翌朝、大神は予定より少し早くに目を覚ました。
昨夜早く休んだおかげか、体の調子はすっかり良くなったようだ。
しかし、仲居の予言どおり冷え込みがものすごく厳しい。
窓の外に目をやると、霜で土が白く縁取られている。
(こりゃ本当に半纏を着ていくしかないかな。
ちょっと情けないけど…。)
モギリ服に着替えながらそんなことを考えていたところへ、女将が顔を見せた。
年の頃は四十歳くらいであろうか、笑顔の穏やかな女性である。
にこやかに挨拶をすると、大神の具合を尋ねた。
元気になったことを告げると、彼女に安堵の表情が浮かぶ。
「そちらの服ではお寒いでしょうから、よろしかったらこちらをお召しください。」
そう言って彼女が取り出したのは一組の長着と羽織であった。
長着は明るい紺地、羽織は黒に近い紺色の紬である。
「これは…?」
女将は自分が前の夫のために仕立てたものだと告げた。
彼女の前夫は陸軍の士官だったが、結婚してまもなく始まった戦争のために出征し、そのまま帰らぬ人となってしまった。
その後彼女は現在の夫と再婚している。
前夫の無事を祈りつつ縫ったこの着物は、その主を見ることなく、今日まで箪笥の奥に眠っていたのだという。
「ですから、是非お召しいただきたいのです。
その方が着物も喜びます。」
少し迷ったが、大神は厚意を受けることにした。
女将にそのまま着付けを手伝ってもらう。
実際に着てみると、それはまさに大神のために誂えたかのようにピッタリだった。
「とてもよくお似合いですよ
…失礼ながらお客様は、ひょっとして軍人さんでいらっしゃいますか?」
さすがは女将とでも言おうか、数多くの客をもてなしてきた彼女だけに、人を見抜く目は伊達ではないようだ。
女将の言葉に彼は慌てたが、真実は言うわけにはいかない。
「ごめんなさいね、前の夫に少し雰囲気が似ていたものですから…。」
黙ったままの大神に対し、不躾な質問をしたと女将は詫びた。
前夫を思い出したのだろうか、その瞳は少し涙ぐんでいるように見える。
慌てたように彼女が退出したので、大神一人が部屋に取り残される形となった。
よく考えたら本格的な和服を着るのは久しぶりだ。
そのせいか何となく気分が引き締まる気がする。
着物特有の匂いも懐かしく、そして何より、その暖かさが彼にとっては有難い。
「おはようございます、大神さん。お加減はいかがですか」
朝食まで特にすることもなく、窓辺の椅子に座って中庭の風景でも眺めていようと思った矢先、部屋の外でマリアの声が聞こえた。
朝食にはまだ少し早い時間だったが、彼女もやはり大神の様子が気になったらしい。
「やあ、おはよう。風邪の具合はもうすっかりいいよ。
とりあえず入って。」
部屋に入ってきたマリアは、当然ながら大神の姿に驚いた。
大神が事の経緯を説明すると、彼女は納得したように笑みを浮かべる。
「そうでしたか。
なかなかお似合いですよ、隊長。」
マリアに言われて調子に乗った大神は、惚れ直した?などと聞いてみた。
「…まったく、あまり調子に乗らないで下さい…。
さあ、そろそろ朝食の時間ですよ。」
溜息交じりでマリアは答えた。
彼女の極めて冷静な応対に、しょんぼりと大神の背中がしぼむ。
そんな彼の背中を見ていると、少しかわいそうに思えなくもない。
「…そうですね、少し…」
“惚れ直した”と言いかけたところでクルリと大神が振り返ったので、マリアは急に恥ずかしくなって次の言葉が出せなくなってしまう。
なになに〜?と、笑顔で詰め寄ってくる大神に対し、頬を染めてうろたえているマリアは、もはや完全に彼のペースに巻き込まれている状態であった。
二日目の撮影も順調に進んだ。
昼過ぎにすべての撮影が終了し、“お疲れ様”の挨拶が飛び交う中、大神は高梨に呼び止められた。
「このたびはお疲れ様でした。おかげさまで素晴しい特集が組めそうです。」
深々と頭を下げる彼女に対し、大神は恐縮しながらもすべてはマリアの力だ、と返した。
「いえ、歌劇団のご協力があってこそです。
心からお礼申し上げます。
米田支配人にもよろしくお伝え下さい。」
謝辞を述べた彼女が、それはそうと、と大神を手招きするのでついていくと、そこにはまだ撮影衣装のままのマリアと、片付けもそこそこにスタッフたちが集まっていた。
どうやらマリアを囲んでの記念撮影らしい。
何回かシャッターが切られたあとで、高梨は折角だから大神とマリアの写真も撮ろうと言い出した。
女優と付き人―本来はモギリだが―のツーショットなど公になったら問題である。
辞退しようとした大神に彼女は言う。
「だってもったいないですよ、折角お似合いなのに。
大丈夫、写真はお二人にお渡しする意外には絶対使用しませんから。」
“お似合い”という言葉に反応し、二人は一瞬頬を染めた。
それは二人のことを言ったのか着物について言ったのか不明なのだが、結果的に撮影は行われることになった。
いざ撮るとなると、嬉しさと恥ずかしさが入り混じってか、顔がにやけてくる。
それを必死で押さえながらちらりと横を見ると、隣で椅子に掛けているマリアは慣れたもので、女優としての貫禄があった。
けれども、仕事の撮影のときに比べると心もち嬉しそうな表情に見えたのは、おそらく気のせいではあるまい。
「じゃ、撮りますよー!」
高梨の声を合図にシャッターの切られる音が数回、高尾の秋空に響いた。
「終わってしまいましたね。」
帰りの汽車の中、後方に去っていく紅葉を眺めながらマリアが残念そうに呟いた。
「うん、ちょっと残念だね。」
あと二時間以内には帝劇に着いているだろう。
それはマリアとの小旅行が終わる、という意味でもあった。
仕事で来ていたのだから仕方ないにしても、もう少し二人だけの時間が欲しかった気もする。
いや、自分が風邪さえひかなければもう少しはそんな時間もあったかもしれない。
そう考えると非常に残念に思う大神であった。
「そういえばあの着物、女将に頂いたそうですね。」
大神は肯いた。
帰り際いつものモギリ服に着替え、借りた着物を返そうとしたところ、女将に彼に土産に持ち帰るよう勧められたのだ。
これも何かの縁でしょう、と笑いながら言っていた彼女は、どこか晴れ晴れとした笑顔だった。
そして一つ増えた風呂敷包みは、今大神の膝の上にある。
皆には言えない、秘密の思い出の品となった。
「帰ったらクリスマス公演の準備が始まるね。また雑用に忙しくなるなぁ。」
「そうですね。今度の準備は大変ですから、覚悟してくださいね。」
大神が溜息交じりに言うと、マリアが微笑みながら返した。
クリスマス公演の主役を選ぶという大神の役割は、このときまだ本人には知らされていない。
二人のさまざまな思いを乗せ、汽車は東へ帰っていく。
五日後、マリア宛に高梨からの小包が届けられた。
大神の部屋に持って行って二人で開けてみると、中には撮影に使用した紬の着物と帯、そして大神との笑顔のツーショットの写真に手紙が添えられている。
前略
先日は当方の取材にご協力いただき、有難うございました。
撮影の折に撮りました写真が出来上がりましたのでお送りします。
本誌の方はただいま製作中につき、刷り上り次第歌劇団宛にお送り
する所存です。
またご一緒に仕事の出来る機会がございましたら、その節はどうぞ
よろしくお願いいたします。
同梱の着物はマリアさんに合わせて仕立ててありますので、ご本人
に愛用していただきたく、併せてお送りしました。
なお、これは私の私見ですが、撮影現場での雰囲気および写真の
お二人の表情を見て、劇場職員と女優以上の、ただならぬ関係を
感じました。小社の独占記事にしたいのは山々ですが、約束しました
手前、お二人のことは私の胸にのみしまっておく事と致します。
余計なお世話とは存じますが、どうぞ芸能記者などには十分に
ご注意下さい。
草々
雑誌記者の鋭い視点を目の当たりにし、冷や汗の出る思いの二人であった。
終
あとがき
「大神とマリアの秋の装い」というテーマでお送りしています。
今回は気候と時期、すなわち紅葉前線との戦いでした。
初期設定では舞台が日光だったため、もっと早く仕上げるはずだったのに、南下する前線を食い止めたのはようやく帝都のはずれでした(汗)
実はこの話はちょっと続いてます。
紅葉の風景と「秋の装い」第2弾ということで、小説の間にUPしておきました。
そちらも併せてお楽しみ下さい。