深い森の奥 闇に抱かれた狼
 死神に贈られた 紅い瞳と白き牙
 自分の血で のどをうるおし
 誇りと孤独だけが かがやく紋章
                 「SMALL TWO OF PIECES」















 ――またもや話はしばし過去へ遡る。














 ぐしゃり。
 男の頚椎がまるでアルミニウムの空き缶のように簡単に捻り潰された。
 ごぼりと男の口から血が零れ、潰された喉は断末魔の叫びをあげることすら
ままならない、意識は既に空の彼方へ飛んでいったにも関わらず、彼の体は痙
攣して生物的な反応を見せている。
 やがて壁に叩きつけられたそれは痙攣も止めた。

 片手でその男の首を捻り潰した男は既に潰した彼のことなど、まるで関心に
ない。
 彼の思考は今回の作戦の目的にさ迷っていた。
 彼の在る廊下はとても静かで、時々聞こえるごぼごぼという液体の中で呼吸
を吐き出す音だけがその世界の静寂を犯している。
 つい、先ほどまでの慌ただしい喧騒が、怒号や銃声や硝煙のけぶる匂いが嘘
のようだった。
 もう、そこには何もない。
 そんな中、ただ一人佇む男は胸ポケットの携帯を手にとって、無骨な手で短
縮番号を押した。
 しばらくして、雑音混じりの声が応答する。

「アンデルセンか、そっちはどうだ?」
「こっちにはゴミしかない」
 男は廊下を振り返った。
 あちこちに血と臓物が撒き散らされ、銃剣が突き刺さった死体がそれこそ山
のように積まれている。
 それらはただの吸血鬼信奉者、生きながら吸血鬼の奴隷に過ぎなくなった人
間だ。

 だからヴァチカン第十三課所属アレクサンド・アンデルセン神父にとっては
ただのゴミであるという認識以上の関心はない。
「つまり、こういうことか? 俺達は――」
「あの人形使い(ドールマスター)に一杯食わされた、という訳だ、ジャック」
 その時、突然雑音の世界からぱらぱらとポップコーンが破裂したような音が
二人の会話を中断させる。
「ちっ……おい、電話中だ! まったく……お前ら何とかしろ」
「了解」
「了解」
 ジャックは神に祈りを捧げていた二人の男に呼びかけ、自分は壁の向こう側
に移動する。
 壁がどんどんライフルの銃弾で破壊されるが、ジャックは気にもとめなかっ
た。それよりも彼との会話が重要だ。
「あのギーラッハが女王を残してメキシコへ飛んだ時点で気付くべきだったな」
 アンデルセンは歯噛みした。
 燦月製薬ヨーロッパ支社――ヴァンパイア三銃士のせいで、長い間立ち入る
ことができなかった禁断の地。
 ギーラッハとウピエルがそこを立ち去ったという報を受け、十三課はそこを
強襲した。

 ――結果、それは成功したとも、失敗に終わったとも言える。
 吸血鬼信奉者は多数存在した、キメラヴァンプの研究資料も手に入った、し
かしこの作戦においての最重要課題である、夜魔の森の女王リァノーンを仕留
めることはおろか姿を見ることさえできなかったのだ。
 彼女は、ギーラッハが派手に――ヴァチカンが反応できるくらい派手に出立
するより遥か前に分類Aレベルのキメラヴァンプ二体及び諸井霧江博士、それ
にナハツェーラーという最小メンバーで既に出発していたのだ。
 リァノーンの輸送という最危険任務にしては、あまりに無用心すぎ――それ
が為に結果的にナハツェーラーの賭けは成功した。
 勿論、彼は残しておく餌を盛大にするために吸血鬼信奉者はおろか貴重な兵隊
であるキメラヴァンプ数体を忘れずに残し、果ては自身に似せた影武者まで用意
していた。

 ヴァチカン第十三課のマクスウェルは、ギーラッハの出奔に半ば疑念を抱きつ
つもこれまで何度も苦渋を味あわされた憎むべき人形使い――ナハツェーラーを
仕留める絶好の機会を逃すという選択肢は思い浮かばなかった。
 愚かであることは自覚していた――彼はほとんど心の底で何かしらの罠である
ことを確信していた。
 しかし、罠であることが何であろう。
 仕留めるチャンスがあるのならば、それに飛び込んで食らいつくだけだ。
 そう言って彼は四人を送り出した。

 第十三課対吸血鬼の鬼札、“銃剣”アレクサンド・アンデルセン。
 ヴァチカナイナーズリーダー、“聖騎士”ジャック・クロウ。
 そしてジャックの部下、“処刑人”マクナマス兄弟。

 彼らは二百人近くいた完全武装の吸血鬼信奉者を相手どって互角、ではなく
有利、でもなく「圧倒的」に戦いを進めていた。
 そして今、生き残りの信奉者が駐車場から逃げ出そうとしたところをアンデ
ルセン以外の三人が襲いかかった。
 一方、アンデルセンは一人屋上へ登っていく。銃剣をかき鳴らし、聖印を携
え、結界を張り巡らし、キメラヴァンプを追い詰めていく。
「……」
「どうした?」
 ジャックが尋ねると、アンデルセンの声が低くくぐもったものになった。
「またキメラヴァンプだ……切るぞ」
 ジャックの返事を待たず、ぶつりと声は途絶えた。
「やれやれ、忙しい奴だ……仕方ない、俺ももう少し神の御心の為に働くとす
るか」
 ジャックは頭を振って、両手に持った拳銃を構え、銃撃のせいで今にも崩れ
そうな壁から飛び出した。
 部下の二人が居る場所へ走りこみながら、両手の拳銃を撃ちまくる。何発か
が見事に吸血鬼信奉者の脳味噌を二度と使い物にならなくさせた。
 飛びこんで、弟のわき腹を肘で突つく。
「おい、爆薬があったよな、そいつを使え」
「はい、けれどこんな駐車場で使ったら連鎖反応を起こしてして、ビルが崩壊
するんじゃねぇですか?」
「俺達の知ったことか、さっさと逃げればいいだけだ」
「アンデルセン神父は?」
「あいつが死ぬと思うか?」
「全然」
「無理」
 二人は即答した。
「なら、さっさと使ってしまえ」
「了解」
 兄弟は両手に持った手榴弾を繰り返し繰り返し、ありったけ十個ばかり放り
投げた。
 あちこちで爆発が起こり、煙幕が張られる。
「スリー・ツー・ワン……ゼロ!」
 兄がスイッチを押した。
 駐車場の柱がカッと輝いたかと思うと、コンクリートの柱が破裂し、破片が
吸血鬼信奉者の躰のあちこちを貫いた。
 それと同時にビルのあちこちが軋み始め、まるで粉だらけのビスケットのよ
うに破片が零れ落ちる。
 三人は走り出す、ビルの最上階にいるアンデルセン神父の心配はまるで頭に
なかった。
 心配など、アレクサンド・アンデルセンにとってもっとも不要な言葉だった。

「シィィィッ!」
 キメラヴァンプは二体いた――片方はトカゲのようにざらついた瞳、もう一
方は明らかに甲殻生物を思われる頑丈な殻を有している。
 二匹のケダモノはこの時点ではアンデルセンに関するデータを知らされてな
く、完全に舐めきって戦おうとしていた。
 邪な笑いが二匹の顔に浮かぶ。
 トカゲ型キメラヴァンプがFA MASと呼ばれるアサルトライフルの引金
を弾いた。無数の弾丸がアンデルセンの神父服に突き刺さる。
 アンデルセンは気にも留めない、弾丸がいくら当たろうがどんな痛みだろう
が、苦にならない。
 アドレナリンが爆発的に全身を駆け巡り、肉体は吸血鬼と殺し合えるという
歓喜に震えている。
 だのに、トカゲ型キメラヴァンプは近寄ろうとせずにしつこくライフルを撃
ってきた。
「豆鉄砲を撃ってないでかかってこい。
 ……嫌ならこっちから行くぞ」
 銃剣がどこからともなく取り出され、アンデルセンの手に収まる。
 軽く息を吐き出して、銃剣を勢いよく投擲した。
 鉄甲作用で放たれた十六本の銃剣は、トカゲ型キメラヴァンプのピストル程
度ではかすり傷一つ負わないはずの皮膚を、あっさりと貫いていた。
 どう、ともんどりうって倒れる、心臓を五本の銃剣で貫かれた彼は瞬時に灰
と化した。

「……ヒィィ」
 キメラヴァンプが情けないことに――悲鳴をあげた。
 かさかさと八本の足を使って走り始める、勿論アンデルセンの方ではなく、
逆の方向へ。すなわち、逃亡しようとしているのだ。
 今度こそアンデルセンは怒り出した。
「呆れたな」
 アンデルセンは走った。
 人間とは思えない速度であっという間にキメラヴァンプの背中に追いつくと、
甲殻を掴み、力業で無理矢理引き剥がした。
「シギャアアアアアアアア!」
 苦痛に悶えるクラブ型キメラヴァンプ。
 皮膚と違って甲殻はそう簡単に再生しない、今や彼の肉体は柔らかい肉体が
剥き出しだった。
「情けない死物どもめ、下らん、神の名に置いて鉄槌を下すことすら汚らわし
い」
 もがくクラブ型キメラヴァンプの背中に銃剣を突き立てた。
 断末魔の叫び、そして塵への変換。
 アンデルセンは祈りの言葉を捧げることなく、塵になったそれに唾を吐いた。

(ああ、もう。頭がどうにかなりそうだ、くそ)
 余りにも他愛ない一連の作業にアンデルセンのストレスは頂点に達しようと
していた。
 その時、屋上からのかすかなローター音が彼の耳に届いた。
 ヘリコプターで残党が脱出しようとしているのだろう、と見当をつけて、ア
ンデルセンは屋上へ向かって走り出した。
 一匹残らず逃がすものか。
「急げ、急げ」
 影武者がヘリコプターのパイロットを急かす――勿論パイロットは全力で努
力しているが、影武者にとってはその動きがスローモーにしか見えなかった。
 恐る恐る振り返る、閉じられた屋上の扉からは誰が出てくるわけでもない。
 それでも安堵する暇はない、時間稼ぎに置いたキメラヴァンプからの連絡は
既に途絶えている。
 ヴァチカン第十三課の誰かがここにもうすぐやってくるのは明白だった。

「出発します!」
 ふわり、とヘリコプターが浮き上がった。
 扉はまだ開かない。
 腹立たしいくらいにゆっくりと上昇する。
 扉はまだ開かない。
 ヘリコプターが前に進み出し、影武者はようやく安堵した。
 刹那。
 扉が開かれ、誰かが飛び出した。
 影武者は悲鳴をあげた。
「はっ、早くっ、早くしてくれェェ!」

 既にヘリコプターはビルから離れている、アンデルセンは臆することなしに
屋上から跳躍した。
 ヘリコプターの脚をしっかり掴み、懸垂の要領で躰を起こす。
 ヘリコプターの扉を開いた途端、影武者の拳銃から銃弾が顔面に叩きこまれ
た。
 勿論、彼にとっては銃弾が顔面に炸裂したことなど些事に過ぎず、銃剣で影
武者の首を跳ねとばすことの方が重要だった。
 驚きで眼を見開いていたパイロットは、アンデルセンがぐるりとこちらを向
いたことに気付いて慌てて叫んだ。
「ま、待ってくれ! 今俺を殺せば地上へ真っ逆さまだ、ほら、な?
 だから少し待ってくれ、話はアンタを降ろしてからだ、な? な?」
 勿論パイロットは彼を降ろしたらいちかばちか急上昇をかけるつもりだった。
 今すぐ死ぬよりずっといい。
 だが、アンデルセンはそんなことに全く無関心で、無頓着で、何よりも吸血
鬼信奉者の言う事に従うことなどもってのほかだった。
「だからどうした」
 座席越しに無数の銃剣が突き刺さった。
 パイロットの瞳の光が消え去り、躰から力が抜け、操作レバーにふらふらと
倒れこんだ。
 パイロットを失ったヘリコプターは彼の言った通り、地上に向かって真っ逆
さまに墜落した。

 ジャック・クロウとマクナマス兄弟はビルの入り口を走り抜けた。
 間一髪、最後に残っていた特別派手な爆弾が発動し、まるでビル専門の破壊
屋が精密に計算したようにビルが倒壊してゆく。
 撒き散らされた砂埃に、三人は顔をしかめた。
 ふと、マクナマス兄が空を見上げた。
「……何か、落ちてきます」
 ヘリコプターが炎を噴き出しながら、落下していた。
 ぐんぐんと巨大化するそれを見て、三人は慌てて走り出した。


 そして、墜落。


 しかし墜落の直前にアンデルセンはヘリの扉から飛び出して地面にひらりと
着地した。
 彼はかすり傷一つ負っていず、改めて三人はその力に驚愕――ほとんど恐怖
に近いもの――を覚えた。

 そして、爆発。

 四人の背中越しに最後の爆発が起き、ビルは完全に崩壊した。
「……さて、これからどうする?」
「一旦ヴァチカンに帰還しますか?」
 ジャックとマクナマス兄弟がそれぞれアンデルセンに指示を仰ぐ。
 アンデルセンが思案を巡らせていた時、彼の携帯が振動した。
「……はい」
「失敗か?」
 声の主は、彼の上司にあたる男だった。
「そうですね、リァノーンは影も形も見当たりませんでした。
 ……どうします、マクスウェル。一度ヴァチカンに引き返しますか?」
「仕方あるまい。こちらも、先ほど夜魔の森の女王の行先確認が取れた」
「どこです?」
 ぎり、と受話器を握り締める音がアンデルセンに伝わった。
「日本だ。くそ、こちらが公然と手を出しにくいあの国に次から次へと吸血鬼
どもが向かっていく」
「そう言えば――」
「アルクェイド・ブリュンスタッド……ネロ・カオス……それにミハイル・ロ
ア・バルダムヨォンの転生体もあの国に集結していることが確認されている」
「世も末ですな」
「全くだ……アンデルセン、お前は日本では目立ちすぎる。
 日本にはシエル・エレイシアを派遣した、お前たちはヴァチカンへ戻れ」
「シエル? あの元吸血鬼に、元ロアの転生体にですと?
 あれ単体で吸血鬼を追いかけさせたのですか!」
 アンデルセンが血走った目で怒鳴ったので、会話を聞いていた三人は思わず
後退いた。
「正確には、あれが一人で突っ走っていったんだがな。
 ……まあいい、あれもお前と同じく我々の鬼札の一つ。おまけに第七聖典ま
で持って行ったんなら、ロアを倒しきることは可能なはずだ」
「……私は信用できませんな、マクスウェル。――特にあの小娘はね」
 不満と侮蔑を隠そうともせず、アンデルセンはそう言う。
「判った判った、いいから貴様等は戻ってこい、頼むから戻って来いよ」
 電話越しのマクスウェルの声は相当疲労していた。
 もっともそれは無理からぬことで、前々からのシエルとアンデルセンの対立
は胃が痛くなるくらい思い知っている。
「由美子。お茶をくれ……もう、たまらん」
 眼鏡をかけたシスターが、気遣わしげな顔でお茶をそっと差し出した。

 かくしてアンデルセンはくすぶった殺戮嗜好を発散できぬまま、ヴァチカン
へ帰還したが、二週間の後、再びヨーロッパにリァノーンの存在が確認された
為、狂喜乱舞してリァノーンの追跡を始めることになる。
 最早、アンデルセンを止める何者をも存在しまい。
 たとえそこが――既に王立国教騎士団(ヘルシング)の領土内に完全に干渉
している場所だったとしても。

「ゲァハハッハハハハハッハハハハハハ! ヒィハァァハハハハハァハハ!」

 仰け反って高笑いするアンデルセン。
 そして地面には針鼠のようになったリァノーンと伊藤惣太がもがいていた。
「うぁっ……あ……くぁっ……がっ……」
「うう……っ……はっ……ん……」
 アンデルセンはようやく笑うのを止めると、無様な化物二つを見下ろした。
 ――さて、どうしようか。
 細切れにしようか心臓に銃剣を突き刺してやろうかそれではあまりにあっけなさすぎるから心臓以外に銃剣を突き刺そう
か――?
 そんなことを考えながら、アンデルセンは銃剣を取り出した。
 ――決めた、今すぐ始末しよう。
 アルクェイド・ブリュンスタッドも始末するという大仕事が残っている今、
女吸血鬼に時間をかけてはいられない。
 アンデルセンは二本の銃剣を高々と掲げた。
 銃剣に月光が反射して、光り輝き――。


                ***


 ――流転と融合と思考を繰り返して混沌に至る。
 それがかつて人間であったネロ・カオスの選んだ道であった。

 彼はアルクェイド・ブリュンスタッドを追うことに何ら疑問を持たなかった
し、それ以外にさしたる興味も沸かなかったが――。
 ――あれが全てを変えてしまった。
 自分の価値観をゴミ屑のように消し飛ばした、己の死。
 己の死を招いた者。
 ――人間。
 そう、ただの人間だった。食餌であること以外に存在価値など在り得なかっ
たそんなただの人間に、ネロ・カオスはこれ以上ないくらいに完膚なきまでに
粉砕された。
 だから、興味が沸いた。吸血鬼に、人間に、何より自身というものに興味を
持った、これはネロ・カオスという“群体”からすれば奇妙なことだろう。
 彼は蘇って後も、悩み続け――そして結論した。
 自身が神――もし、居るとするならば――に与えられた役割は吸血鬼だ。
 ならば吸血鬼らしく、血を啜ろう。
 処女の血を啜り、非処女非童貞をグールに変え、恐怖と役災を人間たちに、
撒き散らそう。
 その殺戮と暴虐の果て、行き着く先に。
 ――もしかしたら、求めている真理があるやもしれぬ。
 そう結論づけた時、ネロ・カオスは――低く笑った。


                ***


 安らいでいたはずの志貴が低く呻いた。
 表情が少し苦しげだ。額からつぅっと脂汗が流れた。
「志貴……」
 アルクェイドはそっと顔を撫でる。
 それから、ちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべて志貴の鼻をつまんだ。落ち着
いた呼吸音がふがふがと苦しそうに鼻を鳴らす音に変わる。
「もう、早く起きてよね、志貴……起きないと、もっとひどいことしちゃうん
だから……」
 鼻をつままれた志貴はいかにも苦しそうだ、アルクェイドは調子に乗って鼻
から手を離すと、両頬をぐにゅりとつまんで引っ張ってみた。
 しばらく、そうして志貴の顔を弄んでいただろうか。
 夜空の月は既に白み始め、地上がうっすらと明るくなっている。きっともう
すぐ忌々しい朝日が顔を出すだろう。
 もっともアルクェイドにとってはせいぜいが忌々しいというだけで、他の吸
血鬼ほど太陽に憎悪を持ってはいない。
 要するに、シエルや妹と感覚的には同じだ。
 気に食わない、というだけ。
「う、ん……アルクェイド……か?」
「あ、志貴!」
 パッとアルクェイドは両手を離すと、志貴の瞳を気遣わしげに覗き込む。
「大丈夫? どこか痛いとこない?」
「ああ、どこも痛くなんかない」
 そう言ってから、志貴は自分の置かれた状況――アルクェイドの膝枕という
ことに気付いてわずかに赤面した。
「そうだ、それより……あの二人の吸血鬼のことなんだけど」
「……あの二人、志貴に何かしたの?」
 途端、アルクェイドの顔が険しくなる。冷静に考えれば、惣太はともかく、
リァノーンの方が遠野志貴に何かをする間はとてもなかったはずなのだが、一
旦そう思い込むと、アルクェイドに論理的思考は不可能だった。
 志貴は慌てて否定する。
「いや、違う違う違う。そうじゃなくて。
 ……あの二人……って、俺は男の惣太って奴としか話してないんだけど。
 いいやつ……なんじゃないかなあって」
「あっきれた。志貴、あれは死徒よ。人の血を啜り、時に喰屍鬼に変え、時に
眷属を増やし、太陽に背を向け、聖物に打ち倒される化物なのよ。
……第一! あいつらが人間の女の子の血を啜っているから、私達は追跡を
始めたんでしょ」
「それ、誤解だって。あいつら……あいつは、そんな事した覚えがないって言
ってた」
「それを――信じる訳?」
 アルクェイドが訝しげに問う。
「あいつら……今、世界中の吸血鬼ハンターと、それから別の組織にも追われ
ているんだってさ、なんか色々事情があるらしい」
「そりゃそうよ、死徒の中でも二千年生きているやつなんて早々存在しないわ。
 賞金額はきっととてつもないものになっているでしょうね」
「だからさ、おかしいじゃないか。
 都会ならいざ知らず、こんな辺鄙な村で、十二人の人間の血を一度に吸うな
んてさ、どう考えたって『私達はここにいますよー』って叫んでいるのと同じ
ことだろ」
「う、あ、ん……うん……」
 アルクェイドが不承不承納得する。志貴の言っていることには、それなりに
筋が通っている。
「ともかくさ、落ち着いて話し合うことが大切だと思う」
 志貴にとっての問題は、あの女吸血鬼のお姉さんが恋人の右腕を切り取った
自分を許してくれるのだろうか、という点だが。
 向こうがアルクェイドのような吸血鬼だったら、俺は半殺しにされかねない。
 そしてそれを見たアルクェイドが切れて、向こうを全殺しにして……。
 ――どうか、あのお姉さんが優しい吸血鬼でありますように。
 遠野志貴はそう祈ることにした。


                ***


 使い魔の一人が、二人を視認した。
 その使い魔が見た物を、ネロ・カオスも同一視点で目視している。
 つまり、無数の使い魔を出すということは即ちネロは無数の視点を一度に処
理していることになるのだが――果たして、それがどのようにネロの目に見せ
ているのか、それはさすがに人間には預かり知らぬ事柄だろう。
 何はともあれ。
 ネロは疾った。疾っているというのに、不思議と彼には少しも急いでいる風
には見えない。落ち着いたゆったりとした足取りにしか思えない。
 だが、彼はおそらく全速力で走る人間の短距離ランナーより早く、森の中を
疾駆していた。
 そうして、目的地まで辿り着くと、二人に――驚くべきことに、微笑みかけ
た。だが、その微笑みは悪意と殺意に満ちていた。
 肉皮を歪ませた、とても嫌な微笑み。
 それが、彼等二人――アルクェイド・ブリュンスタッドと遠野志貴に与えた
衝撃は計り知れないものだった。


                ***


「どうし……て」
 さすがのアルクェイドも絶句する。
「……マジか?」
 志貴は愕然と自分を見下ろす黒衣の死神を見つめる。
 両者とも目の前に居るそれの存在が、信じられない。
「成程、お前がこれまで信じていたものは正しいぞ、真祖の姫君。
 わたしは確かにあの時、そこの人間のお陰で完全に崩壊しかかった」
 あの時、確かにネロ・カオスは崩壊した。志貴だけにしか視えない死の点を
突かれてこの世から消し飛びかかった。
 残ったのは志貴の治療に使用した一欠片のような、朝日がくれば塵に変わる
ような卑小な存在だけ。

 それを、イノヴェルチは手に入れた。

 彼等が血肉の果てに気付いた技術が優れていたのか、それとも吸血鬼の神が
彼を哀れんだのか。
 いずれにせよ、彼は現世に復活し、孤高であった自身を捨て、イノヴェルチ
に加わったのである。

 もちろん、アルクェイドはそんな事情を知りはしない。
 ただ、眼前に在る黒コートの男をネロ・カオスだと認識しただけだ。
 ――ならば。
「アルクェイド……」
 立ち上がった志貴に微笑みかけると、無手のまま手を突き出す、元より彼女
には時間を掛けるようなつもりはない。
「空想具現化か。……なるほど、今の君は手っ取り早く我を始末したいだろう
からな。それを使うのは正しい」
 ネロ・カオスの躰からずるりずるりと無数の黒蛇が這い出てきた。
 ――無数? 否、無数どころではない!
 今やネロの躰からは洪水のように蛇が次から次へと溢れ出でる。地面が蛇で
埋め尽くされ、蠢く様はさながら黒い波のよう。
 アルクェイドは、飛びかかってくる蛇を苦もなく叩き潰しながら、不思議そ
うにネロを見た。
 ――何だって、ネロはこんな生物を……。
 蛇は後から後から叩き潰され、切り裂かれ、捻り潰され、粉砕された。
 だが、いかなアルクェイドといえども素手では者、あるいは物を打ち倒すと
いう行動許容量が存在する。
 大量の蛇は既に彼女の許容量を飽和状態にさせていた。
 追いつかない、見る見る内にアルクェイドの躰を無数の蛇が包み込んだ。
「勝負あったな、姫よ」
「それはどうかしら?」
 顔を這いずり回る蛇をむんずと握り潰すと、アルクェイドは顔以外の全身を
覆われているにも関わらず、不敵な笑いを浮かべた。
 それからめきめきと関節が鳴り響くほど思いきり腰を捻り、両手を振り回し
辺りに蛇を吹き飛ばす。

 ――気が付くと、彼女の色は白だった。

 どう? と言わんばかりに胸を張るアルクェイド。
 ネロはそれを見てやれやれ――とかぶりを振った。
 ――全くこの姫君の直情的な行動には参ったものだ。
「勝負あったな、とは正確には貴様に言った台詞ではない。
 そこの後ろに在る人間よ」
 はっとアルクェイドが後ろを振り返り、蒼褪める――。

「アル……」
 志貴の躰中に、蛇が纏わりついていた。何時の間に手に持っていたのか、七
つ夜が力無い手から滑り落ちる。
 アルクェイドの許容量を超えた分の黒蛇が、志貴に襲い掛かり、線を切る暇
もなく、足に噛み付かれたのだ。
 わずかな痛み、そして途方もない脱力感。
 手が震え、七つ夜を握り締めることもできない、唇が痺れ、何かを言おうに
ももごもごと口を動かすことしかできない。
「貴様のように、無造作に掴んで捨てることは叶わない。
 なぜならその蛇は麻痺毒を持っている、無論貴様には無関係だがな。
そして――こっちの蛇は麻痺などではない、致命的な猛毒を持っている」
 無数の黒蛇の中に、十何匹かの赤い蛇が鎌首をもたげた。
「……!」
「飛びかかるのはよした方がいいぞ、姫君よ。
 いくら貴様とて人間の躰に巻き付いた無限の蛇を一瞬で殺せるほど素早くあ
るまい、空想具現化でも」
 く、とアルクェイドは歯噛みした。
 ネロは彼女に追い討ちをかけるように言葉を続ける。
「それとも――殺していいのかね? 殺して、血を与え、彼を貴様の忠僕にす
るのもまた、一興ではないか?」
 ――死ぬ。
 アルクェイド・ブリュンスタッドにとってはもっとも縁遠い言葉だった。
 ――生きる。
 これもまたアルクェイド・ブリュンスタッドにとって縁遠い言葉だった。
 だが、生と死のタイトロープを常に渡り続けているような少年を見続ける事
が彼女に生と死という存在を近いものとした。
 あやふやで、壊れやすく、しかもそれは美しく――。

 アルクェイドは、首を振った。

 どんなことがあっても、志貴の生を失わせる訳にはいかない――!
 ……アルクェイドは両手を挙げた。
 人間でいう降参の証だ。
「志貴には手を出さないで。出した瞬間、アンタを殺すわよ」
「……残念だが、それは無理だ」
 見る間にアルクェイドの顔が険しくなる。
「――それはどういうことかしら?」
「こういう……事だ」
 はっとアルクェイドは志貴の方を振り返った。志貴の躰中に纏わりついてい
たはずの蛇が急速にその形を変える。
 人より遥かに巨大な蝙蝠が志貴を両足で掴むと、森を抜け出て、夜空に飛び
去っていった。
「――!! ネロ! 志貴を何処へやるつもり!」
「何処へ……か。残念だがその問いについては、後に答えることにしよう。
 私とて、太陽の下で活動するのはいささか苦手だ。
 では、また今宵、貴様がかつて在った千年城にてお会いしよう――!」

 ネロ・カオスの躰――即ち、要素全てが無数の蝙蝠となり、広大な森に拡散
していった。


 ――何はともあれ。しばしの休息。


 彼等が再び巡り合うには、まだわずかの余裕がある。
 それまでは。
 この物語におけるもう二つの切片。
 即ち、リァノーンと伊藤惣太の行く末を見守ることにしよう――。






                            to be continued



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