひんやりと冷たかった、氷漬けにされていたものらしい。
「あの、何してたんですか?」
 少女がわずかに牙を覗かせてそう言った。
 ――この娘もか。
 どうやら、少女ではないらしい。惣太はわずかに顔を顰めた。
「おいおい、嬢ちゃん。今の様子で分からねーかな?
 逃げようとしていたに決まってんだろ!」
 煙草を吹かしながら、眼帯の男が言った、さっと唇を観察したが、彼はどう
やら吸血鬼ではないらしい。
 ドアを開いたのは、おそらくこの男だろう――と惣太は見当をつけた。
「え!? 逃げようとしてたんですか!?」
 少女の顔が驚きと警戒の色で染まる。
(嘘をついてもしょうがないか……)
「すまない。その……どうしても逢いたい人がいるんだ」
「あ。リァノーン……っていう方ですか?」
 吸血鬼の少女があっさりと名前を出したので、驚いて彼女の瞳を覗き込む。
「どうして……?」
 セラスの顔がわずかに赤らんだ。
「え? あ、そのっ、えっと……ね、寝言……聞いちゃったんです……ごめん
なさいっ!」
 もじもじとそんな事を言われて、勢いよく頭を下げられると、惣太としても
許さない訳にはいかなかった、もっとも許す許さないというよりひたすら照れ
臭いだけだが。
 腕組みして壁にもたれかかった眼帯の男が、噴き出しそうになるのを堪えて
いる。
「あ、い、いや、その、別に……」
 こほん、と部屋に漂ったのどかな空気を打ち消すように咳払いをした。
「あのさ、俺、ここから出る訳にはいかないかな?」
「そりゃ無理だ、坊主」
 眼帯の男が話に割り込んだ。
 先ほどから惣太は妙にこの男に既視感を覚えると思っていたが、どうやらあ
のいけすかなかった吸血鬼ハンターを彼の背後に見ているらしい。
 勿論、惣太は目の前の眼帯男のことがあまり好きになれないことを確定して
いた。
「そ、そうですよ! ここから出ようなんて考えちゃダメですっ」
 キリッと真剣な表情で少女が訴える、もっともあまり迫力があるとは言い難
い顔だったが。
「だけど、それじゃあ……あ、えっと、名前は――?」
「あ、惣太さん私の名前知らないんでしたっけ。
 私、セラス・ヴィクトリアって言います! 十九歳です!」
 元気良く、セラスが言った。
(十九歳……俺とほとんど変わらないのか) 
 どうやら彼女は見た目そのままの少女だったらしい、たとえ人間ではなくと
もだ。
 惣太は一瞬納得しかけて、すぐに別の疑問が湧く。
「あれ? どうしてセラスさん、俺の名前知ってるんだ」
「あ、さっきウォルターさんから聞きました。
 日本の方だそうですね」
 ――ウォルターというのはあの老人のことだったな。
「それより、惣太さん! 貴方は今、王立国教騎士団の監視下に置かれてます!
 間違っても、此処から出ようなんて考えちゃダメですよ!」
 もう少し威厳を持った言い方であれば惣太も怯んだろうが、残念ながら彼女
はそういう迫力とは縁遠い吸血鬼である。
「でも、リァノーンが――!」
「私たちが何とかします!」
 惣太が何か言おうとするのを抑えるように、セラスがそう叫んだ。
「何とか……しますから。
 此処から出ようなんて思わないでください」
 静かに感情を抑えた声で、服をぎゅっと掴まれながらそう囁かれると、惣太
も身動きが取れない。
「お願いします!」
「……解った」
 反射的に惣太はそう答えた。


                ***


「しっかし、嬢ちゃん」
 彼の部屋の結界を元に戻し、二人して歩いていると、先ほどの男――傭兵隊
長であるベルナドットがセラスに声をかけた。
「何ですか?」
 セラスは惣太が大人しく自分の言ったことに従ってくれたことで、少々浮か
れながら彼に応じる。
「アンタもよく言うよなあ。……アテも無い癖に」
 うっ、とセラスは呻いた。痛いところを突かれた。
「あんまり情を移すんじゃねーぞー、アイツぁー死ぬね、間違いなく死ぬね。
 死ぬ死ぬ、絶対死ぬね」
「う、うるさいです!」
 セラスの抗議にべー、とベルナドットが舌を出しておどける。
 だが、ベルナドットのいうこともあながち間違ってはない。
 恐らくあの吸血鬼の少年――自分より、二つ年下だ――は、この屋敷から逃
げることも不可能(ウォルターさんとマスターがいる限り)だし、解放するよ
うな事も有り得まい。
 なぜ軟禁状態のまま生かしておいているのか、それは分からないがどの道、
吸血鬼を王立国教騎士団がみすみす見逃すはずがない。
 結局、自分のやったことは彼の命をほんの少しばかり永らえさせただけなの
かもしれない――そう思うと、セラスは落ち込んだ。
(ごめんなさい、惣太さん……)
 セラスの半端でない落ち込みぶりに、思わずベルナドットが呟いた。
「まさか……嬢ちゃん、惚れちまったのか……」
「――!」
 セラスの顔が瞬間湯沸し機のように真っ赤になり――。
「違いますよ! やだ! なあ! もう!」
 吸血鬼の力で、思い切りベルナドットの背中を引っ叩いた。


                ***


 こうして。
 遠野志貴とアルクェイド・ブリュンスタッドは、イノヴェルチの手に落ちた。
 夜魔の森の女王リァノーンも、同じくイノヴェルチの手に落ちた。
 伊藤惣太は右腕を切断され、王立国教騎士団によって捕獲されている。
 アレクサンド・アンデルセン神父はウピエルと戦闘し、敗北した。
 ミレニアムは着々と戦闘準備を押し進めている。
 彼等が必死に足掻いた結果が、これだ。
 これ以上ないくらい、見るも無残な敗北だ。


 だが、これにてこの物語は攻守交替。


 ――次は、人間側の反撃である。
 ――次は、神に立ち向かう者の反撃である。
 ――次は、復讐する側の反撃である。




 ベッドの傍らで、両膝を突いた。
 ついぞ祈ったことなどない、神に祈りを捧げるような格好で惣太は考える。
 左手の拳を握り、そっと額に押し付ける。
 祈るべきは神ではなく、あくまで彼女だ、彼女の意思だ。
「リァノーン……何があっても生きていてくれ。
 俺は、必ず、君を――救い出すから」
 そして、付け加える。
 あの森で出会った自分と同年代の少年について。
「志貴、何があったか知らないが、お前も絶対に生き延びろよ……」
 今や彼の友人であるその少年の無事を、惣太は祈った――。














                                 Fin



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