「世界などわたしの手にはあまる。わたしはつねにわたし自身
であるだけだ。わたしはなんの変化も経てはいない。よりわた
しらしくなっているだけだ」
            キム・ニューマン「ドラキュラ戦記」














 ベルデヴェーレの庭園と呼ばれる美しい中庭を通ると、ヴァチカン図書館及
び、ヴァチカン秘蔵古文書館へ行くことができる。
 ヴァチカン図書館は世界でもっとも蔵書が整った図書館である。初期の活版
印刷本が約八千二百点、所蔵する写本は七万五千冊以上にのぼる。無論、一般
に利用を解放しており、秘蔵古文書館と共にカトリック研究者の大いなる助け
となっている。
 エレンが神学を学び始めたのは、わずか三年程度――おまけにしたいときに
勉強ができる訳ではない――だったから、ここに来ても何ら学べるものはない
事は彼女自身よく知っている。
 だが学ぶことができなくとも、やれることはある。
 ――ただ、触れるだけでいい。
 キリスト教徒の苦難の歴史を、神にわずかに触れたとされる信仰者たちの熱
情に指を絡ませたい、とエレンは思った。
 そうすることで、自分の不確かな信仰にも何かが見つかるかもしれない。
 そんなことを思ってエレンはヴァチカン図書館を訪れた。神父に頼んで写本
の一部の閲覧許可を貰い、解説を求める。
 熱心な彼女にほだされてか、神父も親切にカトリックの歴史から図書館に在
る本の翻訳まで、熱心に話しこんだ。
 神父に礼を言って本を返却する。
 ――今度はどこへ行こうか。
 迷う、ヴァチカンは狭い癖に見るべきものが多すぎる。多すぎる上に、何度
見ても飽きないものばかりだ。ガイドブックのほとんどの場所は見て回ったが、
エレンは訪れたばかりの時に見たものをもう一度見たくなっていた。
 散々思いあぐんだ末に、エレンは図書館を出てサン・ピエトロ広場へ向かう
ことにした。
 端にあった小さなベンチに腰を下ろし、ふう、と一息つく。
 色々な人間がいる、家族で連れ立っている人間、寄り添って歩く老夫婦、神
を真摯に信じている若者……いずれも幸福そうな顔だ。
 自分は果たしてどんな表情を浮かべているだろう、エレンは自分の頬を思わ
ず抓った。
 何も感じない。
 くすくすと笑う声。
 振り向くと、隣に座った少女がエレンの仕草を見て笑っていた。
 年齢は十歳を越えたか越えないか、というところだろうか。長いブロンドの
髪と、雪のように白い肌はまるで美しい陶器人形(ビスクドール)のようだ。
 手に持ったアイスクリームをぺろぺろと舐めながらエレンに尋ねる。
「お姉ちゃん、何してたの?」
「え、あ――」
 そんなことを無邪気に問われ、エレンは言葉に詰まった。
「ちょっとね」
 そう言って曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。咄嗟の演技にしては上手くい
ったと思う。少女は小首を傾げると、何を思ったか自分の頬を抓った。
 手加減せずに抓ったらしく、たちまち顔をしかめる。
「いたい」
 少女の頬に血液が集まり、真っ赤に染まった。
「当たり前」
 エレンが言うと、少女は膨れた表情で頬を摩った。その時、片手に持ったア
イスクリームを少女は失念したらしく、ぐらぐらと揺れる手に溶けたアイスが
手首にぽたりと雫を落とした。
「あ――!」
 エレンの反応は素早かった。
 真っ逆さまに地面に落ちるアイスのコーンを素早く掴み、なおかつアイスが
零れないよう、くるりと元に戻す。
 少女は目を丸くした。
「すごーい!」
「気をつけてね」
 エレンはそう言うと、少女にアイスを握らせた。
「うんっ!」
 少女は白い歯をニッと見せて心からの笑顔をエレンに見せた。
 ――これは、自分にはできない笑い方だ。
 玲二も笑うことができる、ドライ――キャルも笑うことができるだろう、だ
が子供の頃から兵器として鍛え上げられた自分は、演技以外の笑みをとうの昔
に忘れてしまっていた。
 今だって、浮かべた笑みは単にそうした方がいいという防衛本能が働いただ
けだ、あそこでしかめ面をして目立たないようにという、ただそれだけのため
の笑みだ。
「……どうしたの?」
 少女がじっ、とエレンの顔を覗き込んだ。どうやら彼女は自分でも思ってい
なかったほど長い間考え事をしていたらしい。
「なんでもないのよ」
 もう一度曖昧な笑みを浮かべようとしたが、出てきた表情は困ったような、
泣きたくなっているような、そんな儚い笑顔だった。
 それも笑顔の一つであることに、エレンは気付いていないけれど。
 少女はエレンをじっと見つめ、
「……はい、これあげる」
 先ほどエレンに救出されたアイスを差し出した。
「え?」
 思わず訊き返す。困惑の表情が自然にエレンの顔に浮かんだくらい少女の行
動は突飛だった。思わず反射的にアイスを受け取ってしまっていた。
「困った時はお互い様、なんだよ」
 そう言ってころころと笑った。
「ちょ、待っ――」
 だが、少女は足がつかないベンチからえいやっと飛び降りると、エレンに向
かって腕を振りながら駆けていった。
 後に残されたのは茫然とアイスを握るエレンだけだ。
「……」
 どうしよう、と思ったが今更どうしようもないだろう。
 仕方がないので溶けない内に、とアイスをぺろりと舐めた。
「……甘い」
 日本に居た頃、美緒達と一緒にアイスを食べたことはある、が、その時のそ
れと味は段違いだった。あの時のアイスは自分にとっては冷たいもの、としか
認識できなかった。
 だが、ヴァチカンのこのベンチに座って舐める少女から譲り受けたアイスは
間違いなく、甘い。
 笑おう、と思う間もなくエレンの唇がわずかに吊り上がった。彼女自身は今
自分が笑っているとは全く思っていないが、玲二ならば目を丸くして、彼女の
微笑みを見つめていただろう。
 空を見上げる、雲がわずかに空を覆い始めていたものの、太陽はいつも通り
燦燦とヴァチカン市国を照らしていた。
 今日も穏やかな日だ、明日はどうなるか分からないけれど。
 ふと、エレンは人の気配を感じて振り返った。
「よお、お嬢ちゃん。いつも熱心だな」
 ――ああ。
 エレンは立ち上がると、軽く頭を下げた。ヴァチカンで自分の正体を知って
いる数少ない人間の一人、エレンと玲二をここまで連れてきてくれた第十三課
のマクナマス兄弟の父親に当たる人物だ。
 元ヴァチカナンガーズだが、今では隠遁してヴァチカンにぽつぽつと点在す
る畑などの野良作業を任されている。
 白い豊かな髭から、ヴァチカンを訪れる子供達にはサンタクロースだと思わ
れているらしい。だがしかし、野良作業だけでは絶対に形成されることのない
体つきは紛れもない歴戦の戦士であることを、エレンと、そして玲二は見抜い
ていた。
「男の方はどうしたね?」
 土に鍬を埋めながらマクナマスが尋ねた。
「家にいると思います」
 丁寧な口調で、エレンは応じた。さすがにここまで年齢が離れていると、普
段のようにぶっきらぼうな口調ではやりにくい。
 老マクナマスは少し怒ったように眉をハの字に曲げる。
「けしからんな、あの小僧。由緒正しいヴァチカンを何だと思っとるんだ。
 全く……」
 ぶつぶつとそんな事を言うが、エレンの顔を見てにっこりと笑った。
「お嬢ちゃんとは大違いだ」
 エレンは先ほどと同じく曖昧な笑みで誤魔化すことにした。
「ワシの息子達のように野良仕事を放り出して、また何処ぞでバンバン銃をぶ
っ放して、酒飲んで娼婦に金貢ぐような男にならないよう、お嬢ちゃん」
 エレンはむっとした表情で、老マクナマスとは逆に眉を吊り上げ気味に応じ
る。
「……玲二はそういう人ではありません」
 今度こそ、老マクナマスは大笑いした。
「そうか、そうか! いや、こいつは失敬した」
 自分がどんな表情で、何を言ったのか、エレンは気付いて顔を伏せた。
「……すいません、もう行きます」
 エレンは足早にその場を立ち去った。
「お嬢ちゃんに神のご加護がありますように! Amen!」
 彼女の背中に大きな声がかかった。
 老マクナマスはしばらく彼女の背中を見送っていたが、子供達が彼の姿を見
て駆け寄ってくるのを見て、そちらに意識を移した。
「ほうら、やっぱりサンタだよ!」
「違うよ、サンタはこんな格好してないもん!」
 笑顔を浮かべながら、老マクナマスは言う。
「ようし、それじゃ君達にサンタクロースの話をしてあげようじゃないか!」
 子供達は歓声でそれに答えた。
「……ん?」
 ふと、彼は背中に感じる視線に反応して振り返った。
 耳にピアスをつけた胡散臭そうな若者がじろじろと老マクナマスと、子供達
を見ている。酷く、老マクナマスは血が騒いだ。反射的に鍬を握った手に力が
入る。
 ニタニタとピアスの男が嗤い、子供達に手を振った。
 子供達も少々戸惑いながら、それに応じて手を振る。ピアスの男は外見から
判断してとても子供好きには見えない。誘拐でも考えているのだろうか。
 ピアスの男の肩を、白スーツで眼鏡をかけた男が叩いた。
 白スーツの男は黙ってぐい、と首を傾ける。
 ピアスの男は二、三度頷いて子供と老マクナマスに背中を向けた。
「……」
 二人は連れ立ってその場を去って行こうとする、老マクナマスはしばらく迷
った末、子供達に「ちょっと待っていなさい」と言って、彼等の後を追った。
 だが、彼等の足は思っている以上に素早く、加えて出遅れたこともあって、
すぐに老マクナマスは二人の行方を見失ってしまった。
「……」
 しばらくヴァチカンをさ迷ったが、彼等は観光客に紛れたらしく、老マクナ
マスに追跡する手段はなかった。
「マクナマス? こんなとこで首ひねってどうしたのさ」
 馴染みの声がかかる。
「ハインケルか、いや、今怪しい二人組を見掛けたもんでな」
 ハインケル、と呼ばれたのはショートカットの女性だった。だが、着込んで
いるのはなぜか神父服で、見る人間が見ればコートの下に明らかに拳銃らしき
ものを潜り込ませていることが分かっただろう。
 無論、こんな聖地で拳銃を身につけている以上、彼女も普通のシスターでは
ない。第十三課所属の“掃討屋”だ。
「怪しい?」
 彼女の眼が鋭く光った。
「ああ、ピアスつけたヘラヘラした男と白いスーツの眼鏡の男」
「何かしてたのかい?」
 老マクナマスは肩を竦めた。
「ワシと子供達を見て笑っていた」
「それだけ?」
「今はそれだけで、そんなことをしているだけで、充分怪しいだろう。
 違うか?」
 違わない、とハインケルは頷いた。真昼間から堂々とこのヴァチカンを訪れ
ているということは吸血鬼ではなさそうだが、吸血鬼信奉者か、さもなくば雇
われテロリスト、勿論雇われではない純粋なテロリストという可能性も残って
いる。ヴァチカンを、キリスト教徒を忌み嫌う輩は吸血鬼だけではない。
「ハインケル、無線を貸してくれ」
「はいはい」
 ハインケルはトランシーバーを老マクナマスに投げてよこした。
「ヴァチカナンガーズ全員に伝達、ピアスの男と、白スーツの眼鏡男の二人組
を見かけたら早急に第十三課もしくは私に連絡せよ、以上」
「私らもかよ!」
「お前らも、だ」
 無線を切って、老マクナマスはウィンクした。
「武器を借りるぞ」
「それは構わないけど、何借りるのさ」
「ワシの使っていた武器に決まってるじゃろ」
 老人はニタリと笑った、それは子供達に決して見せないであろう笑み。
 殺し合うことに、命のやりとりをすることに喜びを感じるようになってしま
った、戦士の笑みだった。
「やれやれ」
 とハインケルは肩を竦めた。
「局長は会議とやらではるばるスイスへ行ってしまうし、シエルはニューヨー
ク、アンデルセンは孤児院に戻っちまってる、他の連中も世界各地に散らばっ
ちゃってて、ここに残ってるのは私と由美江だけで、しかも今は由美子だって
のに」
 労働条件の改善を局長に求めてみよう、とハインケルは考えた。笑顔で断ら
れるに決まっている、と心の奥で誰かが囁くが構うものか、と思った。
 煙草を咥える。
「じゃ、アタシも回ってみるよ。見つけたら撃ち殺せばいいんだね?」
「それは過激すぎる、見つけて怪しかったら撃ち殺してくれ」
「あいよ」
「それからな」
 老マクナマスはハインケルに向かって人差し指を突きつけた。
「ハインケル、お前色々な意味で、もうちょっと何とかせんか?」
「何とかって……何が?」
 きょとんとした顔でハインケルは尋ね返す。
 見る見る内に老マクナマスの顔が赤く染まっていった。
 ――うわ、怒ってる怒ってる。
「お前聖職者だろうがこのスカタン! 煙草吸うな! シスターの格好しろ!
 サングラスかけるな! 分かったかこの罰当たり!」
 キィン、と彼女の耳元で大きな音が弾丸のように走り抜けた。鼓膜が破れそ
うなくらいの震える。それでも何とか彼の発言を汲み取ったハインケルは、早
速反撃を開始した。
「やかましい! こちとら命張ってんだ! 隠退したジジイはすっこんでろ!」
 ぽろりと口から煙草がこぼれて、地面に落ちた。
「だから、そういう態度が感心せんと……」
 老マクナマスも勿論反撃する。しばし、自分達の為すべきことを綺麗さっぱ
り忘れてしまうほど、二人は喧喧諤諤と言い争いを続けていた。


                ***


「兄貴―、兄貴―、あのガキ達食っちまわね?」
 どことなく禍禍しい衣装に身を包み、耳や舌に無数のピアスをつけたいかに
もチンピラという風情の男がうろちょろと白スーツの眼鏡男の周りを歩く。
 ピアスの男の提案にはぁ、と彼はため息をついた。
 ブランド物で身を固め、端正な顔立ちをした長髪の眼鏡男は彼の提案を速や
かに却下した。
「どうしてお前はそうなんだ、いつもいつもそうなんだ。仕事は静かにやるも
のだ、全く……馬鹿な弟を持つと胃が痛くなる」
 辛辣な眼鏡の男の言葉にも、弟はふざけた態度を崩そうとしない。
「なんでー、らっくしょーじゃーん。この荷物、手近なところへ放置しておく
だけだろ? こんなの、俺等じゃなくても喰屍鬼だってやれるべ」
 トントン、と白スーツの眼鏡男――ピアスの男の兄にあたる――が自分の頬
を人差し指で軽く叩いた。
「これも実験だよ、実験。喰屍鬼の統率よりゃ数千倍はマシだろ? ヤン」
「しっかし……ルーク兄貴よー、これすげーよな」
 ヤン、と呼ばれたピアスの男は自分の頬を摘み上げ、むに、と引っ張った。
 張りついた皮と筋肉が彼の指の力によって捻じ曲げられる。眼鏡男のルーク
も頷き、空を指差した。
「見ろよ、ヤン。この世でもっともけったくそ悪いこれの下を堂々と歩くこと
ができるなんて、あと数百年は無いと思ってたぜ」
 紫外線をカットするサングラス越しに太陽を見上げながら、ヤンも頷いた。
 ルーク・バレンタインとヤン・バレンタイン。二人は共にミレニアムに所属
する吸血鬼だ。ヴァチカンに潜入し、第十三課を撹乱するという任務を任せら
れている。
 だが、同時に彼等は一つの実験台でもあった。即ち、あの天才化学者ペイト
ン・ウェストレイクが開発し、諸井霧江が盗み出したあの人工皮膚が果たして
実戦に耐えられるかどうか、である。
 そして彼等は恐る恐る第一歩を踏み出し、人ごみに紛れて歩くにつれて次第
に慣れを感じていた。首から上と腕、それに足をひんやりとした人工皮膚に包
んで、彼等は太陽の下を闊歩している。
 さすがに闇夜と違って若干躰が重たく感じられないこともないが、普通に行
動する分には、一向に支障がない。肌に張りつく微妙な感覚もすぐに消えてし
まっていた。
「ところで兄ちゃんよぅ、俺たちゃ一応英国ブッ殺しますが最終目的だよな。
 だのに、何でまたあの方はあのスカしたジジイの口車に乗ったのかね?」
「さあな、あの方の考えることを理解しようというのが間違いなんだろう。
 俺達は命令を黙って遂行するだけだ」
 いくつもの建物をくぐり抜け、小さい森に出た。無論ここにも散歩や森林浴
を目的とした観光客がちらほら見受けられる。牙が疼くのを、舌で舐めて抑え
つつ、彼等は真っ直ぐ森を突っ切っていった。
 ヴァチカン市国の端には小さなヘリポートが存在する。もしヴァチカンが万
が一襲われて、万が一高貴な人間が脱出することになったら、ここが利用され
ることは間違いないだろう。
 ――だから、ここを叩いておかないとな。
 ルークとヤンは藪をくぐり抜け、ヘリポートへ出た。さすがにここらへんは
閑散としていて、一人のシスターが竹箒で散らばった葉っぱを掻き集めていた。
「あら?」
 シスターは二人にとたとたと近付くと、ぺこりとお辞儀をした。
 ぷうん、と彼等の鼻に漂った女性――処女の匂いに一層二人の牙が疼く。
「申し訳ありません、ここは観光客の方は立ち入り禁止とさせていただいてい
るんですが……」
「あー、いや、違うんだ。こう見えても私達は関係者だ」
 ルークが平然と言い訳をする。
「そーそー、俺たちゃ関係者なの」
 ヤンはヘラヘラ笑いながら、真っ直ぐヘリに向かう。
「あ、困ります。そのヘリに近付いちゃ危ないですよ」
「いやいや、実を言うと私達はアメリカ合衆国のSPでしてね」
「SP? まあ、凄い!」
 ぽん、と両手を合わせてシスターが叫んだ。
「使用する予定のヘリに爆発物が仕掛けられてないか、チェックしにきたので
すよ、まああくまで非公式訪問ですがね」
「そうだったんですか……SPなんて凄いですね、さぞ大変な職業でしょう」
「ええ、こういう風に先回りしてチェックするのも我々の仕事でしてね」
 ヤンがどんどんヘリに近付く、だがシスターの意識は既に彼には向かってい
ない。竹箒をしっかり握り締めて、うっとりとルークを見つめている。
「そうですね、きっと大変ですよね。何しろこんな敵地へたった二人で乗り込
んでくる位ですから」
 ルークが一瞬遅れて言葉の真意を理解した瞬間、ヘリの操縦席のドアを開い
たヤンが吹っ飛んだ。
「!」
 シスターは握り締めていた竹箒の柄を勢いよく引っ張った、中から鈍い輝き
を放つ日本刀が現れ、わずかに反応しきれなかったルークの左腕を斬った。
「何ィィ!?」
「ヴァチカンを堂々と荒らす不届き極まりないクソったれども!
 この高木由美江様が直下で地獄に叩き込んでやらぁ!」
 思わず目を見開いたルークに、高木由美江が高笑いをあげて襲い掛かった。

 ヘリに向かっていたヤンは、地面に転がったまま自分の状況を数秒忘我して
いた。
 何が起きたのかを思い出そうとする、ヤンが勇んでヘリのドアを開いた瞬間
だった、操縦席に座っていたサングラスの男がこちらを向いて一言。
「そんなに驚くな」
 ――俺は驚いてねぇ。
 ポンプアクション式ショットガンを突きつけられる。
 次の瞬間、どてっ腹に白木の杭が叩き込まれた。勢いよく吹っ飛び、後頭部
をしたたかにコンクリートの地面に打ちつけ、だがそんなわずかな痛みなどは、
突き刺さった杭の激痛に駆逐される。
「ぐえぇ! げぇ! あ……く、クソったれがァ!」
 ヘリから、カウボーイブーツと黒のレザージャケットを着込んだどう見ても
聖職者には見えない柄の悪い男――聖騎士ジャック・クロウが降り立った。
 痰を吐き捨てて彼が言う。
「貴様の口から言葉を垂れ流すな見苦しいぞ、ゴミクズ。
 逸物おっ勃てたまま、地獄でケツを掘られてろ」 
「ジャッーーク。そっちはアンタに任せるよ」
 由美江が言った。
「という訳だ」
 懐から消音器付きのSIGザウエルP226を取り出したジャックはヤンの
額にそれを押し当て、引金を引いた。
 不完全燃焼の爆竹のようなしょぼくれた音と共に、ヤンの額に銀の弾丸が撃
ち込まれる。
「かっ……」
 茫然とヤンが目を見開く。
「……?」
 反応がおかしい、とジャックは思った。別段吸血鬼でもあるまいに、この苦
悶の表情は――。
 次の瞬間、ヤンの全身が炎に包まれた。
「何!?」
 咄嗟にジャックは飛び退いた。
 最早言葉にならない悲鳴を撒き散らし、悶え狂いながらヤンは焼死した。

 炎のせいで由美江の意識が一瞬ヤンに移った。次の瞬間、前に突き出された
ルークの右腕の袖口から小さい拳銃が飛び出した。
 だが、拳銃が飛び出した際のガチャ、という音で既に由美江は何を行おうと
したか察知していた。
「……の野郎!」
 前に踏み込み、ルークの腹に左肘を当てながら右手に持った刀を狙い違わず
心臓に突き刺す。
 ずぶり、という馴染み深い感触。由美江は嗤った。いつものように、即死し
たと思った。
 だが。
「お……の……れぇ!」
 由美江にとっては驚いたことに――ルークは目の前の由美江に何とか拳銃を
突きつけた、だが彼の行動限界はそこまでだった。銃の引金を引こうとした人
差し指が力なく垂れ下がる。
 思わず空を見たルークと、ジャックの視線が交錯した。そしてジャックは彼
の目に恐怖の色が走るのを見て、次の瞬間何が起こるか察知した。
「離れろ!」
 ジャックの声に由美江は反応して、後退しようとする。が、一瞬遅くルーク
の躰を包んだ炎に、彼女も巻き込まれてしまった。
 あっという間に僧服に炎が移る。
「あち! あちちち! ちゃっちゃっちゃーー!」
「由美江!」
 叫んで駆け寄るなり、由美江を地面に叩き付けたジャックは脱いだジャケッ
トで彼女の服を焼く炎を何とか消し止めた。
「ああ、畜生! ……俺のジャケットが焦げちまった!」
「あ、あたしの心配をしろよジャック! 大丈夫かとか声かけろ馬鹿! それ
でも聖職者か馬鹿!」
「黙れ! 俺はそんな大層なものに見えるかくそったれ!」
 由美江はばたばたとあちこちに焦げ痕がついた僧服を悔しそうに払いながら、
派手に燃え盛る屍体を見た。
 炎は異常なくらい素早く、正に一瞬で彼等の体を消し炭に変えている。
 痙攣すら既に止まっていた。
「はぁ」
 ため息。異端審問に掛ける暇もなかったことを、由美江は残念がった。
「しかし……こいつ等、何者だったんだ?」
 ジャックの問いに由美江は肩を竦める。
「さあね、まあいいじゃん。確実なのは、こいつ等が悪人だったってことと、
私等に弓を引くろくでなしどもだってこと、それで殺すにゃ十分でしょ?」
「十分じゃぁ……ないな」
「こんな処にまでイノヴェルチやミレニアムの吸血鬼信奉者が入り込んでく
るはずがない」
 由美江が反論する。
「そいつはどうかな。今はあそこの吸血鬼も人間も一生懸命労働しているらし
いし、忍び込む人間がいたって不思議じゃない」
 彼女の反論に関しては沈黙を護り、ジャックは死体を覗き込む。
「それより、だ。この炎の勢いにしては灰になるのが早くなかったか」
「……アンタもそう思う? まるで、さ……」
「吸血鬼みたいに派手に燃えた、な」
 ジャックは片膝を突いて塵と化した彼等の躰を手に取った。握り締めると、
さらさらと地面に零れていく。そこにできたのは塵山で、先ほどまで生きてい
た連中だとはとても思えなかった。
 ジャックは立ち上がる。
「ハインケルに連絡して後始末をしておいてくれ。俺はマクスウェルと話す」
「了解。じゃ、由美子。後は頼むわ」
 由美江は懐から燃えずに残った眼鏡をかけて、すっと目を閉じた。
 由美江は眠りにつき、代わりに由美子が目覚めた。
「……!」
 慌てて周りを見渡す。既にジャックはヘリポートを去っている、ハインケル
に終わったことを伝え、抜き身の刀を再び竹箒に納めた。
「はぁ〜」
 ため息。
 後始末とか、掃除とかそういうしち面倒くさいことばかり、押しつけられて
いる気がする。
「う〜、気持ち悪い〜」
 塵になったとはいえ、髪が燃えた時のあのたんぱく質の嫌な匂いが彼女の周
囲に充満していた。鼻を片手で摘みながら、塵を掃いて、それをまとめてゴミ
箱に叩き込む。
「さて、後の問題はっと――」
 ルークという吸血鬼の右腕を由美江が斬り落としたとき、大量に零れた血の
痕がコンクリートの地面にべったりついていた。
「……」
 とてもではないが、竹箒では拭けそうにない。とぼとぼと、由美子は雑巾と
バケツを取りに自分の住んでいる寮に向かった。

 ジャックはヴァチカン図書館に入ると、彼の姿を見て驚く僧侶たちを黙殺し、
真っ直ぐ図書館の奥まったところにある、盗聴防止済の電話に駆け寄った。
 予め教えられていた電話番号にかける。数回の呼び出し音の後、無機質な声
の女が応じたので、「局長を頼む」とだけ言う。
 数分無言で待たされた後、馴染み深い声が聞こえる。十数年以上の戦友であ
り、彼の上司でもあるマクスウェルだ。
「マクスウェル。会議中か?」
「……いや、今終わったところだ。これからすぐにでもそちらに帰還する」
「慌ててるな、状況は?」
「――最悪だ」
 マクスウェルが「最悪だ」と言ったことに、ジャックは驚いていた。ついぞ
彼が「最悪だ」などと愚痴を零すのを聞いたことがない。
「そんなにか?」
「ヴァチカンに第十三課の連中全員、騎士団、騎士団及びヴァチカナンガーズ
を集合させてくれ、これは法王猊下の直令だ」
「何だと?」
「イノヴェルチの連中の標的は、ヴァチカンだ」
 ジャックは一瞬目の前が真っ暗になった。
「お前、イカれてんのか?」
「シエルから連絡が来た、彼女の情報と、イノヴェルチの動きが偶然にしては
一致しすぎている……王立国教騎士団からの情報も合わせて考えると、連中が
ヴァチカンに」
「なんてこった」
 受話器の向こうで、ギリ、とマクスウェルの歯が軋る音がした。
 放っておけば、向こうの受話器が握力で砕き尽くされるに違いない。
「熱くなるなよ、マクスウェル」
「いいや、躰の芯まで冷え切っているね。ヴァチカンを、我々カトリックを侵
そうとする舐め腐った異端どもに兆倍にして撲り殺してやれ。ジャック」


                ***


 軍用輸送機AC−130Hハーキュリーズ(王立国教騎士団バージョン)。
 スイスでウォルターとインテグラを拾い上げた輸送機は一路ヴァチカンへ飛
んでいた、これから先は途中で給油を行う以外はノンストップだ。
「まず、ヴァチカンが密かに研究を進めていた吸血鬼たちに伝わる預言書の一
部の解読結果を検討した結果、イノヴェルチが『儀式』を成功させる期日が判
明した、時間帯までは分からないが今から三日以内であることは確実だ」
 壁にもたれて葉巻を吸いながら、インテグラは全員にそう伝えた。
 ウォルターが傍らで控え、ベルナドットとセラス、そして惣太は席に座った
まま、彼女を見る。一番後ろの座席にいるアーカードは目を瞑って、聞いてい
るのかいないのか、微妙なところだった。
「つまり、二日目の夜までには間違いなくヴァチカンに攻め込むだろうという
ことだ」
 腕組みしていた惣太がポツリと言った。
「ヴァチカンは……観光客が多いだろう? 一体どうするんだ?
 否、ヴァチカンは一体どうするつもりなんだ?」
 惣太の問いにインテグラが答える。
「テロリストが爆破予告したとでも触れ回るつもりらしい。
 まあ、妥当な対応策と言えるだろう」
「昼間襲ってきたらどうする?」
「吸血鬼が昼間襲ってくるはずなかろう。一部の吸血鬼を除いて降下した途端、
爆裂四散するだけ……いや、待て。ウォルター」
 一歩、ウォルターが進み出た。
「何でございましょう、お嬢様」
「確かあの――第十三課の報告に『昼間襲ってくる可能性もある』という下り
がなかったか?」
「覚えております」
「そう、確か――」
「人工皮膚」
 ウォルターが自分の手の甲の皮膚を抓り上げた。
「何でも吸血鬼でも昼を歩くことができる、画期的な素材でできた皮膚だとか」
「……という訳で昼に襲ってくる可能性も、無いことは無い」
 何を考えているか分からぬアーカードを除いた全員は、何となく半信半疑の
様子を示していた。
「吸血鬼が……」
「昼を歩く……ねぇ」
「当の第十三課も可能性は著しく低い、と一蹴していたがな」
 インテグラはふと窓の外を見た、間もなく陽が沈んで夜が来る。既に太陽は
その日の務めを終え、とぼとぼと空から去っていく。
 ここから先は、夜闇の、吸血鬼たちの時間だ。
 逆に言えば、昼間こそが人間の時間だ。その時間にすら、彼等は踏み込もう
としているのだろうか?
 漏れた光を浴びただけで悶絶し、直射で浴び続けようものなら躰中の血液が
爆発するような、あの脆弱な連中が――?
「……馬鹿馬鹿しい」
 インテグラはやや自嘲的にも見える笑みを浮かべた。

「伊藤惣太殿」
 考え事に耽っていた惣太にウォルターから声が掛かった。
「……?」
 反応して俯いた顔を上げた惣太は、ウォルターが手に持った物に硬直した。
「な、なんだこれ……?」
「ほぅ、完成していたのか」
 アーカードが口を挟む。咄嗟に惣太はアーカードを見るが、彼はニヤニヤと
笑っているだけだ。
 ウォルターが両手で惣太に差し出したのは、赤い布に包まれた右腕だった。
 もちろん、惣太の本来の右腕ではない。彼の右腕は、ヘルシング邸に置いて
いかれた。
 つや消しの黒一色に塗られたその金属の腕は、どこか懐かしい匂いがした。
 そう、ヴェドゴニアになりたての頃、フリッツに投げ渡されたあのレイジン
グ・ブルの匂いが、ヴェドゴニアになって手に入れたあの聖者の絶叫の、旋風
の暴帝の、そしてデスモドゥスの匂いがする。
 兇器の匂いだ。


「本来はセラス嬢用のサポート……盾のために試験的に作られたものでね」
「た、盾ぇ?」
 セラスが素っ頓狂な声をあげた。
「ああ、本来はセラスの右腕が吹っ飛んだときの為に考案されていたものだっ
たか?」
「左様で」
 インテグラが追い討ちをかける。セラスは引き攣った笑みで、盾を指差した。
「こ、こ、こ、こ、れをですか?」
 盾と呼ばれたその腕は、義手と呼ぶには余りに義手らしくなく、武器と呼ぶ
に相応しい代物だった。
「次世代型筋電義手タイプゼロ、通称“イージス”。
 皮膚から感知した筋電信号を内部のマイクロコンピュータが読み取り、義手
を自動的に操作。
 つまり、惣太殿が『こう動いてくれ』と考えて動かした方向にそのまま義手
も動くようになっている。
 内部は通常の義手と違って高分子素材の人工筋肉。その動作性たるや本来の
人体の腕の九十七パーセントまで再現可能。
 人間の医療技術の結晶だよ」
 惣太は左手でその義手を受け取った。
 ズシリ、と信じられないくらいの重たさが彼の左腕にのしかかる。
「重たっ……」
「装甲はタングステン合金、対戦車ライフルの直撃やロケット弾にも耐えられ
るよう設計している。その分やや重たくなっていて、普通の人間が身に付ける
と肩が千切れるそうだ」
「やや? これがやや?」
 惣太はちょっと泣きたくなった。
「贅沢言うな。お前さんの右腕がないから、不便だろうとわざわざ王立国教騎
士団の備品を貸与してやるんだ。少しはありがたく思え」
 インテグラが本を読みながら、不平不満がはっきり目に出ている惣太に言っ
た。う、と惣太は言葉に詰まる。
「ああ、まあ、その通りなんだけど……。いや、すまない、ありがとう」
「まだ腕の操作説明が済んでないぞ」
 ウォルターはさらに惣太に義手の操作説明を続けた。
 彼の説明にいちいちうん、うん、と惣太は頷く。やはりこれは武器だ、ウォ
ルターの説明が頭で瞬時に入り込む、ただの義手ならこうはいくまい。吸血鬼
としての戦闘本能が自然とこの義手の凄さを理解している。
「では、付けたまえ」
 頷いて惣太は右肩に肩当を、右腕の切断面を覆うプレートを装備して、固定
した。次いで義手をプレートに接続。接続したことで、自動的にスイッチが入
り、腕を普段のように動かそうとすると、人工筋肉がそれに反応して滑らかに
彼の意志を実行し始めた。
 右手を伸ばす。
 掌を開き、指を一本一本折りたたんでいく。さすがにセラスとベルナドット
も目を見開いた。
「凄いな」
 惣太はそう呟いた。
「終わったら返せ。間違っても盗んで逃げるなよ?」
 終わったら、という言葉に惣太は疑問を抱いた。
「ミス・インテグラ、あの――」
「サーをつけんか、無礼者」
 ウィルターの雷が落下した。
 ベルナドットが大笑いし、セラスが竦みあがる。
「サー・インテグラ。その、仮にだよ。仮に俺達がヴァチカンに行って、イノ
ヴェルチを倒したとする。
 俺もこの輸送機に乗せられて、こんな腕を渡されたってことは、それを期待
されているってことくらい、分かるよ。
 だが、その後――俺は、どうすればいい?」
 ウォルターがすっとインテグラの前に進み出て、木箱を開いた。インテグラ
は中から葉巻を取り出すと、端を切って火をつけた。
「……」
 煙が吐き出される。
「私の仕事は、お前達みたいな大英帝国、英国国教会に弓引く輩どもを、残さ
ず殲滅することにある」
「俺は弓引くつもりなんてない。
 ただ…………普通に、普通に過ごしたいだけだよ」
「普通に? お前は吸血鬼が普通に暮らせると思っているのか?」
 インテグラは鼻で笑う。
「お前達がそういう存在である限り、我々はそれを滅消させる存在。
 お前達がこの世に在って大英帝国の国境を犯す限り、私は容赦せず叩き潰す。
 それだけだ」
 インテグラの迫力にセラスはごくり、と生唾を飲んだ。
 まさに鉄の女、まさにミス・サッチャーなどと不埒なことを考える。当然口
には出さないが。
 惣太は、「わかった」と言って椅子に深く身を沈めて、目を閉じた。
「イ、インテグラ様……」
 新聞を読み始めたインテグラにおずおずとセラスが声をかける。
「なんだ婦警」
「今のは、その、あんまり……」
「情が移ったか」
 彼女の的確な指摘に、出かかった言葉を飲み込む、
 ぺらり、とセラスを見ることもなく新聞を捲る。
「情を移すな」
 そう言ったっきり、インテグラは口を閉じる。セラスも彼女の迫力に負けて、
押し黙る。ベルナドットは馬鹿馬鹿しいとばかりに、持ち込んだグラビア誌に
専念し始めた。
 静寂が訪れる。
 気まずくはないが、落ち着きもない、何かを待つようなそんな感じ。
 夜闇は一層濃くなるが、セラスはますます目が冴えてくる。
 ――当り前か。吸血鬼なんだし。
「婦警、今の内に眠っておけ。向こうに着く頃には太陽が昇っている。
 棺に篭ってないと、体力を消耗するぞ」
「ヤ、了解(ヤー)」
 インテグラの忠告に、彼女も床に寝かされた棺に潜り込んだ。
「お前は眠らないのか?」
「寝るさ、その内にな」
 アーカードは窓の外の景色、次第に漆黒に掠れていく空を茫として見つめて
いた。目に映るのは星のちっぽけな光と、冷たく輝く月だけだ。
 牙が疼く。
 劣情のようなもので胸が掻き立てられる。
 瞼を閉じても、景色が浮かんでくる、倒壊して火を放たれた建物と、串刺し
にされた哀れな子羊達と、子羊の血を浴びて感極まった吸血鬼達。
 壮大で醜く、無惨で美しく。
 アーカードはいつしか眠りについていた、恐らく眠っても夢は見ないだろう、
と彼は思った。なぜなら、目覚めてからこそが素敵な夢の始まりだから。



 王立国教騎士団がヴァチカンに到着するまで、あとわずか。














                           to be continued




次へ


前へ

indexに戻る